第5話1節 枝垂れ桜の異界屋敷 開花
その日は久々に眩しいほどの朝日を拝めた気がする。
そういえば朝から晴れてるのなんて八月終わりから無かったんだったか、と時雨はふわふわとした意識のままぼんやりと考えた。時刻は午前七時過ぎ、祝日で学校もない日にしては早起きすぎる時間帯に目を覚ました時雨は、そのままほとんど覚醒もしていない頭でふらふらと適当に布団を畳んで部屋を出る。障子を引いて廊下に出れば、もうすでにある程度高く昇った朝日が、強く白い光を発して板張りの廊下を照らしていた。
(……あまり眠れなかった)
憂鬱そうに頭を掻いた時雨は、覚束ない足取りで廊下を歩いて居間へと向かう。今日はまだ母親は帰ってきていなくて、この家に居るのは自分と妹の深雪だけだ。前述したとおり今日は祝日で学校もないから、妹はまだ寝ているかもしれない。
夏にしては足に伝う板張りの温度が冷たく思う。
素足で歩いている故にほとんど足音も立てず、時雨はすたすたと廊下を歩いていた。
「……、」
脳内に浮かぶのは昨日の夕方の事。
話をすることも出来ずに親友がいなくなって、そして結染優里菜に言われた『神代朱梨をどうするつもりなのか』、という言葉に終ぞ答えられないまま、そうしてふらふらと自宅に帰るしかなかった。
本当ならきっと、家に帰らずに彼女を探しに行くべきだったのだろう。
それでもそれができなかったのは、後者の言葉に対しての回答が用意できなかったからだ。
見つけたとして、その後は?
「……、俺は、殺すのか、朱梨を」
殺せるのか?
討つべき怪異だろう、あの女の子は。
否……殺したとて、その後は? 自分がその死体を消し去れるか?
それだけの火力を用意できるか? できなかったとして、その死体をどこに葬り去る? あのような呪い穢れの塊が自意識をもって動いているなど、間違いなくどこかで被害が出るだろう? ならば何としてでも打ち倒すべき存在で――
「……。」
ごん、と寄り掛かるように柱に頭を打ち付けた。
実際問題として、泡沫時雨は神代朱梨を殺せる。
時雨は怪異に相対したときの冷徹さは常人のそれじゃない。きっと怪異としてふるまう朱梨を前にすれば、一息で刀の刃を彼女の心臓に刺し穿てるだろう。人を殺せるほど強くなっていない、けれど怪異を殺せるくらいには強くなったのだから。
ゆえに今彼の思考を邪魔している情だって、簡単に破ってしまえる仮初のもの。
それでもそれだけは捨てたくなくて、必死に『殺した後』の事ばかりをあげつらって必死に否定しようとして、それでも否定しきれていなかった。
泡沫は――そして、実質的にその最高傑作である泡沫時雨は、怪異に対する対処機構として定められた存在。
討つべきと定めたならば身も心も対価にして討ち遂げる、そういう性分の人間だ。
◇
「……深雪、起きてたのか」
「あ、おはようお兄ちゃん。朝ごはん、食パン食べていい?」
ああ、とぼんやりした声音で深雪に声を返す。
赤い髪を揺らしてとことこと動き回っている深雪は、母親の言いつけを守って時雨が起きてからトースターの類を使い始めたらしい。熱いものはお母さんかお兄ちゃんがいるときしか使っちゃダメ、と言われていたのを律儀に守っているようだった。
まだ眠そうな時雨はそのままキッチンに入って、眠気覚ましにコーヒーを適当にマグカップに注ぐ。飲めないことは無いものの、ブラックは飲む気にならないので適当に牛乳と砂糖をドバドバと入れたものを作って口をつけた。
甘い。おそらくコーヒー好きの人が飲めば卒倒する甘さだろう。眠気覚ましと糖分補給をいっぺんに行えるので時雨は重宝しているが。
「……お兄ちゃん」
「ん? どうした深雪」
「みゆきもそのコーヒーのみたい」
「あー……甘いからコーヒーっぽさ無いぞ」
だいじょうぶ、と頷く深雪に、飲んでいたそのマグカップを手渡す。口をつけてこく、と一口飲んだ深雪は、びっくりしたかのように目を丸くした。
「すごいあまいね」
「ああ。お兄ちゃんは苦いの嫌いだから」
「みゆきも。ね、お兄ちゃん、みゆきにもこれ作って」
「駄目。砂糖取り過ぎだ。ホットミルク作ってやるから、それで我慢しろ」
「お兄ちゃんはいいの?」
「お兄ちゃんは深雪より大きいからいいんだ」
どちらかと言うと脳の出来というか。
