18.海について
人間は、海の中で生き続けることはできない。
水自体が生物が生きる上で必要であることは明白だが、陸棲を選んだ時点でその肉体は大地に根差す為の要素で構成されるよう進化を遂げているし、海獣のように元々ほ乳類でありながら再び海生を選ぶよう人類が選択でもしない限り、海の中に住処を移すようなことはないだろう。仮にその選択を選んだとして、他の海獣同様不完全な適応になりかねない。
結論として、人間は海の中で生き続けることはできない。だから、自分は海に憧れはすれど、人生の中に取り入れることは不可能だ。
ヤサカマサトは、海という存在をそう定義することにしていた。
自分の憧れであり、全てのように思えた海が、想いを募れば募るほど遠のくのは一体何故か。父親が“自分の為に”敢えて転勤を決めたあの日からずっと考えていたことだった。どうしてこんなにも自分は海から遠のいていくのか。
自らに流れる血潮を聞いているかのようなあの潮騒も、乾けば白く細やかに、濡れれば温もりに溢れた慈愛に満ちた砂浜も、穏やかで、しかし途端に怒れば全てを破壊し尽くすような暴虐性を持ち合わせたあの海原も、その全てがマサトには美しくて愛おしくてたまらなかった。
生まれて初めて海に触れた時、彼はその膨大な情報をどう消化するべきなのか分からなかった。
まず頭の中に浮かんだのは“敵わない”という一言だった。父親から常々言われていた“完璧”という言葉を受け止めてきた彼が、未知のものに対してはまず自分と比較することにしていた。目の前に映るそれらの突出した点と、欠点は何か。その欠点を自分は克服できるのかどうかを考え、判断する。
彼が目指した“完璧”は、とにかく負けないことだった。何かに突出した存在と張り合っても、その全てに適応するのはあまりにも難しい。だからこそオールラウンダーを目指したし、一点突破で突出した天才よりも、彼は全てに於いて秀でた秀才として扱われるよう心掛け、そして周囲はこの理解できる秀才のことをこよなく愛した。父母も多分に漏れず秀才としての彼を好み、褒め、自慢し、そして深く愛した。
マサトは「これこそが自分の必勝法だ」と自覚していた。勝つことは選ばず、誰にも負けないことだけを選び続けた十数年だった。そんな自分が、海を見た時に「敵わない」と感じたあの瞬間、彼が生まれて初めて敗北を感じた瞬間だった。
人間が自然のあれこれに対して勝っただの負けただのと言える立場だとは、勿論マサトも思っていなかったし、海のない生活の中でもプールや湖といった存在でその存在を認知していた。海を知らないなんて非常識なわけではない。ただ体感がなかった分、初めてその海を目にした時の衝撃が彼にはあまりにも大きすぎたのだ。
家庭の事情で海辺の近い町に引っ越してから、彼は学校が終われば海を訪れ、その膨大で果てのない存在を、防波堤の隅に座ってじっと見つめていた。ただひたすらに水平線を無言で眺め、一定間隔で聞こえる波音に耳を傾けた。
今思えば、彼は疲れていたのだろう。
日々求められる父母からの“ヤサカマサト”という存在を演じ、自我を殺していくうちに、心はすり減り、脳は疲れ、次第に自分が液晶越しに見えるようになった。味の無い平坦な脚本で構築された退屈なドラマを見続けている気分だった。何か褒められたとしても、それはドラマの中の彼の手柄であって、自分のものではない。
そんな風に液晶の前で身を抱えて座っていたマサトにとって、海にいる時だけは、自分を維持していられる気がした。これだけ膨大な海の前では、自分の演じた虚構など何の意味も成さない。膨大な生命を抱え、しかしそれらに介入することはせず。ただ生き、死んでいく全てを眺め、ただたおやかにそこに在るだけ。
日々積み重なる満ち引きが手の施しようが無くなった時にだけ自浄効果のように激しく荒れ狂い、全てを飲み込み、やがて収まればもとの生命を抱える一つの水平線として眠っていく。
もし自分に鰓があったなら、水かきがあったなら、迷わずこの海に飛び込むのに。そして二度と地上には顔を出さず、泳ぎ、海の中の生態系に倣い生きて死んでいくのに。
