第4話 ⑥ 死体の雨 『最短経路で駆け抜けなさい』

 ――前提として。

 以前にも話した通り、怪異は大きく三種類に分類されている。幽霊、妖怪、呪物の三種だ。幽霊は霊的粒子で構成された命無き存在、妖怪は既存の生態系に属さない別種の怪異、呪物はそれ自体が道具である命の無いもの。

 さて、この三種の中で最も強大と言えるだろうものはどれだと思う?


 ――妖怪とか?

 他二つはあくまで人間がベースになってるけど、妖怪はそうじゃないし。


 ――ああ。

 お前の推察は正しい。幽霊、呪物は共に人間が関わっている。幽霊は大半が人間の死後であり、呪物はそもそも。妖怪だけはルーツが違う。前者二つは人類の自傷機能である一方で、妖怪だけは人間へのカウンターだ。退魔師はまさしく名の通り、人間の敵を相手にしている。


 ――……。それで、それがどうしたの。


 ――お前がいずれ戦う敵の話だ。

 なぁに、儂が道楽や酔狂でお前を作ったとでも思ったか。

 妖怪は皆等しく強大だ。力の程度に差はあれど、基本的に有名どころは並の人間が太刀打ちできるようなものではない。アレは人間の敵であると同時に、人類の悪性の鏡体でもある。ある種、機構に等しいものだ。

 まあ、悪意の凝集体というのなら、呪物もそうとも言えるが。


 ――……? つまり?


 ――

 お前は知っているだろう、神代の在り方を。

 呪物は人が作り上げるもの。時の流れに伴ってその数々が零れ落ちて怪異として数えられるようになったが、呪物というものはもとは人間の使う道具の一つだ。毒を以て毒を制す、の体現だな。

 呪を以て魔を制す。

 妖怪が人間へのカウンターだというのなら、呪物は妖怪に対しての反撃装置。

 人類が作り上げた、技術の結晶である人工怪異。それが呪物という怪異の在り方だ。故に、呪物とカテゴライズされる怪異のほとんどは妖怪に対してもその呪いが通りやすい。

 、と乞われているからだ。まあもっとも、呪物は妖怪以上に人間にも牙を剥くが。諸刃の剣というやつだな。


 だから覚えておけ。

 呪物として最高位のお前であれば――如何に強力な妖怪が相手だろうと、必ず勝ちの目があるということを。



 ◆



「――……。」

 乱雑に髪をかき上げながら、朱梨は怪異の特性を頭の中から引っ張り出す。

 怪異には大きく分けて三種類ある。

 それは『幽霊』、『妖怪』、『呪物』の三つ――と、一般的には思われているが。それとは別に、対峙した際に考えるべきことは『相手がどのような性質の力を用いるか』であり、それに則ると怪異の用いる力は大きく分けて『呪詛』、『不浄』、『それ以外』の三パターンに分類が可能である。

 わかりやすいのは前者二つ。

 『呪詛』は激しい怨念、怨嗟の類を主として用いる怪異の力。

 代表格なのは第二席、姦姦蛇螺だろう。あれは人類すべてを呪い殺さんと言わんばかりの莫大な怨嗟を抱えていながら、それを漏らすことなく抑え込んで制御している。そこらの怨霊とは格が違うし、それ故に狙いすまされたときは即死だ。朱梨であろうがそれは免れない。

 『不浄』は専ら穢れのこと。

 黒不浄、が一番わかりやすいだろう。これは死に付随する穢れ。今現在呰見は黒不浄の穢れが高濃度に残留して様々な怪異が誘発されかねない状況に陥っている。

 代表格は第三席、リョウメンスクナ。これはそもそも製造過程で数多の死の濃縮が起こるし、呪物自体が死体であることが大きい。黒不浄の保有量はおそらく怪異の中でもトップクラスだ。

 怪異の大半はこの2種の力のいずれか、あるいは両方をエネルギーとしている。

 これらに含まれない――……怨嗟も穢れも有していない、ただ純粋にエネルギーとしての呪いを持つものもあるが、それはあまり多くない。少なくとも、今の状況では除外していい。

 問題は――……目の前で飛翔する鳥が、いったい何の力を主軸としているか。

「以津真天――ま、考えるまでもねえだろ」

 朱梨はそう言って、それを迎え撃つために右腕のリストバンドを取っ払った。

 手首の白い肌には無数のリストカット跡が残っている。乱雑にその傷跡に爪を立てれば、あっという間に傷は開いて血が流れだした。

 以津真天は

 「いつまで、いつまで、」と鳴いて飛来する妖怪。疫病の流行した時代に、まるで『いつまで死者を放置しているのか』、と咎めている様子で、この鳴き声から名がつけられた。ここまでは一般的な書物――初出である太平記や、その後の書物で記されている通り。だが、あと一つアレには重要な特徴があった。

