幕間 粒子感染現象

 ――……遡ること三年前。

 泡沫時雨が真宮結々祢と知り合ったのは六年前、彼が十歳前後のころであるが、実際に対怪異職に就いて真宮結々祢の直属の部下となったのは十三歳の頃だった。中学一年生の秋、誕生日を過ぎた頃にようやく彼は本格的に呰見全域を管轄する祈祷師の一人として数えられ始めた。

 そういうわけで、今と比べればまだ未熟なところが垣間見える昔の頃。堅実に実績を積み重ねてじわじわと名を広めていった――というわけではなく。

 もともと泡沫家の長男として、また当時唯一だった真宮結々祢の直属の部下という立ち位置も相まって、多少なりとも名は知られていたが、それ以上に。


 ――初戦闘で当時の七大怪異第五席である『猿夢』の単独討伐を成すという、デビュー戦というにはあまりに前例のない功績を打ち立てて、彼は一気に知名度を爆上げしたのだった。

 (※本人としては不本意らしい)



 ◆

 


 ガタゴトと電車の音が耳に届く。

 呰見中央駅から四方八方に伸びている路線の一つ。長めのエスカレーターに乗って深く降りた先にある地下鉄のホームは、開通してからそれなりの年月が経っているというのに真新しい印象を受ける。定期的に改築が行われては、そのたびにその時の流行に沿ったデザインに描き換わるからだろう。数分刻みの運行のおかげで特に時刻表を見る必要もなく、ホームに着いて適当に待っていれば電車は来る。遠めの駅に行くのなら多少は乗る電車を考えなければいけないが、自宅に帰る程度であれば適当に1番ホームで待っていればいいだけだ。

 こういう時都会に近いと便利だよな、と時雨はぼんやり考えた。

 2017年9月22日。13歳になって二日ほど経過した。中学生になって約半年経って、ようやく制服にも慣れてきたころだろう。近年の温暖化に伴って衣替えの時期もずれ込んで、まだこの夏の制服もしばらく着ることになりそうだ。

 今日は結々祢と直接話す用があって、学校帰りに真宮の屋敷に一人で訪れていた。正式に部下にしておくか、と唐突に言われたのが昨日で、その諸々手続きを終わらせたのが今日。この三年間、対怪異職のあれそれを叩きこまれたが、ようやく単独任務が許された、といった感じだった。

 とはいえまあ、やることはそう変わらない。

 学生の身分であるためか、基本的に担当区域は呰見のみとするらしい。とはいえ対怪異職は母数が少ないから、呰見市全域を管轄することになるらしいが。遠出はない分、普通に忙しいだろう。基本的に放課後の夕方から夜にかけてが主な活動時間になりそうだった。

 やがてホームに来た地下鉄に乗り込んだ。

 金曜の夜ということもあって人は多い。とはいえ座れないほどではなくて、ちらほらと空いているシートの片隅に腰を下ろす。後ろに背負っていた大きめのギターケースを肩から降ろしてそばに立て掛けた。上の荷物置き場にあげてもいいが、そう混んでいる訳でもない。どうせ数十分程度の帰り道なのだから、そこまでの労力をかける気にはならなかった。

(……。)

 ひとり、ぼんやりと窓の外に目を向ける。地下鉄であるため景色など無いに等しい。真っ暗闇の中を進んで行く地下鉄の窓外は、それでもすべてが黒と言うわけでもなく、時折流れるようにライトの残像が通り過ぎていく。特に代わり映えしないものの、一定の間隔で繰り返されるその残像は眺めているだけでどこか心を落ち着かせるような気がしてならなかった。

 実際、いつも過剰に頭を使っているせいか、これくらいの情報量はむしろありがたい。規則正しいその残像は一秒先も、五秒先も簡単に予測がつく。それ故、自然といい具合に頭が休まっていくのだった。

 人より目の良い時雨は視界から得られる情報が比較的多い。

 それを処理するまではいいのだが、どうやら自身の脳みそはそこから予測演算まで始めてしまうから困ったものだ。とはいえ明確にわかるというほどでもなくて、半分直感のような形で演算結果が差し出されるだけなのだが。

 故に時雨は人混みがあまり好きではなかった。

 どちらかと言えば、人の少ない電車で規則正しく揺れるのが好きだ。

 これまでは時折気晴らしに、呰見を出て田舎の方へ行っては適当な電車に乗ってぼんやり揺られていたりしたのだが、正式に結々祢の部下になった以上はもう今までのようにはできないだろう。呰見担当、だなんてどう考えても忙しくなるに決まっている。

(……せめて俺一人でどうにかできる程度だといいが)

 そう、半分願望のような考えをぼんやりと脳裏に浮かべた。

 とはいえ時雨一人で対処可能な怪異などたかが知れている。いや、厳密に言うなら多少の幽霊や妖怪であれば、時雨がその場にいるだけで存在を吹き飛ばせはする。それでも、少し名の知れた妖怪の一つでも出くわそうものなら今の自分では敵いはしないだろうと、時雨は自己評価を下していた。

 実際、この評価にそう間違いはない。

 符術使いの師だったひとは自分よりも数倍精密で高火力の術式を編めていた。

 剣術の師である父親は一撃で魔性を屠れるほどに卓越した剣技を繰り出せる。

 今の時雨は未だその域には達せていなくて、精々そこらの妖怪相手に多少は善戦できるくらいの力量だろう。

「……。いや、ちょっと卑下しすぎか?」

 誰に宛てるわけでもない独り言が自然と零れる。

 どうにも比較対象がアレなせいで少々自己評価が下降気味になっていたかもしれない。今の時雨の脳裏にある人物は符術の師匠の桜庭未夜と、剣術の師匠の泡沫氷雨と、自分の上司で最強と名高い真宮結々祢と、こうして今この道を歩む理由になっているあの日出会ったお姉さん。全員が全員上澄みもいいところだ。