「なあ、アンタ、海ばっか見てても暇だろ」
ある時、彼は一人の少年にそう声を掛けられた。存在は知っていた。週の半分ほどをスポーツクラブで過ごしている少年だ。いわゆるマリンスポーツを習っていて、防波堤の隅に座っている時に彼とは時々目が合った。いつも声を掛けたそうな表情をしては諦めていたが、その日は、何か違ったのだろう。
突然かけられた声に対応しきれず、ぼんやりとしていたマサトの手を彼は取り、そのまま自らの所属するスポーツクラブにまで無理やり引っ張っていった。
その時体験したのは、ウインドサーフィンだった。思えば何か一つでも事故があれば、大問題だっただろうに。クラブを運営する顧問も声をかけた少年も、そんなことよりも防波堤で日々座り込む思い詰めた少年に何かしたい想いの方が強かった。
ウインドサーフィンに初めて乗った時の感覚は、彼にとって忘れられない大切な思い出となった。
膨大な海面を風を受けて滑る感覚の自由さ、自らの身体では生み出すことのできない速度を自然の力が生み出してくれるあの圧倒感。何より、どれだけのことをしても、何をしても海はその全てを許し、受け入れてくれる全能感が、彼にはたまらなく快感だった。
マサトは父母に“脚本通りのヤサカマサト”を維持することを条件に入会を頼み込み、そして入会を許された。“完璧”を知らない少年やコーチ達の前で自分を偽る必要はなかったし、なによりどれだけ失敗しても、上手くいかなくても彼はそれを楽しむことができた。心の底から笑えた瞬間はどこだったかと振り返ると、再び転勤が決まるまでの三年ほどが間違いなくそうだったと彼は思っていた。
それくらい彼にとってかけがえのない時間であり、そして人生の分水嶺でもあった。
少年とはやがて親友と呼べる仲になり、彼はその存在に精神的にもとても助けられた。
だが家族からすれば学業よりもスポーツに精を出し、浅黒くがっちりとした肉体をした彼の容姿も含めて、印象はあまり良くなく、マサトが彼を紹介する機会も、家に招くチャンスも結局一度としてなかった。しかし彼はそれを気にすることはなかった。彼にとって重要なのはマサトが今、自らと共に楽しくこの場にいられることであって、それ以外は正直どうでも良かった。
数十年後、マサトは一度だけ彼に会ったことがあった。とある展示イベントで、メーカーブースにゲスト選手の一人として彼が参加していたのだ。
久しぶりの再会を互いにとても喜んだし、仕事終わりに居酒屋で互いのこれまでを共有した。失った時間と関係を一つ一つ埋めるかのような、そんな時間にマサトは久しぶりに心が躍った。
彼は、プロ活動と並行しながら一般企業で働いていて、今もウインドサーフィンを続けながら日々を過ごしているのだという。大会の実績もそれなりに上げたことでメーカー契約も結び、遠征しながら様々な大会に出ているそうだ。
「俺があの時、マサトを無理やりにでも連れ出せていたら、今も一緒に隣で海に立っていたのかなって時々思うんだ。それがずっと、俺の中に後悔として残ってた」
酔いのせいもあったのだろう。彼はぽつりとそう言うと、マサトの前で一人泣いていた。
そんなこと、誰にもできなかったのだということは分かっていた。彼も、マサトにも、当時そんな強引な手段に出られるほどの力は無く、無力な一人の学生でしかなかった。“ほんの少し成績が落ちたこと”を責められ、二度と転勤しないて欲しいと懇願し、それを優しく肯定した父の“次の転勤”という裏切りも、そしてそれが海を見るにはあまりにも遠い地への転居だったことも、全ては無力な自分が招いたことだった。
あの日から彼は自分の本心を打ち明けることも、自分の望みを表に出すことも辞めた。そうして打ち明けたものは漏れ出た泡のように弱みとなり、やがて自分に返ってくる。それならば、初めから誰にもそんなものを打ち明けるべきではない。ただひたすらに“完璧”であれば、本心が深く傷つくことなんてないのだから。
あの頃親友であった彼にも、マサトは自分の本心を語ることができなかった。
「またいつか、海で会いたいよ」
