第4話 終 死体の雨 500年前の幻影

「――……ッ、優里菜さん、ちゃんと掴まっててください落ちる気ですか!?」

「あら。これくらいじゃ落ちないわよ、――右、避けて!」

 優里菜の鋭い一声に、半ば脊髄反射的に進路を変える。

 その瞬間に、何か粘性の物体がさっきまで自分たちのいた空間に襲い掛かっていた。おそらくは霊的粒子で構成された幽霊のような何か、言ってしまえばもう残留思念のような、もう個人としての形も保っていられないような成れの果てだろう。

 それでも絡め捕られれば些か面倒になる。

 鳥が飛んでいった下に、いくつものこの幽霊のような歪な怪異が残存していて、恐らくはあの怪鳥の周りに纏わりついているものが零れたものだろう。立つ鳥跡を濁さずって言葉を知らないのか、と時雨は呆れたようにぼやいた。

「あらあら、これは事後処理が面倒そうね」

「本当ですよ全く! っと次あのビルに飛び移ります、舌噛まないように口閉じててくださいね!」

 そう言うが否や、時雨は勢いよく跳躍した。

 まもなく呰見西区を抜けて中央区に差し掛かる。これまで住宅街で一軒家が立ち並んでおり、優里菜を抱えた時雨はその屋根伝いに一直線に空を駆けていた。優里菜の暗示によるリミッターの解除と符による身体能力のブーストで、普段の何倍もの速度で屋根の上を走りながら飛び移る、常人ならできないだろう荒業で一切立ち止まることなく総合病院を目指している。

 人に見られれば奇異の目で見られること間違いなしの光景だが、この緊急事態にそうも言っていられない。幸いにもこのレベルの大規模怪異案件になれば、ほぼ確実に街全体に記憶処理が施されるだろう。人除けを使わなくて済むのはありがたかった。

 中央区に近くなると高層ビルも多くなってくる。

 一軒家の屋根を蹴り高く飛んだ時雨は、そのまま空いた片手をギターケースのポケットに突っ込んで符の束を取り出す。重りの付いた紐でひとまとめに縛られているそれを、紐の片端を持って投げるように放り出せばあっという間に大量の符が空中に広がって、瞬く間にその符の間に淡い光が通りだした。まるで伸縮性のある縄のようなもので、六月に心霊空間で見せたのと同種の技だ。その先端がビルの外壁に張り付いて、半ば引っ張られるようにそのコンクリートの壁に着地した。

「わあ。ここから落ちたらひとたまりもないわね」

「70mはありますからね、踏み外したら即死ですよ」

「ふふ。時雨さん、この高さで戦える?」

「俺一人なら、問題ありません」

 着地と同時、一秒の息継ぎもなく次のビルの外壁へと飛び移る。

 まるでビルを足場にして飛行しているかのようだ。時雨の言っている通り一度でも踏み外せば助からない高度、眼下に見える自動車も小指の爪程度の大きさにしか見えない。時雨は僅かながらに慣れているところもあるが、優里菜も一切恐怖感を抱いていないのは少し意外だ、と考えて彼女は怪異の一員なのだということを思い出す。今の優里菜は力を再度隠しきっていて、時雨の認識阻害にも引っ掛からない状態になっていた。そのせいか頭ではわかっていても、感覚的にただのか弱い少女であるような認識が抜けなかった。

 高速でビルの間を駆け抜けているおかげか、先ほどのような粘性の怪異はみられなかった。おそらく眼下の幹線道路に落ちているのだろうが、70mも上空にいる時雨たちには届きようもない。

「もうすぐ――……もうすぐで見えるはず……ッ!」

 しなやかにその大量の符を操りながら、一切の迷いなく最速で次の足場を決めて飛ぶ。およそ人間業ではないそれを繰り返して、立ち並ぶガラス張りの建造物の間を縫って飛んで、そうしてひときわ高いビルの屋上で足を止めた。

「――……」

「……そう。ちょっと遅かったのね」

 それは堅洲川を挟んで向こう側に総合病院が見えるビル。

 おそらく病院まであと数キロくらいで、今の時雨の脚ならすぐに着く距離。

 見下ろせばその屋上が見えていて、そこにはおよそ鳥というには巨大な怪異の姿と、そして――

「……朱梨……?」

「……。時雨さん。行きましょ、優勢とは言い難いみたいよ」

 目の良い時雨には見えていた。

 彼女が何か――……黒い腕のようなものを使役して戦っている姿を。

 次々と放たれる攻撃が、呪いの形をしているのを。

 そんな戦い方をする朱梨を時雨は知らない。優勢とまではいかずとも、以津真天相手に拮抗するほどの力を振るっている朱梨の姿を時雨は見たことはなくて、しかもあの力は、あの呪いの奔流はどう見ても――……

「ッ、いっ……!」

「……? 時雨さん、どうしたの?」

「い、いいえ……ッ! 少し、古傷が痛んだだけです、問題ありません……!」

 ずきりと痛む脇腹を咄嗟に押さえる。

 以前から結々祢に言われていた、『リョウメンスクナ』と接触すればアナフィラキシーショックが起きかねないというやつだろうか。ならつまりもう、神代朱梨はまごうことなく、と考えそうになった頭を振り払う。今考えるべきことはそれじゃないはずだ。

「……。」

 一瞬時雨が呆気に取られていた隙に、背後に忍び寄るぐずぐずの姿の幽霊を、優里菜は一切の言霊もなくただ指をすっと滑らせることで瞬く間に消し去った。

 その様子に気が付いた時雨だったが、あまり気には留められなかった。軽く礼の言葉だけ呟いて、時雨は半ば突き動かされるように走り出す。やるべきなのはこの屋上から飛び降りて、一直線にあの病院に向かうことだけだ。

 そうして、時雨はまるで道が続いているかのように、一切躊躇うことなくその屋上から飛び降りた。

「――……時雨さん、次出力上げて!」

「ッ、間に合いませんか!?」

「朱梨さん、あと少しで飛び降りる気よ! この距離ならギリギリ受け止められるかも!」

 その言葉を聞いた途端に、時雨は縄代わりにしていた符の半分を解いて瞬時に脚に換装する。残った縄でそばのビルの外壁に一度足をついて、そのまま全力で外壁を蹴った。

 ぶわ、と凄まじい風圧を感じながら空気を切り裂く。さっき蹴ったコンクリートの外壁には罅が入っていた。そのまま、もうあとは縄も必要ない。さっき以上に高速の状況判断が求められるほどの速さで、最小の足場だけ踏みしめて一気に距離を詰めた。

