第一話『その出会いは、計算外の衝突のようだった。』

 今日も今日とて、判で押したような無意味なルーチンが始まる。  

 登校、着席、そして退屈な授業までのカウントダウン。

 だが、俺たちの学校には、そんな代わり映えのしない朝の喧騒を、一瞬で「非日常」へと塗り替える存在がいる。

「おはよう、みんな。今日もいい天気だね。」

 少し低めの、耳に心地よく響くアルトの声。  

 教室の扉が開いた瞬間、まるで舞台の幕が上がったかのような錯覚に陥る。

 黒に近い青髪を短く整え、女子生徒でありながらスラックスを完璧に着こなすその姿は、歩くたびに爽やかなミントの香りを周囲に振りまいていた。  

 一八〇センチ近い高身長と、一切の無駄を削ぎ落としたモデルのような佇まい。

 彼女――すめらぎ青芭あおばは、この学校において「王子様」という称号を一身に背負う偶像アイドルだ。

「……うわぁ、青芭様だ。」

「今日もカッコいい……」

「見て、あの伏せ目な感じ、尊すぎない?」

 教室内で沸き起こる女子たちの黄色い悲鳴を、彼女はさらりといなして俺の席へと歩み寄る。

 その一挙手一投足が、計算された演出のように美しい。

「青芭、おはよ。朝からファンサービスご苦労なこった。」

 俺――八月一日ほづみ旅人たびとが軽く手を振ると、青芭は端正な顔立ちを少しだけ緩ませ、俺の隣の席に腰を下ろした。

「旅人、おはよう。君こそ、昨日送ったプリントの課題は終わったのかな? 今日の英語の授業、君が指名される確率が高いと聞いたよ。」

「おかげさまでな。……にしても、お前は本当に完璧だよな。学年トップの成績にそのルックス。天は二物を与えすぎだろ。」

 俺が茶化すと、青芭はふっと表情を曇らせた。

 彼女は「王子様」としての仮面を脱ぎ捨て、不意に、俺にしか見せない繊細な仕草を見せる。  

 彼女は右手で「狐」の形を作り、口元に当てて短く息を吐いた。  

 何かを深く考え込んでいる時の、彼女の癖だ。

「……あれは、取らざるを得なかったというべきかな。旅人も感じただろう? 今回の中間考査の、あの『異常事態』を。」

 青芭の瞳が、いつになく鋭利な光を宿す。  

 今回の中間テスト。

 全科目の平均点が四十点を下回るという、進学校の試験としては常軌を逸した難化を見せた一件だ。  

 俺はといえば、休みの旅行計画(次はどこへ行こうか、南国の海か、あるいは北の果てか)で頭がいっぱいだったのだが、数学が壊滅的だった俺の感覚とは別に、学年トップの彼女から見れば、あの問題用紙の並びは「ただの難問」ではなかったらしい。

「たまたまだろ。作問の先生が、ちょっと気合入れすぎただけじゃないか?」

「だといいんだけど。……でも、あの数学の第三問と、英語の長文読解。あれは高校生の学習範囲を明らかに逸脱していた。まるで、特定の何かを『選別』するためのフィルターのような……」

 彼女の指が、狐の形のまま小さく動く。

 まだ答えは出ていない。右手での狐は「思考中」のサインだ。  

 俺は、ワインレッドのメッシュが入った自分の髪を掻き上げ、手首のブレスレットを弄りながら「お前は考えすぎなんだよ」と笑い飛ばした。

 だが、その軽口がどれほど愚かな「計算違い」であったか、俺はその直後に思い知らされることになる。


 休み時間。提出物の資料を運ぶため、俺は青芭と共に職員室へと続く廊下を歩いていた。  

 旧校舎へと続く渡り廊下は、人の気配が薄く、どこかひんやりとした空気が漂っている。

「……あぁ、忌々しい。なぜ僕が、こんな低俗な質量の塊を運ばねばならない。……そこ、退きなさい。視界の占有率がゼロコンマ数パーセントまで低下しています。衝突回避行動のリソースが残っていません。」