時雨は脳の回転が常人よりも数段上な影響か、基本的に時雨は常時……とまではいわずとも頻繁に糖分を摂取していないと調子が狂うのだ。そのせいで軽い砂糖中毒のようになっているが、まあ今のところ血糖値は標準をキープしているので大丈夫だろう。カロリーは普段の怪異案件で走り回っているから無問題。
素直にホットミルクで妥協してくれた深雪は、トースターを覗いてパンの焼き加減を見守っている。それを横目に時雨は適当な量の牛乳と砂糖を小鍋に入れて、弱い火加減で温め始めた。チョコでも入れたらいい感じに美味しくなるんじゃないか、なんてぼうっと考えながら軽く沸くのを待つ。やがていい感じに湯気があがり始めた頃合いを見て、深雪のお気に入りのマグカップに注いでやっていた。
(適当にし過ぎたな。結構余った)
自分のマグカップを呷って、残りのホットミルクをそこにぶち込む。そして申し訳程度の追加のコーヒーと、さっきと同量の砂糖をドバドバ。あまりにも雑な仕草に、コーヒー愛好家の人がいればブチ転がされても文句は言えないだろう。
「深雪、焼けたか」
「うん。お兄ちゃんありがとう」
深雪にマグカップを手渡しながら、いつもの自分の定位置に座る。深雪が焼いた食パンはいいくらいに軽くきつね色になっていて美味しそうだ。
いただきますと二人で手を合わせて、そのまま静かに二人で朝ごはんを食べ始めた。テレビをつけてもいいのだが、二人とも食事中はあまりテレビはみないから、二人きりの時は特に静かな食卓になっている。
こうして時雨と深雪の二人で食卓を囲むことは、特別少ないわけではない。今回のように母親が遠出することだってこれまでいくらでもあったから、そのたびに時雨と深雪は自分たちで料理をするのを繰り返していた。
母親が帰ってくるのは最短でも明日だろうとメッセージが返ってきている。今日の昼飯と晩飯はどうしようかな、と時雨はようやく働き始めた脳でぼんやりと献立を考え始めていた。
「……ん、」
ぼんやりしていると、そばに置いておいたスマホが震える。トーストを食べながら画面を見てみれば『真宮結々祢』の文字がそこには記されていて、時雨は慌てて噛んでいたトーストを喉に流し込んで通話ボタンを押した。
「もしもし、泡沫です」
『おはよう泡沫君。朝早くにすまないな』
電話の向こうから聞こえてきたのは、昨日と何ら変わりない結々祢の声。以津真天の討伐から半日と少しくらいしか経っていないのだから、きっと事後処理に忙殺されていたはずだろうに、その疲労を一切見せない声音だった。
『む、朝食中か? 悪いな、邪魔した』
「いえ、ちょうど食べ終わったところです。どうしましたか、昨日のことで何か?」
『いや別件だ。だが少し緊急でな、昨日の今日で悪いが、向かってほしい場所がある。今から真宮邸に来れるか?』
「大丈夫です。戦闘の可能性はありますか?」
『ないはずだが、万一のこともある。念のためギターケースは持って来てくれ』
「わかりました。……あ、一度深雪を呰見神社に送ってから向かうので、少し遅くなりますが、大丈夫ですか」
『了解した。……むしろ助かる、今しがた茉奈が泣きながら厨房から出てきたところだからな』
は? と素っ頓狂な声を上げると同時、じゃあなと一言かけられてそのまま通話は切れた。茉奈、と言うと昨日結々祢と同行していた少女であり、時雨にとっての唯一の同僚であるが、そんな子が泣いているとはいったい何があったのだろう。
首をかしげるが、まあ真宮邸に向かえばわかることだろうと思い思考を切り替える。ちょうど食べ終わりそうな様子の深雪に先ほどの電話の旨を伝えると、わかったと素直に頷いてくれて、そのまま食べ終わった食器を流しに持っていって自室の方へと歩いていった。
聞き分けが良くて助かる半分、いつもこうしてこちらの都合で振り回してしまうのを申し訳なく思う。深雪もまだ小学一年生で幼い女の子なのに、我慢ばかりを強いているのは良くないよな、と少し心が痛んだ。とはいえこればかりは時雨にはどうしようもなくて、せめて自分たちがいる時間くらいは甘えてほしくて、結構甘やかしているとこもあったりする。
時雨も急いで食べかけのトーストを口に放り込んで、食器を洗って自室に急いだ。
予報では今日は暑くなるらしい。