 もうあとは川を越えるだけ、のところで凄まじい呪いの余波を浴びて、咄嗟に符の全てを防御に回す。反射的に橋の街灯の上に着地した時雨は、げほっと咳き込みながら目の前の病棟に目を向けて、

「――……」

 そうして。

 第二精神病棟の屋上の柵の上に立つ、神代朱梨の後ろ姿を目にした。

「――優里菜さん、ブーストの重ね掛けしてもらっていいですか!?」

「あらいいの? 身体、壊れちゃうわよ?」

「構いません、壊れた端から治します! ここから一足飛びでたどり着けるだけの火力をください!」

 そう、と面白そうに笑う優里菜。彼女の思った以上に覚悟を決めている様子が愉快だったのだろうか。そのまま優里菜は彼の耳元に口を近づけて、

『“きみはもっと早く走れる。きみはもっと早く飛べる”』

 そう、もはや命令口調ですらない断定の言葉で強力な暗示をかけた。

 ――……カチリ、と頭の中で何かが切り替わった感覚がする。

 そのまま、漠然と湧き上がる“できる”という感覚に従って、時雨は自身の身体の自壊も厭わずに、ただあの病棟に辿り着くことだけを考えて、力いっぱいに、その街灯が拉げるほどの威力で前方に跳躍した。

「ッ……!」

 足が砕けた感覚がした。それは気付かないふりをした。空中を切り裂いて飛んでいるのだから、この一瞬足が使えなくても何ら問題はない。換装した符の一部を瞬時に治癒に置き換えて回転させて、砕けた端から治していく。要はあの病棟に着くまでに着地できる程度に治っていればそれでいい……!

 そうして目の前で朱梨がゆらりと後ろに倒れていく。

 十階建ての病棟から飛び降りるなど自殺と同義。

 もうあとは重力に身を任せて地に引っ張られていく。この距離は間に合うかどうか五分五分だ。やけにゆっくりとした速度で流れていくその光景から目を離さないまま、絶対に間に合わせると信じるしかない。

 一切の悲観などない決死の覚悟の表情を浮かべているその落ちていく身体に手を伸ばして――


「――ッッは、何やってる馬鹿ッ!!!」


 そうして。

 時雨はすんでのところで、その軽い身体に手が届いた。

「――――、え」

 そう聞こえた声は、呆然としたような、愕然としたような、混乱したような、絶望したような、よくわからないぐちゃぐちゃの声音だった。時雨は朱梨のその表情を見る余裕はなくて、脚に装着してあった符を回してさっきのように紐状にして咄嗟に屋上の柵にまで括りつける。優里菜を抱えていた手を僅かに離してその紐を掴んで、そのまま治りかけの脚で壁を蹴って、引っ張り上げられるような形で屋上へと舞い上がった。

「さっきぶりね、朱梨さん。元気そうでよかったわ」

「……は、……ぁ、」

 時雨の腕の中で優里菜が顔を出して朱梨の顔を覗き込む。

 朱梨はただ凍り付いた表情のまま、信じられないものを見る目で時雨を見つめていた。

 それに時雨は気付かないまま、空中で翻る身体を制御して上手く体勢を整える最中に、屋上に佇む金色の女の子と、僅かに離れた空に羽ばたきこちらに向かう怪鳥の姿を目にした。

 おそらくは、あの少女が神代桜かと直感する。

「っ――このままじゃ以津真天に……! 優里菜さん!朱梨と一緒にあの女の子のところに行ってもらっていいですか!?」

「いいわよ、この高さなら着地できるわ。あなたは?」

「俺はこのまま以津真天との戦闘に入ります! できればこのまま補助を掛け続けてくれると嬉しいんですけど、」

「あら、それなら多分わたしより適任がいるわよ。……投げて!」

 その言葉と同時に、時雨は優里菜と朱梨を病棟の屋上へと放り出した。

 ひらり、と白い裾を翻して、優里菜は綺麗な体勢で空を切った。朱梨の方は未だ呆然とした様子ではあったが、それでも身体が勝手に着地の体勢になっていた。すた、と綺麗に足から着地した朱梨の隣に、ふわりと軽やかな仕草で足をつく優里菜。物理法則に逆らった着地の仕方だったが、詳しいことは朱梨にもわからない。とん、とサンダルの厚底でコンクリートを蹴って、優里菜は珍しく走って桜の方に駆け寄った。

「ゆり、」

「朱梨さん、あの手全部防御に回して!」

 優里菜の言葉に弾かれたように、朱梨は瞬時に己の左手で空を切る仕草をした。

 宙に伸びたままの黒の手たちは瞬く間に動き出して、天を突くそれらはすぐに防壁と化していく。ドーム状に桜を囲っていた黒の手もさらに強固に彼女を覆い始めた。

 優里菜はその腕の檻が閉ざされる一瞬前に、桜の方に手を伸ばして。

「悪いけれど、流石に神代家の当主様まで殺されたら困るわ。遠慮なく断ち切らせてもらうわよ」

 そうして、まるで両手で糸を切るかのような仕草をすると同時。

 檻の中の神代桜は、まるで命令系統が途切れたかのように、がくりとその身体から力が抜けて倒れ伏した。

 咄嗟に朱梨は黒の手で彼女の身体を受け止めて寝かせるが、十二歳の少女の身体にしてはやはり軽すぎる。それを歯噛みしながら実感した朱梨は、しかしこれ以上彼女にばかり注視していられないと思考を切り替えた。

 以津真天はいまだ健在だ。

 二重防壁は剥がしたとはいえ、あの飛行能力や怨嗟の類は依然として脅威。本当ならこんな腕の防壁も完全な防御とは言えなくて、あの高速の突撃を見舞われたら少なからずこちらにもダメージが跳ね返ってくる。

 怪鳥は空を踏みしめながら、異常な速度で飛んでいる。その軌道はまっすぐにこちらを捉えたまま、増えた獲物のそのすべてを砕くと言わんばかりに速度を上げてこちらに突っ込んできていた。桜だけを守るなら、黒い腕を動かして何とか受け流せるだろうけれど、腕に守られていない優里菜に当たるとどうしようもない。