 『驕りも卑下もなく、必ず正確に自分の力量を見極めろ』と、この数年ずっと父親から叩き込まれていた。驕りがあれば自身の命を落とし、卑下があれば救えたはずの命を見逃すことになる、と。故に時雨はどのような状況下でも自分のやれる最大値を見極めることを心掛けていた。

 そうは言っても、易々と怪異に勝てるとも思ってはいない。

 やれるだけのことはやる。その上で無理なら迷うことなく手を借りる。それが時雨の基本的なスタンスだ。

 実際のところ、すぐに民間に被害が出るわけではない状況下なら、ほかの対怪異職の人たちも似たような感じなのだろう。

「……ねむ」

 ぼんやりと窓外のライトを眺めていたら、やがて脳がいい具合に稼働を止めてくれたようで緩やかに眠気がやってくる。

 一週間分の疲れもあるのだろう。きっと目を閉じれば、すぐにでも意識は緩やかに沈殿していくだろう。今通り過ぎたのはまだ家の最寄り駅から遠い一駅だから、多少はうとうととしていても大丈夫なはずだ。

 念のためギターケースがよそに倒れないように足で押さえておいて、時雨はうつむいて目を閉じた。

 そうすればあっという間に意識は攫われるように溶けていって、やがて規則正しいガタゴトという音すらも遠くなる。

 次の駅名を告げるアナウンスの声は、はるか遠くのほうから聞こえてくるみたいだった。



 ◆



 ――ふと、意識が浮上した。

 ふわふわとした心地のまま、緩やかに耳からアナウンスの情報が流れ込んでくる。

 そのぼんやりとした音は鼓膜を揺らしても脳で処理するには至らなくて、ただ何となく聞こえてくるな、くらいの感じ。それでも働き出した脳みそは緩く回転速度を上げていって、やがてじわじわと周りの情報が処理されていく。

 重たげに瞼を開ければ、そこは変わらず電車の中。

 窓外では規則正しいライトの残光が通り過ぎていく。

 寝落ちた時よりも人は少なくなって、どちらかと言えばがらんとした雰囲気に変わっていた。

(……いま、どのあたりだろう)

 先ほど聞こえたアナウンスは残念ながらほとんど右から左へ聞き流してしまったに等しい。とはいえ次の駅も近いだろうし、待っていればやがてまた繰り返してくれるかな、とぼんやり思いながら周りを見渡した。

 主要な駅は通り過ぎてしまったのか、人は少ない。

 心なしか照明の色味も冷たいような気がする。

 ガタゴトとした音ばかりが響いて、それ以外の音はほとんどない。

『――……次はー、』

 繰り返される無機質なアナウンス。

 人の声によく似た機械音。

 ふと、なにか脳裏に引っ掛かる。ほんの僅か、逃してしまいそうなほど小さな違和感。ぼんやりした脳で――この地下鉄のアナウンスは、こんな声だったか? と。

 何か違う。

 何かが軋んでいる。

 何か、歪みがある気がしてならない。

 その得体のしれない不気味な感覚に従うように時雨はぼんやりした瞳だけを僅かに動かして、


『――活けづくり~、活けづくり~』


「――……ッッ!」

 その異質なアナウンスを耳にすると同時に、ぞわりと全身に悪寒が走った。

 いけづくり……活けづくり? と脳内で反芻する。そんな駅名はこの路線には存在しない。駅名にしても不自然だ。まさか、と一つの可能性が脳裏に浮かぶと同時に、日常では滅多に嗅ぐことのない嫌な匂いが鼻を掠めた気がした。

 間違いなくそれは血の匂い。

 目を見開いた時雨は、咄嗟にその匂いのしてきた方向へ顔を向ける。時雨が座っているのは3号車両の真ん中の席。その異常が香ってきたのは前の方から。人の気配もあまりなくて、恐らく時雨より前方には二人ほどしか座っていないようで、

(――……ッ、)

 そして、時雨は思わず声を上げそうになった。

 前方の車両間のドアの窓ガラスにはべっとりと赤い液体が付着して向こう側が見えなくなっている。

 あたたかな光だったはずの車内のライトは冷たく暗い光に置き換わっていて、その光に照らされた壁や窓も赤黒く汚れている。

 そしてその中に――車掌のような恰好をした、小人のような猿が4匹。

 いずれも猿が持つには不似合いな、薄汚れた刃物や機械などを携えて、一番前方に座っている人の前に佇んでいた。

(間違いない……猿夢だ、これは……ッ!)


 それは七大怪異の第五席に数えられる有名な怪異。

 夢の中で残酷に殺され、その結果現実でも死んでしまうという、危険度の高い怪異として対怪異職の間で知られている怪奇現象だ。

 なにせ何の予兆もない。

 なんの対策も出来ない。

 夢の中であるがゆえに、誰かの助けも期待できない。

 遭遇してしまえばほとんど詰み、と言っても過言ではないのだ。


 時雨が凍り付いている間にも、その猿たちは一切の躊躇いもなく前方の人に近寄っていく。座る男性は一切抵抗することも、逃げることもしないまま虚ろな瞳をどこかに向けて、顔色の悪い様子でいる。

 否――逃げないのではなくて、逃げられない。

 咄嗟に立ち上がろうとした時雨も、まるで金縛りにでもあったかのようにその場から動けない。動かせるのは辛うじて顔を僅かに右左に向けるくらい。脊椎から神経回路が丸ごと抜き取られてしまったかのように、首より下に脳からの命令が届かなくなっている。

(……マズい、夢の中だからギターケースもない)

