第4話 ⑤ 死体の雨 化けの薄皮
呰見総合病院のそばに流れる堅洲川は、間もなく決壊しそうなほどだった。
降り続く雨が呰見限定であるからかギリギリ氾濫はしていなくて、土砂が流れ込んでいるというわけでもない。それでも濁流であることに変わりはなく、幅の広いはずの河川敷はその大部分が濁った水の下に隠れていた。もし水かさが増して溢れてしまえば、総合病院の敷地は冠水するだろう。建物自体はちょっと高めに建てられているから、少しくらい冠水しても中に被害は行かないだろうが。
そのせいか最短ルートの橋は通行止めになっていた。
封鎖された橋の前で舌打ちした朱梨は、すぐに引き返して別のルートを脳内に浮かべる。どの道川は渡らないといけないが、普段交通量の少ない場所ならあるいはまだ封鎖されていないかもしれない。
人通りがほぼないせいか、思ったよりもパニックは起こっていなかった。
人除けでも使われてるのか? と訝しむ朱梨だったが、こちらとしては助かるので気にしないこととする。最も、そこかしこから救急車のサイレンが聞こえてくるから、この死体の雨が全くバレていないというわけでもなさそうだ。
おそらく、体感八割は屋内に閉じこもっている。
外にいるのはそれこそさっきの橋の封鎖場所の近くにいた警察官のような、仕事で外に出なければいけない人たちだけだろう。死体が降るなどと言うセンセーショナルなことが起きているのに、野次馬の一つも出来ていなかった。
(……桜……!)
ぎり、と歯噛みしながら一人の少女の身を案じる朱梨。
脳裏に浮かぶのは、入院棟の外れの一室に寝かせられている女の子の姿だった。
(私は――……まだ自分でどうにでもできる。けど桜は自分じゃ動けない……!)
桜――神代桜。
現在、呰見総合病院第二精神病棟特別隔離室のベッドに横たわり、この数か月一度も目を覚ましていない少女。朱梨にとっては唯一、家族と呼べる存在。この緊急事態の中、恐らく朱梨の推測が当たっているのなら、彼女の身も危ない可能性がある。万が一にも意識のない状況で怪異に襲われでもしたら――と頭をよぎり、朱梨は慌ててその考えを振り払った。
「……いいや、大丈夫だろ、甲斐先生もいるだろうし」
精神病棟と言っても、第二は少し異なる。通常の精神疾患により入院している患者たちのいる病棟が第一精神病棟。一方で、怪異がらみの入院はすべて第二精神病棟に、精神疾患を装って入院させることとなる。その中でも特別隔離室は別格で、並の怪異では入ってこれないどころか足を踏み入れた瞬間に消し炭になるほどの防御結界が張られた部屋だった。今現在、特別隔離室に入院しているのは桜ただ一人で、これは彼女の有用性ありきの措置だろう。
「……そらそうか。神代家最後の生き残りだしな」
バシャン、と大きな水たまりに前輪が突っ込む。朱梨は気にせず突っ切った。露出した脚が盛大に濡れたが、それすら意識の外だ。
もう間もなく総合病院に着くだろう。
神代桜――朱梨にとっての唯一の妹。
神代家唯一の生き残り。朱梨の母である神代菖蒲の一人娘。神代本家たった一人の最後の代。
当然――この情報を並べられては、否が応でも神代朱梨という存在がないことぐらい誰でも思い当たるだろう。神代家が桜を除いて滅んでいると言われたのなら、当然神代朱梨など生きてはいないはずだし、菖蒲が朱梨の母だというのなら、桜が一人娘だというのはおかしいし、朱梨と桜が姉妹なのならばこの代はたった一人とは言えない。どうやったって神代朱梨という存在に矛盾が生じるし、それを朱梨はわかっている。
「……だからまあ、本家お嬢様を守るのは当然ちゃ当然かな」
それっぽい理由を並べて、朱梨は再度スピードを上げた。
もう病院はすぐそこ。
朱梨の脚ならバイクを止めて十数秒で院内に入れるだろう。幸いにも人は少なくて、やっぱり今日は異常なくらい外を出歩く人がいない。半分突っ込むようなスピードで病院の敷地内に入った朱梨は、適当なところにバイクを止めてロックもかけないまま走って病院内に飛び込んだ。
第二精神病棟への行き方は少々複雑だ。
