20.環状線

 ミシマの連絡先にメッセージを送信したのは、ちょうど一年半ぶりだった。


 履歴を見ると、引越しに伴う手続きや連携を取るためのやりとりが大半だった。

 逐一確認が入る度こまめに返答を入れていた辺り、僕たちは性格が似ていたんだと改めて思う。互いが何かを損なわないように行われていたその丁寧なやりとりを見ていると、既に離別の決まった恋人にはとても見えなかった。


 彼女に何を送るべきか。正直なところとても迷った。他愛のない話から入るのも違うし、とは言え根幹に関わる話は直接したかった。ヤサカマサトに関する一連の流れを見てきた今、より一層その話題については丁重に扱わないといけない。


「そもそもなんですけど、そのミシマさんの耳にヨドノさんの話って届いているんじゃないですか?」

「どうして?」


 僕の問いかけにミヤマは困った顔で答えた。


「職場訪ねてるじゃないですか。あそこの店長さんか、そうでなくても繋がりのある店員さんが何かしら知らせてると思うんですよね」


 彼女の言葉を聞いて、僕は額に手を当てる。自分の馬鹿さ加減に頭が痛くなってきた。


「まあ、そういうわけですから、色々探った上で連絡してきてることは向こうも知ってると思いますし、いっそアポ取りだけでもいいんじゃないんですか?」

「アポ取りって……取引先じゃないんだから」


 ミヤマは項垂れる僕を見て色々察したのか、同情するような笑みを浮かべていた。僕は彼女の言葉に呆れながらも、最早他の方法がないんだろうな、とも考えていた。元上司である彼女からの連絡を受けていたとすれば、ミシマはおそらく大体の想像ができているだろう。元恋人の死についても調べてまわっているだろうことも。そしてそれらの大体を調べ終わった末に自分に連絡が来るであろうことも。


 そう考えたら、これから僕がすべきことはかなりシンプルだ。会うしかない。会って話すしかない。それ以上でも以下でもなく、もう一度顔を合わせるしか道はなかった。


 僕は天井を見上げ、深呼吸をすると再び携帯に注視する。ミシマジュンコのメッセージを見つめ、文字を打ち込んでいった。



『久しぶり。近く会いたいと思ってる。予定を教えてもらえないだろうか』



 入力を終えた途端にとてつもない疲労感が身体を襲った。たった一文書き込むだけでこんなにも消耗することがあるだろうか。僕は携帯をデスクに放り投げ、何度か深い呼吸を繰り返し、ミヤマが持ってきてくれたマグの飲み物を一口飲んだ。淹れたての熱いホットコーヒーの苦味が意識を揺り動かしてくれる。


「あとは野となれ山となれ、ですよ」

「僕的には鬼が出るか蛇が出るか、って気分なんだけどね」

「まあ、大丈夫ですよ。だってヨドノさんが出来ることは全部やり切ってると思いますから」

「そうかな」


 ミヤマは隣の空いた椅子を引っ張り出して座り、自前のタンブラーに入れたコーヒーを飲みながら頷く。


「私は元より、ヨドノさんは言ってしまえば一連の出来事の中で部外者ですから。でも、そんな風に部外者が物事を解きほぐさないと、今回の出来事は延々と同じところを巡っていたと思うんです」

「外部の介入、か」


 彼女はデスクにタンブラーを置き、背もたれに深く身を預けながら腕組みをする。ぎい、と背もたれの軋む音が聞こえた。


「そう考えると、案外リョウヘイさんは最後の最後でファインプレーをしたのかもしれませんね」

「ファインプレー?」

「ヨドノさんっていう存在を、ミシマさんの恋人としてあてがったことですよ」

「僕を?」


 ええ、と彼女は肯定して続ける。


「あの人がしたことは、彼にも言った通り余計なことです。ただ、あてがった相手がヨドノさんだったことで、彼の想定以上に事が動いた。ヤサカさん一家には振り返る機会が得られたし、ミシマさんには、ヨドノさんと別れる選択をさせた」

「それが、ファインプレー」

「ヨドノさんからしたら辛い出来事だったかもしれないですが、ミシマさん、マサトさんのことを忘れられないけど、似た人を選ぶようなことはもうないんじゃないんですかね」

「それはつまり、ミシマはもう彼を思い出としてみられるかもしれないってことか?」

「あくまで推測ですけどね。もしこのままヨドノさんのことを代替として見ていたら、ある種依存関係のようになって互いに潰れてたんじゃないですかね」


 ミヤマの言葉を聞いて、僕は別れ際の彼女のことを思い出す。


 引越しの仕分けも済ませた後の、二人で食べる最後の食事の時、彼女はこれまで以上によく笑っていた。僕も同様に他愛もない話をしながら笑う事ができた。今思い返すと、あの瞬間、初めて会った時に感じたシンパシーとでもいうような感覚があったように思う。僕たちはきっと上手くやれると感じた、根拠のない確信めいた想いを。