「え……? うわっ!?」

 廊下の角を曲がった瞬間、正面からやってきた「白い塊」に、俺はまともに激突した。  

 バサバサバサッ! と、乾いた音を立てて廊下に舞い散る大量の紙資料。

「いっ……てて。悪い、大丈夫か?」

「……物理的な衝撃による脳の揺れを確認。計算機能の完全復旧まで、三・二秒。……最悪だ。今日の僕の平穏指数が、これで完全にゼロになりました。致死量です。」

 床に座り込んでいたのは、女子と見紛うほどに透き通った白い髪の少年だった。  

 中学生……いや、一見すれば小学生かと思うほど小柄で童顔。

 後ろまで伸ばされた白い髪は、無造作でありながらどこか神秘的で、中性的な美しさを湛えている。

 だが、その瞳には、子供らしからぬ冷徹で巨大な知性が宿っていた。

「あ、君は……にのまえくんだっけ?」

「統計学的に見て、この角での衝突確率は極めて低いはずなのですが。……皇さん、及びその『付随物』である八月一日ほづみさん、ご機嫌よう。」

 にのまえ八雲やくも。  

 サヴァン症候群による超人的な記憶力と計算力を持ち、常に統計学的な観点から物事を語る変人。学校内では「にのまえくんは救えない」と噂される、浮世離れした孤高の天才児だ。

「付随物って……俺は旅人たびとだよ。それより、怪我はないか? この資料、拾うの……」

「触らないでください。並び順にも論理的な構成があります。あなたの雑な指先でその『順序』を乱されるのは、僕の神経に対する暴力です。」

 八雲は俺の差し出した手を拒絶し、深い溜息をつきながら立ち上がった。  

 彼がぶちまけた資料――俺が思わず目を通したそのタイトルには、心臓を鷲掴みにされるような不穏さが宿っていた。


『中間考査における正答率の統計的偏差と、作問意図の相関性に関する解析報告書』


 思わず、隣にいた青芭と視線を交わす。  

 青芭の目が、同じ疑問を抱く「異質なライバル」の存在を認めたかのように、鋭く光った。

「本来なら、僕は今頃科学部で静かに自作のドリンクを楽しみ、無価値な一日を無価値なまま終える予定だった。」  

 八雲は床に散らばった資料の一枚を、爪先で弾くように指し示した。

「しかし、この数字の並びがあまりに醜悪で、僕の安眠を妨害する。平均点が四十点を下回るなど、統計学的観点からも異常事態。偏差値の山が二峰性に割れている……これは、学習到達度を確認するための『テスト』ではありません。」

 八雲は、透き通るような白い髪を揺らし、冷徹な声で断じた。

「これは、特定の生徒を排除し、教師への『恭順』を強いるための『フィルター』だ。……数字が、悪意に汚染されています。」

 その瞬間、廊下の空気が凍りついた。  

 青芭の右手が、無意識に狐の形を作る。  

 俺はただ、その異様な光景に圧倒されていた。

 学校という平和な箱庭の中に、自分たちが知るはずのない「毒」が、目に見える数字という形で垂れ流されているという現実。

にのまえくん。君も……先生たちが、このテストでぼくたちを選別しようとしていると、そう言うんだね?」

「同類だと思わないでください。僕はただ、美しくない数字を正して、一刻も早く平穏な引きこもり生活に戻りたいだけです。」

 八雲は無表情のまま、俺に顎をしゃくった。

「……付随物の旅人さん、この紙束を職員室まで運びなさい。僕の筋力リソースをこれ以上、この無駄な物理的移動に割くのは、僕の生存本能が拒絶しています。致死量です。」

「……誰が付随物だ。まあ、俺もその『数字の正体』ってやつが気になってきた。手伝ってやるよ。」

 王子様として正義感に燃える青芭。  

 平穏を乱すバグを修正したいだけの八雲。  

 そして、二人を繋ぐように隣に立つ、英語だけが取り柄の俺。


 これが、後に「学校の王子様」の信用を根底から揺るがし、全校生徒を巻き込む大事件へと発展する、最悪で最高の出会いだった。

 俺たちの平穏な日常は、この白い髪の天才児が導き出す「残酷な数式」によって、最も不本意な形で狂わされていくことになる。

「行きましょう。……醜悪な解答の、答え合わせの時間です。」

 八雲が先頭を歩き出す。  

 その背中を見つめながら、俺は手首のブレスレットを強く握った。

 旧校舎の廊下を吹き抜ける風が、まるで嵐の前触れを告げているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月27日 01:00
2025年12月28日 01:00
2025年12月29日 01:00

にのまえくんは救えない 芳香サクト @03132205

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画