基本的に、見舞いに来たときはまず受付を済ませる必要がある。第二精神病棟に入院している患者に会いに来た場合は、それに加えて手荷物チェックと簡易的なお祓いのようなものを受ける必要があった。名目上は精神病棟であるが、実際のところは怪異案件に巻き込まれた患者が集められている空間だ。それ故に、外から呪具や呪いなどを持ち込まないよう、あるいは病棟内の呪いに耐えられるようにお祓いをする必要があった。
とはいえ本当に簡易的なもの。
ほぼほぼ機械化されているそれは、例えるなら空港の保安検査場にある金属探知機のような感じだろう。探知ついでに浄化していくおかげで、ほとんど時間を取らせないまま簡易的祓除は終了した。
一度預けた手荷物(と言っても本当にスマホと財布くらいしかなかったが)を手早く回収して、看護師の後をついていく。病院内は流石に騒がしくなっていて、半分顔見知りのその看護師の表情にも僅かに張り詰めた雰囲気が滲んでいた。
「……第二病棟、どんな様子ですか」
「今のところは問題ありません。外のあれらは搬送後速やかに地下特殊霊安室に安置しています。第二精神病棟には一切立ち入らせていません」
「そうすか。……ちなみに、神代桜の容態に変化は?」
「そちらも変わらず。心拍と呼吸は安定していますが、依然として意識は戻っていません」
ガラス張りの渡り廊下を二人で歩く。
人はいない。
そもそも第二精神病棟に立ち入る人自体が少ないからだ。面会ができない、というわけではないがそもそも入るにあたって一定の怪異耐性が要る。朱梨は彼女自身の耐性が高いことと親族であることから比較的スムーズに通されているが、全く耐性のない人であればまず間違いなくこうはいかないだろう。免疫の落ちている人を感染症患者のいる部屋に入れられないのと同じことだ。
時折、ガラスに濁った水が付着する。外を見下ろせば中庭に脱力した人影が写った。落下の衝撃で首が折れたらしく、普通は見ないような形の人型に成り果てている。敷地内なことだし、すぐに回収されて地下の特別霊安室に運ばれるのだろう。
第二精神病棟は一定のルートでしか入れないようになっている。
一般病棟の地下を通過した後エレベーターで6階へ行き、そこから一本道に伸びる渡り廊下を渡った先だ。定期的に訪れている朱梨はもうすっかり道順を覚えてしまっているが、事前知識なしの所見であればまず立ち入れない。必ず看護師の案内に従うよう言われるので、それについていくしかないのだが。
第二精神病棟の入り口に着いて、看護師が取り出したカードでロックを解除する。認証はすぐに完了して、ピピっと小さな電子音とともに鍵の開くような音がした。そのまま扉を横にスライドさせて中に入る。
明るい、綺麗な雰囲気の造りだ。
可能な限り日の光を室内に入れるよう工夫された設計になっていて、きっと晴れていれば眩しいくらいに明るい空間になったのだろう。生憎とここ最近は雨が続いて日光はしばらく差し込んでいないが。
「……今日は皆寝込んでるんですか」
「本日は第二精神病棟では、患者の皆さんに終日自室にいるように言われています。不必要に怪奇現象を目の当たりにさせる訳にもいきませんし、それで怪異案件が誘発されたら困りますからね」
「まあ、精神汚染とかはないって話ですけど」
「精神汚染が無くとも、死体は死体というだけで心を病むものですよ」
それもそうか、と朱梨はそれきり口を噤んで無人の談話室を通り抜ける。日光があれば大層暖かな空間だったのだろうが、今は白く暗い雰囲気も相まって酷く冷たい様に思えた。
白い廊下を歩き続けて、途中で一つのエレベーターに乗る。元より6階の高さにいたが、そこから3階分上に上がった。神代桜の寝ている特別隔離室は9階で、ここはそもそもこの隔離室のみしか存在していない階だ。ほかに病床はなく、向かいにナースステーションのような場所と小さな共有スペース、ちょうど先ほどの談話室を一回りか二回りほど小さくしたくらいのスペースが用意されているだけ。最も、桜は今も起きていないから、専ら医師や看護師が使っているだけなのだろう。
この上はもう屋上があるだけ。