 あの鳥は死体を食べる。

 放置された死体を、アレは食べにくる。

 故にこの死体の雨は、以津真天を誘き寄せるための餌足りうる。


「お前が放つ呪詛なんてものはない。お前の周りの怨嗟は違うだろうけど。

 人間に対して恨みなんてないんだろ。あるのは死体食いの黒不浄だけ。

 ……いいね。私とお揃いだ」


 なら勝てる。

 同じ性質の力を使っているのなら、あとは量と技術の比べあい。

 そうして――……死体食いの鳥は、総合病院の屋上に躍り出た。


 顔は人間の風貌をして、それなのに鋭利な嘴のようなものも存在している。覗く歯は万物を噛み千切らんとするほど。翼と鉤爪は鳥のそれだが、胴体はまるでヘビかと思うほどに細長かった。

 キメラ、あるいは日本風に言えば鵺のようなものか。

 翼を広げた以津真天は並の鳥を遥かに凌駕する大きさだった。4mか5mかはあるだろうその翼は、羽ばたきのたびにどろどろとした空気を周りにまき散らしている。触れれば並の肉体は腐食してしまうほど。雨粒に混じっていた穢れなど些事なほどの強烈な穢れは、瞬く間に朱梨の周りに吹きさらしている。

 混じる怨嗟は奴らの放つものだろう。

 以津真天は目の前の朱梨には目もくれず、ただ狙いを定めているかのようにその人間のような顔を桜の方に向け――そうして、まるで突貫するかのようにその巨体を滑空させた。

「……っ、ぱり桜を食うつもりか、テメェ……ッ!」

 穢れはともかく、この怨嗟は桜が浴びたらまずい、と直感した朱梨は、突っ込んでくるその怪鳥に対して盾となるように桜の前に走り出る。

 怪鳥の滑空はこの短距離でももうすでに凄まじいスピードが出ていて、たかだか人間サイズの朱梨では肉壁どころか踏ん張ることさえ難しい。キッ、と桜の前で摩擦音を立てながら止まった朱梨は既にそれくらい理解していて、故に彼女は屈むようにその血だらけの右手を屋上のコンクリートに叩きつけ、

「ギ、ァ……ッ!」

「はッ――……鳥のくせに人間みてえな悲鳴上げてんじゃねえよッ!」

 ――瞬間。

 まるで急速に沸騰するかのように、彼女の血が付着した部分から。それは一本二本どころの話ではなく、ゆうに数十本は超えている。それがまるで、樹木の時間を早回ししているかのような速度で天を突き、朱梨の身体を空へと押しやる。

 滑空突撃の刹那に行われたこの攻撃は完璧にタイミングを合わせられ、以津真天は回避することも出来ずに下からの膨大な量の拳に殴られ打ち上げられた。たいしたダメージではないが、一瞬のうちに体勢を崩されたせいで旋回する状態になるまでに一瞬の隙が生じて、そしてそれを逃すほど朱梨は甘くない。

「……っ、」

 もう碌に動かなくとも、それでも利き腕の方が操作はしやすい。

 体をねじって右腕を振り回した朱梨は、まるで空中で怪鳥を掴むような仕草をして、その刹那に彼女は

(呪いの文言なんぞ必要ねえ、タイムロスもいいとこ、要は組み立てが上手くいっていればそれでいい……!)

 掌に力の奔流が生じる。

 これまでほとんどすべてのリソースを費やして隠しきっていた、体内の穢れや呪いがそのまま彼女の保有するエネルギーとして全身を駆け巡り、放出点として手のひらの中に一点に集中していく。

 泡沫時雨が大量の符を動力源としていたように。

 呰見神社の葵が御神酒を動力源としているように。

 神代朱梨は、その体内に蓄積された膨大な量の呪いと穢れをエネルギーとして用いての戦闘こそが彼女の本領だった。

「ふっ――……ッ!」

 人の身では感知できないほどの一刹那、景色がサイケデリックな色相に置き換わる。莫大な量の呪力の放出はそれだけで世界の空間に干渉して、そしてその力は的確に怪鳥のみを串刺しにした。

「キィ……!?」

 そしてその攻撃に、以津真天は酷く動揺と困惑を見せた。

 