 それはとても不思議な感覚だった。二人で過ごした思い出の品は捨てられて、数年間一緒に眠り、愛し合ったベッドは解体され、互いの私物はそれぞれの選んだ引越し業者の段ボールにまとめられて、伽藍堂とした部屋になった筈なのに。あの時間こそがむしろ健常な関係に戻れたような、そんな感覚があった。


 彼女は、とても朗らかな顔を浮かべていたと思う。何故だか今ではそんな風に思えた。初めて出会った時と同じように微笑んで、同じくらいリラックスした様子で僕と接してくれたと、当時を振り返った今ならそう思えた。


 どうして今更、あの時の彼女の表情を思い出すことができたのだろう。当時何も分からないまま霧の中を彷徨うみたいだった僕には、彼女の表情すらもはっきりと見えていなかったのだろう。それに、あの別れ際の光景をどこかで避けていた僕がいた。彼女との最後のやり取りですら後ろ向きになっていた僕が、無意識に彼女の顔をボヤけさせていたのだ。


「なんだか羨ましいですね」

「何がだよ」


 ミヤマはコーヒーを一口飲んでからにやりと口元を歪ませて笑った。


「だってこんなに人に想われたことないですもん。本当に好きだったんですね、ヨドノさん」


 そう言われて、僕はマグカップに視線を落とす。黒く深いコーヒーの水面に、僕が写っているのが見えた。その顔はやけに疲れた顔を浮かべ、目元には隈ができていた。髭こそ剃っているが、整髪料も使ったことのない黒髪は不揃いで、清潔感のかけらもなかった。


 随分と長い道の果てにたどり着いたヤサカマサトの遺した日記と手紙を読んでから、しばらくうまく食事と睡眠が取れなくなったせいで、生活のリズムが崩れたことも手伝って、随分とよれた姿になってしまったと思う。


 眠れなくなった理由の一つに、夢の中で時折彼が出てくるようになったことがあった。


 彼が別段なにかしてくることはなかった。


 彼はずっとベッドの上にいた。僕とミシマが生活していたあのワンルームのベッドの上だ。彼はベッドの上にあぐらをかいて座り、窓の外を眺めていた。窓の外には僕のよく知っているあの住宅地が広がっていて、子供たちが家の前の車道で遊んでいる。全て見たことのある景色だった。


--あの、そんなところばかり見ていて退屈じゃないですか。


 僕がそう尋ねると、彼は振り向き、僕を見て笑う。


--群れをね、見てるんだ。


--群れ?


 彼は頷く。そしていつの間にか持っていたレモンサワーの缶を持ち上げ、プルタブを引いた。カシュ、という小気味良い音と共に微かな飛沫が弾けて、やがて爽やかな柑橘の匂いが漂い始めてきた。彼はレモンサワーを一口飲み、再び窓の外に目を向ける。


--俺はね、あの群れの中で生きたかったんだ。右に流れたら右へ、左に流れたら左へと、そんな風に気ままにね。それで季節が変わったら、次の安息地を目指して群れで歩き始めるんだ。単独で開拓することなく、ただ野生の勘と、匂いと、風を感じ取って、ただひたすらに集団で安全に生きられる地を探し続ける。


 彼の言葉を聞いて、僕はふと思い出した言葉を口にする。


--グレートマイグレーション。


 彼はそれを聞いて笑った。


--結局俺は、自分にとっての仲間を見つけられなかった。今でも時々思うよ、あと一歩、自分を変えるために踏み出せていたら変わっていたものがたくさんあったんじゃないかって。


 彼はそれからレモンサワーを飲み干して立ち上がる。いつの間にかあのワンルームは消えて、彼の子供部屋になっていた。彼は一度大きく伸びをした後、空になった缶を適当に投げ捨て、僕の肩に手を起き、耳元で一言だけ囁くと、部屋から出ていってしまった。