久々に九月らしい気温になるとスマホに表示された天気予報が言っているのを確認して、時雨は動きやすい白いTシャツと適当な細身のジーンズに着替えた。これだけだと少し物寂しいので、首にひとつアクセサリーでも掛けておこう。適当に一つ、加護付きのペンダントを見繕った時雨は、それを首に引っ掛けながら足でいつものギターケースを手繰り寄せた。外ならこんなことは絶対にしないが、自室でならこれくらいの足癖の悪さが時々垣間見えたりする。
最後にギターケースの中身を確認して準備は完了。昨日消費した符はある程度補充できている。刀は一応三振り入っているが、うち一振りは置いていこう。これは流石に抜刀すれば全治一週間は免れない。いつもの愛用刀と、以津真天の討伐の際に抜刀した変形刀の二振りあれば大抵の状況は切り抜けられる。
そうして身支度も整って、いつものようにギターケースを左肩に掛けて部屋を出た。一応一通りの戸締りも見ておいて、問題ないことを確認する。深雪ももう準備ができたようで、すでに玄関で靴を履いて時雨を待っていた。
深雪と一緒に玄関を出て、玄関のカギを閉める。
午前八時、眩しいくらいの快晴の中、二人は行き慣れた呰見神社への道を歩いていくのだった。
◇
「思ったより早かったな」
「おはようございます、結々祢さん」
真宮邸に着いて、使用人に案内されるままある一室で結々祢を待っていた時雨は、部屋から続いている縁側の先に見えている満開の桜をぼんやりと眺めている頃に結々祢から声を掛けられた。結々祢と、そしてその後ろには少女の姿もある。
「時雨さま、おはようございます」
「ああ、茉奈もおはよう。昨日は忙しくなかったか?」
「ええと、わたしの仕事は一つだけだったので、大丈夫でした」
黒髪を揺らしながら笑って答える少女。
茉奈、と呼ばれる10歳の女の子だ。結々祢の直属の部下として働く対怪異職の一人であり、時雨の唯一の同僚。昨日は日中はくねくねの案件に遭遇したほか、夕方には以津真天の事後処理に奔走しただろう彼女のことを、時雨は内心少し心配していたのだが、見た感じは疲労の色もなく元気そうだ。
名字はあるが、時雨も結々祢もそれを口にしない。そして彼ら二人以外は茉奈の名字を知らない。そのため、茉奈は葵や蒼などの他の対怪異職の人たちからも茉奈と呼ばれてかわいがられていた。
黒髪に、耳元から覗く鮮やかな赤色のイヤリングカラーの毛束。紫の瞳はアメジストでもはめ込んだかのようにきらきらしていて、小さい体躯なのも相まってまるでお人形のようだと例えられることも少なくない。大きめの白いブラウスと桃色のスカートに身を包んでいて、ぶかぶかの袖に両手を引っ込めているのは彼女の癖のようなものだった。
普段から真宮邸で過ごしている茉奈とは、時雨はあまり顔を合わせる機会は多くない。怪異案件に対しての異能の相性も相まって、彼女と共同で仕事をすることもそうなかった。時雨は斬り伏せて解決できる類の怪異案件を受け持つが、茉奈はそれでは解決できない類の案件を受け持っている。
つまるところ、今日の案件はそういうタイプの……身も蓋もなく言ってしまえば面倒なタイプの案件だろうと容易に想像がついた。
とはいえ嫌な顔をするわけもない。朱梨のことで頭がぐちゃぐちゃしていたから、仕事に没頭できるならそれはそれでありがたかった。
時雨の隣に座った茉奈と、座卓の向かいに座る結々祢。結々祢の方は昨日の事後処理が続いているのか依然としてスーツ姿のままだ。
「まずは昨日の以津真天討伐について。泡沫君が討伐してくれたあの鳥の死骸は先ほど世界の裏側……現代的な言い方をすれば“現実基底001レイヤー”に送り返した。茉奈のおかげで縁の縛りも再強化できたから、直近の問題としてはほぼ解決とみていいだろう」
「元々裏側から出てこられないものですが、わたしの力でより拘束しておきました。これで、現代で再出現はないと思います」
「ありがとうございます。以津真天がこちらに来た原因は判明しましたか?」
「いいや、今のところは不明だ。001レイヤーの不具合……と、一応葵辺りには言ってはいるが、正直言うとこの可能性は低い。レイヤーの不具合はそのまま世界の不具合と言っても相違ないからな、滅多なことでは起こらんよ」
レイヤー、とは。
