5 タイトルからの着想 ~タイトルを付けるのが下手だという自覚がある~
この章の題名にも入れたとおり、タイトル的なものを付けるのが下手だという自覚がある。思えば昔からそうだった。
小学生の頃、児童会でそれぞれが案を持ち寄り、通信のタイトルを決めようとした。担当の先生が、私の案を最初から無いものとして扱ったのを今でも覚えている(恨んではいない。たぶん)。
中学生の頃、初めて自分の小説を賞に応募するときに、ペンネームの候補をいくつか挙げた。親が「そんなんダサいって。こっちにしとき」と別のペンネームを勝手に応募用紙に書き込んだ(今になって思えば、親の考えたペンネームの方が一億倍ダサかった。気がする)。
大学生の頃、ある冊子を作成しようとグループを立ち上げ、同志たちでグループ名を相談した。SNSなど無かったその当時、メールリスト上で実施した投票では、私の案に一票も入らなかった(これについては、確かに私の案が一番ひどかった)。
今でも、タイトル決めは苦手だし、キャッチコピーの考案も苦手だ。思うに、文字数が少なければ少ないほど苦手意識が高まるらしい。短い文の中に、複数の意味合いや、読み手の目を引く仕掛け、記憶に残るフックなどを仕込むことができないのである。短歌を詠むのは好きなのに、どうしてだろうと自分でも不思議だ。
だから、正直なところ自作へのタイトルの付け方はテキトーなのである。
世の小説家には、タイトル先行型と、タイトル後付け型がいる。ほとんどが後者だろうと思う。タイトル先行型とはつまり、最初にタイトルのインスピレーションがあって、そこから想像を膨らませられる作家がいるということだ。正直、信じられない。
私はほとんどタイトルを後付けで考える。書き終えた作品を見返して、その作品でキーワードとなった言葉や文章を、それっぽく切り取ってタイトルにする。以上、終わり。ひねりを加えることなど不可能だ。
だが、二度だけ、タイトルが最初に舞い降りてきた作品がある。
「集禍場」という拙作がそれである。
自分はぐい呑みを集めるのが好きで、数年前までは陶磁器とか焼き物とかの博物館へ足を運ぶことがあった。そこで、「集荷場」という文言を目にしたのである。たぶん、出来上がった品物の流通について解説してあるコーナーだったのだろう。
ちょうど、コロナ禍の時分であった。そのため、「集禍場」というふうに漢字を当てはめてみて、「新型コロナウイルスという禍を集めてどこかへやってくれる場所があればなあ」なんて思ったのである。
その数年後、ホラー小説でも書くかと思ったときに(私の場合ほとんど毎日そう思っているのだが)、この「集禍場」という言葉を思い出した。もちろん、新型コロナウイルスのことを小説にするつもりはなく、あくまで一般的な「禍」を集荷する場所があったとしたら――などと発想を広げていったのだ。「禍」とは何か、「集禍」とは何か、という部分で詰めの甘さはあるものの、それなりのエンタメとして完成したように思う。
もう一つは、「迫りくるキリン」である。ちょうど「湖畔のゆりかご」を書き上げたときに、職場で自己紹介をしなければならないタイミングがあった。そこで、自分の趣味が小説の執筆であることを紹介する意味も含め、クイズを出そうと思ったのである。実際に私が出したクイズは、次のとおりである。
私が最近、完成させた小説のタイトルは? 一、湖畔のゆりかご、二、迫りくるキリン……。
たしか四択問題だったと思うが、後の二つは忘れた。直前にパッと考えた選択肢であったが、聞き手に絶大な支持を受けたのが、「迫りくるキリン」だった。どんな話になるか読んでみたい、と後から言いに来てくれた参加者もいた。
それで、自分が「迫りくるキリン」を本当に書いたらどうなるか、と考え始めたのである。タイトルから大筋をまとめ、ちょうどよさそうなギミックを一つだけ入れた。それで、短編としてサラサラっと書き上げた。
肩の力を抜いて書いた作品なのだが、出来としては悪くないと思う(ただ、自分らしくない普通な話を書いたな、とも思っている)。
それで、ここから話は少し変わる。
これを読んでくださっているあなたは、長いタイトル賛成派だろうか、否定派だろうか。
最近の小説、特にライトノベルに分類される物語たちは、長いタイトルを擁するものが多い。私はこうしたタイトルについて、少し複雑な気分を抱いている。
まず、長いタイトルの良さは、その物語で得られるカタルシスを、事前に読み手へ提示できるところである。
読み手にはそれぞれ、求めるカタルシスがある。そして、それを的確に提供できる小説は、人気が出る。それは自明のことである。
たとえば、逆境に置かれた主人公が、大逆転劇を見せる物語。主人公が、ひょんなことから複数の異性に好意を寄せられる物語。舐められていた主人公が、実はめちゃくちゃ強いやつだったという物語。
だから、タイトルでおおよそのカタルシスの位相が分かれば、それを好む読者はそれを読み、好まない読者は読まない。非常に合理的である。
一方で、長いタイトルに対するひがみのような感情もある。要は、「私の書きたい小説は、タイトルだけで言い表せてしまえるものなのか?」という非常に身勝手な自己弁護である。ちょっと冷静に考えれば、自分の小説と長いタイトルの小説で、多くの読者を獲得しているのはどちらか、商業的に成功しているのはどちらか、ぶっちゃけついつい読み進めてしまうのはどちらかなんてすぐ分かる(惨敗という言葉でも生ぬるいほどの惨敗である)。
この問題と、私は時折向き合ってきた。そうして、先日公開した小説で初めて、長めのタイトルを採用してみたのだ。
「不穏な未来を幻視したので師匠たちに相談に行ったら大変なことになった」という小説だ。
タイトルから連想されるような異世界ものではない。正直、カタルシスを端的に表現できているかというと、わざと隠している部分もある(後半部分のサプライズに関わる事柄は、タイトルに含められなかったのだ)。
これが吉と出るかどうかは分からないが、一つ殻を破ったな、という気がする。
※追記 「不穏な~~」を書いてからしばらく経つが、あれのアクセス数は芳しくない。タイトルが長ければいいというわけではなくて、結局、本編の面白さが大事なんだなあと、そんな当たり前のことに気付いただけだった。
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