 寝る前に脚に立て掛けておいた大きなギターケースはどこにも見当たらなかった。

 ここが夢の中だからだろう、退魔道具の一切は持ち込めていない。完全に、今の時雨は丸腰同然の、俎上の魚と言っても差し支えなかった。

 猿の持つ刃物がいよいよその男性に触れそうになって、咄嗟に時雨は顔を背けた。

 ここから先は容易に想像がついて、故にそのような現場を直視しては精神に傷が入ってしまう。恐怖感や、血や死に対する忌避感に精神を曳き潰されてしまう。そう直感して目を逸らし、顔を背けた直後に、男の絶叫にも似た悲鳴が耳を貫いた。

「……ッ、」

 目を伏せて、冷や汗を頬に伝わせながら必死にその惨劇に耐える。

 ぐちゃぐちゃと聞こえてくる音はきっと腹を裂いている音だろう。

 時折、べちゃ、べちゃ、と何か水気のあるものが床に落ちるような音も聞こえてくる。

 腹に刃を入れられて、そのまま内臓を掻き出される光景が瞼の裏に鮮明に映った。きっとこの光景に間違いはなくて、瞼を僅かにでも持ち上げれば精神をむしばむ酷い有様が広がっていることだろう。やがて絶叫もだんだんと弱弱しくなって、やがて聞こえなくなる。息絶えたらしい。

 夢の中だというのに吐きそうになるほどの異臭が鼻腔を貫く。

 噎せ返るほどに血液の匂いが車内に充満している。

 きつく目を閉じ、気の狂いそうな悪臭をやり過ごすうち、肉を切り裂く音もやがて止んでいく。恐る恐る目を開ければ、血塗れの猿たちはすでに刃物を降ろしていた。

「……。」

 そして、先ほど男性がいたはずの場所には肉の破片がちらばっている。

 活けづくりというには粗末な出来だ。不思議なことに骨の類は消えていて、ただ先ほどの男性の一部であっただろう肉と臓器だけが、血の海のなかぽつりとあった。

『次は――……』

 先ほどあったアナウンスが、また同じ声で繰り返される。女性とも男性とも取れるような不安定な声音のそれは一切の慈悲など無く次の殺害方法を告げている。

『――抉りだし~、抉りだし~』

 そのアナウンスに従って、猿たちは次の標的の方へと歩き出した。

 前から二番目に座っていた女性。狙いが定められたというのに未だ無表情のままの彼女に、器具を持った猿たちは遠慮なく近寄っていく。

(……やっぱり、この次は俺か)

 見ずともこの先の未来は簡単に想像がつく。

 女性の目のそばに、スプーン状の器具が近づけられている。時雨が直視したのはそこまでで、あとはもう視線を逸らして半ば無理やりに思考の海へと潜っていた。

 惨状を見ずに、その悲鳴を無理やり聞き流し、時雨は外の惨劇の情報が脳内に入ってこないように思考をフルスピードで巡らせる。ちょっとでも意識を外に向けてしまえばきっと精神を病んでしまうだろう。

(……ここは夢の中。怪異とはいえ……元を正せば、俺の意識で構築された世界のはず……)

 耳をつんざくほどの悲鳴も冷静に頭を通さず耳から耳へ受け流す。認識してしまえばこちらの心が壊されてしまう。

 未だ指先一つ動かない身体を見下ろして、時雨は焦ったように口元を歪ませた。

 夢というものは自分の意識の欠片の集合体。まして今のように、これが夢であると認識できている――明晰夢だというのなら、夢を制御下に置けないはずがない。一から十まで自分のものなのだから。

(それが出来ていないのは――……クソ、怪異に……!)

 夢は意識の塊。

 記憶の闇鍋。欠片の集合体。ここまで記録した知識のパッチワーク。

 そして、意識や記憶というものは須らく魂である霊的粒子に宿っている。

 つまるところ、夢というものは自分の魂の霊的粒子で構成された非現実世界。この血塗れの風景も、死んでいく乗客も、この惨状を引き起こしている小人のような車掌の猿たちも、根本的には泡沫時雨の魂の霊的粒子から生まれている存在だ。

 明晰夢であれば夢が操作できるというのはつまりこういうこと。

 無自覚ならともかくとして、自覚があるのなら自分の霊的粒子を制御できないはずがない。

 それができていないのは怪異側に霊的粒子の操作権が奪われているためだ。

(崩れろ……壊れろ、壊れろ、終われ……!)

 必死に自身の魂に言い聞かせてこの状況の打開を狙う。しかしどうやっても粒子に自身の意思を通すことは叶わず、こうしている間に女性の目は抉り取られてしまっている。

 これはどうやっても不可能だ。

(……ッ、落ち着け、ちゃんと考えろ! そもそもこの現象、呪いや穢れは何もない! ならこれは外部から呪われたとか、外からなにか干渉されてるわけじゃないだろ……!)

 だとすれば何だろうか。

 この状況に陥っているのは、どういう絡繰りだろう。

(粒子体の操作――意識の操作、いやそうじゃない、意識はちゃんとここにある! じゃあなんだ……そもそも猿夢って、怪異の分類で言うとどれに該当する……!?)

 瞳孔を開いて冷や汗を伝わせながら、動かない身体で必死に思考を回していく。

 三年後ならともかく、十三歳の時雨には圧倒的に場数を踏んだ経験値が足りない。焦りは思考回路の遅延を生み出して、それによってさらに焦りが積み重なっていく。悲鳴が聞こえなくなっている。もうじき自分の番なのだろう。制限時間付きの状況は、普段の優秀な頭を鈍らせるには十分なほどの負荷だった。

『次はー、挽肉ー、挽肉ー、』

 やがて死刑宣告のようにアナウンスが流れだす。

 次は時雨の番だ。

 逃げようにも依然として身体は指先すらも動かせない。

 半ば強制的に意識が外に向く。返り血塗れの猿四匹はこちらをじっと見据えていて、なにか機械のようなものを手にこちらに向かっている。

 あれが当たれば痛いでは済まないだろう。

 自分の中の筋肉が、内臓が、骨が、すべてぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて凄惨な肉塊に成り下がってしまう。おびただしい血の海の中で、激痛を味わいながら死んでいくのだろう。きっと、現実世界では心停止だとかそんな具合に。

(どうする……!? どうするどうするどうする!? 何か手は!? こんな、自分で自分の魂に食い殺されるみたいな――……)

 ウイーンと、高速でドリルか何かが回る音がする。

 それがもうすぐ目の前にある。

 もうその風が頬を撫でている。

 時雨はそれをただ見ていることしかできなくて、


(………………意識はちゃんとここにある?)