 そして、ばたんと扉の閉まる音と共に僕は目を覚ます。


 そのあまりの生々しさに全身が汗でびっしょりと濡れ、ひどい虚脱感と疲労を感じ、しばらくベッドから立ち上がれないほど消耗してしまう。それが何度も続くようになってから僕は睡眠をなるべく取らないように夜中もできる限り起きているようになった。深夜にただ一人薄暗い部屋の中で過ごしていると、気が滅入りそうだったが、それでも眠って彼の夢の見るよりは幾分マシだった。


「悪夢、早く解決したいですね」


 ミヤマの言葉に僕はありがとう、と返すとコーヒーを飲み切り、デスクにマグカップを置く。少し長話が過ぎたようだ。仕事に戻らないといけない。


「ああ、ヨドノさん」


 椅子に座り直し、仕事に向かおうとする僕に向けて彼女がそう呼びかけた。

 僕が視線を向けると、ミヤマは微笑みと共にそこに立っていた。


「なんかあったら言ってください。その時は私、ヨドノさんのこと拾ってあげますから」

「拾うってなんだよ」


 さあ、と彼女は笑うと自分のデスクから鞄を持ち出し、オフィスの玄関へと足早に歩いていった。いってきまあす、と彼女らしい溌剌とした大きな声でそう言うと、僕の視界から消えていってしまった。


 あっという間に去っていった彼女を見送り、僕は自分のデスクに向き直る。


 溜まったメールと業務を片付けながら、最後に彼女の言った言葉を何度も振り返る。冗談っぽく返しはしたけれど、僕も学生じゃないから、そこに含まれたニュアンスはすぐに理解できた。


 ただ、理解できたからこそ、そんな保身のようなものがあっていいのだろうかと思った。


 僕はこれから、ミシマと会おうとしている。その果てにある結果がどんなものかは分からないけれど、少なくともその結果がハッキリとするまでは、ミシマも僕も対等な立場であるべきではないかと思っている。それなのに僕だけ、逃げ道のようなものが用意されていて、良いのだろうか。



「--良いんじゃないですかね」



 後ろからかけられた声に声をあげて驚くと、トニムラが不思議そうな顔をして僕を見ていた。それから僕は自分のパソコンと彼とを何度か交互に見て、その言葉が示すものをようやく理解した。


「あの美容院のスタッフ、みんなニュアンスでしか話さないし修正も多いから正直面倒なんですよね。ちょっと手間取りそうかなと思いましたけど、ヨドノさんの進捗を見る限り大丈夫そうですね」

「ああ、ありがとう」

「それと、ミヤマのこと、ありがとうございました」


 トニムラはそう言って彼女が出ていった玄関先に目を向ける。僕も彼の視線を追いながら、「感謝するのはこっちだよ」と返した。


「ミヤマのおかげで、幾分かは心の整理がついたから」


 そうですか、と彼は無表情で答えた。


「俺が言うのもなんですが、ミヤマは一番気を遣うタイプですから」

「だろうね」

「貢献しないとって気持ちが最近勝ってる気がしていたんで、良いリフレッシュになったようで良かったです。彼女、ああ見えてウチの稼ぎ頭ですから」

「なら、有休くらい取らせてやったらどうだ?」


 彼は首を横に振る。


「どれだけ言っても後先考えず自分でスケジュール埋めてるんです。あの調子じゃ一回倒れるまでは自己都合で取るのは無理でしょうね」

「無理か」

「ええ、無理ですよ」


 そう言って彼は空席になったミヤマのデスクをじっと眺めていた。普段から淡々とした様子で喋るからか淡白に見られがちだが、その実よく人を見ている。会社を立ち上げたことも含めてより責任感も出てきているのだろう。僕みたいな一介の雇われとは違って、彼は役職者として働いている。


「トニムラ、ありがとう」

「なんですか、急に」

「大分整理がついたから。それとミヤマ焚き付けたの、多分お前だろ」

「さて、なんのことやら」


 僕の言葉にトニムラは少し考えるような仕草をした後、鳴ってもいない携帯を手に自分のデスクへと戻っていった。彼の後ろ姿を見送った後、僕はもう一度背もたれに身体を預け、仕事に再び打ち込んだ。





 案件を一つ一つこなし、時折オンラインミーティングを挟んで取引先からフィードバックを受けて案件の修正にも取り掛かる。こうして作業にどっぷりと浸かれる日は一度集中の海に潜り込めれば後はあっという間に時間が進んでいく。参考書やサンプル帳をめくり、デザインを仕上げていく。レイアウトの調整一つをとってもその作業には精緻さが求められ、ほんのミリ単位、色の組み合わせ一つズレるだけでも人の目には違和感が残ってしまう。紙やすりで何度も擦って細やかな輪郭にすら気を使って、形を仕上げていく。


