7 文学理論からの発想 ~構造主義と記号論と物語論を中心に~
大学時代、自分は文学部ではなく、文学理論を系統的に学んだ経験など無かった。ただ、諸々の単位取得のために、そうした講義を少しだけ受ける機会があっただけだ。それは選択肢の中から短編小説を一つ選び、グループで分析・批評するというもので、文学系のコースの人たちに混じって自分も悪戦苦闘した記憶がある。自分が分析したのは「火垂るの墓」「にごりえ」などであり、評価もそこそこ悪くなかったように思う。それに端を発し、文学理論を独学するようになった(と言っても、「文学理論」と銘打たれたそれっぽい専門書を買って読み込むだけという、至極内向的なやり方だ)。
誰か専門家に師事したわけでもないので、自分の理解が正しいのかどうか確かめるすべもない。だから今からここに書き綴る内容はもしかしたらだいぶ怪しいものかもしれないので、その点だけは注意を払っていただきたい。
小説の話に行く前に、まずは現在の文学理論がどんな流れで形成されていったのかを、極めて、すさまじく、とんでもなく乱暴にまとめてみようと思う。
大昔の小説の分析と言えば、「作家論」が基本であった。その作家がどのような経歴を辿り、どんな状況でその小説が書かれ、そこにはどんな作家の意図があるのかを明らかにするのが文学研究だったのである。国語の授業でよくある「作者(筆者)は何を伝えたいのでしょう?」という問いと何ら変わらない。自分はどうしても、「私は作者じゃないから分かりません」と言いたくなってしまう。つまり、小説は作家の人生における産物の一つでしかなかったのだ。
そんなときに現れた「構造主義」は、分析の対象を「作家」から「テキスト(文章)そのもの」へと移行するという離れ業を成し遂げた。テキストは作家と切り離して捉えるべきであるという考え方が広まったのである。構造主義はその後、物語の構造(パターン)を分析する、という方向へ舵を切る。神話や民話について、共通する物語の型を分類したのだ。この物語は「~~型」、こっちは「○○型」といった類型化である。こうした切り口は賛否両論あるようだが、自分は圧倒的に賛同の立場だ。文学研究としては確かに行き詰まりが感じられるのかもしれないが、たとえば流行りの「異世界もの、異世界転生もの」をこうして分析すれば、創造的にも商業的にも有益な何かが得られるかもしれない。
話を戻すと、「構造主義」による「テキストそのものを研究対象に」という流れを一気に拡大したのが、「記号論」の台頭である。「記号論」最大の功績としては、「一つのテキストから複数の解釈が成立可能である」という思想を行き渡らせた点だろう。当然、「何でもあり」というわけはなく、一定の論理的整合性は担保される必要がある。しかし逆を言えば、そこさえクリアしていれば、テキストをどのように受け止めてもよいわけなのだ。
その後、心理学の一派である精神分析が文学理論にも食い込んでくるなどいろいろあったが、これらは何と言うかすごく微妙な感じだったので(失礼)、特にここでは触れない。
そうした「構造主義」や「記号論」による文学研究の変遷を踏まえ、ちょうどよいバランスで現在の文学へと取り入れたのが「テキスト論(テキスト分析)」や「物語論(ナラトロジー)」であろう。これらでは、小説に「何が書かれているか」よりも「どのように書かれているか」を重視する。徹底的に小説の「書かれ方」を分析することで、作品のもつ主題があぶり出されてくる。
以上が、自分の理解する文学理論の変遷である。
読み返してみると、ちょっとつかみどころがない。そこで、いくつかの重要な概念について触れてみる。小説を書く話は、今しばらく待っていただきたい。
ここで触れるのは、「語り手」「モデル読者」「モデル作者」である。
「語り手」とは、小説で言う「地の文」の語りを指す。登場人物の台詞は、当然、その人物が発した言葉である。では、「地の文」は誰が語っているのだろうか。一人称(地の文における人称が「僕」「私」)の場合、「語り手」は「主人公」である。三人称(地の文で「○○はこう言った」などと人物の名前が呼称される)の場合、「語り手」は第三者、もっと言えば「神の視点」である。しかし、三人称だからと言って油断はできない。「語りは騙り」とよく言われる。私たちは、語り手を常に疑わねばならない。たとえば、太宰治「走れメロス」の語り手は、表面上は「神の視点」であるものの、「メロスの味方をし過ぎていて、たまにメロスの心情をも勝手に代弁してしまっている」とよく言われる。新本格と言われるミステリー小説の叙述トリックなどは、「語り手」のそうした性質をうまく使っている。