 そうして、その機械の先が肌に触れる寸前に。

 時雨はその一点に思い当たった。

「……ッ!」

 意識はちゃんと今の時雨の身体にある。

 少なくとも意識を構築する粒子たちで今の身体はできている。

 ということは――いまこの意識を構築する輪郭を明確に捉えられれば、目の前の怪異をどうにかできずとも、せめて身体の制御だけは取り戻せるはずだ。

(――周り全てが自分の霊的粒子に塗れていてぼやけていたけど……意識を構築する霊的粒子さえ知覚できれば、その一点だけを奪い返せば、あるいは――!)

 要領がよかったのか、あるいは追い詰められて発露した火事場の馬鹿力故か。

 それに思い当たってから僅か一秒も必要としないまま、時雨は全身の神経に電気信号を送るように、一点に集中してそのごく少量の粒子の存在を知覚した。

 そうして、弾かれるように。

 半ば無意識に、時雨は目の前の猿を思いっきり蹴り上げた。

『ギャ、――ッ!?』

「っ、よし……!」

 反撃を想定していなかった猿は回避も防御も出来ず、もろにその一撃を食らって向かいの壁に激突する。残りの三匹も時雨が動いたことに驚いて、一瞬動きを止めた。時雨はその隙を縫って、機械の間を勢いよく抜けて飛び退き距離を取る。

(やっぱり……霊的粒子すべてが奪われている訳じゃない……! この身体だけはまだ制御が効く!)

 十分に距離を取って、時雨は深く腰を落としていつでも動ける体勢で猿たちに向かい合う。蹴り飛ばした猿はまだ息絶えてはいなくて、もうじきまた動き出すだろう。ふー、と緩やかに息を吐いた時雨は、目の前のそれらを睨みながら周囲全てに警戒を広げる。

(……自分で自分の魂に食い殺される、か。そうだ――それが、多分表現としては一番正しい)

 じっと見据えたまま、思考は目の前の猿たち以上にこの怪異全体に向く。

 危機を脱して僅かながらに心に余裕が生まれたおかげで、意識せずとも勝手に脳はこの怪異に対しての考察を進めていた。

(だとすると、これは怪異と呼ぶかどうかすら怪しいな。これは――怪異というよりだろう)

 感染――そう、粒子の感染だ。

 猿夢には一切の外部からの干渉がない。

 全て自分の霊的粒子内で完結する異常現象だ。だとすれば、猿夢による死は言ってしまえば魂の自壊で、現実の肉体に置き換えればウイルス感染に近い。自分で自分の粒子を攻撃してしまっているから、あるいは自己免疫疾患のようだと言ってもいい。

 おそらくはなにか、どこか粒子の一欠片が異常をきたした、あるいは異常な粒子が混ざったことにより、魂を構成する霊的粒子の大部分がその粒子に侵されてこのような異常粒子になっているのだろう。

 だとするなら――……おそらく、目の前の猿を倒したところであまり意味はないだろう。叩くとするならば、

(感染源……粒子に異常をきたしている起点を叩くしかない。となればおそらく……電車の中だし、運転手ってところか)

 影になるように半身を後ろに下がらせて、時雨はその腕を反対の腕で掴む。

 これからするのは、正気の沙汰ではないと自分でも思う。

 それでも流石に、武器も何もない丸腰同然の状態でこの状況を脱せると思えるほど、時雨は思い上がってはいなかった。

「……理論上は、可能だろ」

 自分が今しがた制御下に置いた正常粒子の輪郭をはっきりと認識する。

 ぎゅうと、それを右手で握りしめる。

 現実世界では不可能であるが、ここは夢の中。自身の身体を構築しているのはそのすべてがタンパク質ではなく粒子体。その集合であるというのなら、もとより輪郭などあってないようなもの。

 武器が無いのなら――ここで、武器を作ってしまえばいい。

「――ッ、」

 そうして時雨は、

 瞬間、どこか心に痛みが走る。

 いや、痛みではない。どちらかと言えば喪失感、何かが欠けたような感覚。考えてみれば当然で、今の時雨の所業はある意味魂の一部を引き裂いたと言っても過言ではない。今この瞬間より、この刀に含まれる霊的粒子は記憶の培地という役割を失って、武器としての存在になったのだから。

 それでも自分で自分に殺されるよりもよっぽどましだ。

 即席の刀は、それでも自分自身から作られたせいか酷く手に馴染む。片腕を失っていつもより重心がズレたが、こればかりは動いているうちに修正するしかない。悍ましい機械を携えてこちらに向かってくる猿たちを全員視界に収めた時雨は、片手の刀を構えて駆け出した。

「っ――!」

 あちらも並外れた身体能力をしている訳ではない。

 刀を持つ時雨であれば充分に対応可能な範囲。

 なにより、その姿形が人に近いのも幸いした。泡沫時雨に叩き込まれた剣術は言ってしまえば人型の敵に対応した剣技であり、目の前の彼らはそれに逸脱しない姿を取っている。故に時雨は一切の迷いなくその剣先を振り抜き、うち一匹の首を綺麗に切断した。