「ありがとう、そう言ってくれると嬉しい」
別れ際、そう言いつつも連絡先の交換を提案しなかったのは、おそらく互いに薄々察していたからなのだろう。自分たちがもうとっくに分たれてしまったことを。
あの頃海で並んで笑った日々は、もう返ってこないということを。
その日の夜、マサトは数年ぶりに高熱を出して倒れた。原因不明の高熱を家族はひどく心配したが、その原因を理解することは不可能だった。何故なら彼らは液晶の前に座るマサトのことなんて知らないのだから。
○
ミシマジュンコとの出会いは、マサトにとっては“救い”でもあり、同時に“束縛”でもあった。
歳の離れた彼女とこうして恋人関係になるだなんて想像していなかったし、それは彼女も同様だった。仕事終わりの飲みの場に参加する一介の社会人と、その飲みの場で働く大学生が、こうして交際に繋がるだなんて誰が思うだろうか。
飲み方が下手でいつも泥酔ばかりする同僚が案の定倒れ、トイレで彼を介抱している時にミシマとは出会った。様子を窺いに水を持ってやってきた様子だったが、何かあった時の為に半開きにした扉の奥で呻き声と嘔吐を繰り返す彼を見て、それからうんざりした様子で壁に寄りかかっているマサトを見ると、彼女は持ってきた水を彼に手渡した。
「大変ですね、救急車とか呼びます?」
「いや、いつものことだから。まあ、救急車呼んだ方がコイツからしたら良いお灸になるかもしれないけど」
半ば本心も込めた皮肉を口にすると、彼女はくすくすと笑った。その笑い方が愛嬌があって良かったのと、彼を待ち続ける退屈さもあって、彼はあのさ、と仕事に戻ろうとする彼女を呼び止めた。
「君、大学生とか?」
「……ナンパとかですか?」
「ああ、いや、まあ……そうなのかな?」
「なにそれ」
呼び止めた理由をはっきりと答えられない彼を見てミシマは微笑み、空になったトレーを胸元に抱き、マサトの隣の壁に寄りかかった。
「サボってて大丈夫?」
「呼び止めたのはそっちでしょ。それに、これ渡したら上がる予定だったし、特に問題ないです」
「実際厄介な客に捕まってるし、あながち嘘でもないね」
「ええ、あながち嘘でもないです」
マサトの言葉にそのままの言葉を返してきた彼女を見て、彼は笑った。思わず出た笑みはいつぶりだったろうか。人前で見せてきた自分がデザインしてきた笑い方とは違ったものに彼は少し戸惑っていた。
「レモンサワー、好きなんですか?」
「え?」
「ほら、お兄さんレモンサワーばかり注文してたから」
そう言われてマサトは振り返る。確かに今日はレモンサワーしか飲んでいなかった。というより、初めの乾杯を除くと大抵はレモンサワーを選ぶことが多かった。
マサトにとって酒はコミュニケーションの一環でしかないから、銘柄もあまり興味がなかった。しかしそれでも付き合い上酒を飲む必要はあって、変なものを頼むよりはある程度味が分かっていて、それでいてさっぱりしたものを飲みたい気持ちがあって、結局レモンサワーという選択肢に落ち着くことが多かった。
「一番選びやすいからね。あとは、あのほろ苦い感じが結構好きかな」
「ほろ苦いのが好きなんですか?」
マサトは首を振る。
「後味が欲しいんだと思う。何事もするりといってる味気ない人生だから」
マサトが苦い思いをしたのは、後にも先にもあの海を離れた瞬間だけだった。胸の奥に今も残るこの感覚は、もしかすると質の悪いレモンサワーの後味に似ているのかもしれない。そう思うと、だんだんと彼はこの味を好んで飲んでいるというよりは、あの日を省みるために飲んでいるのかもしれないと思い始めた。
「なにか残って欲しいんだよ。なんていうか、振り返った時に思い出せるような苦味みたいなのが」
「不思議なお酒の飲み方してるんですね」
「そうかな?」
「そうですよ、だってこういう飲みの場でのお酒なんて、酔って上機嫌になるか、胸の内を曝け出したつもりになって関係を深めるとか、ただのコミュニケーションのアイテムじゃないですか。それなのに後味を求めてるだなんて、少し不思議です」
