6 社会問題をどう料理するか ~端的に言って自分には無理だった~
社会問題を描く、というのは小説家の宿命なのかもしれない。文学は余暇にも風刺にも政治にも利用されてきた。小説を好んで書く者たちの中で、作中にて社会問題に全く言及したことのない人などいるだろうか?(いたらごめんなさい、それを否定しているわけではないのです)
自分は社会情勢とか、政治経済とか、そういったことに疎い。だから、社会問題そのものをテーマとして取り扱う小説は書けない。それはずっと以前から自明のものだった。
ただ、作品中の重要なファクターとして社会問題に触れたことはある。ここでは二作を紹介しよう。
まず「キミドリ」という作品について語る。これは原稿用紙二十枚程度の小品で、差別的意識だったり、社会的支援の乏しさだったり、コロナ禍の閉塞感だったり、そういったものを盛り込んだ話だ。正直、ひどく陰惨なものを書いたなあと思う。特に物語の幕引きは、悲劇の上に悲劇を上塗りする、なんとも救いの無いものだ。社会問題に触れるだけ触れたものの、「ならばどうすればよかったのか」「結局何が問題なのか」などという建設的な主張が一つも入っていない。これを書いた原動力がわりと感情的なものだったので、そんなふうに小説を書くのは自分は合わないなと思った。
次は「フリージア」である。これは「表現の自由」が主題だ。映画のレイティングなど、あくまで常識的な範囲での表現規制に、自分は賛成の立場である。ただし、小説を書く者として、表現規制に反対する人(と言うと語弊があるが、作品を作品として大事にしたいクリエイターをここでは指す)の思いも分かる。それを異なる立場から交互に描き出したのがこの作品だ。ただ、自分が社会問題のみで小説を書けるとは毛頭思っていない。そこで、「宇宙船の飛来」というとんでもない状況を作品内に設定し、あまり社会問題の方には深入りせずに終結させた。結果、何がしたいのかよく分からない迷子の短編が爆誕した。
話は変わるが、自分の書いた小説たちは、時期によって大きく三つに分けられる。
第一フェーズは、まだ「カクヨム」にも登録しておらず、完全に「自分の書きたいものを自分のために書いた」時期である。カクヨムの投稿順に言えば、「呼ばれた者たち」から「小説キャンパーズ」までの二十作品がそれだ。これらの作品を自分で書き、自分で読み返して悦に入る。つまり、読み手が完全に不在なのだ。そのため、話の完成度というよりも、まだ手を出したことのないジャンルを綴ってみたり、プロットを作らずにいきなり書き始めたりと、完成度よりも好奇心を優先していた。
第二フェーズは、「集結」から「神経の通った檸檬を齧る」までの十一作品である。カクヨムへの投稿を始め、さらには娘の誕生と言う大きな節目を迎えた頃だ。当然、以前ほどのペースで執筆することが難しくなった。仕事の休憩時間や、娘の寝かしつけが終わってから眠気に負けるまでの間に細々と書いていく。ノートに手書きして打ち直すことも増えたので、タイプミスや変換ミスが多いのはこの時期の作品だ。その分、アイディアは慎重に吟味していたので、中編の出来は粒ぞろいだと思う(短編はなぜかグダグダなものが多い)。
現在は、まさに第三フェーズの真っただ中といったところか。「Re:cALL」に始まり、最新作は「くじびきのくに」だ。「よつすば様」の二編をどうカウントするか悩ましいが、まとめて一つの作品として数えると、これまでに五本の作品をアップしている。第三フェーズに入るまでに、長い休止期間があった。これは、仕事も生活も充実している(あるいはシンプルに忙しい)ということに起因している。そのため小説に割くキャパシティが不足していたのだが、見事に「Re:cALL」がそれを打ち破ってくれた。キャラクターたちに感謝、である。このフェーズの特徴は、着想から執筆まで一気に走り抜けた作品と、長い時間を掛けてじっくり向き合った作品が混在していることだろう。たとえば「Re:cALL」や「くじびきのくに」の完成には三~四か月を要した。一方で、「不死の社会学」は一週間足らず、「よつすば様」は十日程度で仕上げた(もちろん、文字数の違いも大いに影響していると考えられる)。前者には、自分が本当に書きたいことを見定めるため、いくつもの可能性を吟味し取捨選択することに時間を掛けた。後者は最初から何を書きたいかが明確だったため、ゴールを目指して走り抜けるだけでよかったのである。今のところ、カクヨムの星レビューを参考にするならば、短い時間で勢い書き上げた作品の評判がいい。
なぜフェーズの話をしたかと言うと、主題に対する私のアプローチの仕方が変わっていったからである。社会問題を取り扱った「キミドリ」と「フリージア」は第一フェーズの作品だが、第三フェーズにも社会風刺的な側面をもつ「不死の社会学」と「くじびきのくに」がある。これらは、全く異なる書き方がされている。
「キミドリ」「フリージア」は、社会問題的な内容について具体的な個別事例を創作し、それを切り取って物語に仕立てたものである。しかし完成したものを見ると、どうやら自分にはこの方面の文才が無いように思えた。
「不死の社会学」と「くじびきのくに」に共通するのは、個別的な社会問題を取り扱うのでなく、作中のキャラクターや事象を通して「人間の営みや多面性をあぶり出す」ことである。
これの根底には、吉岡実の詩「僧侶」への憧れがある。四人の僧侶の姿を通し、人間の複雑な在り様が立ち現れる。同様に、小説でそれを体現しようと模索した結果がこの二作だ。
「不死の社会学」は、全人類が不老不死となったという特異な状況下で、いくつかの視点から社会の変遷を描くことで「人間の営み」へとアプローチした。「くじびきのくに」では、くじ引きでその週の役割と性格を決めるというキャラクターたちを描くことで、「人間の多面性」を浮き彫りにしようとした(脱線するが、作者としては「不死の社会学」より断然「くじびきのくに」の方が面白いと思っている。しかし、アクセス数はそうではないのが実に興味深い)。
つまりは、「全体から個へ」というトップダウン方式よりも、「個から全体へ」というボトムアップ方式の方が性に合っているというだけの話である。この創作パターンには、機会があれば今後もトライしてみたいところだ。
ただ如何せん、やはり社会問題そのものをテーマに据えることはできないだろう。自分には発信したい主義・主張があまりない。しかし、発信したい物語はいくらでも見つかる。だからおそらく、政治小説、風刺小説には向かないのだ。
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