扉が開いたエレベーターから一歩、その9階に足を踏み入れて、
「――……待て」
咄嗟に、隣にいた看護師の腕を掴んだ。
「……神代さん?」
「…………。看護師さん、今日は本当に、桜の容態は変わりなかったんだよな?」
「……ええ、朝の検診では特に異常は。……どうしたのですか」
「……明らかに、いつもと違う」
背後で扉の閉まる音がして、やがてその鉄の扉の向こうで箱が下に降りていく。
朱梨はそこで立ち尽くしたまま、見開いた目でその奥の廊下を見つめている。
「……呪い、か何かがありますか」
「呪いというよりは穢れだ。空気が重い。この階は丸ごと浄化されているはずだし、何より外からの隔離に特化してんだろ、中で何かがなけりゃこんなに穢れの濃度は上がらない」
「……神代さん、すぐに隔離室へ。異常がある場合、貴方はすぐにこの階を降りてください」
「……あんたは?」
「患者を前に逃げ帰ることはできませんので。第二精神病棟の看護師は皆呪いの類の耐性が高いらしいので、少しくらいは持つでしょう」
そうは言うものの、この看護師はただの一般人だ。
時雨のように怪異の類を打ち破る力を持っている訳でもない。現に看護師の頬には僅かに冷や汗が流れていたが、朱梨は何も言わないことにした。第二精神病棟に勤務している以上、彼女なりの覚悟はあるのだろうし、無碍にするのも憚られる。
とはいえ朱梨も逃げるつもりは毛頭ない。
ぎり、と奥歯を噛みしめて一歩歩き出す。桜のいる病室はこの先の廊下を曲がったすぐそこだ。数秒足らずでその曲がり角まで辿り着ける。足早に二人はその角を曲がって、
「――……ッ!」
事態を察するのは朱梨の方が早かった。
たった一室しかない病室の扉。
緩やかに重たげな動きで開閉するはずの引き戸。
その前に、ぺたぺたと血の足跡が残っている。
「さ――桜ッ!!」
反射的に朱梨がそのドアに飛びつく。
力任せにその扉を開けば、一瞬でその中に飛び込めた。特に鍵もかかっていないおかげで何の苦労もなく開く。とはいえ一瞬防御膜のようなものを通過した様な変な感覚はあって、それでもそれは入室を拒むほどの防壁ではなく。
「は――……、」
そうして。
病床の周りに、まるで神社の注連縄のような、紙垂が複数垂れ下がった紐がカーテンに沿って付けられている少し異質なベッド。そのカーテンはいつも閉まっていたはずなのに、今日だけは大きく空いている。
ベッドの上には、誰もいなかった。
「――……みしろさんッ! 桜さんは!?」
「っ……! 看護師さん、そこのナースステーションの中は!? 人いるか!?」
咄嗟に朱梨が振り向くと同時、その看護師の視界にも空のベッドが映る。それで事態を把握した看護師は、急いで向かいのナースステーションに飛び込んだ。
(……この穢れの濃度で、常駐していた人が平気なはずない……それに、)
眼下の血痕を見下ろす。それは小さな足跡で、ほぼほぼ桜のものとみていい。
それがこのベッドを降りるようにそばの床についた後、そのまままっすぐに扉の向こうに向かっている。
間違いなく、桜は自分でこのベッドから降りてどこかに向かったはずだ。
「……できる訳ねえだろ、あんな体で……ッ!」
彼女の容態を知っている朱梨は、それが不可能なことをよくわかっている。桜は五体満足ではあるがそれだけで、内側がもうそれはそれは酷いことになっていたはずだ。何の助けもなく一人で歩くなど出来るはずがない。
朱梨はそのまま、全力でその血の足跡の後を追う。
足跡は扉を出てそのまま廊下に続いている。それを辿ればやがて屋上に続く非常階段への扉へと向かっていた。
朱梨は一人でその扉を開け放って外に出る。外は未だ雨が続いていて、段々とその雨足は暴風の域に達しようとしていた。
「……ッ、どこ行ったあいつ……!」
悪態をつくが、直感的に行先はわかっていた。
向かうとしたら屋上。
この異常事態でそれ以外には考えられない。