 如何に――……この場に泡沫時雨がいたとしても、彼だろうと以津真天相手に、と思考が傾いた、次の瞬間。

 それはまさに、接敵と同時。


 ――まるで空間ごと切り裂かんばかりの斬撃が、怪鳥の身体に叩き込まれた。


「――――!!」

 それは異次元の速度で飛ぶ鳥の飛翔軌道を捻じ曲げるのに足るほどの威力。

 真横から撃たれたその衝撃を、以津真天は回避どころか察知することも出来ないままその身に受けた。

 朱梨の高出力の呪いとは別種の力。

 これは確実にダメージが入るもの。

 まごうことなく――以津真天にとって天敵の、退魔の斬撃。

 それを裏付けるかのように、これまで一度たりとも流れなかった赤黒い血が宙に舞っていた。

「――お前の相手は俺だ、以津真天。姿

 とん、と軽やかに柵の上に着地する、片手に薄刃の日本刀を携えた人影。

 踏ん張りの利かない空中であれだけの威力の一太刀を浴びせるなど、と怪鳥は信じられない様子でその人物の方へ顔を向けて、

『いつ、いつま――……』

 鳴き声が止まる。

 ずっと世界の裏側にいた以津真天は、当然この男を――泡沫時雨の姿など、一度だって見たことはない。

 それでも知っている。

 この気配は知っている。

 この魂の在り方を、以津真天はよく知っている……!


「――ああ、忘れてないようで安心した。お前にとっては因縁の相手だろう?」


 そう――かつて現世で『以津真天』が最後に討たれたときのあの景色。

 信仰があってなお、もう現世の空を飛べなくした元凶。

 以津真天という存在ごと、世界の裏側に閉じ込めたあの一族の末裔が目の前に立っている。

 それに気が付いた以津真天は、ようやく敵愾心のようなものをあらわにした。ここから先は狩りでも捕食でもない。自身の内にある恨みに突き動かされるように、初めてその鳥は殺意を持って翼を広げた。


 完全に怪鳥の敵意がこちらに向いたのを確認した時雨は、緩やかな仕草で刀の柄を持ち直して最後に一つ息を吐く。

 ここから先は完全に空中戦だ。

 翼を持たない人間には分が悪いフィールドだが、それでも時雨は構わない。手持ちのフルセットで十分戦えると踏んでいるし、彼の身体に掛けられた催眠ブーストの効果もまだもう少し持つだろう。

 所持する刀のうち、一振りは市街戦では使えない。

 しかしもう一振り――今手に持っているものとは別の、未だギターケースの中で眠る刀は、使用できる。

 それに――そもそも、時雨の胸中に敗北への恐れなどは一欠片も無い。

 目の前の怪異はかつて泡沫が退治した妖怪。

 時雨にとって、討たなければならない敵だ。

「来い。その首、今度こそ斬り落とす」

 その言葉と、以津真天の内に渦巻く膨大な穢れの発露は同時。

 時雨が軽やかに空中に飛び込んだのを皮切りに、戦いの火蓋は切られた。



 ◇



「ふっ――!」

 軌跡さえ見えないほどに早い刃が怪鳥を捉える。魔を切り裂くのに特化したその斬撃は的確に以津真天の翼に傷をつけ、ゆっくりと飛行能力を削ぎ落としていた。

 朱梨の高火力の呪いの砲撃により打ち砕かれた以津真天の二重防壁は、時間が経つにつれて修復されている。それに加えて、怪鳥は自身の内部に渦巻く穢れを高速で循環させて即席の防御壁を構築しているに等しかった。要はさっき朱梨がやっていたことを真似ている。

 それでも時雨の放つ斬撃は防げない。

 何層にも呪い穢れを塗り重ねても、あの刃は的確に鳥の身体を斬り裂いてくる。

「……っ!」

 咄嗟の悪寒に突き動かされるように、時雨はビルの外壁を蹴って宙を舞った。

 その瞬間に、ガラスの一面におびただしいほどの鮮血が広がる。それは時雨の血ではなく、凝縮された穢れの放出だった。

「チッ……アレ浴びたら流石にまずいな……!」

 以津真天が翼を羽ばたかせるたびに、まるで矢のように鮮血が飛び散っていく。それを空中で身体を捻って避けた時雨は、ビル間に張り巡らせた符の縄の足場に着地して空を駆けた。

 高度はゆうに100mを超えている。

 空を飛ぶ鳥を相手に、近距離武器を主体とする時雨の戦い方はあまりに不利で、本来であれば戦いを成立させることすらできなかっただろう。それを時雨は、自身の持つ符のほとんどすべてを空に撒いて足場を作り出すことで、無理やり相手のフィールドに乗り込んでいた。

 確固たる足場も少ない。

 踏ん張りの利かない空中が大半。

 墜落すれば即死の、死と隣り合わせの戦場に等しい。

「は――……それがどうした。さっきだって一回死んできたぞ」

 死と隣り合わせ程度では、泡沫時雨を竦ませることなどできない。落ちれば即死、踏み外せば即死、そうでなくても以津真天の羽ばたきによる風圧で墜落死。薄皮一枚隔てた先に死が迫っているというのに、時雨は――と、そのすべてを一蹴した。

 脚に換装した符が、魔法陣のようにくるりと回転してその出力を上げていく。

 淡く水色に光るそれは最高効率で時雨の霊力を身体能力のブーストに変換して、そうして時雨は跳躍ひとつで30m先の符の縄に飛び移った。

 無論その無防備な状態を、以津真天が狙わないはずがない。

 身体が空に浮いている状態の、回避のできない時雨に向かって以津真天は容赦なく穢れの鮮血と、黒ずんだ羽根を矢のように高速で飛ばしてきた。

「ッ、容赦ないな……!」

 回避不能故に時雨は防御するしかない。

 しかし符はその大半が足場に使用されていて、一部を換装しようにも手の届く位置にない。攻撃と補助に使用している符は解く訳にいかない。故に防御術式を構築するには符が足りず、時雨は咄嗟に背のギターケースに手を突っ込んだ。

 引っ張り出したのは500ml程度のペットボトル。

 ラベルは剥がされ、中には透明の水で満たされているそれを時雨は宙に投げて、そして刀で躊躇いなく真一文字に斬った。

 その瞬間、水は物理法則に反してぶわりと広がって膨張していく。それがまるで膜状に広がって、怪鳥の飛ばした穢れの鮮血が当たると瞬く間にそれを掻き消した。

 中に入っていたのは清めの水に清め塩を溶かした塩水。

 相手が飛ばす穢れが黒不浄なら、ただの清めの水より何倍も効く代物だ。

 それでも一緒に飛んでくる黒い羽根の矢は弾けず、時雨は身体に当たる軌道の羽根だけを返す一太刀ですべて弾き落とした。

 この攻防は僅か一秒かそこらの内に完結した。

 跳躍して滞空していたのは僅か二秒ほど、時速に直せば約50kmの速さで空を駆けていたに等しい。人の身であれば到底出せるはずもない速度だが、しかしこの速度では旋回する以津真天を捉えるにはまだ遅すぎる。

 小回りを捨てれば時速100㎞越えの速度で飛ぶことのできる怪鳥と、真っ向から速度比べをするのは無理だ。

 故に時雨はここまで一度たりとも立ち止まることなく空を駆けまわり、軌道が読めないほど縦横無尽に怪鳥の周りを飛び回っていた。

(一度逃げられれば俺じゃ追い付けない……! けど、以津真天は間違いなくこちらを追ってくるはず……!)