 ――以津真天の身体は、何層も重ねられた外付けの怨嗟と内から湧く黒不浄によってある種の防壁ができている。

 以前朱梨が発狂させられかけたのも、この外付けの怨嗟をもろに浴びてしまったせいでああなったに等しい。今の朱梨は自身の体内の呪い穢れで相殺できているため発狂はしていないが、それでもこの防壁を突破するのは至難の業のはずだ。

 単純な力比べではまずここまでダメージは通せない。

 防壁を一層突破するだけでも呪いの威力は著しく減衰するはず。

 故に、ここまでの一撃が入るということは――……

「――どんだけ防壁があろうと、

 化け物か、と纏う怨嗟の一欠片がそう呟いたような気がした。

 神代朱梨に蓄積された呪い穢れの力は、それだけだと純粋なエネルギーでしかない。言ってしまえば電気のようなもの。それ単体を打ち出すだけではただの単純な攻撃にしかなり得ない。

 それは時雨や葵も同じだ。故に彼らは前もって術式を組み立てておいて、それに力を通すことで様々な攻撃、防御、補助などを行っている。基本的にほとんどの人はこの方式だろう。

 だが今の朱梨は違った。

 彼女の手持ちに組み立てられた術式など一つもない。

 あるのはこの身一つで――故に、彼女は今この一瞬の間に、即席で回路図を完成させたに等しい御業を繰り出したようなものだった。

 しかもそれが標的依存でなく空間依存、僅かな誤差すら許されない座標固定を一度で成功させるなど人間業ではない。

 ――……ようやく以津真天は理解した。

 目の前に居るあれは、間違いなく自身の脅威になりうるのだと。


 空中で以津真天に呪いをブチ当てた朱梨は、そのまま高く伸びていた黒の手の一つの上に着地する。いい具合に落下ダメージは黒の手のひらが緩衝してくれて、着地の体勢のまま朱梨は眼下に広がる黒い樹木のような手や腕を見下ろした。

 僅かに青の瞳が動く。

 何を命じるまでもなく、何らかの仕草をするまでもなく、大量の腕たちのいくつかが動き出して桜を守るようにドーム状に囲いだした。これでたとえ再度突貫されようと、腕を動かせば受け流せる。一番は桜を病室に押し込めることだが、流石に今の朱梨では建物内にまでこの黒い手を出現させるのは難しかった。

「……かかってこいよ、全部撃ち落としてやる」

 桜への防御が整ったのを見届けて、朱梨はゆらりと手の上で立ち上がった。

 高度は屋上からですら少なく見積もっても10mはある。地面への距離はおおよそ40mはあるだろう。ここから地面に落下すればまず確実に死は免れない。それでも朱梨は一切の恐怖も覚えず、不安定で面積の少ない手のひらたちの上で悠然と佇んでいた。

 動揺する素振りは見せていたが、明確な致命傷には至っていない以津真天はすぐに空中で体勢を整えて旋回する。いつまで、いつまで、と鳴く声は、耳に届くだけでその者の精神構造を歪めてしまう威力があった。

「ッ……!」

 耳の良い朱梨には数倍の威力がある。

 侵食する強迫観念。自壊する恐怖耐性。膨張する忌避感に、常人であれば立ってすらいられないほどだろう。不快そうに耳を押さえた朱梨は、……それでも、彼女の姿勢を崩すには至らない。

 全身の呪い穢れを高速で循環させて疑似的な防御機構を作ったが、やはりこれが最適らしいと朱梨は確信を持った。やっていることは以津真天とまるきり同じだ。呪い穢れを弾くだけなら、相殺するよりもエネルギーはいらない。

 無論それを怪鳥も承知していたのだろう。やはりこの女は物理的に仕留めなければ決定打にはなり得ない。空中で大きく翼を広げた以津真天は、先ほどと同じような高速突貫の構えを取った。

「は――流石に芸がねえんじゃねえの……ッ!」

 さっきも見た技、でも反応できるかはまた別だ。

 どんなに滑空に適したフォルムであろうと飛行速度には限界がある。特に以津真天は巨体である上に、飛行に適した形とは言いづらい。どんなに翼を羽ばたかせようが空気抵抗に阻まれて速度は出せないはずだ。

 にもかかわらず、以津真天はその体躯に見合わぬ速度を叩き出していた。

 まるでエンジンでも積んでいるかのような――否、本当にエンジンのような形でブーストをかけてアレは飛んでいる。内包する穢れを放出して火力源とし、まるで空を駆けるように飛んでいる――!

(――ッ、追撃が来るッ!)