六月に時雨や朱梨が迷い込んだ『心霊空間』だったり、綾乃高校のオカルト研究部の部室の空間だったりの、現実とは階層がズレたあの異空間のことだ。この異空間は理論上無数に存在しており、存在が確認できたものに『現実基底レイヤー』とその番号を割り振って結々祢たちは管理している。先の『心霊空間』は現実基底184レイヤー、オカ研の部室の空間は現実基底2012レイヤーと番号が振られていて、三桁番号が自然発生したレイヤー、四桁番号が人工的に生成したレイヤーということになっていたりする。
基本的にはどのレイヤーも、ある程度現実に即した法則が流れてはいるものの、『心霊空間』のように何らかの特徴があるのがほとんどだ。その特徴に即した条件を満たすとレイヤーに落ちることとなる。無数にある現実基底レイヤーの中でも『心霊空間』が七大怪異の第六席に置かれているのは、空間の危険度が高いにもかかわらず、その条件が他と比べても比較的緩いためだ。一般人が迷い込んでしまう確率が高い、と言い換えていい。
以津真天が縛られている001レイヤー、時雨が時折口にしていた『世界の裏側』は、最重要レイヤーの一つであるため別格の番号が振られている。
「となれば、何者かの手引きですか? 001レイヤー、内から外へはかなり抑止力が働きますけど外からの干渉には弱めですよね」
「おそらくはそちらの方が可能性が高い。しかしそうなると、誰がそれをしたかになってくる」
「……悪意を持った何某かがいる、ということですよね……?」
「ああ。泡沫君も茉奈も、頭の片隅には置いておけ。この類の問題は私の管轄だ」
ひとまず以津真天がらみのことはあとは結々祢に任せていいらしい。事後報告はこのくらいにして、結々祢は今回の案件について切り出した。
「今回泡沫君を呼んだのはこれとは別件だ。現実基底レイヤーとは別の異空間……異界がらみの案件だ」
「……異界ですか。それで茉奈を?」
「ああ。今回お前たちには、『枝垂れ桜の異界屋敷』と呼称される異界の探索を命じたい」
その名を聞いた途端に、時雨は僅かに目を見開いた。
対怪異職に従事していれば多少なりとも異界に関しての情報は耳に入ってくるが、その中でもこの異界は同業の間でも名が広く知られているものの一つである。
曰く、極楽であると口を揃えて言われる異界。
いつその異界に赴いても、そこは常春である地。
とはいえこちらから赴くことはほぼ叶わず、あちらから招かれたときのみ迷い込める、ある種マヨヒガのような場所である、と。
聞く限りはあまり危険性はない。それでも時雨と、そして茉奈を動かすほどというのなら相応の理由があるのだろう。
「……失踪者の捜索ですか?」
「ああ。第一の目的はそれだ。泡沫君に、直近で『枝垂れ桜の異界屋敷』がらみの失踪だと思われる失踪者の情報をまとめた資料を渡しておく。これに合致する者を発見したときは、茉奈の力で現世との縁を修復しろ。無理にこちらに連れてくるまではしなくていい」
そう言いながら結々祢は少し厚みのある大きめの封筒を時雨に手渡した。受け取った時雨は開けて中身を数枚見てみる。そこには直近の失踪者のリストから恐らく異界屋敷に関わる失踪だと思われる人名に赤く線が引かれていた。田村、三武、神ノ宮、住吉、天城、宮下……多い、とまではいかないが決して少なくもない数の人が、件の異界屋敷に攫われているようだった。
それをさっと確認した時雨は、一つ頷いてその封筒をそばに置いていたギターケース内にしまい込んだ。
「第一、ということは他に目的が?」
「ああ。第二の目的はあの異界屋敷が変質した原因を探ることだ。お前たちは知っているか? もともと『枝垂れ桜の異界屋敷』は、人を攫いこそするものの数日で現世に帰していた。だが数か月前から、この異界に攫われ失踪した人々が現世に戻らなくなっている」
「その原因を突き止める……ですか。でも結々祢さん。お話を聞く限り、その異界屋敷は相当に広いと聞いています。わたしと時雨さまの二人では一日では無理なのでは……?」
「それについては問題ない。お前たちは向こうで数日過ごしてこい」
しれっとそのようなことを言う結々祢に、時雨はは? と呆れたような声を上げた。現世ではない異界で二人で過ごせと本気で言っているのだろうか目の前の人は? と疑わしい目を結々祢に向けるが、結々祢はどこ吹く風の素知らぬ顔だ。