 なにせ500年ものの恨みだろう。

 何が何でもあの鳥は泡沫の一族を殺したくて仕方ないはずだ。実際それに間違いはなく、目の前の以津真天は冷静さが欠けたように執拗に時雨を追い回して攻撃を浴びせ続けている。

 時雨はすぐさま縄の弛みを利用して一足飛びにそばのビル壁に飛び移って、そうして脚に力を込めてその外壁を蹴る。弾丸のように一直線に空中を切って、空中を羽ばたく以津真天の巨体に肉薄した。

「ッ――!」

 多少の損傷は厭わない。

 以津真天ですら咄嗟に反応できないほどの速度で間合いに入った時雨は、そのまま逆袈裟にその怨嗟ごと斬り裂いた。

 耳をつんざくような叫び声。瞬く間にその怨嗟がまるで蚊柱のようにうごめいて、その下にあった皮膚をまるで紙でも斬るかのように、退魔の刃は酷く簡単に傷を残していた。

「ッ、また外した……ッ!」

 しかし彼の想定とはズレがある。

 本当であれば振り抜いた刃は羽根の付け根を捉えたはずで、その羽ごと斬り落とすはずだった。

 それができないのは以津真天の反射速度が速すぎるから。

 あるいは直感か何か働いているのか、と頭の片隅で訝しむ。目の前の怪鳥はすんでのところで急所を外すように、僅かに回避行動を取っていた。このままじりじりと押していけばやがて失血により弱らせはできるのだろうが、そうなると流石に時雨の体力にも限界がやってくるだろう。

 チッ、と鬱陶し気に舌打ちした時雨は、勢いのまま空中に翻る身体を無理やり捩って鳥の怨嗟を回避しつつ、ギターケースに手を突っ込む。やはりもう一本の刀も出すほかない。

 脚に纏わせていた身体強化の術式を切って一瞬で縄の術式に切り替えて、そのまま足を引っ張られるようにして近場のビルの屋上に着地した。

『いつまで、いつまで、いつまで――……』

 つんざくその鳴き声は一層激しく時雨の心身を刺す。

 朱梨はこの声を自身の体内の呪い穢れの循環で弾いたが、今の時雨には防御機構がない。耳栓でもすれば多少は変わるのだろうが、それによって音が聞こえなくなるのは流石に看過できなかった。故に、

「は――ごぼ、っ、」

 ぼたぼた、と多量の血がそのビルの屋上の床を汚していく。

 咳き込んで吐いたそれは吐しゃ物ではなく真っ赤な血で、明らかに尋常じゃない量が喉を逆流していた。思わず身体をくの字に歪めて胸を押さえるが、それを待ってくれる以津真天でもない。一瞬のうちに高く舞い上がった以津真天は、自身の出血すらも目に入っていないほどの無茶な動きで、纏う怨嗟を砲撃の雨のように降り注がせた。

「ッ――ひふみ、よいむなや――……」

 咄嗟に祝詞の一部分を口にして、即席の防御結界を張ってそれをしのぐ。

 しかしこのままだと力はほぼ互角だ。

 かくなる上は、と時雨はもう一本の刀を鞘からすらりと抜いて持ち替える。

 その刀は見た目は普通の日本刀で、柄だけが赤い柄紐で巻かれたそれは、滅多なことでは出さない特別製の刀だったが……愛用刀で勝負を決めきれないのなら仕方がない。

 このまま続けても互いに互いの決定打を入れられないまま延長戦にもつれ込む羽目になるだろう。せめて以津真天の飛行速度さえ落とせれば幾分かやりやすいが、如何せんあの鳥の羽に刃を通すのがこれほど難しいとは――……

「――え、」

 そう、時雨が歯噛みして頭上の以津真天を睨むと同時。

 怪鳥の羽ばたく空のその向こう、真っ青に広がった青空に、まるで雫を落としたかのように波紋が広がる。

 それは普通ではありえない光景で、そしてその力の奔流に時雨は見覚えがある。

 その空の波打ちとほぼ同時に、力の奔流は光に出力されて。

 ――一切の誤差もなく、雷のように怪鳥の翼を貫いた。



 ◇



「――っ、う……!」

 そのビリビリとした、稲妻じみた攻撃の余波は朱梨や優里菜のいる総合病院の屋上の方まで届いた。

 空気に電気が走っているかのようだ。

 時雨と以津真天の戦闘が始まって以降、桜があの怪鳥の狙いから完全に外れたおかげで病院内に連れ込めた。ひとまず特別隔離室のベッドに寝かせて再び屋上から時雨の戦闘を見つめていた朱梨は、その余波を浴びて咄嗟に身が縮こまる。

 この力は怪異に対しての天敵だ。

 堅洲川に手を突っ込んだ時と同種の力――神様の放つ神気によく似ている。

「っ……これ、葵さんか……!」

 すぐに呰見神社の巫女の存在に思い当たる。

 詳しい事情は知らないが呰見神社から出られないらしい彼女なら、このような遠隔型の攻撃術式を編んでいてもおかしくないだろう。遠くのビルの陰で見づらいが、この攻撃術式は寸分の狂いもなく以津真天を撃ち抜いたようで、遠目からでもわかるくらいに真っ黒な羽根が大量に散っている。