カンカンカンッ!! と大きな足音を立てて朱梨はその金属製の階段を駆け上がった。雨に濡れたそれは靴を履いていても滑って転げ落ちそうになるのに、恐らく裸足であろう彼女が昇るにはあまりにも危険すぎるだろう。足を滑らせていなければいいが、見たところ足跡以外に血の跡は見当たらないから多分大丈夫なはず。
1階分など、朱梨の脚なら数秒もかからない。
すぐに朱梨は屋上に辿り着いて。
「……桜」
吹きすさぶ雨風の中。
大粒の雨粒がコンクリートに叩きつける屋上の中心。
そこに、小さな金の人影を見つけた。
血は繋がっていないのに、奇しくも朱梨と桜は同じ金髪碧眼だった。最も、桜の方がより上質な金の絹といった具合に綺麗な金髪ではあったが。
しかしその綺麗さも以前のもの。
今は数か月の昏睡によって艶は失われてしまって、軋んだ長い髪を風に任せ、大きく乱している。朱梨からは後ろ姿しか見えなくて、着ている入院着は雨に曝されて濡れていて、足は目を背けたくなるほど酷く血塗れだった。
朱梨が声を掛けても、桜は振り向く気配はない。
「……」
桜の意識が戻った――とは、考えにくい。
桜の容態はそう急激に回復するものでもないからだ。意識が戻ったとて、さっきも言ったように一人で歩くことなど到底できない身体であるはずだ。
なら。
目の前の。
あの女の子の中には、何が居るのだ。
「――……」
すぅ、と朱梨の瞳孔が開く。
同時に彼女は桜に向かって静かに左の人差し指を向けた。
神代朱梨はそのまま――……まるで少女を横に真っ二つにするかのように、勢いよくその指先を真一文字に振った。
(……ッ、駄目か……!)
一瞬、桜の身体が揺れる。
それでも倒れるまではいかなくて、その弱弱しい足で未だ地を踏みしめたまま。対する朱梨はぎり、と怖い顔をしたまま、痛みを押さえるように先ほどの人差し指をかばっている。
まるで突き指をしたかのように赤く腫れあがっていた。
自己流の対呪術式ではあったが、圧倒的に火力が足りない。何層にも折り重なる桜の内部の穢れの、その表層すらも斬れなかった。
……いいや、全力を出せばどうにかできるのだろうが、そうすると次は桜の身体が耐えられない。
「……でもなんかいるわけじゃねえ……、――……内部の穢れが、引っ張られてんのか?」
おそらく9階の異常は桜の内部の穢れが漏れ出たもの。
桜は何も返事をしない。
朱梨は今の一瞬で桜の状態を看破して、険しい顔でゆっくりと桜の方に一歩、足を踏み出した。
(桜は意識が戻ったわけじゃない。……夢遊病のように、ただ内側の穢れに身体を動かされている……)
一歩、また一歩、ゆっくりと朱梨はその少女の後ろ姿に近付いていく。
桜は逃げない。
ただふらふらと、体幹をブレさせながら静かにそこに佇んでいる。
おそらく、下手に耐性が無い者が触れれば一瞬で意識が持っていかれるほどの濃度。朱梨は多少平気であるから問題ない。ずっとでなければ少し抱えることも出来るだろう。
なら朱梨がやるべきことは、今こうして外に誘い出されている桜をどうにかして病室に戻す事――……
その結論に達したと同時に。
「――……え」
ぶわ、と一際強い風が吹き下ろした直後、大粒の雨はぴたりと止んだ。
「……止んだ?」
風を咄嗟に腕で防いだ朱梨は、恐る恐る顔を上げてすぐ、その異変に気が付く。先ほどまで分厚い黒雲が立ち込めていた空は一瞬でそのすべてが吹き飛ばされて、何日も見ていなかった澄んだ空色が覗いている。真上からはまぶしいほどの日光が差し込んで、屋上の水たまりに光がさしてきらきらと輝いていた。露出した肌に当たるその光は暖かくて、それでもなぜだか掻き毟りたくなるような不快感も付随している気がしている。
状況としては、多分好転したはずのそれ。
雨が止んだということはつまり、降り落ちてくる死体も生成されなくなったはずだ。今回の事件の解決に等しい事象だが、いつまでたっても朱梨の表情は晴れなかった。
何か、凄まじく嫌な予感がする。
「――……」
そして嫌なことに、こういう時のこういう勘はいつだって当たっていた。
朱梨は自分の生き死にだとか、自分の周りの悪いことに関してよく直感が働く。それはなんとなくこれまでのちょっとばかり過酷な人生の副産物のようなものだと思うけれど、今まではそれなりに重宝してはいた。