 ばねのように身体を折り曲げて横に跳躍し、砲弾のようなその特攻を紙一重で躱したものの、以津真天は勢いを一切殺さないまま急旋回してすぐに再度朱梨のいる場所へと突貫する。足場のない空に浮いた少女では、この突撃は躱せない――

「――な、めんな……ッ! っつぅ……『流転、縊死を以て――……』!」

 巨体が肉薄する数瞬前。傷のひらいた右腕を振って自身の血液をどこかしこかに付着させ、そこから生えた新しい黒い手で身体を無理やり引っ張ることで、朱梨はギリギリ回避した。

 とはいえ無傷ではなく、高速で飛ぶ翼に片腕が掠ったせいでぱっくりと傷が開いている。時速100キロはゆうに超えている速度で突っ込んでこられたのだから、この程度で済んでいる方が奇跡だ。至近距離でこの速度に反応するには、それこそ目の良い時雨を連れてくるしかない。

 だが――朱梨にとって、出血は特別不利なことでもない。

 すれ違いざまに大量に血が飛び散ったのを確認した朱梨は、回避体勢のまま反撃の呪詛を口にした。


――『流転、縊死を以て差遣わす。故に既に――……』


 それは文章に起こしても一行にしか満たないほどの言葉の羅列。

 極限まで凝縮、省略された一種の

 思いついたのは今この時であり、術式構築はこの一秒の間で完了した。ロジックな部分を天才的なまでのセンスですべて片付けて、ただ目の前を飛ぶ鳥を墜とすことだけを考えている。

 あそこまで高速で飛ばれては先ほどのような空間依存の呪詛は設置できない。故にこの呪術が発動するのは以津真天に付着した血液を介してだ。べっとりとついた赤黒い血はこの呪詛に反応して穢れを増大させ、そして見えざる手となってその首を引き千切らんばかりに締め上げた。

 思わぬ反撃に、怪鳥は急旋回をし損なう。

 無数の手のひらが気道を圧迫して命を奪おうとしている。振り払おうと身を捩らせるが、何度首に触れても手などどこにもない。物理的な呪いではなく概念的な呪いであることに気が付くまでそう時間はかからなかった。

 要は死因を縊死と定めることで強制的に首が絞められている、言うなれば因果逆転の呪いだ。首を絞められたから縊死、ではなく縊死と定められたから首を絞められている。

 並の怪異であれば一瞬で首がちぎれてしまうほどの威力。

 それでも以津真天は苦しそうにするだけで、息の根を止めるには至らなかった。

「チッ……やっぱり現状じゃ全く火力が足りてねえ……!」

 掴んでいた手を離し、まるで滑り落ちるかのように腕を足場に一気に屋上まで降りる。むこう10m分の衝撃が脚に襲い掛かるものの、前方に転がるように受け身を取ることで大半の衝撃を散らした。流れるような動作で身体を起こした朱梨は、鋭い眼差しで以津真天を見据えている。

 あの首を落とすには生半可な呪術では太刀打ちできない。

 そもそも怨嗟と穢れの二重防壁を突破するには、祈祷師や退魔師の類を連れてこなければ話にならない。穢れと穢れのぶつかり合いではエネルギーが散っていく一方だ。故に朱梨は初撃で空間依存型の呪いで貫いたが、これは対象が限定されていない以上威力の低下が避けられない。

 負け筋はないが、かといって勝ち筋も見えてこない。

 圧倒的な高火力を叩き出すには、神代朱梨という出力機構は小さすぎた。


「……」

 怪鳥を見据えたまま、朱梨はぺたりと屋上に掌を当てた。

「……出力装置が小さいんなら、」

 要は火力さえ出ればこちらが勝てる。

 そう確信した朱梨は、その手のひらから急速に術式を刻み始めた。

「知ってるか、ここは第二精神病棟の真上。この下は怪異案件に巻き込まれた患者たちが集められている、言ってしまえば呪いの壺。

 人の身で一度に撃てる呪いの威力に枷があるのなら。

 ちょうど真下にあるこの呪い穢れ呪詛の患者がつまった建物ごと存在を拡張して、一種の固定砲台と化せばいい。

『――……』

 マズい、と怪鳥は直感する。

 これは小手先の呪詛とは比較にならない。何十人もの被呪患者のつまった精神病棟そのものを外部装置として接続し、呪いを放つための孔を無理矢理に拡げている。

 一度に放てる火力は単純計算で何十倍にも膨れ上がるだろう。そもそも朱梨一人だけで呪い穢れの保有量は莫大なものとなっているのだから、孔さえ広がれば後は穿つだけになる。