「……すごいわねえ時雨さん。人の身体であんなに激しく戦えるの、そうそういないんじゃないかしら」

「……………………………………優里菜、」

「……そう。朱梨さん、もう箍が外れちゃったのね」

「……」

「でもせっかく生き延びたんだもの。今やるべきこと、わかってるでしょう?」

 そう言って優里菜は、黒ずんでだらりと下がる朱梨の右腕に指先を伝わせた。

 ああ、とまるで上の空のような声音で応じるだけで、朱梨はじっとその戦闘から目を逸らさないまま。

 ビルの上に立つ時雨を、ずっと見つめている。

「……さて。時雨さん、どう決着をつけるのかしら」

「……どうあれ時雨が勝つ」

 ……朱梨は怪異と相対した時雨がどういうものなのか、もうよく知っている。

 知っているから、朱梨は時雨の前で一度たりとも正体を現すことをしなかった。

 遠く遠く、青い空を背景に立つ、時雨からずっと。

 朱梨は目を逸らせないまま、唇を嚙み締めている。



 ◇



「っ、葵さん……!」

 怪鳥を撃墜したその雷を見て一目で看破した時雨が、あの巫女の名を零す。

 それと同時に時雨のそばに一枚の紙切れが舞った。それは時雨の使う符とは違って、まるでヒトガタのような形に切られており、

『――ッとに馬鹿、どれだけ心配したと思ってるんですかッッ!!』

 時雨がそれを視認したと同時に、鼓膜が破れるかと錯覚するほどの大声が聞こえてきた。それは紛れもなく葵の声だったが、いつも静かな雰囲気を纏っている彼女とは思えないほどに激しい。とはいえ時雨にはこのように怒鳴られる心当たりは十分にあったので、うぐ、と気まずそうに目を逸らすしかできなかった。

「……すみません。でも大丈夫ですほら、ちゃんと生きてますし」

『そういう問題ではありません、危うくなったら撤退しろと言ったはずですよね!? あなたの生命反応が途切れたときどれだけ慌てたか……! そういうところまで氷雨さんに似ないでいいのに……ッ!』

「う、……その、お叱りもお説教もあとでちゃんと受けるので、ひとまず今は、」

『っ……はい。以津真天でしょう、補助は任せてください。今・度・こ・そ、無茶や無謀はしないように』

 その声音は今まで聞いた中で一番怖い声で、時雨は気圧されるように、はいと頷くしかできなかった。

 流石に何も言い返せない。

 これは以津真天討伐後もしばらく拘束されるな、と時雨は観念して、とりあえず今は目の前の敵にだけ集中することにする。

「葵さん。今の攻撃、連発はできますか?」

『いいえ。流石にこの規模は数時間単位で溜めがいります。以津真天には直撃しましたか?』

「はい。仕留められてはいませんが、だいぶ助かりました」

 そう言って時雨はビルの屋上から顔を出して見下ろす。

 以津真天の心の臓を貫くことはできなかったが、。落下しても意地だけで飛行はしているが、その速度は目に見えて低下していた。

 これなら、今の時雨なら追い付ける速度。

「おかげで勝ち筋が見えました。短期決戦でケリをつけます」

『わかりました。では時雨くんは攻撃に専念してください。防御と身体補助はこちらが担います』

 了解しました、と時雨が頷くと同時、浮遊していたヒトガタの紙がぴとりと彼の首筋に張り付く。僅かに驚いたもののすぐにその違和感も消えて、代わりに全身の神経に何か柔らかい流れが流し込まれた感覚がした。

『…………。時雨くん、この身体の酷使の仕方はなんですか? 脳の制御装置が軒並み外れています。危険なので即刻やめなさい』

「あー……。その、火事場の馬鹿力ということで」

『霊力制御で元に戻しました。ちゃんと身体強化の符を使いなさい。私の力であれば親和性も高いでしょうし、重ね掛けしておきますから』

 優里菜が言っていた適任は葵の事だったか、と納得する。

 やっぱり身体によくない強化の仕方だったらしいが、まあ特に文句もない。緩く手に持った赤い柄の刀をまっすぐに構えた時雨は、久しく口にしていなかった文言を静かに唱えた。

「――……残心遊離、次いで析出」

 片翼が折れてなお空を踏みしめて怪鳥が昇ってくる気配がする。

 数多の黒い羽根は依然として青空をひらひらと舞っていて、きっとその一枚に触れるだけで身体が蝕まれていくだろう。

 そのすべてを気にしないまま、時雨は目の前の刀にだけ意識を向けている。


 その薄刃の日本刀の輪郭がぼやける。

 まるで空気に溶けるかのように形がいびつに揺らいでいく。

弦月げんげつに結晶、氷核そのまま」

 重ねる言葉で輪郭が再構築。

 まるで氷が気体に昇華しては、すぐに凝華するかのよう。

 そしてそれに間違いはなく――まさにこの一瞬、粒子の結合が解けては別の形に再結合している。


 この刀は唯一無二の特別製。

 ある怪異事件の最中に偶発的に入手した希少な武具。

 泡沫時雨の魂の霊的粒子から抽出された、である。


「これは刀でもあり弓でもあり銃でもある。何にだってなれるが……お前相手なら、弓が適任だろ」

 霊的粒子で構成されたものは遍く存在が不安定になる。それはつまり明確な輪郭が決まっていないことと同義。刀身すべて――否、元を正せば霊的粒子の塊だったそれを、刀の形に整形させたものがこの日本刀である。

 故にその結合を解いて弓の形に再結合させれば弓として機能する。

 これは時雨自身の魂から分離された故に換装可能な変形武具。

 剣技が主体の時雨が中距離・遠距離に即座に対応するための武器だ。


 ぶわり、と凄まじい風圧で以津真天が上空へと駆け上がる。

 片翼は撃ち抜かれ、出血は多量で、それでも敵愾心を燃やして飛ぶその姿を見上げた時雨は、戦闘再開とばかりにともにビルの屋上から飛ぶ。重力のみに身を委ねて上空の以津真天の姿をしっかり視界に収めた時雨は、背のギターケースから数本の矢を引き抜いて静かに弓につがえた。

 それは何かを穿つには不向きな、鋭さの欠片もない丸みを帯びた先端の矢。

 しかしそれで構わない。もっと言うなら、中らなくとも問題ない。力を込めて引き絞り、そして頭上の怪鳥めがけてその手を離した。

『――ッッ!』

 空気を切り裂いて、ヒュー、と柔く鋭い音が響き渡る。

 常人が聞けばただの軽やかな音。しかし頭上の以津真天は、その音が響いた途端に鳴き声が途切れ、苦しみ悶えてげぽりと黒い吐しゃ物を吐いていた。

『……蟇目神事ですか。確かに魔性には劇薬でしょう』

「ええ。それに俺は、そんなに弓の才はないですから」

 落下した先に張ってあった符の縄に着地して、一息の間もなく携えていた二の矢を放つ。これは命中させるのが目的ではなく、空気を切って音を鳴らすのが目的だ。以津真天の鳴き声が時雨の心身を傷つけていたように、この蟇目の音は以津真天にとって忌み嫌う破邪の音である。