今それが起こるのはおかしい。
だって雨が止んだってことはこの怪異現象は終わって、桜も未だ無事に目の前にいて、周りには何の危険もないように見えていて、ならこの全身を刺す悪い予感はなんなのだ。
どこかで。
とてつもなくまずいことが起こっている、気がする。
――……ピリリリリリ、
「……っ、」
その場から一歩も動けずにいると、不意にポケットの中に入れていたスマホから着信音が聞こえてくる。びくりと大袈裟なほどに肩を揺らした朱梨は、恐る恐るそのポケットに手を突っ込んだ。その着信はずっと続いていて、ゆっくりと画面を見るとそこには、
「……時雨……」
見知った名前が表示されている。
もう見慣れた画面。
それなのにここにきて悪寒めいた予感は最高潮に達して、スマホを持つ手は覚束なくなっている。うつむいて前髪で影になっている青の瞳は見開かれたまま揺れていて、はあ、はあ、と酸欠になったかのように呼吸は荒くなっていった。
そんなわけはない。
きっとこの電話は怪異案件の解決を知らせる時雨からの電話のはずだ。
こんな悪寒がするわけがない。
きっとこの着信を取れば向こうからいつものように静かな声音が返ってくるはずだと、そう言い聞かせながら、朱梨はゆっくりと通話開始ボタンを押した。
「……時雨?」
おそるおそる、電話の向こうに声を投げる。
……。
なにも、返ってこない。
「時雨、どうした? 何があった?」
いよいよ不安になって、朱梨は焦りの滲んだ声音で問いかけを繰り返す。
それもなにも返されない。明らかになにか向こうでまずいことが起こっている。それがなんなのかわからないまま、朱梨は何度か電話の向こうに声を投げて、その全てが返されないまま――……
『――息災のようで何よりだ、孫娘』
――ひゅ、と朱梨の息が止まった。
「………………は、」
『どこに行ったかと思ったが、桜のところか。好都合だ』
「――……な、んでお前が時雨の電話で出てんだ、クソジジイ……ッ!」
この場において最も聞きたくなかった声が、返ってきた。
一瞬で電話の相手を察した朱梨は語気を荒げて問い返す。まず間違いなく、時雨の周りにこの人物がいるのはあり得ない。
声を聞くのは数か月ぶりだ。
もう高齢のはずなのに声音に弱りは未だ見られない。
神代朱梨の祖父が、電話の向こうで朱梨を嘲笑っている。
「テメェ……! 主犯のくせして堂々と姿を現すなんていい度胸してんなッ!!」
『ほう。お前は儂が元凶だと看破していたか』
「こんな悪趣味なもん作るのお前しかいねえだろうがッッ!!! ……っ、ちげえ、時雨は!? なんでお前がそのスマホ持ってんだ!?」
ああ、と電話の向こうの老人は興味の薄そうな、というよりも落胆したかのような声を上げた後、あっけらかんと。
『泡沫のところの倅なら、もう死んだ』
そう告げられた瞬間に。
朱梨の脳内の時間がぴたりと止まってしまった。
告げられた言葉の一切が理解できず、また理解したくなく、朱梨はまるで石化でもしたかのよう一切動かなくなってしまっている。脳みその全ての機能が停止したかのようで、すべての神経伝達が失われてしまったようだった。
そんなこと、あるはずがない。
今の朱梨には一切の情報が耳から入ってこなくて、故にいつもならきっとすぐに気づけるほどの、遠くから聞こえる風切り音も全く察知できなかった。
思考が止まってしまって、そして何秒経ったかもわからないくらいの呆然を挟んで、ようやく朱梨は震える唇を動かした。
「は――……」
『全くお前も間が悪い。ここに転がっているのがお前であれば、万事上手くいったものだが』
「ふ――ふざけたことを抜かしてんじゃねえッッ!!! ある訳ねえだろうがそんなことッッッ!!!」
『ほう? お前は儂が嘘やハッタリを言うように見えていたのか』
まさか、と向こうの老人は笑っている。
朱梨も心の底ではわかっている。染み付いたこれまでの経験から、祖父はこのような類の嘘は用いないことを否が応でも知っている。それでも、言われたことを認めたくない一心で、そんなわけないと叫ぶように否定の言葉を繰り返した。