「あッ――ぶな……!」

 息を吐く暇もなく、時雨は振り抜いた切っ先でほかの猿が向けた鋭利な機械を弾いた。そのままの勢いで身体を低くしてスライディングし、彼らの間を瞬く間に抜ける。全員倒してもよかったが、それよりも前方車両の運転手を狙うのを優先した方がいい。そう判断した時雨は、首を落とした一匹が動かないのを一瞬で確認した後、一度も立ち止まることなく一目散に前方へと駆けていった。

 目玉や肉の破片が散らばっている。

 血の海のせいで靴はとうに汚れてしまった。

 惨劇の跡は依然としてくっきりと残っていて、その異常さが的確に時雨の精神を刺していく。それでも足は竦まず、時雨は躊躇うことなく二号車に飛び込んだ。

「っ、やっぱりか……!」

 予想通り、二号車も酷い有様だった。

 壁面どころか天井すらも所々血で汚れている。

 そこら中に肉塊が散っていて、シートはそのすべてが赤黒く染まって座れる場所などありはしない。不出来な料理の真似事をされた人間だったものが無数に転がっていて、一瞬時雨はその悍ましい光景に思考が奪われてしまう。

 その一瞬の硬直のせいで、時雨の背後に猿の持つ機械が迫る。間一髪で気づいた時雨は横に飛びのくことで回避して、そのまま片手で刀をまっすぐに投げて猿の脳天に刃を刺し穿った。そのまま横長のシートに勢いよく倒れこんで、右手だけでくるりと体勢を整える。着地と同時に、もう一体の猿が先ほど仕留めた個体の上を踏むようにしてこちらに向かってくる。それを見据えた時雨は、右手で何かを引き寄せるような仕草をして――それと同時に、死体の頭に刺さっていた刀がひとりでに宙を舞った。

『ギ、』

 その軌道上にいた猿の片腕が、勢いのまま飛ぶ刃に切断される。ガシャンッ!と大きな音を立てて機械は床に落ちて、それに巻き込まれるようにして猿の脚が負傷した。

 飛んできたその刀の柄を掴んだ時雨は、冷静に一足で踏み込んでその猿の心臓を刀で貫く。一息でその命を仕留めて、刀を引き抜いて再度脚を動かし出した。

 先ほどの技はなんてことない、ただの粒子操作の延長だ。

 夢の中だからこそできる変則技。刀に変わったとはいえもとは自分の魂なのだから、制御下にある状態なら引き寄せることくらいわけなかった。

 二号車の惨憺たる光景を、努めて冷静な頭でいなす。

 鼻を突く錆びた香りはそれだけで気が狂いそうになる。

 このような光景、まともに直視すればそれだけで精神が軋みを上げる。

 故に時雨は、戦闘の事だけを頭に置いてそれ以外のことは可能な限り思考回路で処理しないようにしていた。こんな凄惨な光景を直に見て心に傷を負わないほどの精神的強さは、今の時雨にはない。

 血を踏みしめて、二号車を駆け抜けていく。

 転がる肉塊がどういう調理名なのかは知らない。知りたくもない。

 ぐらぐらする頭を押さえながら時雨は最速で次の車両に向かっていく。血に塗れた窓の向こうで地下線路の壁面照明が規則正しく流れていっている。その光が鮮血のカラーフィルムで赤く染まっていて、一層不気味な空間を作り出していた。

 連結部の扉を勢いよく開けて、そのまま一号車に辿り着いた。

 やはりここも二号車と同じ、惨劇の跡が酷く明確に残っている。

「……ぅ、」

 いよいよもって身体が、それ以上に心が限界に近い。

 こみ上げてきた吐き気を噛み殺して、時雨は酷く辛そうな顔をしたまま電車の中を走っていく。踏みしめるたびに血が跳ね返って制服の裾が汚れていく。片腕のない状態は思ったよりも不自由で、上手くバランスが取れないような錯覚さえ覚えるほど。

(キツい……苦しい、見たくない……)

 猿とはいえ、怪異とはいえ、人型のものを斬るのに何の抵抗もないわけもない。

 それでもできなければ自分が死ぬ。

 こんな光景なんて見たくなくて、蹲って目も耳も塞いでやり過ごしていたい。

 そうしていてもなにも解決できないまま結局は死ぬ。

 それを全部承知の上だから、時雨は心が軋んでいくのも知った上で駆けた。

 背後から機械の稼働する音がする。振り向く気はなく、でも音だけできっと己の身体を粉砕して余りあるほどの威力の何かであることは容易に分かった。

「――……っ」

 背後の猿はこれまでの個体より移動速度が速い。

 音でそれを素早く察知した時雨は、その個体が自分の間合いに入ってくるのを的確に見計らって、振り向きざまにその鋭利な機械を、刀でかち上げるようにして弾き飛ばした。

 刃の広いドリルのようなその機械。あるいは鋭利な扇風機のようなそれは、少し知識がある人が見れば肉挽き機の一部分であるとすぐに気づくだろう。弾き上げられて天井に刺さったその刃には浸み込むような形で赤黒く変色しきっている。アレに当たれば一発で肉も骨も一緒くたに挽かれてしまうだろう。

 かち上げられた反動で身体が開いたその猿に、時雨は振り向きの遠心力をのせて勢いよく蹴り上げる。そのまま身体をねじって横に吹っ飛ばすように再度蹴りを入れた。

 ちょうど、窓ガラスに当たるように。

 勢いをつけて吹っ飛ばされた猿はそのまま電車の窓ガラスを突き破って、暗い暗い窓外に吹き飛ばされて見えなくなった。

「……、ふー……」

 血だまりの中で、一瞬で決められた攻防戦。着地の際に勢いよく血が跳ねて、時雨の頬にも少しかかっている。それを拭う余裕もなく、時雨はすぐ前に見えている運転室のドアに向かっていった。

 この先にいるなにかを仕留めないことにはこの悪夢は終わらない。

 否、仕留めたとしても終わらない可能性もある。

(けど……あるいは、)

 その感染源を叩いて、その輪郭さえつかめれば。それを抑え込めれば、隔離できれば、分離できれば。

 そう幾多の考えが脳裏によぎって、右手に持つ刀を最後に一度見下ろした。

 粒子でできたこれは、あるいはいま時雨が脳内で思い描くようなことも可能かもしれない。そう信じて、時雨は最後にその運転席へのドアを思いっきり蹴破った。

『――!』

「……悪いな。お前も俺の一部なんだろうが、居られたら困る」

 操縦席に座るその運転手の格好の猿は、心底驚いたような表情でこちらを見ている。レバーを握るその手には何の武器もなく、故に時雨に対して一切の反撃も出来ない。それを目視で確認した時雨は、右手に持つ柄を一瞬で握り直して、そうして一切の躊躇いなくその心臓を貫いた。

(……ッ、まだ……!)