 はじめて、以津真天は戦慄わななきの鳴き声を上げた。アレは確実に以津真天を穿つもの。故にどう飛んだって避けようがない。

 それで確信を持った朱梨は歯を剥いて口角を吊り上げて、もう黒く変色しきってしまった右腕を最後にあげた。

 まるで空中の怪鳥を握りつぶすように、勢いよくその手のひらを握った刹那――


 空間が軋む。

 一瞬、たった一瞬だけ、その空間の物理法則が軋んだ。

 圧倒的なほどの力の奔流は迷うことなく、荒れ狂うことなくただ一縷の流星のようにただ一点へと突き進んでいく。

 そうして、もはや一秒すらいらないほど速く。

 正確に、その鳥の二重防壁の全てを打ち砕いた。


 あまりの衝撃に鳥は墜落しそうになった。

 間違いなく10mほどは、もみくちゃになりながら落下した。それでもまだ命を奪われるほどではなかったようで、死に物狂いで翼を広げて墜落するのを避ける。なんとか体勢を整えたが、そこで以津真天は強烈な悪寒のようなものを感じてしまった。

 なにかとてつもなく嫌な予感がする。

 なにか来てはまずいものが来る。

 なにか――生まれてはいけないものが。

 その異常な忌避感に突き動かされるように、怪鳥は顔を上げて――……


「……これで確実にお前の首を落とせる」


 そう言って屋上の柵の上に立っている神代朱梨の姿を捉えた。


 火力さえあればこちらが勝てる。

 その言葉に偽りはない。

 外付けの出力機構を用いても以津真天の命を穿つことはできなかったが、二重防壁は打ち砕けた。

 それでいい。元よりそのつもりだ。

 神代朱梨には――最後の最後に打てる手が、まだ一つ残っているのだから。


「そう睨むな。元より幼体のままお前に勝てるとはハナから思ってなかったよ。

 だからこの勝ち方しかないと最初から決めていた。

 二重防壁が剝がれた今なら――確実に、殺せる」

 それはまるでゴールテープを切ったような、穏やかで嬉しそうな笑みを浮かべている。まるでずっと時間をかけていた巨大なパズルの最後の一ピースを埋めるときのような、そんな晴れやかな顔をして。

 そうして――神代朱梨は、何の躊躇いもなく後ろに飛んだ。

「は、――はは、はははは! ああ、久しぶりに楽しかった、楽しかったぜ以津真天! 最後にこんな大暴れできてよかった!」

 心の底からの賞賛と感謝の叫び。

 走馬灯なんて一つも見なかった。

 彼女の脳裏にはおびただしい量の術式が組み上げられては破棄し、また組み上げを幾度となく繰り返していた。最後、地面に叩きつけられて命が尽きる一瞬までに最後の呪術を完成させなくてはならない。

 

 ――八尺様と姦姦蛇螺が、どちらもリョウメンスクナよりも威力が劣るのにそれぞれ第一席と第二席に据えられているのには理由がある。

 彼らはその莫大なほどの怨嗟、呪いを

 無差別に穢れをまき散らすだけの呪物とは一線を画すその在り方故に、怪異としての強さも桁違いなのだ。

(制御――ああ、してやるよ。日本だって滅ぼすほどの力の濁流を、抑え切ってただ一点に……ッ!)

 最後、急速に遠のいていく空を睨みながら。

 朱梨は、最初で最後の自分の存在証明を口にした。

「――見ていろよ、以津真天。

 として、この命をおまえに使ってやる」



 ◇



 空が晴れて、そして遠くから鳥の風切り音が聞こえる最中。

 強制的に切れてしまった通話画面を眺めて、老人はやがてそのスマホを少年の遺体のそばに投げ捨てた。動かなくなってしまった黒髪の少年の表情には苦悶の色は混ざっていない。どうしてこうも易々と壊す選択をしたのか、と老人は呆れたように見下ろした。

 老人――神代朱梨の祖父である神代竹蔵は、少ないながらも泡沫家と面識があった。本家の人間は皆泡沫家のことを嫌っているが、早々に隠居した老人はあまりそう言った家の間のしがらみ云々には興味が無かったためだ。

 故にこの男についても知っている。

 泡沫氷雨の息子、そして孫娘の親友。

 祈祷師としての実力は十分だと、老人自身が評価していた。

 それがこうもあっけなく失われるとはな、と彼は残念がっている。とはいえ失われてしまったものは仕方がない。心臓が止まってしまった以上、もうどうすることもできないのだ。