そんな事実は認められない。
それを認めてしまえば神代朱梨は息の仕方がわからなくなってしまう。彼女の生きる理由がなくなってしまう。比喩ではなく本当に、彼女の生きる意志自体が諸共に消えてしまう。
だって彼女は別に、死ぬこと自体は怖くないのだから。
『――……まったく、聞き分けのない小娘だな。それ、実際見れば信じるか』
その言葉のすぐ後に、一つ小さな通知音が耳に入る。
画面上部に通知バナーが出て、すぐにそれも引っ込んだ。それでも朱梨はその通知で何か写真が送られてきたのだとわかって、震える指先で恐る恐る、そのバナーをタップする。
時雨との会話が立ち並ぶそのチャットの最新に、一枚写真が貼られていて、
「――……ぁ、」
そして、とうとうスマホを持つ手にも力が入らなくなった。
ガシャン、とスマホが音を立てる。僅かに画面の割れたそれは上向きに転がって、煌々とその写真を画面に映し出していた。
もう一切の言い訳もできない。
過去何度も死人を見てきた朱梨は、そんなつもりは無くとも勝手に生き死にの判別がついてしまう。
何度見ても変わらず。
そこには、泡沫時雨の死体が映っている。
◇
ばしゃ、と水溜りに足を突っ込むことも厭わずに、時雨は全速力で雨の中を駆けていた。
結々祢や葵との作戦会議もまとまって、葵に深雪を任せてから時雨は急いで呰見神社を飛び出したところだった。下りの石階段は滑り落ちそうで怖かったが、何とか踏み外さないまま降り切った。そのまま時雨は事前に耳に装着しておいた無線イヤホンのマイクで神社の中の葵と通話を繋げたまま、傘もささずに住宅街の道を走り抜けていく。
『時雨くん、外の様子はどうですか』
「雨が強まってます、恐らくこの方向で間違いないかと!」
一歩踏み出すごとに雨粒が大きくなっている様な錯覚さえ受ける。
この術式の核――……本人はすでに忘れてはいるが、先週の日曜日に朱梨と二人で散策したときに見つけた結界の始点。おそらくそこを叩けば破壊が可能であるだろうとされる部分に時雨は単身で向かっていた。
あのときは見つけられはしなかったが、今回は先ほどの葵の解析のおかげである程度範囲が絞られていて、西区神凪のどこか、というところまで特定できていたらしい。
西区神凪、というと時雨の家から呰見神社の間ということになる。
そしてその間にある中で最も怪しいもの。時雨には既に心当たりが一つあった。
『……時雨くんの推察が正しければ、この術式は七月から準備されていたことになりますね。いったいいつからこの術者は以津真天の襲来を予知していたのか』
「わかりませんが……なんにせよ記憶を消される期間じゃなくて助かりました」
七月――ちょうど、時雨が謎の影に苛まれて精神的に不調になっていた時期。時雨の家から呰見神社へと向かう途中で見かけた見慣れない、前までなかったはずの石碑を見たことを、時雨は未だはっきりと覚えていた。
時雨は元々、一度見聞きした事柄はそう忘れはしない。六年前の強制的な忘却や今回の記憶欠落術式などのような、外的要因がない限りは基本的にほとんどのことを覚えている。
だからあの石碑がどこにあるのかも鮮明に。
『七月といえば。時雨くん、あの影は未だに?』
「ああ、はい。でもまあ害がないならあとは慣れですよ。今はもう問題ありません」
『そうですか。それならよかった』
依然として時雨の視界には時折影がチラついている。しかし彼はもうそれに慣れ切ったようで、既にあの時のような不調は見られなかった。
と、葵と話をしつつ駆けて行けば、じきに目的の石碑のところまで辿り着く。
記憶にあるそれと変わらない、若干汚れて年季の入ったように見えるそれは、きちんと思い返してみれば六月以前にはここにこんなもの無かったはずだと気が付ける。じわじわと染み出してくるような、反発力のような力がまとわりつくが、あらかじめ防御術式を張っているおかげで葵のように浸食されることはなかった。
「見つけました、葵さん。やっぱりこれで間違いなさそうです」