確かに、そうかもしれない。振り返ると、飲みの場でした会話を自分は何も覚えていない。あれだけ笑ったはずなのに、食事もしたはずなのに、残っているのはレモンサワーを飲んだ後にあるあの喉に淡く滲む苦味だけだ。一体自分は何のためにここに来ているのだろう。会社の出世の為か、有望な同僚と夢を語るフリをすることで彼らの士気と信頼を高める為か。いずれにせよ、真っ当な理由でないことだけは確かだった。
「君、名前は?」
「ナンパですか?」
「それでいいよ、この後暇?」
「正直ですね、まあ、別にいいですよ」
彼女はそう言って微笑んだ。それは、彼が初めて人知れず誰もが望む“完璧さ”から逃げ出した瞬間だった。
それからは彼は、仕事上がりのミシマを連れてバーへと移動し、そこで彼女と他愛もない話をした。互いに「もう二度と会うことのない相手」だと割り切ったいたからか、ミシマは自分の身の上話を遠慮なく話したし、彼も遠慮なくそれを深掘りした。父と母との折り合いが悪いこと。できれば地元で生活して欲しいという両親の気持ちを振り切ってあえて遠い大学に進学し、一人暮らしを選んだこと。奨学金とバイトの掛け持ちで日々時間が圧縮されていること。
父と母から濁流のような愛情を受けてきたマサトからすると彼女の話は興味深く、聞いていて退屈しなかった。酔いも相まってミシマの会話に愚痴が混ざり始めた頃には、すっかり彼は彼女のことを好意的に思っていたし、このまま朝まで一緒にいたいと感じていた。
「ヤサカさんは、素敵な人ですね」
「俺が?」
夜も更けてきた頃、彼女はぽつりとそんな言葉を口にした。シュトーレンのように深い酩酊に浸った彼女の目は眠たそうに緩んでいて、淡く紅潮した頬とデコルテと、何度か舌で舐めたことで濡れた唇がひどく扇情的に見えた。マサトは自分の胸の奥底に芽生えた情感を抑えるようにカクテルを飲み干す。
ミシマはのっそりと彼と席を詰め、彼の肩に自分の頭を置いた。ああ、落ち着く、と彼女は囁くように呟く。
「私の話、こんなに聞いてもらったことがなかったから。ずっと自分のことで必死で、これまでを振り返る余裕もなくて。だから、こうやって耳をずっと傾けてくれるヤサカさんに、今とても感謝しているんです」
「君くらいの歳なら、結構いるだろ」
彼女は首を振る。
「いませんよ、俺はすごいんだぞーって、自己顕示欲の塊みたいなブランド振り回したり、潰れるくらいお酒を飲んで馬鹿やったり、そういう人しかいません。ヤサカさんだって大学生の頃はそうだったでしょ?」
「俺はそんな余裕もなかったしなぁ。環境が研究一筋だったたから、打ち上げもほとんどなかったし、それに打ち上げしてもみんな寝不足でさ、乾杯した酒が一瞬で回ってその場で爆睡したりとか、一杯ひっかけて飯食ったら研究室に戻るやつとかがほとんどだった」
その時にふと、大学にマリンスポーツサークルがあったことをマサトは思い出した。入学当初にチラシをもらったことがあり、そこまで大きくなかったが、手と顔がよく焼け、髪質も固く水分が抜けた様子から、かなり本格的に海に入っているサークルなんだなと興味を持ったことがあった。
ただ、それも入る入らない以前に選ぶ権利が自分には無かったから、チラシもすぐに捨ててしまったけれど。
--調べたんだけど、この辺りのゼミとか研究室がOBからなかなかに評判がいいらしいぞ。
--履歴書にも書きやすそうでいいわね。
大学に通う当人の前で盛り上がる二人を眺め、時折くる言葉に相槌を打っているだけで大抵の道筋は決まっていたし、マサトもそれを拒むことは無かった。
リビングで盛り上がるマサトたちを横目に仏頂面でゲームをしているリョウヘイの姿を見て、マサトは父と母の勧めるカリキュラムや進路を選んでいた。
「アイツに、矛先が向かってほしくなかったんだよ」
「……なんて?」
「いや、なんでもない」
ぽつりと漏れた言葉を聞き取ろうとミシマが寄ってきたが、マサトはそれを誤魔化すように彼女にキスをした。ミシマは少し驚いた様子で小さな悲鳴を上げたが、やがて緊張はほぐれ、突然のキスに浸るように脱力していった。