 貫いた瞬間、ぐらりと視界が歪む。

 立っている足場が急に無くなったかのように、ぐらりと身体が揺れる。

 視界の端から急速に景色が消えていって、多分これが夢の終わり。

 それはこの悪夢からの脱出を意味し――それでも、泡沫時雨はこの決着に満足はしていなかった。

 この感染源の粒子がある限りまた再発する可能性がある。

 故に時雨は、

「変われ――……っ、これを捕らえる檻に……ッ!」

 確信も確証もない、できるかどうかすらわからない荒業。

 それでも、腕から刀に変化したのだからきっとこれも可能なはずだと、そう信じて時雨は突き刺した刀の輪郭を知覚する。

 このような感染源を魂内に置いてはおけない。となればやるべきは一つで、その粒子を魂から引き裂かないといけない。魂を構成する物質たる霊的粒子を裂くなど正気の沙汰ではないけれど、それでも時雨は覚悟を決めてその異常粒子を檻で閉じ込めようとした。

 閉じ込めたところでどうするのか、というのは今の時雨では理屈は全然思いつかない。それでも、ただやってみせるという気概ひとつで、時雨はその異常粒子を

 そして、その時雨の目論見は正しい。

 当時の泡沫時雨は、そしてその周囲の人間は知らないが、泡沫時雨の霊的粒子は特殊だった。魂の位置が不定であるゆえに、彼の霊的粒子は彼の身体から遊離しやすい。この戦法は間違いなく、泡沫時雨以外には取れない完勝の一手だ。

 間違いなく、猿夢にとって泡沫時雨は天敵に等しい。

 ただ無我夢中のその行為は、まごうことなきこの怪奇現象への最善手だった。

 

 刀は瞬く間にその輪郭を解き、そうして小さな檻のような形に変形する。その瞬間に運転手の風貌の猿はその檻にきつく閉じ込められ、やがてその輪郭すらも崩れ始めた。

 仄暗く赤い光を帯びたような粒子体。

 それがさらさらと檻の中を渦巻くのを確認したと同時、もう時雨は耐えきれなくなったようで、半ば強制的にその悪夢は終わりを告げたのだった。



 ◆



 知らない天井だった。

 目が覚めた時雨はぼんやりとその天井を見上げて、ここはどこだろうかと痛む頭を押さえながら起き上がる。畳の上に敷かれた布団の上に寝かせられていたようで、広い和室はどこか見覚えのある雰囲気だった。

「起きたか」

「……結々祢さん?」

 ふと、背後で声が声がかかって振り向いた。

 壁に背を預けて座っていた結々祢がこちらを向いている。どうやら時雨が起きるまで本でも読んで付き添ってくれていたようだった。ということはここは真宮邸の一室だろう。

 障子の向こうにはあまり光はない。夕方か、あるいは夜に差し掛かったくらいの頃だろうか。

「無事に起きたようで何よりだ。まさか部下にして数時間でこんな戦果を挙げて帰ってくるとは思いもしなかったよ」

「……俺、なんでここに?」

「順を追って話すか。まず先ほど、と言っても数時間前。地下鉄で意識を失って吐血している男子中学生が病院に搬送されたという話を甲斐から聞いてな。甲斐はわかるか? 総合病院の精神科医の一人だ」

「……それが俺だったと」

「ああ。甲斐の話から泡沫君だとわかったから、うちに送ってもらった。君は刀を持っていたから、どのみち記憶処理等々こっちがやらないといけなかったからな」

「それは……すみません。ギターケースの認識処理、甘かったですか?」

「いいや、問題になったのはそっちじゃない。

 え、と時雨は驚いた顔で結々祢を見る。

 刀を手にして戦ったのは夢の中だ。現実ではギターケース内の刀以外は所持していない。そんな彼の反応にふっと笑った結々祢は、立ち上がって室内のローテーブルの上に置かれてあった刀を手に取る。

 見覚えのない刀だ。

 赤い柄に、黒の鞘があつらえている立派な刀。それでも時雨は心のどこかでそれに見覚えがあると直感していた。

 結々祢はそれを、時雨に渡してこう告げた。

「それが君の持っていた刀。信じがたいが……それは君の魂の一部。君の霊的粒子が分離してできた存在だ。君が起きるまで暇だったからな、多少は加工して使いやすくしておいた」

 見た目に反して軽いその刀。

 ほとんど持った感じもしないそれ。

 それでも彼の魂に馴染む武器は、間違いなく夢の中で振るったもの。

 まさか――本当に、魂を切り離せるとは。

「ということは……まさか、」

「ああ、そのまさかだ。君は刀と一緒に、微量の霊的粒子を捕獲していた。それが猿夢――他の粒子体に感染して魂の異常動作を引き起こす、ウイルスみたいなものだ」

 そう言って次に結々祢が手に取ったのは小さなビン。中には何も入ってはいないように見えて、目を凝らせば僅かに仄暗く赤い光が見え隠れしていた。

「君の体質はちょっと特殊なのかもしれないな。普通はこうも簡単に魂を分離できたりしない。幽体離脱のようなものならまだわかるが、これは魂を引き裂くような所業だぞ」

「そう、ですか」

「……まあ、難しい話はあとにしよう。君の戦果だが……何、君が思っているよりでかいぞ? なにせこれのおかげで実質的に猿夢の完全討伐と言っても過言じゃない」

「……は?」

 想像もしていなかった言葉に、思わず時雨は呆けた声を上げた。

 猿夢からの脱出、ならまだわかるが、完全討伐とはどういうことだ?