 以津真天の力を削ぐには十分に強力。

 跳躍して空を舞いながら、続く三発目を放つ頃には、以津真天の周りの怨嗟すらもどろどろと溶け落ちつつあった。

「……、ふっ――!」

 全面ガラス張りのビルに映る時雨と以津真天の姿。

 身体強化に回していた分の符が幾分か縄の方に回せるようになったおかげで、時雨は手繰るように片手で縄を操りながら縦横無尽に空中を駆け回り、先ほど以上のスピードで怪鳥の死角に潜り込む。

 無論無抵抗のままの以津真天でもない。

 本格的にこちらが劣勢だと悟った怪鳥は、急速に黒不浄の生成を早めてそれを迎え撃つ。先ほど以上のスピードで体内中の穢れを循環させて、鉄壁の防御を固めた上で、まるで散弾銃を放つかのようにその穢れの弾丸を高速で時雨に向かって浴びせた。

 以津真天といえど生物である以上、生成機構に限界がある。

 その限界を超えた量を一時的に産生しているのだから、この戦闘が終わった後に必ずツケが回ってくるだろう。

 それでも構わない。ここで力を使い切らなければ命がない。目の前にいる怨敵を、刺し違えてでも葬らなければ気が済まない。ギチギチと軋みを上げる五臓六腑をすべて見なかったことにして、以津真天は翼の先まで許容以上の黒不浄を循環させ続けた。

 対する時雨ももう止まれない。

 空中で制止する技術は今の時雨にはない。故に浴びせられる不浄の弾丸を回避する術もなく、もとより防御に回る気もない。ここで押し負ければまたさっきの繰り返しだ。故に時雨は重傷覚悟で後発の蟇目矢を携え弓を引き絞り、


の神床に坐します掛けまくも畏き――……』


 そしてそのすべての穢れの散弾は、時雨の身体に当たる直前に掻き消えた。

「ッ、流石本職……!」

『構わず攻め続けてください!こちらで全弾防ぎます!』

 葵のその言葉を皮切りに、時雨は構えた矢を放つ。

 空気を切り軽やかな音を響かせて飛ぶそれを確認する前に五度目の矢をつがえ、一瞬の猶予すらも与えないまま清らかな音を響かせ続けた。

 どろりと溶けていく外殻の怨嗟。

 露出していく怪鳥の外皮。いよいよもって以津真天の装甲が剝がされていく。

 そしてなにより以津真天が恐れたのは、あの散弾の中を何の躊躇いもなく突っ切ろうとした気概だ。アレを受ければいかに怪異耐性が高かろうと命を落とすほど、濃縮された穢れの散弾。それを目の前にして一切の恐れも抱かず突貫する姿など、おおよそ人間とは思えない。

 ……そうだ、目の前のこの男は人間ではない。

 怪異を滅するためなら己の命すら使い捨てられる。それに強い動機も何もない、ただという理由ひとつで食らい付いてくる異常な存在。人間味の薄い――怪異に対してのに近しいもの。

 そういえば、泡沫の一族とはそういうものだった、と頭の片隅で怪鳥は過去を振り返る。

 かつて己を討ったあの者も、心臓を穿とうが止まりやしなかった。

 

 そうして時雨は空中を切り、とうとうその巨体と接敵する。反応速度の落ちた以津真天は、この至近距離では時雨の攻撃はかわせない。次の一撃で命を絶つと言わんばかりの時雨は、もう確実に、急所足りうる怪鳥の首を間合いに収めている。

 弓を手に持つ時雨は一瞬でその胴を持ち替えて、再度先ほどのトリガーワードを口にした。

「氷核そのまま――残心再析出」

 その言葉に応じるように弓の形がほつれる。

 一瞬で弓の輪郭を解き刀へと再結合したその鋭い刃を、的確に以津真天の首に振り下ろして――


(……ッ、嘘だろ、駄目か……っ!)


 その刃は、その鳥の首を落とすまでには至らなかった。

 ここまでの戦闘で以津真天の防御力は把握していた。故にここまでの怪鳥であればこの斬撃で命を落とせていた。それに至らなかったのは、怪鳥が後を考えずに穢れの生成機構を稼働させて極限まで肉体防御を固めていたからだ。時雨の退魔の斬撃であれば多少の穢れなど構わず切り伏せられるが、この密度だと刃は通しきれなかった。

(どうする……っ!? 破損覚悟でパイルバンカーをぶちかますか!?)

 この接敵を逃せば次がない。今度こそ以津真天は間合いに入ってはくれないだろう。あと一撃、先ほど葵の撃ったレベルの高火力の一撃を用意しなければこの防御機構は剥がせない……!

「――……ッ、氷核固定、再析出――」

 覚悟を決めて時雨がその刀の外殻を解こうとした刹那。

 何か――何か、ひどく嫌な感覚がして思わずその言葉が止まった。

 その矛先は自分ではなく怪鳥に向いている。

 半ば無意識の内に視線を総合病院の方に向けて、そうしてすべて理解した。

 遠いその屋上で、神代朱梨が右腕を――



 ◇



「――ありがと、優里菜。よく持ち歩いてんなこんなの」

「うふふ、護身用よ。この前朱梨さんと芦沼に行ったときに買ったの」

「ああ、そういや買ってたな。……いいのかよ、駄目になるぞ」

「いいわよ。……呪詛返し、完成した?」

「ああ。これだけ時雨が時間を稼いでくれたんだ、細かいとこまで組み立て終わった」

 そう、と優里菜が微笑んで、もう役目は終わったとばかりに優雅に踵を返す。もう優里菜にとってはこの戦いの勝敗は決まって、わざわざ見届けるほどでもないのだろう。そうして一人残された朱梨は、優里菜から預かった包丁を左手に持って遠くの鳥を見据えていた。

 もう神経も通わなくなった右腕を、そばの柵の上に乗せる。

「――お生憎様、怪鳥。人を呪わば穴二つって言葉、知ってるか?」

 おそらく数日前に呪われたのであろうその右腕。

 以津真天の呪い穢れを多分に含んだそれを、今の今まで放っておいたのはこのためだ。

 狙いを定めるかのようにその手のひらに包丁の切っ先を当てて、朱梨は高速で術式に呪いを通す。今から行うのは言ってしまえば類感呪術。あるいは呪い返しと言っても差し支えはない。ただしそのまま呪い返しを行ったところで火力は出ないだろう。故に朱梨は術式構築を組み替えて改良したものを使った。