「構わんよ、向こうも承諾済みだ」
「向こうって……異界屋敷は無人のはずでは?」
「ああ、無人だ。だが異界屋敷は承諾している。今日こうして朝早くから泡沫君を呼んだのも、『枝垂れ桜の異界屋敷』から依頼があっての事だ」
「……異界が結々祢さんに依頼を?」
「ああ。そこの年中咲いている桜があるだろう? アレは他ならぬ、『枝垂れ桜の異界屋敷』のとある桜を移植したものだ。あちらからコンタクトを取ってくることなどそうないが、これ以上は看過できないと判断してこちらに要請してきたのだろう。自分の体の中に異常ができている、だがそれがなんなのかわからない、とな」
……要約すると。
数か月前から異界屋敷がらみの失踪者が増えており、今回の探索はそれに加えて『枝垂れ桜の異界屋敷』の意思のようなものが結々祢に直接救援を要請したため、急遽時雨と茉奈を揃えたらしい。
あとはまあ、結々祢の反応を見る限り、ある種以津真天討伐の報酬としての一時の休暇のようなものでもあるのかもしれない。時雨も最近は大小さまざまな怪異案件に奔走していたし、茉奈も昨日のくねくね案件だったり盆の定例儀式要員だったりでせわしなく働いていたから、そのご褒美というものだろうか。
「……わかりました。俺の主な仕事はその探索と、茉奈の護衛ですね」
「ああ。茉奈がいれば大抵のことはどうにかできる」
「頑張ります……! それで結々祢さん、突入はこのあとすぐに?」
「ああ」
そう言って、結々祢は腰を上げてすたすたと縁側のほうへと歩いていく。眩しい日差しに照らされて満開の桜はきらきらと輝いているように見えて、まるでそれ自体が発光しているかのように思えた。綺麗で、それでいて季節外れのその光景に、件の異界がまるですぐそばにあるかのような錯覚すら呼び起こしている。
結々祢に続くように、時雨と茉奈も縁側に向かい、そのまま用意されていた靴を履いて中庭に降り立った。照り付ける日差しは暑くて、それなのに桜の花びらが雨のように降り注いでいる。
結々祢は縁側から降りないまま、日陰の中にいるだけだ。
「一時的に向こうが入り口を開いている。その桜の下に居れば、勝手に向こうが攫ってくれるだろう」
「わかりました。……茉奈の持っているこれは?」
「わずかながらの食料だ。念のため、現世との縁が薄れないように食事はそこから食べておけ。まあ絶対食べるなと言うわけでもないから、気になる食事を向こうが出してきたら手を付けてやってもいいとは思うぞ」
「承知しました」
「風呂や寝床は向こうが出してくれるだろうから気にするな。……これは異界案件だが、そう気負い過ぎるなよ。軽い旅行とでも考えておけ」
気をつけて行ってこい、と結々祢が軽く笑いながら手を振っている。
それに、二人はいってきますと返して桜の木の下に近寄った。
「……時雨さま」
「ん? なにか不安ごとか?」
「いいえ。……今回は、よろしくお願いします」
そう言って微笑んだ茉奈は、控えめに時雨に手のひらを差し出した。
その小さな手を一瞥した時雨は、ああと一つ頷いて、その手を柔らかな力で握ってあげた。その瞬間に、ぶわりと一際大きな風が吹いて散った花びらが巻き上がる。
まるで、
……否、ほんとうに。
桜に攫われる、ようにしか見えない形で、時雨と茉奈の二人は姿を消した。
◇
そうして時雨と茉奈は知らない土地に足を踏み入れて、件の異界屋敷までの道のりを二人でのんびりを歩いていた。
途中で茉奈が時雨の刀のことを聞いたりと雑談をいくつかかわしながら、舗装もされていない一本道を辿っていく。両脇には桜並木がずっと続いていて、並木の向こう側には山や田畑、河川が存在している。日本のどこかの田舎、と言われても信じられそうな光景だったが、ここが異界である以上はこれは世界のどこにもない風景なのだろう。現実基底レイヤーと違って、異界というものは完全に独立した別世界だ。
「……結構歩きましたね。まだお屋敷は先でしょうか……」
「おそらくだが、あの山の麓あたりだろうな。この異界の正確な地図がないから断定はできないが……」
「……時間の流れは大丈夫でしょうか? 現世と異界の時間の進みが違うというのはよく聞く話ではありますが……」