『ありがとうございます。おそらくそれを壊せば術式も停止するはずです。一息に壊してすぐに防御術式を張り直せば、私のようにはならないでしょう。やれますか?』
「問題ありません。術の切り替えは結構得意ですから」
葵の声に応えながら、時雨は背負っていたギターケースから一本の刀を取り出した。
黒い鞘に青みがかった色の柄。打刀にしては僅かに刀身は長く、これは彼の体格等に合わせて打たれた刀であるためだ。オーダーメイド、といえばわかりやすいだろうか。
彼の最も扱いやすいその刀は言うまでもなく愛用品で、彼が最も信頼している刀でもあるそれの鞘をゆっくりと抜く。一切の刃こぼれもないその刃は曇天であろうが鈍く輝いて、触れたものすべてを断ち切るほどの鋭さを見せている。
ふ、と一つ息を吐いて、片手でその柄を握りしめて眼前の石碑を見据えた。
「――……」
最後の一歩を踏み出す、その一瞬前。
(――……これは、)
じぃっと見つめて、そうして一つ異変に気付く。
彼が見たのは石碑ではなくて、すぐそばの地面。
何もないはずのところに、時雨は何かを捉えている。
『……時雨くん? 何か問題が?』
「――葵さん、」
目を見開いて、それを見つめて、僅かに身体が凍り付いて。
そうして散々迷った末に、葵に言葉を投げかけた。
「確認なんですが」
『……? はい』
「この術式を止めるには一撃で火力を以て叩き壊すしかない、じわじわやっているとさっきの葵さんのようになる、というのが結論でしたよね」
『ええ、そうですね』
「現状、それができるのは俺しかいないのも、間違いないですよね」
『……心苦しいですが。不安ですか? こちらからも可能な限りサポートはしますが』
「ああいや、不安とかではないですよ。……もう一つ、以津真天ですが。もし――もしも、俺が戦闘不能になったとしても、葵さんや結々祢さんならなんとかできますよね」
『……ええ。結々祢が帰ってくるまでは私が凌ぎます。だからあなたは無理をしないよう努めてください。危険だと思ったらすぐに退却を』
「ありがとうございます。……なら、やっぱり。俺がやるべきは、一刻も早くこの術式を壊してリョウメンスクナの生成を阻止することですね」
それが降れば以津真天とは比較にならないくらいの被害が起こる。
今すぐに術式を壊せるのは時雨だけ。
それを再確認して、そうして覚悟は固まった。
『……時雨くん?』
「葵さん。これより先、俺へのサポートは不要です。酒盃神事の効果範囲を呰見全域に広げて、以津真天の迎撃に注力してください」
そうして、返事を待たずに通話を切る。
耳にはめていたワイヤレスイヤホンも取っ払って投げ捨てて、そうして時雨は眼下に横たわる影を最後に一瞥した。
泡沫時雨はあの謎の影が何なのか、数か月の間で既にもう理解していた。
故に数秒後に自身が辿る末路も理解できた。
おそらくは――この術式を破壊した瞬間に、泡沫時雨は死ぬ。
「……この術者も性格が悪いな。本当に注視しないと、この術式は見えてこないぞ」
この石碑を起点として構築された術式の、何層にも折り重なったそれの最も底の部分。おそらくは未だ起動はしていなくて、この死体の雨の術式が壊されて初めて作動する即死トラップの類だろうか。おそらくは呪いの一種ではあるのだろうが、今の時雨でわかるのはそこまでだ。
怖くない、といえば嘘になる。
死にそうになることはこれまで何度もあったが、明確に死を避けられないのはこれがはじめてかもしれない。僅かにかたかたと刀の切っ先が震えるが、時雨は見ないふりをした。どれだけ恐怖があろうが、足が竦むことは無い。覚悟は決めた。あとはこの刀を振り下ろすだけ。可能な限り防御術式は張るつもりだが、恐らくはそれすらも貫通するのだろう。
「……なに、か」
何かあと一つ。
死を肯定できるだけの理由があと一つくらいは欲しくて、ちょっとだけ逡巡する。
一般人が危険にさらされないように。リョウメンスクナの被害が出ないように。大衆のための理由はあるけれど、一つくらいは自分のための理由が欲しくて、考えて。
「……そうだ。きっと、優里菜さんは大事にしてくれるだろ」