自分が父と母の求める人物像を演じ続けた理由の一つに、弟の存在があったのは間違いない。
弟のリョウヘイはマサトに比べるとそれなりに奔放で、自由な生活ができていた。ゲームやスポーツだって好きなようにやらせてもらえていたし、成績についてはもちろん上位を求められたが、自分ほどエリート志向の求められ方はしていなかった。きっと彼らも二人に同じような緊張を強いれるキャパシティはなかったのだろう。
挫けそうな時にいつも思うことがあった。
もし自分が脱落した時、彼らの期待は一体どうなるのだろう。
ただ失望し、蛙の子は蛙だと気がついて、身の丈にあった子育て方針に戻るならまだ良かった。だがもし、仮にこの矛先が弟に向かったとしたら、どうだろう。リョウヘイは果たしてこの期待に耐えられるだろうか。
リョウヘイが父母の自分に対する寵愛に嫉妬していることも理解していた。だが実際この清濁混ざった愛情を彼に受けさせるわけにはいかない。例えそれが弟との溝を深めることになったとしても!
マサトは、自分に課せられた期待を死ぬまで抱えていくつもりでいた。というより最早、それ以外の生き方を知らなかった。成人し、彼らの期待するネームバリューのある仕事をすれば、父や母の言う“選択できる人間”として生き続けて、幸せになれるはずだ。そんな彼らが何度も塗り重ねるように口にし続けてきたその言葉を、今更洗い流すことなんてできるだろうか。
「ねえ、マサトさんって呼んでいい?」
シーツに包まったままミシマは可愛らしくそう言った。その声も表情も、さっきまで互いに激しく求め合った関係とは思えないほど穏やかなもので、マサトはその柔和な笑みを見て思わず笑ってしまった。
「いいよ、俺もキョウコ……いや、なんか固いな。キョウちゃんとかでもいい?」
「なにそれ」
彼女はくすくす笑う。シーツの中でもぞもぞと身を動かす彼女の髪を撫で、それから頬、顎、首、肩と触れ、彼女の肌の形に沿って膨らむシーツをなぞるように触れた。浮いてしまいそうなくらい軽く見えた彼女も、今こうして互いの体温を知ると、途端にはっきりとした質量を持って顕在していた。
「キョウちゃん」
「何?」
マサトの言葉にミシマは優しく微笑む。
「君はこれから、きっと幸せになるよ」
「幸せに?」
「そう、だって俺が側にいるからね」
彼女もまた、リョウヘイと同じ存在だった。自分が“完璧”である限り、彼も彼女も被害を被ることはない。ずっと自分の望むままに生きられるに違いない。
父と母から注がれ続けてきた愛の行く末についてずっと考えていた、胸焼けしそうなほどのあれをどうするべきか。今その答えが見つかった気がした。注いてみるのはどうだろうか。
その日から、ミシマキョウコはヤサカマサトにとって愛情の捌け口となった。両親からの濁流のような愛から清い部分だけを掬い取って、彼女に注いでいく。幸せに笑う彼女を見ていると、マサトの心の中には達成感に似た感情が芽生えた。それが彼という器の崩壊を多少なりとも遅らせることができた理由だった。ただ、残念ながらそれは修復まではいかなかった。
彼の器にはすでに小さな亀裂がいくつも入っていた。
修復するには、ミシマとの出会いはあまりにも遅すぎたのだ。
○
ある時、マサトは些細なミスをした。
開発部署の数値ミスが発覚し、製品の正常な動作に問題が出かねないということが発覚したのだ。
普段であればすぐにリカバリーできていただろう。ただ、今回はあまりにも間が悪く、そこから先の伝達もズレが生じ、結果として消費者側のトラブルに繋がってしまった。
大元の問題を考えれば責任を持つべきは社内側だ。だが大事に繋げない最適なシナリオを、実情を理解すらしていない人間が考え抜いた結果、最低限の傷で、尚且つ最悪社員のすげ替えで済むだけとなると、「担当者の取り回しこそが今回の案件の根本ではないか」とした。そして会社はマサトに相応の制裁を加えた。
勿論、根幹にいる人間にも然るべき始末はかけられていることだろう。元はと言えば動作問題のリスクよりもリリースを優先させてしまったこと自体が原因であるのだから。