「これまでは生還者の少なさから情報が足りなかったが、君の持ち帰ったこれのおかげで大方結論が出た。これは人間の魂の霊的粒子の中で全人類に共通する基礎粒子の一部分、それが変異したものだ。あー……わかりやすくDNAでいうと、人間が持つDNAの中で、全人類が共通する塩基配列みたいなものだ。君は知っているか? 君と私は99%以上、同じDNAでできている話」

「ああ……なんとなくは?」

「ならいいか。猿夢は、その魂の共通部分が一部この変異粒子に置き換わってしまって、そこからほかの粒子が侵食されることで発症する。ある種、この粒子に感染するともいえるし、この粒子から他の粒子に感染するともいえる。これは怪異ではなく怪奇現象、『粒子感染現象』とでもいうべきものだ」

「……やっぱりですか。この現象、呪いや穢れはありませんでした。やはり……自分で自分を食い殺しているに等しい」

「そうだ。そしてこの粒子の感染場所が人類の魂の共通部分であるがゆえに、誰にでもこの現象が起こる可能性があった。致死率の高い病気だよ、これは」

 そして、と結々祢は言葉を続けていく。

「そういうわけだから、対策をしようにもなんのサンプルもない。普通はそもそも猿夢から生還できないし、魂の霊的粒子を取り出すこともできない。……そこに、君がこうして感染源の粒子を持って帰ってきたというわけだ」

 そう言って、結々祢は指先でその小瓶をコンコンと叩いた。

 中には結々祢が先ほど言うところの変異粒子が入っている。結々祢の口ぶりから察するに、これは喉から手が出るほどにほしかったものなのだろう。

「これがあるなら対策が打てる。

 ――泡沫君は、天然痘の撲滅を知ってるか? あれと同じことだ」

「……無害に近い同じようなものを先に感染させるってことですか?」

 そういうことだ、飲み込みが早いな、と結々祢は満足そうに口角を上げた。

「これを増幅させてコピーを大量に作り、それを少し改良することで無害版猿夢粒子を作る。PCR法は知ってるか? イメージとしてはあんな感じだ。なにせ君が鋳型を持って来てくれたからな、あとは真宮の地下工房に保管しておいた魂魄粒子を材料にして作るだけ、簡単な工程だ。ワクチンみたいなものさ」

「……でもそれ、防げるんですか? 霊的粒子に免疫機構なんてないですよね?」

 時雨は脳内で結々祢の説明のイメージ図を思い浮かべていたが、ふと疑問に思って首をひねる。そもそもワクチンは人の免疫機構ありきの予防法だ。人の身体ならともかくとして、霊的粒子にその方法が使えるとは思えない。

 ああ、と結々祢は少し訂正する。

「ワクチンだとちょっと違うな。イメージとしては酵素阻害みたいなものか? 要はこの猿夢粒子がはめ込まれる部分に、先に無害版猿夢粒子をはめ込んでおくことで、“もう猿夢に罹っている”という状態にするんだ」

 そうすれば猿夢に罹る余地はもうない。

 精々電車に揺られる夢をよく見る、程度で済むと結々祢は語った。

 とはいえこのような解決事例を初めて見た時雨はまだ半信半疑の様子を隠し切れない。これで本当に完全討伐なのか、と首をかしげている。

「……信じきれないか?」

「……理屈はまあわかりましたけど……それで本当に猿夢が起こらなくなるんですか?」

「当然だ。これは粒子だけじゃなくて、呪いでも同種のことができる。――その最たる例が、他ならぬ君だ」

 そう言って、ピッと結々祢は時雨を指差した。

 目を瞬かせて驚く時雨。そんなこと、一つだって思い当たるものはないが。

 そうして――時雨は、この先の結々祢の言葉を、頭に通そうとして。


「君は――三年前に、八尺に呪われただろう。

「これは君の魂の奥深くに掛けられた呪い。八尺の情報を認識できなくなるの、解呪不可の強力な呪いだ」

「そして、ここが重要だが……呪いというものは、被呪対象がさらに強力な呪いに掛かっていた場合、その呪いは成立しない。弾かれるんだ、呪いによってな」

「八尺は……本当に、何を考えている奴なのかは知らないが。どうやら奴は、君の命を呪いで守っているらしい。魂の深層に掛けられた呪いだから肉体の微細な呪いは防げないが、魂に干渉する類の呪いはほぼ奴の呪いで防がれている」

「……泡沫君? ああ……これもダメか。まったく、難儀な呪いだな」


 ……結々祢の言う言葉が全然認識できなくなって、恐らくあのお姉さんのことを言っているのだと時雨はなんとなく理解した。

 あの日、あの夜にお姉さんは時雨に認識阻害の呪いだけを残して去った。直前で呪いがどうとかいう話をしていたから、恐らくはそれ関連のことだろう。

 時雨にこの情報すら伝えられないことを悟って諦めた結々祢は、肩を竦めて溜息を吐く。面倒なものだ。

「……まあ、これを伝えてどうというわけでもないからな、いいか。むしろ泡沫君が躍起になって無茶しかねん」

「……? 重要なことですか?」

「構わん。忘れろ。まあそういうわけで、君のおかげで猿夢は完全討伐といっていい。あと数週間もすれば、猿夢感染者は完全になくなるだろう」

 もうこの異常現象が起きることもなくなる。

 当の本人の時雨はまだあまり実感が無いが、結々祢や真宮の人にとっては奇跡にも等しいことだろう。現に今の結々祢は普段と比べて少し高揚しているような印象も受けた。

 詳しいことはわからないが、……まあ、結々祢が言うのならそうなのだろう。時雨はそう納得して、そして恐る恐る布団から出て立ち上がった。

「……身体に不調は?」

「いえ……特には。大丈夫そうです。」

「よし。今日はもう遅い、ここに泊まっていけ。夕飯はここに運ばせる」

「……ありがとうございます」

 そういって結々祢が部屋を出ようとして――そして、何か思い出したかのようにぴたりとその足が止まった。

「……泡沫君」

「? はい」

「……記憶の欠落は知覚できるか?」

 ……?