 そうして、老人が一歩振り返った時に――


「――こんにちは、朱梨さんのお爺様。お会いできて光栄ですわ」


 晴れやかに照り付ける太陽光により、それはいっとう眩しく。

 閉じた傘を上品に携えた、白いワンピースの女の子――結染優里菜が、少し離れた場所に立っていた。


 そして。

 それを一目見た瞬間、老人はすべてを看破した。


「――……驚いた。と思っていたが……よもや、お前ほどの奴が呰見に来ていたとは思わなんだ」

「あら。流石ね、噂には聞いていたけれど」

 優里菜は一切の笑みを崩さないまま、トン、トン、と厚底サンダルのまま優雅に、軽やかな音を立てながら一歩ずつ向かってくる。それは老人の方へ向かっているというよりは、倒れ伏して動かなくなってしまった少年の方へ向かっているようだった。

 雨上がりの道路には大小さまざまな水溜りが点在していて、そのどれもが頭上の青い青い空を映している。まるで鏡を散らしたかのようで、

 そしてそれに結染優里菜の姿は映らない。

「……全く。あなたともあろう人が、こんなにも悪手を打つとは思わなかったわ。泡沫時雨の有用性、あなたは知っているのかしら?」

「生憎と、泡沫の事情には疎いものだからな。有能な祈祷師が一人死んだ、くらいにしか思えんよ」

 そう、と優里菜は零すように言葉を返して、時雨の前にしゃがみこんだ。

 心臓が止まって、少なく見ても二分は経っている。優里菜は死体愛好家故にこうした死亡率の知識も確かに頭の中に入っていて、心肺停止時からの死亡率だって事細かにわかっていた。脳に障害が残らないラインとしてはほぼ瀬戸際といっていい。

 今から心臓マッサージを行ったとて助かる見込みは高くない。

 それに第一、優里菜にとっては救護活動など性に合わない。

 それでも――優里菜にとっては、時雨だけは助ける価値のある存在だった。


 しゃがみこんで、膝をついて、優里菜は片手を彼の心臓のある位置に添えた。本来なら伝わってくるはずの鼓動は一切感じ取れなくて、生命の気配が限りなく希薄になっている。

 救護活動などするまでもない。

 でも流石に失われかけた命を引き戻すには結構頑張らなきゃいけなくて、それがちょっと不服で優里菜は溜息を吐いた。

「……まったく。ここまで隠し通したのに、全部水の泡だわ」

 それは老人に当てたものか、それとも少年に当てたものか。

 優里菜にしかわからないそれは宙にほどけて消えるだけで、そして彼女は時雨の耳元に口を寄せて。


『――……いつまで寝ているの? 早く起きなさいね』


 そう、溶けるような声音でそれは囁いた。



 ◇



 走馬灯か? と俺は訝しみながらその光景を眺めている。

 それは六年前のあの、忘れられない欠落した記憶の再生。あの日であった、もう顔も声も名前もわからなくなってしまったあの人のことを、最後に思い出している。

 以前に朱梨に話したとき、一つだけ言わなかったことがあった。

 暗い暗い楽園の部屋。

 お姉さんと最後に話したあの会話。

 あの中で――……どこだったか、どういう流れだったかは忘れたが、確か。

『……いつか、わたしに会う時までに。

 人を殺せるくらい強くなっていて、っていったら、君はできる?』

 そう、柔い笑みを浮かべたあの人に尋ねられた覚えがある。

 それがあの人にとってどういう意図を孕んだ問いだったのかは今でもよくわからない。それでもその表情は、……まあ細部はもう思い出せないけど、頷いても頷かなくても構わない、とでも言いたげなものだった。

 その時の俺は、確か首を横に振った。

 人殺しはいけないことだ。そんな強さにはなりたくない、だったかな。

 その答えでお姉さんは満足したようで、それ以上は何も言わなかった。あの人のほしかった答えはこれで合っているのだろうか。今でも時々考えるけれど、でも六年経った今も終ぞそんな、人殺しができるようなほど強くはなれなかったから、あの時の答えとしては間違ってはいないのだろう。

 お姉さんは俺に何をさせたかったのだろう。

 そればかりを考えて、でもそんなものの答えはいつまでも示されない。

 会いに行ってあげると言ってくれたが、それがいつになるのかはわからない。あの日、窓の外に飛び込めなかったあの時点で俺の初恋はおしまいだといったけれど、実際のところは未だにその一縷の希望に縋って心の奥底で燻り続けている。

 いつか会えた時に聞きたいことは山ほどある。

 でもきっと、もう俺は会えたとしてもあの人を認識することはできないんだろうなと、そう諦めたまま、あの日の欠けた記憶ばかりを再生しては心臓より奥にしまい込むんだ。


 ……そうして、再会は果たされないまま俺は死んだ。

 死んだことに後悔はない。あの選択はあの時点での最善手であると今でも思っている。

 だからまあ、走馬灯があの人なのも、別に何らおかしいものではなくて。


『……だから、ほら。

 いつまで寝ているの?