彼が犯したミスといえば、それを開発部署の担当者にのみ伝えたことだった。事を荒立ててしまわないよう、内々で済ませられる道を彼なりに順序立てたルートに沿ったつもりだった。要するに気遣いだ。だがそのルートで被る被害よりも、彼は目を逸らすことを選んだ。もしここで彼の処遇も厭わず問題提起をしていたとしたら、今頃彼は取引先に頭を下げる程度で済んでいただろう。
ともあれ、その判断ミスによって彼の名は取引先にも、更にいえば内情すら知らない社内の部署にまで知れ渡ってしまった。長い始末対応の末に従来の業務に戻った時、そこに彼の居場所はなかった。
君に責を負わせてしまったことは申し訳ないと思っている、と部長はマサトを一人会議室に呼び立つと一言だけそう謝罪した。しかしこの問題に対する彼の信頼回復への寄与をするわけでも、矢面に立たされただけの補填を与えられることもなく、数日後には閑職への異動通知だけが届けられた。
ここに後日の話を差し込むとすれば、彼の日頃の業務や関係を知っている人間達が今回の案件の解決方法を不服とし、ヤサカマサトへの不適切な処遇と扱いを問題提起し、結果として会社は社会的信用問題を問われることとなるのだが、その事を彼が知ることはなかった。
手渡された紙ペラ一枚を手に、気がつくとマサトはオフィス近くのカフェに座っていた。ずっと思考を巡らせていたせいで、なぜここに座っているのか、よく覚えていなかった。目を落とすとトレーには温められたチョコスコーンとホットコーヒーが置かれていた。マサトは何も考えずにスコーンを一口齧りとり、咀嚼する。普段だったら甘い筈のスコーンは、練り固められた粘土のようで、味が何もしなかった。
マサトはそれでも食事を続けた。味を楽しむのではなく、何か、できる限りの刺激を身体に送り込む為に。熱々のコーヒーを思い切り流し込んだせいで口内が爛れてじんじんと痛い。が、それも求めていた刺激だった。
この状況を知った時、父と母はどう思うだろう。ずっと清く正しく育て、ブランド価値の高い会社への入社を決め、彼らが取り決めた水準の中で生活を続けてきた長男が、とうとう脱落したことを知ったとしたら。悲しむだろうか、絶望するだろうか。
ミシマとの関係はどうなるだろう。父と母は彼女をいたく気に入っているし、本人の前では抑えているがしきりに結婚の話も口にしている。楽しみにしていただろう孫を作ろうにも、この先の自分にそんな道を“選択”する権利があるだろうか。
「--お前、まだそんな自己肯定感高めでやってるのかよ」
ふと聞こえた声に顔を上げる。
すぐ背後の席でスーツ姿の青年が二人向かい合って座っているのが見えた。一人は窮屈そうなネクタイを緩く解き、もう片方は卸したばかりのジャケットに閉じ込められたみたいに肩を緊張させていた。どうやらどこかの新入社員らしい。
「だってさ、俺がもし失敗したらって思うと不安にならないか? 売り上げミスったり、一つも契約が取れないまま、足を引っ張ったりとかさ」
「ただの新卒にそんなの求められるわけないだろ。第一、会社が傾くような案件任せるようなトコなんてブラックでしかないだろ、今の俺らは真面目に研修受けて、先輩の指示されるままに動いてればいいのよ」
「いいなあ、お前は気楽で」
緩くネクタイを着けた青年が笑う。
「第一な、この世界から人一人欠けたって何かエラーが起きるわけがないんだよ」
その言葉に、マサトはハッとした。彼の目線に気がついたのか、気弱な青年の方がちらりとこちらを見たが、彼は再び視線を戻し、誤魔化すようにコーヒーを飲んだ。青年は続ける。
「例えば俺とかお前が辞めたって、似たような会社にとって適正な人間を連れてくるだけ。内定辞退者が四割とほとんど半分で、一つ上の代も俺たちが来るまでに二、三人辞めてる。なんならお前のとこの係長だってこの間転職決まったって退職したろ。でもお前の部署が係長失って機能停止してるか?」
「いや、それは……してないけどさ」
「それが答えだよ、会社にせよ人生にせよ、歯車一個欠けたってどっかで帳尻合わせてうまく進むんだよ。俺やお前が辞めたって、突然姿を消したって、その時は困るかもしれないけど、いつの間にか何事も無かったように落ち着くもんさ。自浄作用だよ、自浄作用」