「ああ……ん、今のところは同期してる。このまま同一速度を保ってくれれば、こっちとしても助かるんだが……」
「……異界側の意思が結々祢さんに依頼したのですし、おそらくは大丈夫だと思います。なにかあったらわたしの力で強制的に現世に戻りましょう」
そうだな、と返して、時雨は先ほどギターケースから取り出した懐中時計のふたをぱたんと閉じた。
この時計は少々特別製で、異界に突入する際には必ず支給される道具の一つだ。時間を指し示す時計盤が大小二つ付いており、片方が今いる異界の時間の進みを、もう片方が現世の時間の進みを示している。現世より異界の方が時間の進みが早かった、ならともかくとしてその逆があった場合はかなり笑えない事態となる。それを防ぐためにも、異界探索の際は定期的にこの懐中時計を確認することを義務付けられていた。今のところ、二つの時計の針は同じスピードで進んでいる。
懐中時計をギターケースのサイドポケットに仕舞いこんで、時雨はちらりと隣を歩く茉奈を一瞥した。小さな歩幅でとことこと歩く彼女は片手にラタンのトランクバスケットを持っていて、もう片方には結々祢から渡されたのだろう資料を持っている。歩きながらそれに目を通している茉奈が転ばないか、時雨は内心少しハラハラしていた。
「この道はおそらく、通常であれば“帰り道”だとおもいます。これまでの報告では異界屋敷に攫われた際、初めから屋敷の敷地内にいると言われていますし。本来ならこの道を通って現世に帰っているのでしょう」
「だろうな。進むにつれ建物が増えてる。じきにこの桜並木の向こう側にもいけるようになるんじゃないか、これ」
「……古い建物ばかりですね。探索しようにも、まだ桜の間を抜けられないみたいですし……気になりますが、ひとまずはお屋敷を目指しましょう」
時折資料から顔を上げてはきょろきょろと周りを見渡す茉奈。
時雨も彼女の言葉に頷きながら、ふらりと桜並木の方に足を向けてみた。並木の向こうは田舎の景色が広がっているが、その向こうに行こうとすると途端に脚が止まってしまう。物理的な防壁があるというよりは、心理的な抵抗を掛けられているといった方が正しいだろう。まあ二人の目的地は件の屋敷だから、大人しく道沿いに歩いていくしかないようだった。
すたすたと歩みを進めていく。
時雨は歩幅の小さい茉奈に歩調を合わせているから、自然と歩くスピードは遅くなる。とはいえ急いでいる訳でもないのだし、特に気には留めない。異界ではあるが昼夜の概念はちゃんと存在しているようで、ゆっくりと太陽は南へと動いていた。
「……この道、夜になると提灯も灯るみたいです。少し行けば宿場町のような……宿ではないですけど、お店も並んでいるとか」
「なるほどな。浅草の仲見世通りみたいな感じか」
「東京のお寺でしたっけ? わたし、行ったことなくて……」
「あー……じゃあ今度どこかの休暇で一緒に東京の方にも行ってみるか」
「ほんとうですか? 人がいっぱいいると聞いてて……ちょっぴりこわいですけど、時雨さまと一緒なら安心です」
そうか? と返す時雨に、そうです! と嬉しそうに同意する茉奈。
茉奈は出自が特殊であるせいか人の集団に全く慣れておらず、そうした場所には自発的に行くことはほぼない。いくら時雨が一緒だと言っても怖いんじゃないか? とも思ったが、本人がその気になっているなら止めることもないだろう。この異界から帰ったら結々祢に話してみるのもいいかもしれない。
とりとめのない、雑談のような会話ばかりを繰り返して道を進んで行く。
先ほど二人が言ったような、店のような建物の立ち並ぶエリアも抜けて、満開の桜並木に導かれるようにして歩く。やがて少し傾斜のある道になって、周りの景色も木々が増えてくるようになったころから、並ぶ桜の間には朱色の紐がくくられ、青みがかった紙垂が風に揺れていた。
否応なしに神聖な空気へと変わっていく。
異質。異界という名は伊達ではない。
これより先は本来人間の踏み入れるべきでない、秘境という言葉が合うような、そんな雰囲気を醸し出していた。
「……ここですね」
そうして、足を止めて二人は目の前の門を見上げた。
前情報通り人はおらず、ただその木造の立派な門だけが内と外を分けている。高い漆喰の塀がずっと続いているため中の様子はわからず、ただその塀の上からも枝垂れ桜がこちら側に覗いていた。