 腕の中でこの呪いを反復させる。

 呪詛返しに呪詛返しを重ねることで幾重にも跳ね返らせて、そのスピードと威力を増していき――……

「……コレ、もういらないから返すよ」

 そうして、一切の躊躇いもなく。

 朱梨は、自分の手のひらを包丁で突き刺した。



 ◇



『――ギ、アアァアァァァァッ!!!』

 ――バチッッ!!!! と、以津真天の体内で何かが弾ける音がした。

 その瞬間、以津真天は絶叫を上げてその体勢を崩す。その衝撃と痛みは以津真天の思考をすべて奪って、そして槍のように鋭く刺さった呪詛返しは、比喩ではなく本当に以津真天の魂を貫いている。

 悶えるように墜ちていく以津真天。

 それでも意地だけで生命活動を維持させる。産生した穢れはほぼすべてが霧散して防御機構が剥がれ落ち、先ほどまでの蟇目矢のせいで外装の怨嗟も溶け切った。それでもなお自身の内にある恨みひとつで以津真天は空を見上げて。


「――今なら斬れる」


 そうして、青と日光に照らされた澄んだ空を背景に、刀を構えるその人影を。

 かつて己を討った――500年前の幻影を、以津真天は幻視した。

 

 張り巡らされた縄の符がすべてほどけて大量の紙が舞い上がる。

 地面に対して水平に張られていたそれは結合を再構築して水色の淡い光を再び宿し、今度は垂直に。まるで以津真天と時雨を繋ぐ縄のように、幾重にもその光の束は怪鳥の首に巻き付いて離さない。

 これが最後の霊力操作だ。泡沫時雨は刀を両の手で構えたまま、その縄の霊力を引き寄せるようにして、重力落下以上のスピードで以津真天まで飛び落ちる。その姿ももう以津真天は目で追えなくて、ただこの一瞬先に自身が辿る未来だけを、はっきりと視認してしまっていた。

 迷いのないその一閃。

 防ぎようのない死の鎌。

 首の皮膚に到達したその刃は――脊椎すらも歯牙に掛けず、一瞬で以津真天の頭と胴体を二分したのだった。


 ――高度75m。

   ビル群のひしめき合う大都会の上空で、以津真天の討伐は果たされた。



 ◇



「――すまないな泡沫君。もう少し私が早く到着できればよかったんだが」

「本当ですよ。結々祢さんか親父がいれば、一撃で屠れてましたよね」

「……でも、時雨さまが無事で何よりです」

 以津真天討伐から数時間後。

 ひとまず討伐後の後処理は結々祢たちが帰ってきてからにしよう、と葵に言われるがまま時雨は呰見神社に戻り、端々の怪我の治療を受けながら時雨は結々祢たちの帰還を待っていた。

 本当はすぐにでも朱梨のところに行きたかったが、葵と通信が繋がっている前で朱梨に接触するのはまずいだろうと思い、メッセージだけ飛ばしておいた。とはいえいまだそれに既読が着く様子もなく、当然ながらなにか返ってきてもいない。訝しむものの、まああとで部屋を訪ねればいいだろう。

 そうして結々祢と茉奈が呰見神社を訪れたのがつい先ほど。

 記憶操作、以津真天の死体の処理などは真宮の人たちがやっておいてくれるらしいので、時雨は特にやることはなさそうだ。

「とはいえ面倒だな。死体の雨や以津真天の黒不浄のせいでそこかしこに陰摩羅鬼が湧いている。葵、遠隔術式で全部滅せないか」

「冗談言わないで。今回のMVPは時雨くんと私よ? 少しは労わりなさい」

「はい。葵さんのアシストが無ければ泥沼試合もいいところでした」

「ひとまずは近隣の退魔師の招集だな。泡沫君は参加しなくていいが、葵はもう少し働いてもらうぞ。退魔師の数はそう多くないからな」

「はいはい。まあもういいわよ、どうせ平時は暇してるもの。こういうときくらいは働いてやらなきゃ」

 面倒そうに肩を竦める葵。

 了承の意を確認した後に、結々祢は時雨の方に向いた。

「泡沫君もよくやった。……葵から聞いたが、一度仮死状態になったのは本当か?」

「あー……はい。死体の雨の術式を壊したときに呪いが作動したようで」

「本当に無茶をする。流石は泡沫の子だと言えるが……いや、言ったとて改められるものでもないな。特に苦言を呈すつもりはないが、君は対怪異職の中でも重要な戦力であることは気に留めておけ。そう使い捨てていい人材でもない」

「……すみません。今後は善処します」

「……時雨さま、ほんとうにいつか死んじゃいそうで心配ですよ?」

 心底不安げな声音で呟く10歳の少女――茉奈の頭を撫でながら、大丈夫だと繰り返す時雨。流石に幼い彼女にこんな表情をさせてしまうのは心が痛んだ。慕ってくれているのだから尚更だ。

 自分としてはそういつも無茶をしているつもりはないのだが、如何せん周りから見れば無茶ばかりしているように映るのだろう。

「あとは……そうだな、神代竹蔵様か」

「ええ。まさかあの神代の爺様によるものだったとは。……御隠居されていた故、呰見にリョウメンスクナが来ていることを知らなかったのでしょうか」

「恐らくな。クソ、あれが竹蔵様の術式だとわかっていれば泡沫君を行かせはしなかったんだが。あの御仁であれば対策として即死トラップの一つや二つ、仕込んでいてもおかしくはなかった」

「……その神代のお爺さんから伝言があるんですが」

 不意に思い出した一言を時雨は結々祢に伝えた。

「“秋の終わり頃になったら、儂を探せ”と、結々祢さんあてに。意味、わかりますか?」

 その言葉を聞いた結々祢は、ふむと口元に手を当てて考え込む。

 心当たりでもあるものかと思ったが……数秒考えた後、結々祢はそうかと頷くだけだった。

「わかった、留めておこう。それとそうだ、リョウメンスクナに関してだが」

「……幸いにも複製体は確認されませんでした。ただ……一時、リョウメンスクナの反応が著しく増大しました。これまではモザイクがかかったように場所も特定できませんでしたが、今回に限り総合病院付近で明確に。ただ、その後反応はありません。

「……は?」

 葵の言葉に、時雨は呆けた声を上げた。

 呰見内から持ち出された。……それはつまり、朱梨は呰見から――

 咄嗟に時雨は朱梨に送ったメッセージを見る。未だ既読はついていない。時雨は知らないが、朱梨のスマホは総合病院の屋上で壊れている。故に連絡を取ろうと思っても繋がらない状態だった。