マサトは立ち上がり、飲みかけのコーヒーと半分以上残ったスコーンをトレーごと返却棚に突っ込み、店を出た。ビル群を歩き続けるビジネスマン達の群れを見て、鼓動が早くなるのを感じ、逃げるように地下鉄に転がり込んだ。
改札に辿り着くと、そこでも群れがあった。出て行く側と入って行く側、それぞれ向かう方向が違えど、群れは自分の属するグループの動きに準じて歩き続けていた。
自分もそこにいた筈なのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
いや、いたことを理解できていなかったから、こうなっているのだ。
他に類のない“ヤサカマサト”として、他の生き方を知らず、ただひたすらに自分が唯一無二であると教えられ、自覚して生きてきた。自分がいなかった時、世界にどんな影響が及ぶのかと考え、ずっとそうならないように生きてきた。けれどもそれ自体がそもそもの間違いであったならどうだろう。
初めに頭に浮かんだのは、リョウヘイの顔だった。
--もし俺がどこかで脱落したとして、アイツなら親の言うことにNOと言えたんじゃないか。
これまで父と母が作り出した型に押し固められて生きてきた筈なのに、自分の後釜に弟がならないようにと生き続けてきた筈なのに。そもそもの根本として頭に浮かんだ「リョウヘイなら従わなかったのではないか」という言葉が、自分のこれまでの選択を一つづく打ち壊して行く。
一流企業なんて目指さなくても、リョウヘイは好きな仕事を選んだのではないか。
大学でサークルに打ち込んで単位を落としてしまったとしても、リョウヘイは気にせずサークルで好きなように過ごしていたのではないか。
学校帰りにクラスメイトがこっそりしていた買い食いに混じって塾を欠席したって、代わりにリョウヘイが塾に通うことはなかったのではないか。
毎日勉強机に積まれた学習ドリルをこなさなくたって、それがそっくりリョウヘイにいくわけではなかったのではないか。
あの引っ越しの時、親の期待を振り切って拒絶しても、リョウヘイが自分の代わりになることはなかったのではないか。
あの好きだった海とウインドサーフィンを手放さない選択を選んでも、代わらずに世界は回ったのではないか。
今、親友だった彼と一緒に、隣でウインドサーフィンをやっている未来があったんじゃないか。
今も、生まれて初めて“敵わない”と感じたあの海を見ることができたんじゃないか。
どれもこれも、自分が手放してきたものだ。
「ああ、ああ……!」
手放さないと、誰かにその責任が回ると勝手に思って、勝手に抱え込んでいただけなのだ。
理想で塗り固めたヤサカマサトという存在が壊れないようにと必死に。
「そんなの……そんなこと……!」
信じたくなかった。これまで自分が考えてきたつもりだった全てが、ただの無駄でしかないだなんて。だってあれほど言われ続けたじゃないか。父と母に「お前は完璧だ」と。そう演じるたびに周囲は言ったじゃないか。「ヤサカくんがいなかったら」と。誰もが自分を求めてくれたじゃないか。まるで自分がいないと困るような、何も回らないとでも言うように。
信じたくない、信じたくなかった。
この世界から人が一人欠けても、エラーが起きるわけがないだなんて。
そんなこと、信じたくなかった。
○
「わ、びっくりした」
「おかえり」
扉を開けてミシマはまず、部屋にマサトがいることにとても驚いた。彼はソファに座り、本を読んでいた。
仕事帰りに少し立ち寄れそうだと思ってやってきたミシマは、近くのスーパーで買った食材をキッチンに置きながら「大丈夫?」と尋ねた。
マサトは少し考えた後、「大丈夫」と笑った。ほんの少しだけ陰ったその表情を見ていたなら、ミシマの選択も少し変わっていたかもしれないが、その時彼女は食材をキッチンに並べている最中で、彼の声を背中で受けていた。
「仕事はどう? 店に配属になって色々変わったでしょ」