「――……あ、」
ふと、茉奈が声を上げた。
どうかしたかと時雨が彼女を見るが、茉奈は何もない空中を見ている。
「なにかあるか、茉奈」
「……“縁の糸”が。桜の枝に……」
あの枝です、と茉奈はそれを見つめたまま指を差す。しかし時雨の目には何も映らず、されど時雨はその言葉を否定することはなかった。
これは茉奈にだけ見えるもの。
宝石のような紫の瞳に、赤い糸が仄かに映っている。
「……その縁、辿れるか?」
「いいえ……途中で切れて、宙に浮いています。……縁が切れてしまっている」
自分だけが捉えられるその糸を、そしてそれが示す意味を、茉奈は真剣なまなざしで見つめていた。
――これが茉奈の持つ異能。
どうやっても真似のできない、希少すぎる特異技能。
何かと何かの縁を赤い糸として知覚し、それを掴むことで操作を行えるという、時雨や結々祢にもできないことをこの少女はできてしまうのだ。
「……誰かの、現世との縁かな」
「おそらく……切れてしまったから、帰れなくなってしまったのかもしれないです」
その赤い糸は風に吹かれるように、心許なく揺れるだけ。
……思ったよりも事は深刻なのかもしれないと、二人は気を入れ直した。
「……とりあえず、入らないことには始まらないな。門の閂は外れてるのかな……っと、」
時雨が門を開けようと一歩踏み出すと同時、その大きな門はひとりでに扉を開いた。ごごご、と大きな音を立てつつゆっくりと動いていくその光景に二人は目を瞬かせながら硬直して、やがて完全に門が開き切る頃に我に返った。
「……歓迎されているんでしょうか」
「多分な。入ってみるか」
先んじて門の敷居を跨いだ時雨に、後を追うように茉奈も続いて敷地内に入る。
「……わ、」
そしてその先は、まさしく噂にたがわぬ楽園のようだった。
麗らかな柔らかい風が頬を撫でる暖かい空間。
穢れなんてどこにも見当たらず、ただ澄み切った空気で満たされている。降り注ぐ日の光は眩しくも暑くも無くて、日向ぼっこには最適な心地だろう。門から玄関まで続く道は綺麗な石畳が敷かれていて、ゴミの類は一切落ちておらず、ただ風に揺蕩い降り注いだのだろう桜の花びらが多く点在しているだけだ。
屋敷はみたところ平屋のようで、しかしここからでは広さが図れない。おそらくは奥に奥にと広く続いているだろうことだけは察せて、その始まりである玄関は大層立派な造りになっていた。
名前に相違なく、枝垂れ桜がいくつも植えられている。無人だと聞いていたのにまるで人の手で整えられているかのように綺麗で、お花見でもしようものなら一日中見ていても飽きないだろうと思えるほど。
「これは……すごいな。流石に俺もここまで見事な屋敷は来たことがない」
「はい。すごくきれいです……!」
二人はその浮世離れした光景に目を奪われながら、周りを見渡しつつ玄関の方へと足を向ける。今のところ彼ら以外に人影はないことを確認した時雨は、その玄関の敷居を跨いで屋敷の中へと入った。
老舗旅館のようだ、と時雨はぼんやりと思った。
照明はそれほど強くなく、暖かなオレンジの光が使われている。時雨の自宅や真宮邸のような屋敷とは僅かに雰囲気が異なっていて、やはりこの場所は迎え入れるための場所なのだろう。だが旅館というには構造が武家屋敷に寄っていて、どこかちぐはぐな印象も受ける。
「……まあ、中を見て回らないとわからないか。茉奈、とりあえず安全そうだ。入って大丈夫だぞ」
「わかりました」
時雨が声を掛けると、すぐに茉奈も玄関を踏み越えてくる。時雨はぐるりと玄関を見渡して全体を確認した後、玄関にそぐわないような異常がないことを再度確認して、背負っていたギターケースを玄関の床に下ろした。
「……スリッパ、ご用意されてますね。屋敷側のご厚意でしょうか」
「恐らくな。流石に屋敷を土足で歩き回るのも忍びないし、使わせてもらおう」
お邪魔します、と二人は誰に宛てるわけでもない断りを口にして、履いていた靴を脱いで玄関を上がる。サイズのちょうどいいスリッパに履き替えた時雨は先ほど下ろしたギターケースのポケットの一つを開けて、そこから予備でいれていた小さなビニール袋を取り出した。