「モデル読者」とは、小説を読んでいくうちに感じられる、「読者に求められる理想的な反応」である。漫才なり、ショートコントなりをイメージしていただきたい。もちろん、芸人の秀逸なボケとツッコミの応酬や、ひねりの利いた一言が笑いを誘っていることは間違いない。ただ、それだけでなく彼らは「ここ、笑うところですよ!」という言外のアピールがうまい。観客の笑いたい気持ちと、「ここで笑っておけ!」という彼らのタイミング作りがぴったり重なったとき、大きな笑いが生まれる。小説も同じである。読書はとても受け身な活動であると思われがちだが、そんなことはない。読み手は、「ここは驚くところだろう」「ここはしんみり読むところかな」と、無意識に反応を調整している。そして、ぴったりのタイミングで物語への感情の高まりが一致したとき、人は物語に感動するのだ。そのような、「理想的な読者の反応」を示す概念が「モデル読者」なのである。
「モデル作者」は、物語から立ち現れてくる「作者」の姿である。読み手は小説を読み進めるうちに、知らず知らず「作者」の姿をイメージする。「こんな秀麗な文章を書くなんて、きっと教養のある理知的な人だろう」「こんな不愉快極まりない文章を書くなんて、きっと恵まれた環境で育ってこなかった粗暴な人だろう」などなど。そして、そうした推測が全くあてにならないことは、読書好きの人間ならば誰しもが知っていることである。重要なのは、「モデル作者」の作り込みが(作り込もうと思って作れるものではないのかもしれないが)うまいと、物語の質感がとても美しくなるということだ。たとえば、プロテスタント文学を読んでいるときに、格差に苦しむ人々の姿が克明に綴られていたとする。そうすると読み手は「格差に苦しむ人をこれほどリアルに表現できるとは、この作者は絶対、経済格差で苦しい環境に育ったに違いない」とかイメージする。そうすると、物語の登場人物たちの苦難と、作者が経験したであろう苦難が二重に重なり、感動が増幅する。
こうして見ていくと、小説とは三重構造でできていることが分かってくる。一つ目の層は、「物語世界」だ。登場人物が、どんな状況下で、どんなことをして、どんな出来事に出会ったか。その次が「語り手」の世界である。その物語を、「語り手」はどのように語っているか。さらに次の層は「モデル読者・モデル作者」の世界である。その物語は、どのような作者が紡いだもの(だと思われる)か、その物語で読者はどのように揺さぶられればよい(と思われる)のか。
ふう。
小難しい話を延々並べてしまって申し訳ない。
ここからが、小説を書く話である。
そして、それは存外早く書き終わってしまうはずだ。
文学理論をもとに書いた小説が一つだけある。
「明治バーチャルナラトロジ―」というタイトルだ。
先に挙げた文学理論の要素をこれでもかと詰め込んでみた。「小説でしかできないエンターテインメントを作ろう」と意気込んで、「小説版マトリックスだぁ!」と意気揚々と仕上げた。
正直、今でも出来は悪くないと思っている。思っているのだが、難しすぎて伝わらなかった。
一応設定上は明治時代なので、ジャンルを「歴史」にしたのがそもそもの間違いだったのだろう。特に「明治」である必然性はなく、やろうと思えば現代を舞台としてもいいような物語である(この時期、単純に明治時代に憧れがあっただけなのだ)。
もう本当に、悲しいくらい、読まれていない。
ドン引きするくらい、読まれていない。
もし先の文学理論に関する話が、少しでも琴線に触れたような人は、ぜひ一読いただきたいと思うのである。
小説のプロット自体は、ややこしい設定がちょいちょい登場するものの、決して難しい気取った話ではない。
むしろ、コメディ要素がたくさん入っている。
話のオチも、現代的で、なおかつ驚きをもたらせるものになっているはずなのである。
このままでは作品が浮かばれないので、ぜひ読んでほしい。
長々と綴ったが、言いたいのは実はそれだけなのである。
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