 早く起きなさいね』


 走馬灯の途中。

 あの日にはないはずの言葉を、お姉さんが口にした瞬間。

 ――……ほとんど何の抵抗も出来ないまま、俺の意識は急速に引き上げられた。



「――……ごほッ、ごほッ! かは、ひゅ……ッ!」

 強制的に意識が身体に戻る。もう半分冷たくなりつつあった体は息を吹き返して、しかしその節々に心停止の後遺症が残っている。がくがくと尋常じゃないくらいに震える手をずりずりと重たげに動かして心臓部分を押さえるようにして、時雨は肺が破れそうになるほど必死に酸素を取り込んでいた。

(生、き……?)

 今のこの状況が何も呑み込めない。

 自分は確かほぼ即死のトラップを起動させて死んだのではなかったか――とぼんやり思いだす。血液がいまだ脳みそに回っていないかのように考えがまとまらない。

 身体を起こすことすらままならないまま、ぼんやりと動く視界で周りを見渡して、

「――……え、」

 そして、ありえないものを見た。


 自分のそばには結染優里菜がいた。

 それはわかった。

 その結染優里菜が認識できない。

 顔が。

 声が。

 容姿が。

 全て見えていて、なのに

 それは、

 この現象は、俺はよく知っていて――


「あ、なん、で……?」

「……………………………………。隠していたんだけど、流石に今回はちょっと力を籠めないと無理だったもの。そりゃあ、認識阻害に引っ掛かっちゃうわね」

 もう、ここまで頑張ったのに。なんて目の前の人はがっかりした様子で言っている。

 それを時雨は全く呑み込めなくて、でも聡明な頭脳はこの事実が指し示すことをすぐに理解して、でも信じられない様子で目を見開いて、優里菜を見つめている。

 そんな彼の様子に、優里菜はまるであの走馬灯のように優し気に微笑んで。


「……そうだ。わたし、     結染優里菜って言うの。あなたのお名前は?」


 そう、自分とあの人しか知らないはずの言葉を、目の前の人は口にした。

 


 ◇



「さて――それで? 神代のお爺様は、この後どうするの?」

 呆然とした様子のままの時雨を一旦放っておいて、優里菜はゆらりと立ち上がって老人の方を向く。彼女にとっては老人が何のために今回の事態を引き起こしたのだとか、そういうのはあまり興味が無かった。どちらかというと今後のこの老人の動向だけは、気を配っておきたいところなくらいだ。

 そんな優里菜の様子に老人は愉快そうに笑っている。

「なに、なに。思ったよりも事態が好転したものだからな。孫娘の初陣でも見に行くとしよう。まさかお前ほどの奴が、こちらについてくれるとは思っても見なかった。計算外だよ」

「あら、人間の味方をしている訳ではないわよ? わたしはわたしの目的のために、呰見に来たんですもの」

「そうか。ではお前たちとは今日が最後だろう。儂は遠くないうちに、孫娘に呪い殺される予定だ。――そこの、泡沫の倅」

 去り際、老人は時雨の方に声を投げた。

 時雨はまだ碌に返事も出来ない状態だが、聞くだけならできそうだった。

「秋の終わり頃になったら、真宮の長女に儂を探せと伝えておけ」

 ……それがどういう意味なのかは、時雨にはよくわからなかった。

 それでもきっと重要なことなのだろうとは理解できたから、まだ霞む脳内に必死に刻み込んだ。

 そうして神代の老人はその場を去った。あとに残されたのは時雨と優里菜の二人だけ。遠く遠くに消えていく老人の背を優里菜はぼんやりと見ていて、時雨はようやく全身に血が廻ったようで、頑張って上体を起こしていた。

「……ゆりな、さん」

「あら。……ふふ、いっぱい聞きたいことがあるって顔ね?」

 こくりと頷いた。

 聞きたいことは山ほどある。

 ずっとあなたに会いたかったのだと伝えたいのに、肝心な時に舌が回ってくれやしない。出会って三か月間、ずっとあなたになんとなく昔のあの人の影を見ては振り払っていたのだと、そう叫びたいのに喉が開いてくれない。