一つ、そう思い浮かんだ。
ネクロフィリアのあの人ならきっと悪いようにはしないだろう。そう考えると幾分か気が楽になった。死体が好きといっているあの人が自分の死をいつくしんで愛してくれるのなら、少しくらいは寄る辺にしたっていいだろう。
朱梨のことは考えなかった。刃が鈍ってしまいそうだからだ。
もう彼女も大きくなった。時雨がいなくても生きていけるだろう。碌な別れも言えていないのが少し心残りだが、……まあ、いつかあの世で会えるだろう。
そうして、時雨は大雨の中で一人。
一切の迷いもなく、一太刀でその石碑を断ち――……
(……………………………………、ぁ)
ばしゃりと大きな水たまりの中に倒れ伏す。
即死とまではいかなくて、でも一瞬で心臓の鼓動が停止した。
何重にも張った防御術式は一切の意味をなさず、そのすべてを貫通して時雨に死をもたらしている。
血の巡りが止まる。ものの数秒で意識が急速に混濁していく。きっとじきに呼吸もとまるだろう。人気のないこの場所では救命措置も望めない。
そうして、彼が最後に見た景色は。
急速に晴れていく空と、そして遠くに見える老人の姿だった。
◇
「――……お前が殺したのか」
『間接的にはそう言えるな。このトラップはお前のためのものだったが、泡沫の倅が壊してしまったものは仕方がない』
「――そうか。御託はいい。お前はそれに手を出した。……わかった。そんなに死にたいんなら、望み通りに呪い殺してやる」
うつむいたまま。
朱梨は今までの彼女とは思えないような平坦な声音をして、そうしてそれに似合わないほど重たげな殺意の言葉を告げている。それでもその老人は怯むこともなく、むしろ嬉し気な様子でいるだけだ。
晴れ渡った空に眩しいほどの太陽が照り付けている。
『はは、構わん。だが儂を呪い殺す前に、お前は一つやるべきことがあるだろう』
「は――ひとつ聞かせろ。テメェの目論見は死体を回収することじゃねえのか」
『それもある。が、一番はあの鳥の対処だ。アレは野に放たれてはいかん存在だが、何かがこちらにけしかけたもんだからな。本来は泡沫の倅に討伐してもらいたかったが、こうなっては仕方がない。もう火力となれるのがお前しかおらん』
照り付ける太陽。
真っ青な空。
風切り音が耳に届いている。
朱梨は濁った青の瞳をぞんざいにその音源の方へと向けて、そうしてああ、と全部を理解した。
そして、もうどう転んでもこの老人の望んだ展開にしかならないことも。
『さて――厳命だ、神代朱梨。
完成の条件は揃った。お前は全てを以てして、以津真天を討伐し最後の当主である神代桜を守り通せ。
それができたなら、儂は呪殺でも祟りでも甘んじて受けてやろう』
それに返す言葉の代わりに、朱梨は足元に転がったそのスマホを足で踏みつぶした。
画面は完全に割れて暗転し、強制的に通話は切れる。
老人の言葉はこれ以上聞いていたくはない。それでも老人から告げられた命令に背くことはできないし、何よりこの場から逃げ出す気ももう毛頭ない。
ここまで全ての状況が綺麗に朱梨を追い込んだ。
「……全部あのジジイの手のひらの上、か」
ぽつり、そう呟いて朱梨は向かってくるそれを、普段の彼女とは雰囲気の違う凛とした佇まいで見据えた。
朱梨は自身の境遇を憂いたことはない。
朱梨は自分をこうした祖父を恨んだことはあまりない。
朱梨は自分が不幸であると思ったことは一度もない。
朱梨は自分がなんであるかよく知っていて、そしてそれであることに異論はない。
朱梨は自身が人間であると思ったことは一度もない。
故に――故に、ここまで状況が整ったのなら。
神代朱梨が全力を出さない理由は、どこにもない。
「――この右腕の礼だ。その両翼とも引きちぎってやる」
桜を守るためにはあの鳥を堕とさなければならない。
朱梨が正体を隠していた理由である泡沫時雨はもう死んだ。
もう、弱い人間のふりをする必要もない。
さあ――神代朱梨の、化けの薄皮を剥がすときが来た。
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