「大変だよ、でも元々接客は嫌いじゃなかったし、今のところは続けていいかなって思ってる」
「そっか、それは良かった」
彼女が就職して、気がつけばもう二年近く経つことにマサトはそこで気がついた。内勤で入った彼女が店頭勤務を言い渡され、シフトでの生活スタイルに変わってから、二人の生活も少し変わった。学生だった彼女も随分と社会に慣れて、今では余裕も感じられるようになった。
「マサトさんの方が大変でしょう。回収事案とか色々バタバタしてるだろうし。今日は早く帰れたの? たまには休まないとね」
スーパーの袋からレモンサワーを一つ取り出すとミシマは隣に座ってマサトに手渡し、そして頬にキスをした。
「ありがとう」
手渡されたレモンサワーを見つめながら、マサトはぽつりとそう言った。
「ねえ、キョウちゃん」
「どうしたの?」
「付き合った時に俺が言ったこと、覚えてる?」
ミシマはええ、と呟き、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「私は幸せになるんでしょ、マサトさんの側にいれば」
マサトはその言葉を聞いて、少し俯いた後、両手を握って再び顔を上げると、笑った。
「覚えていてくれて、嬉しいよ」
もしこれから自分の社会人としての生活に転換期がきたことを彼女が知った時、彼女はどう思うだろうか。がっかりするだろうか、軽蔑するだろうか、将来を考えて別れを考えるだろうか。
彼女がそんなことはしないことくらい、よく分かっている。
きっと彼女は抱きしめてくれるだろう。転落したマサトのことをそっと抱きしめて、それからこう言うのだ。
--マサトさんなら、きっと大丈夫。
その励ましに身を委ねたい気持ちもあった。けれどもその想いに身を委ねてしまったら、また一つ“ヤサカマサト”であり続けるべき理由が無くなってしまう。だって彼女にとって自分は、「自分のことを幸せにしてくれる人」なのだから。
料理を作りに戻ろうとする彼女を腕を引いて、ミシマを自分の腕の中に強く抱きしめた。ミシマは呆れたように笑っていたけれど、抵抗はしなかった。マサトのキスに応じ、そして二人は寝室へと向かった。
次の日の朝、彼女は朝早くに出掛けていった。マサトにとっては休日でも、彼女にとっては貴重な販売のチャンスだ。彼女は生き生きとした顔でマサトにキスをすると、日曜日の夜にまたくるね、と言った。
扉越しに彼女を見送る中で、マサトは少しだけ躊躇うように息を呑んだ後、彼女に言った。
「またね、キョウコ」
その時だけ、いつもの呼び方をしなかったことにミシマは少し違和感を覚えていたが、ただの違和感だと思うことにして彼の下を去った。これが最期になるだなんて分かるはずもなく、もし日曜の夜にまだその言葉を覚えていたら、直接聞けばいいやと思っていた。
彼女を見送った後、マサトは浴室に行って水を張り、部屋の文具入れからカッターを取り出した。
この世界から人が一人欠けても、エラーなんて起きるわけがないのだとしたら、今この場で自分がこの人生という壇上から姿を消したとしても、代わらずに世界は動き続けていくのだろう。
ただもし、自分という存在がまだ誰かにとって必要なもので、かけがえのないものであったのだとしたら。ヤサカマサトという存在が世界から消え去るのはおそらく、大変な損害であり、エラーとして扱われるはずだ。
これは、一種の賭けだった。
ここで自分がいなくなれば、あの日の青年が言ったように、ヤサカマサトという存在はそれほど必要なものでも、誰かに影響を与える存在でも、失って困る存在でもなかったということだ。
そう考え、マサトは呆れるように笑った。賭けですらない。もう分かっている事柄に理由をつけているだけだ。
--でも、もし、万に一つでも……。
考え尽くした最果ての、疲れ切った頭が生み出した答えと仮説を実証するため、ヤサカマサトは今、ここにいた。そして右手の袖をまくると、浴槽の水が溢れる風呂場へと入っていく。
それが、ヤサカマサトの最期だった。
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