「茉奈。一応靴は持ち歩いておこう。いつ履き替えることになるかわからないしな」
「そうですね。ありがとうございます、時雨さま」
玄関に座って編み上げのショートブーツの紐を解いていた茉奈に一枚手渡す。茉奈はよくお気に入りのブーツをはいていたが、こういう時はちょっとめんどうかも、と茉奈は内心反省した。やがて両方とも脱げてビニール袋に入れると、時雨がそれを受け取ってギターケース内の開いたスペースにしまい込んだ。
「さてと。とりあえず進んでみるか。茉奈、結々祢さんから渡された資料の中に見取り図みたいなものはあるか?」
「ええと……あ、これでしょうか」
再度ギターケースを背負い直した時雨は、茉奈が取り出した紙を屈んで覗き込む。見取り図というには些か大雑把すぎるものの、おおよそどのあたりの位置になんの部屋があるかはわかりそうだ。だがそれに目を通した二人は少し苦い表情を浮かべている。
「……すごい広いな。これを探索しろっていうのか」
「う、でも結々祢さんは数日ゆっくりしてこいって言ってましたし……! とりあえず、一度腰を落ち着けて作戦会議できそうなお部屋を探しませんか……!?」
「そうだな。この広さは無暗に動き回ったら迷子になりそうだ」
同感です、と茉奈も頷いている。
時雨の自宅はもちろんのこと、真宮の屋敷とも比較にならないレベルの広さだ。前者も一般的な住居と比べたらかなり広い武家屋敷ではあるが、その三倍かそこらはあるだろう。しかもこの大雑把な見取り図からして、恐らくそれ以上の広さの敷地の可能性も全然ありうる。
迷子はともかくとして、この広い屋敷内ではぐれたらもうどうしようもない。二手に分かれるのは絶対に悪手だと二人は直感する。
とりあえず茉奈の言う通りどこか拠点代わりの部屋を探してみるか、と時雨が背を伸ばして奥を向いたと同時、茉奈が少し控えめな仕草で時雨の服をくいっと引いた。
「……茉奈? どうかしたか?」
「あ……ええと。その……わたし、よく結々祢さんとはぐれがちで、」
「うん」
「その……はぐれないように、手を繋いでもいいですか……?」
少し恥ずかしそうに言う茉奈。
頬は僅かに赤らんでいて、ふらふらと彷徨う瞳には不安と期待が共存している。控えめに袖から出された指先は小さくて、時雨がかける言葉によってはすぐに引っ込められてしまうだろう。
それを、時雨はなんでもない顔で一瞥した後。
「いいけど。でも何かあったらすぐ離すぞ、茉奈は手が空いてないとまずいし」
「あ、ありがとうございます」
「それとそのバッグも俺が持つよ。使うときは言ってくれ」
「助かります」
そうして、茉奈は恐る恐る時雨の手に触れる。時雨からしてみれば、手全体を覆えてしまいそうなほど小さな手のひらを壊さないように緩い力で握って、そのまま茉奈の様子を意図的にスルーして顔を屋敷の奥へと向けた。
ぴぴぴ、と顔を赤くしてうつむく茉奈と、素知らぬ顔の時雨。
「それじゃあ行こうか。改めて、よろしく頼む」
「は――はい。一緒に頑張りましょう、時雨さま」
そうして、二人の異界屋敷の探索が幕を開けた。
二人を歓迎するように、屋敷の桜は美しいまでの桜の雨を降らせている。
(……せっかくの時雨さまとのお仕事だから、頑張らなきゃ)
きっと赤くなっているだろう頬に手を当てた茉奈は、その熱を指先で感じながら、一人心の中で気合を入れる。
時雨とこうして二人きりで仕事をすることなどそうそうない。
故に、頑張って隠してはいるものの、茉奈は少し浮足立っていた。
茉奈は泡沫時雨の唯一の同僚である。
仕事仲間で、ある種の限定的な相棒のようなもので、互いに背を預けられる人。
それと同時に――茉奈にとって、泡沫時雨は初恋の人。
今なお恋い慕う、年上の男性。
憧れの人。大好きなひと。向こうは茉奈のことをどう思っているかはあまりわからないけれど。
そして一番重要な関係性として。
そうなった経緯はおいおい語るが――……
(……えへへ。旦那様と二人きりだから、少しそわそわしてしまうのも仕方ないと思います)
――時雨と茉奈は、婚約者という関係でもある。
その証拠に、茉奈にしか見えないが、二人の小指には縁の赤い糸が結ばれている。
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