 それは、どういうことだろう? と時雨は意図を理解しきれずに首を傾げた。

「君はさっき、刀を自分の魂から分離して切り離した。当然魂の総量は減っている。

 どうだ、と結々祢は真剣な声音を時雨に投げた。

 それを受けて、……ようやく時雨は心のどこかに風穴があいている様な、不思議な感覚に気が付いた。

 何か、何かが欠落した。何かを忘れている。でも、それが何なのかはわからない。忘れてしまったものが何なのか、忘れた後ではわかるはずもない。

 それをそのまま伝えると、結々祢は少し辛そうに顔を歪めて、そのまま顔を背けるように障子の方を向いた。

「……それを刀として使う分にはいいが、弓や銃として使うときは気をつけろ。矢や銃弾は本物を使え。君のその体質を考えればおそらく――粒子の矢や弾丸を使えば、その補充には使。それだけで君の魂の総量が減るだろう。使えば使うだけ、君のこれまでの記憶が失われると思った方がいい」

 よく考えて使えよ、と言い聞かせるようにして、そうして結々祢は障子を引いて部屋を後にした。


 しんとした部屋に一人、綺麗な畳の上。

 きっと一人で寝泊まりするには少し広すぎる。

 時雨は、先ほど結々祢から手渡された刀を見下ろして――ゆっくりと、優しい手つきでその刃を鞘から抜いた。

 光源も少ないのに、それでもその刃は鋭く煌めいている。

「……俺の魂の一部分、か」

 自分の魂から分離した、さっきまで自分の魂だったそれ。

 きっとなにかの記憶を保持していたはずの部分。

 それが重要なものなのか、そうでないのか、特別なものなのか、日常のどこかだったのか、それすらもわからないまま、ただ心に空いた風穴だけが記憶の欠落を指し示している。

 いったい自分が何の記憶と引き換えに、この武器を手にしたのか。

 それがわからないことだけが、少しだけさびしく思えた。



 ◇



「――とまあ、こういう経緯で俺はこの刀を手にしたって感じだ」

「はぇ……時雨さま、すごく……無茶をされますね」

「……これも無茶してるように見えるのか……」

「当然です! 魂を裂くだなんて、普通の人は思いついてもやりません!」

 そうかな……とバツの悪そうな様子で頬を掻く時雨に、そうです! と半ば怒るような勢いで繰り返す茉奈。

 麗らかな日差しの元、時雨と茉奈は二人で舗装もされていない道を歩きながら軽く談笑していた。ふと茉奈が時雨の所有する刀について尋ねたのがきっかけで、時雨はぽつぽつと三年前の出来事を語っていって今に至る。

「でも今の話で合点がいきました。猿夢だなんてどう討伐したのかと思っていましたが、これなら時雨さまが第五席を下したと言ってもおかしくないですね」

「いやそれ本当に不本意なんだが。結々祢さんのおかげだろこれほとんど」

「時雨さまがいなかったら、今だってきっと猿夢の脅威に晒されていたんですよ? そう考えれば時雨さまの功績は大きいどころじゃないですよ」

 そうかな……と納得してない様子の時雨と、そうです!と肯定する茉奈。第三者がいたなら、さっきと同じような反応してると笑っていたことだろう。

 手持無沙汰に時雨は肩にかけているギターケースをかけ直す。ある程度賞賛の言葉は慣れてはいるが、こうも小さな女の子に羨望の眼差しを向けられるとむず痒くて仕方がない。こんな未熟な頃の話を褒められるのも複雑ではあるし。

「……でも時雨さま。その刀、やっぱりあまり使わないでほしいです」

「まあそうだな、俺も記憶喪失にはなりたくないし。緊急時にしか抜刀しないつもりだから安心してくれ」

「む。でもこの間の以津真天の討伐の際には抜いたのですよね?」

「あれはれっきとした緊急時だったから……体内粒子は消費してないし……」

「むー……」

 疑いと心配の混じった視線を向ける茉奈に、ちょっと気まずそうに目を逸らす時雨。なにもやましいことはないのだが、それはそれとしてこの小さな同僚に責められると時雨は何も言い返せなくなることがままあった。

 軽い空気のまま、時雨と茉奈は二人でてくてくと歩みを進めていく。

 彼らの周りにはまるで雨のように桜の花びらが舞っていて、見上げる空は麗らかな春の青空と柔らかな雲が浮かんでいる。まるで桃源郷のような雰囲気の、おおよそ九月とは思えない景色の中を、二人は歩いていた。

 本日の日付は9月21日。

 以津真天討伐の翌日の事。

 時雨と茉奈は、結々祢から直々の命を受けて、こうしてここまで二人で来ていた。


「……お屋敷、遠いですね」

「ああ。流石に茉奈一人で行かせるわけにもいかないな、これは」


 二人が目指すのはある和風屋敷。

 時雨だけではなく茉奈が必要だと判断された異常案件。

 ――名を、『枝垂れ桜の異界屋敷』。

 曰く極楽であると口を揃えて言われるその場所に、二人は足を運んでいる。



 粒子感染現象 / 終

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