汽水域にて

ある時の夜、汽水域の橋の近くにて

静かな世界、海からくるさざなみが聞こえて来る

そこに水面の幽霊は現れた。

波が脈動し岸を穿つ。しかしその霊は川の真ん中で静かに立って居る

水深は深いのだろう。計った事も調べた事も無いが、

川の中心で直立しているこの光景はおかしすぎる

「見えているのか」

乙さんが言う。缶を片手に俺と同じ方向を見ながら

この人物は自称見えていないと言っているが、どうやら俺と同じものが見えているらしい。見えてない事が嘘だと論ずる前に、今、この静寂を崩していはいけない、そう感じた俺は小声で言う

「あれは一体」

乙さんは遠くを見つめて言う

「・・・条件が整ったんだろう」

そう言って頭を掻く、そして続ける

「あれは俺が調査した限りでは数年前に橋から投身自殺した女性という線が濃厚だ」

乙さんがその言葉と言うと同時に水面の上に立つ霊は歩き始めた

音もなく、静かに海の方へ

「何度見ても、あれは海を目指して歩いている。何度もだ・・・そして何時の間にか、瞬きした瞬間消えていってしまう」

そして、乙さんはこっちを見た

「そこで、お前の出番だ」

出番、出番とは何だ・・・

「お前は俺より見えているからな。あれが消えた先が見えるんじゃないかと思ってな・・・」

俺は褒められた感じがした

「かすかですよ、それよりも乙さんの方が・・」

見えているじゃないですか、そう言おうとして止めた

彼は俺よりも見えるが、それには条件が必要だ、その条件が為せない以上、今、この瞬間は俺の方が見えている

「乙さん・・・今も見えてますか」

「いや、もう俺には何も見えていない」

そう言って乙さんは缶を煽った。

彼の視線の先はさっきと同じく遠くの方を見ており、その中心には水面の霊はいない

水面の霊は歩いた先、海に至る河口で立ち止まると身を屈み、黒い海に手を入れ両腕を動かしていた

「何かを探しています」

その言葉を聞くより前に乙さんは俺と同じ方向を向いていた。

しかし視線はその霊を捉えていない。どことなく黒い遠くの先を見ている。

「何かを探しているか、成程な」

そう言って、乙さんは何処かを見ながら言うと続けた

「投身自殺をした、人物は母親だった、という話だ」

だから、何だ、という感想が一番に浮んだ。見えているのは一つの面影・・・

そして女性だろうという体型、その瞬間、パズルのピースが当てはまる

背筋がぞっとした。もしもがそれが本当なら・・・

「・・・子供も一緒に」

「さあな、そこまでは分からないな・・・」

そう言って、乙さんは一点を見つめた

そして、乙さんは見つめたまま言う

「海に還るという考えは昔からあるものだ、山に還るという考えと同じく、どちらもどっちが近いか、それは恩得に預かれるか、その糧になれるかどうかという違いなんだと思う、生きる為のアニミズムの話」

「では、今の社会、苦によっての自殺はどちらになるのか・・・結果は何にもならない・・・自殺と言う奴は何処まで行っても身勝手の業なんだ」

俺の視界の世界、屈んだ水面の霊はせわしなく手を動かすとそのまま海に沈んでいった

「己が殺したのに探すなんて、無駄なんだよ」

そして、乙さんは立ち上がり、缶の残りの中身を川に垂れ流した

「・・・同じ所にいけない、それがいつかわかるように・・・」

そして俺の隣に立つ乙さんは空き缶を片手にその場を去る

もう水面の霊はいなく、さざなみだけが聞こえ、近くの道路を走る車の音が聞こえて来る。俺は乙さんの後に続く

「あれを俺に見せてどうするんですか」

乙さんは呆れたようにこっちを見た

「何もしない」

そして、静かに歩いて言う

「あれの探し物は見つからない、なんせ、探し物はあそこには居ないからな」

そして小さく呟いた

「・・・自ら殺しても尚、同じところに居るなんて、我がままにも程がある」

それが分かっただけでいい、とそう言った

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乙さんと俺 @Nantouka

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