 どっぷりと浸かっていた集中の糸が切れたのを感じ、疲労と乾燥に晒された目を抑え、一度大きく伸びをすると顔を上げた。時計は既に定時を過ぎ、社員の大半は帰社したようだった。ミヤマのデスクも空になっていた。集中して作業に向かっているのを見て、気を遣ってくれたのだろう。



 不意に、デスクの携帯が震えた。まるで僕の意識が戻ったことを理解しているかのようなタイミングだった。手に取ると、そこには僕が返事を待ち望んでいた相手の名前が表示されていた。



『久しぶり、今週末なら暇だよ』



 たかがメッセージの文面なのに、久しぶりに彼女の声を聞いたような、懐かしさと安堵感と、そして感動が僕の胸を強く締め付けた。ただの文字の羅列だというのに、ミシマが書いたものだと思うだけで、何か、特別な文字のように見えてくる。僕はどう返そうか悩み、それから自分のスケジュールをじっと見つめ、土曜日をピックアップした。



『ありがとう、土曜日はどうだろう?』

『いいよ、場所はどこにする?』

『どこかゆっくり話せるところがいいけど、どこか落ち着けそうなカフェを探そうか。近い駅とか教えてくれたら合わせるよ』



 ミシマからの返信がそこで止まった。何かを長考している様子だった。彼女の今の住居を探しているように思われただろうか。よくよく考えてみれば、彼女は客の暴走を受けて職場を変えている。いや、変えざるを得なかった人だ。異性に、それも別れた恋人に住所を教えたくはないだろう。



『こことかどう?』



 しばらくして送られてきた住所のアドレスを開いて、僕は固まった。


 見覚えのある場所だった。忘れもしない。僕たちが初めて出会った時に行った二軒目の居酒屋があった場所だ。当時の店名を覚えているわけではないが、今表記されている店舗ではないことは確かだった。それも、居酒屋ですらなく、店の表記はイタリアンになっていた。


 僕はしばらくその住所を眺め、考えを巡らせた後に、『いいよ』とだけ打ち込み、携帯をデスクに置いた。


 ミシマが何故、この店を選んだのか。僕はそのことにばかり考えを巡らせていた。


 ヤサカのセッティングした街コンで出会い、そこから店を変えて二人きりで会話をして、もっと彼女に惹かれた。思えばあの瞬間の、互いに何も知らない状態のやりとりが一番、純粋で、美しいものであったとすら思える。


 僕は、願う事ならあのままが良かった。ヤサカがうっかり漏らすこともなく、ミシマが抱える過去も知らず、二人でずっと過ごしていたかった。例えその果てに同じ未来が待っていたとしても。



「……やり直しってことか?」



 不意に思い浮かんだ言葉がつい口から出てしまった。


 慌てて周囲を見たが残業を続ける社員たちの耳には届いていないようだった。それに皆、仕事に向かいながら独り言を繰り返している。僕も同じようなものだと思い、聞き流したのかもしれない。


 僕は改めてここに至るまでの道筋を思い出す。ミヤマと共に彼女の職場を訪れ、ヤサカマサトの顛末を追いかけ、そしてその真相と共にヤサカリョウヘイとも話をしてきた。僕の中でこの一連の流れはヤサカマサトを追いかけたつもりだったが、同時に、彼女がこれまで歩んできた道とも重なっていることになる。


 ミシマは、改めて見つめ直そうとしているのかもしれない。互いに何も知らないまま、閉したままの想いを抱えて過ごした数年間を。そして改めて全てを知った上で、僕とミシマがどんな道を選ぶことになるのかを。その為に、敢えて始まりの場所を選んだのではないだろうか。



 だとして、彼女は僕に何を求めているのだろう。



 何を見極めようとしているのだろう。



 その意図が理解できず、かぶりを振って僕は再び仕事に戻った。今は何も考えたくなかった。ただただ混乱が生じるだけで、何の解決にもならない。というよりは、もう予想や裏付けの範疇を超えてしまっているのだ。



 僕とミシマが会って、何を話すことになるのか。



 その結果が出ることで、僕たちは互いにそれぞれが見出す未来を観測できる。



 僕たちは、もう会う以外どうしようもないところまでたどり着いてしまった。



 それがどう転んだとしても、もう受け入れることしかできないくらい、深いところまで。

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