 動揺しそうになるのをぐっとこらえて、なんでもないような素振りを取り繕った。幸いにも結々祢や葵は訝しんではいなかった。

「ひとまずは心配事は片付いたようだな。まだリョウメンスクナの動向には気を配っておかないといけないが、とりあえずは一息ついてもいいだろう」

「ええ。肩の荷も下りました」

 心なしか少し明るめな声音になっている結々祢や葵。

 彼女たちの言葉を聞きながらも、どこか上の空の時雨は、珍しくそのほとんどの内容を頭に記録できないままだった。


 そうして、ひとしきり話をして解散になった。

 時雨は家で休息を取るようにと言われ、一人神社を後にした。結々祢や茉奈は多少結界の調整をしてから真宮邸に帰るらしい。長い長い石畳の階段を一歩ずつ踏みしめて降りながら、オレンジ色に染まった空間をぼんやりとみている。思ったよりも時間は過ぎたようで、もう日が傾きかけていた。

 橙の光に包まれた住宅街。

 家々も道路も石塀も、すべてがその光に染められている。

「……時雨さん」

 そんな中、白いワンピースを着た人影が一人。

 例に漏れず淡くオレンジに見える色味になっているその人は、時雨を見つけると悠々とこちらに向かってきていた。

「……ッ、優里菜さん! 朱梨は!?」

「あら。どうしたの?」

「朱梨は……朱梨は今どこにいるかわかりますか!?」

 思わず詰め寄るようにして優里菜に言葉を投げる時雨。

 しかし優里菜は何も気にした様子はなく、ただいつも通り言葉を返すだけだった。

「さあ。総合病院で別れたのが最後ね。……でも多分、朱梨さん、もう呰見にはいないわよ」

「ッ――どこに向かったかわかりますか!?」

「いいえ。……ねえ時雨さん。仮にわたしがわかったとして――今の朱梨さんを見つけて、そうしてきみはどうするの?」

 優里菜にそう問われて。

 口を開こうとして、止まった。

 ……もし、次に彼女に会った時。自分はいったい――どうするつもりなのか、と。

 自分ですら答えが用意できなくて、そうして時雨はふらふらと後退った。

「…………泡沫の家系はそういうものだもの。怪異に対する対処機構。でもきみは――まだ、

 そう言って笑う優里菜の/お姉さんの顔が、逆光で見えない。

 見たくない。

 見てしまえば自分の軸にひびが入る。

「――……っ、ぅ」

 咄嗟に時雨は自分の口元に手を当てた。酷い吐き気がこみ上げてくる。

 ほんの――ほんの一瞬でも、と直感してしまったのが、信じられなかった。

「……それじゃあね、時雨さん。以津真天討伐おめでとう。今度、お祝いでもしましょうね」

 そう言って優里菜が時雨の横を通り過ぎる。

 そのいつも通りの優里菜とは対照的に、時雨は、目を見開いて立ち尽くしたまま、ずっと動けないままだった。



 ◇



「――はぁ、っは……ッ!」

 あるビルの路地裏。

 日光があってなお薄暗いそこで、朱梨は息を切らしてしゃがみこんだ。

 以津真天討伐のすぐあと、朱梨は総合病院から逃げ出した。

 包丁を刺した右手の止血も碌に行わないまま、ただ無我夢中でここではないどこかに。行先があるわけでもない、ただただ単純な逃避行だ。

 いまだ血はだらだらと流れている。

 それでももうそんなことを気にとめるほどの余裕はなくて、しゃがみこんだ朱梨はその血塗れの手で顔を覆った。

「はは――……は、なんだよ…………!」

 額に爪を立てながら、朱梨は心の底から言葉を零した。

 泡沫時雨が死んだから、神代朱梨は怪異に成る最後の一線を踏み越えたのに。

 もう不可逆のその道を、躊躇いなく選べたのに。

 その泡沫時雨が生きていたというのなら、神代朱梨はどうすればいいのだろう。

「……どのみち呰見には居られない、か」

 怪異としてほぼ完成した朱梨は、もう呰見の結界による探知にも明確に引っ掛かるだろう。そうなると呰見に居続けるわけにはいかなかった。場所が割れれば最後、真宮結々祢が飛んでくるだろう。少なくとも彼女が呰見に帰ってくる前に、朱梨は呰見の結界外に出るしかない。

 出たとして――そのあとは?

「…………」

 泡沫時雨がいないと息の吸い方もわからない。

 でももう怪異として成った以上、神代朱梨は泡沫時雨の隣にいることはできない。彼は怪異の前に立てば人間味を失くして一種の機構のように淡々と振舞う。彼との間にどれだけの友情があろうと、躊躇いなく斬り伏せられる人だということを朱梨が一番よく知っている。

 かといって死ぬこともできない。死ぬのは怖くないけれど、死んだ向こうに時雨がいないのが耐えられない。総合病院の屋上で、躊躇いなく身を投げられたのは時雨が死んだと思っていたからだ。

 もうどうしようもなく、八方ふさがりで身動きも取れなくなってしまった。

「こうなるのが嫌で……ずっと、隠していたのに、」

 もうどうしようもない。

 それでも涙は出てこない。

 神代朱梨は泣き方を知らない。感情の発露の仕方をすべて時雨から真似ているだけの彼女は、時雨が泣いているところを見たことがないせいで満足に泣けもしない。ある意味、怪異としては似合っている姿なのかもしれないが。

 額を掻き毟って、僅かにそのまま。

「――……」

 やがてふらりと立ち上がった朱梨は、くすんだ青色の瞳を空に向けて。

「……やることは、あったな」

 そう、ぽつりと一言呟いた。

 自分の末路を決める前にやるべきこと。

 早急に呰見を出て、その後に向かわなければならない場所。

 自分の行く末を決めるのはそのあとでもいいかと、乾いた思考を巡らせる。先ほどの湿っぽいことはまた後で散々悩めばいい。不安定とも言えそうな情緒の切り替え方をした朱梨は、そうしてまた立ち上がって顔に付いた血を拭った。

 さっきのようなふらふらとした足取りはもうない。

 目的地もできて気分が安定したのか、朱梨はしっかりと地面を踏みしめてまた走り出した。残されたのは壁や地面に付着した血だけ。その血もやがて黒ずむようにうごめいて、まるで痕跡を断つかのように壁や地面に吸い込まれるようにして消えた。


 そうして、神代朱梨は姿を消した。

 9月20日以降、呰見でリョウメンスクナの反応は確認されない。



死体の雨 / 終

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