 ずっとあの初恋を燻っているのだと。

 誰にも、朱梨にすらも零さなかったそのことを伝えたくて、でもきっとそれは言ったところで何になるわけでもない。

 結局のところ、優里菜は/お姉さんは時雨のことは恋愛的に好きなわけがないのだから。

 だから――さんざん、迷った末に。

「……元気に、していましたか」

「あら。再会して初めに言うのがそれなんだ」

「常套句でしょう、……痛い思いは、しませんでしたか。怖い目には、遭いませんでしたか」

「平気よ。わたし、これでも強いもの。

 ……大きくなったわね、時雨くん」

 その一言で、もう駄目だった。

 いろいろ――……色々様々なものがつっかえたせいでろくに言葉も紡げなくて、その代わりに視界がどんどん歪んでいく。

 今の俺は、この人の望むような存在になれているのだろうか。

 今の俺は、この人が必要とする何かをきちんと持っているのだろうか。

 そんなことばかりが頭の中をぐるぐるぐるぐると廻っている。

 そんな様子に優里菜はしょうがないわねと笑って、取り出したハンカチで彼の目元を拭ってあげていた。

「……それより。わたしからもいろいろ言いたいことがあるのだけど」

 涙が止まるよりも前に、優里菜は時雨の頬をつまんで。

「時雨さん、なに意気揚々と死地に向かっているの? あなたの存在は貴重なんだから、易々と死んだらだめじゃない。いい? 死ぬ寸前まで頑張ってもらうことはあるけれど、死なれたら困るわ。肝に銘じてちょうだい」

「は――はい、すみません、考えなしでした」

「はい。まだ一度目だし、お説教はこれくらいにしてあげる」

 お説教、もとい釘差しといったところか。

 優里菜にとっては時雨の存在は割と重要であるらしい。それが知れただけでも良かった、と僅かに安堵して、


 ――大きな鳥の影が、二人の上を走った。


「ッ……! 以津真天、来たのか!?」

「…………。時雨さん、死んだ直後に無茶を強いるけど、いいわね?」

 これまでにないほど真剣な優里菜の表情に、時雨も自然と仕事モードに切り替わる。まだ目尻に少し残っていた涙も乱雑に拭っていつもの顔になった時雨に、優里菜は目線を合わせて瞳の奥を見つめた。

「いい? 今からあなたの身体に催眠をかけるわ。リミッターを外す、って言ったらわかりやすいかしら。あなたの素の身体能力を底上げします。それにいつもの符の術式を使えば、相当なスピードで走れると思うわ」

「わかりました。けど……そこまでする必要はあるんですか?」

「あるわ。一刻も早くあの鳥に追い付かないといけない。じゃないと朱梨さんが死んじゃうもの」

「ッ、!」

 朱梨の名が出た途端に、時雨は無理矢理に残りの停止していた身体の機能に喝を入れて動かし始めた。

 考えてみれば先ほどまで朱梨の祖父がいたのだ。朱梨に、泡沫時雨が死んだと伝えた可能性だって十分高い。そしてそれを知らされた朱梨なら――……きっと、遅かれ早かれ後を追うことも、容易に想像がついた。

「朱梨さんも正直生きていた方がいいものね。朱梨さんの一番の強みは彼女自身の戦闘センスだもの。……。時雨さん、じっとわたしを見ていてね。

『……あなたには何も枷はないわ』」

 優里菜の翡翠色の瞳が、時雨の黒い瞳を貫いた途端。

 いままで身体に残っていた心停止の後遺症のほとんどが、一瞬にして消え去った。

「……ッ、これなら……!」

 もう問題なく立ち上がれる。ぐ、ぱ、と手を握ってみても何の違和感もない。これならば刀を握っても問題なく戦えそうだ。

 このままでもきっと普段の何倍も早く走れる。それでもまだ早く、一刻も早くあの鳥の向かう方へと駆けるために、時雨は持っていた符を数枚取り出して身体能力のブースト用にズボンの裏地に張り付けた。

「問題なさそうね。それじゃあ時雨さん、抱えてくれる?」

「……いいんですか? 相当なスピードで走るんですよ」

「構わないわよ、少し髪が乱れても」

 髪が乱れる、くらいにしか考えていない優里菜もまあいつも通りといえばいつも通りなのかもしれない。

 時雨は少し不埒な考えを全力で追い払いながら、冷静な素振りで優里菜の身体を片手で抱え上げる。流石にこれだけではバランスが心許なかったので、優里菜には自分で時雨のギターケースにもつかまってもらうことにした。

 考えてみれば優里菜と共闘などこれまで一度も無かった気がする。

 それでもきっと一番やりやすいだろうという確証のない確信を抱いて、時雨は鳥が飛んでいった方角へと向いた。

 ナビやバフは優里菜がしてくれる。

 時雨はただ一秒でも早く鳥に追い付けばいい。


「――……目標は呰見総合病院ね。

 さあ、時雨さん――最短経路で駆け抜けなさい」


 そうして。

 二十日ぶりに見る青空に、流星のような人影が舞った。

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