第19話 口付け

 紅茶とスコーンを味わった後は、ディシアと他愛のない話を交わした。

 その途中、ディシアは頬杖をついて紅茶を眺め、独り言のように呟いた。


「アロイス様は冷淡な黒王子なのに、あなたには柔らかい顔をするのね……」


 ゼナが反応を示す前に、ディシアはまた素早く話題を変えてしまう。本当にただ思ったことを声に出したかっただけなのだろう。


 それ以降、ディシアはアロイスとのことを尋ねることはなく、あの伯爵令嬢は穏やかだとか、かの侯爵令嬢は辺境伯に嫁いだだとか、令嬢たちの社交情勢について語ってくれた。世間知らずのゼナにとってはありがたいことである。


「今日は本当にありがとうございました! お話できてよかったです」

「そう」


 去り際にゼナが礼を述べると、ディシアは少しだけ口角を上げて微笑んだ。

 その優しい笑みに、ゼナは安堵する。少なくともパーティーの時よりは、互いに打ち解けられた気がした。


 老執事に見送られてディシアの屋敷を出ると、門から少し離れた道沿いに見慣れた馬車が停まっていた。


「えっ、アロイス様!?」


 ゼナは驚きに目を瞬かせ、慌てて馬車に駆け寄る。

 扉の窓を覗くと、中には予想通りアロイスが座っていた。頬杖を着いて、憂い気な表情を浮かべている。

 今日は政務がないと聞いていたが、まさか迎えに来てくれるなんて。


「ゼナ」


 アロイスはこちらに気づくと、扉を開けて馬車の中にゼナを迎え入れた。


「暇だったから迎えに来た」

「ありがとうございます……!」

「お茶会はどうだった。なにか変なことを言われたりしなかったか?」


 隣から投げかけられた問いに、ゼナはドキリとする。きっと、アロイスはゼナとディシアの仲が険悪だと思っているのだ。

 正直に言えば、当初は責め立てられやしないだろうかと不安だったが、ディシアの態度は柔らかく、どちらかといえば友好的に接してくれた。


 ゼナはお茶会でのやり取りを思い返し、首を横に振る。


「いいえ、とても良くしてくださいました。以前よりも、仲良くなれた気がします……!」

「そうなのか? それならいいが……」


 アロイスの目を真っ直ぐ見つめて告げると、彼は僅かに瞠目し、意外そうな顔を見せる。そして、小さく「考えすぎだったか」と呟いた。


 ──そのとき。

 キィッ! 突然、馬車が大きく傾き、摩擦音を立てて急停止する。


「わっ!」

 

 その勢いで、ゼナの身体が揺らいでしまい、アロイスの肩へと寄りかかってしまう。

 すると、彼は自然に腕でゼナの身体を抱きとめ、前方の馭者へと声をかける。


「いったいどうした?」

「旦那様! ゼナ様! 申し訳ありませんっ、ご無事ですか!?」

「ああ」


 馬を引いていた馭者は焦った様子でこちらを振り向き、アロイスとゼナに変わりないことを確認するとほっと胸を撫で下ろした。


「大樹が倒れて、道が塞がれてるようです!」

「道が? 来た時は平気だったのに」


 馭者の言葉にアロイスは眉をひそめて、扉に付いた窓から外の様子を見る。

 ゼナも同様に窓の外へと目をやると、聳えていた道沿いの木のひとつが道を横断するようにして倒れているのが見える。家屋が並ぶ栄えた往来であるから、周囲は通行止めされた人々のざわめきで溢れていた。


 馭者が通行人に事情を聞くと、どうやら、職人が伐採する方向を違えてしまったらしい。道のない林の方へ切り倒すつもりが、大通りの方へ倒してしまったという。


「除去に時間がかかるみたいで……どうしましょう。お待ちいただけますか」


 馭者は申し訳なさそうな顔で告げる。

 話を聞いたアロイスは、塞がれた道とゼナの顔を交互に見る。そして、顎に手を当てて少し考えた後、口を開いた。


「どうやら人は通れるようだ。ここから屋敷まではそこまで距離もない。俺たちは歩いて帰ろう」


 アロイスに「いいか?」と尋ねられ、断る理由がないゼナはこくりと頷く。


(二人で散歩するのも、わたしにとっては楽しい時間だもの)


 挫いた足はもうすっかり治っていたため、歩くのは苦ではない。馬車で帰るよりも、アロイスとゆっくり話ができるのも嬉しい。


「悪いが馬車を頼む」

「はい!」


 アロイスは馭者に言付け、馬車の扉を開ける。

 そして、そのまま地面に降り立ち、ゼナへと手を伸ばした。


「ほら」

「ありがとうございます」


 ゼナはその手を取り、ドレスの裾を持ち上げながら馬車から降りる。

 そして、コツ、とヒールの音を立てて地面に着地したそのとき、思いがけない声がゼナの耳をつく。


「いったいなにがあったの?」

「お母様、見て! 木が倒れているわ」

「まあ、不吉なこと」


 少し離れたところで、二人の女が不機嫌そうな色を乗せて話している。

 間違えようのない聞き慣れた声に、ゼナはヒュッと息を呑んだ。


(どうして、お義母様とお姉様がここに……?)


 この声はリリスとライラのものだ。二人が近くにいるのだ。

 心臓がドクドクと脈打つ音が響いてくる。キュッと胸の辺りが痛くなり、ゼナは思わず掴んでいたアロイスの手を強く握ってしまう。


「ゼナ?」

「あっ、いえ、すみません……」


 アロイスに声をかけられ、ゼナは慌てて手を離す。


(そうよ、ここは一番人通りがあるんだもの。出会ってもおかしくないわ)


 ゼナは下唇を噛んで俯く。暗い影が足元を覆い、それに比例するかのように、自分の気持ちも不安に染まっていく。


「どうした、気分が悪いのか……?」


 ぎゅっと拳を握りしめていると、頭上から心配そうなアロイスの声が聞こえてくる。


「い、いえ──」


 反射的に顔を上げると、その瞬間、アロイスの肩越しに若い娘と目が合った。──ライラだ。


「お姉様……」


 思わず、姉を呼ぶ声が口から零れる。

 ゼナの視線の先のライラの目は飛び出そうなほど見開かれ、唇はわなわなと震えている。彼女は次第に眉を吊り上げていき、険しい表情で隣にいる母の肩を叩く。


「お、お母様っ! ゼナが……っ!!」

「ゼナ……?」


 今度はリリスがゼナを見据え、瞠目と同時に不快さをその顔に現した。

 なんで忌み子がここに……とでも言いたげな彼女の顔に、これまで投げ掛けられた辛い言葉の数々が頭に反芻する。


(ダメ、動けないわ……もう怖くないと思っていたのに)


 パーティーで父と話し、吹っ切れたと思っていた。けれど、想像以上にシェードレ家での苦々しい日々は、ゼナの心に翳りとして染み付いているようだ。


 ライラとリリスは、歪めた顔でゼナを睨みながら密かに言葉を交わし合った後、身体の向きを変えてこちらに向かってくる素振りを見せる。

 しかし、その足は踏み出されることなく、二人は表情を固くして動きを止めた。その視線はゼナではなく、ゼナの向かいにいる男へと注がれていた。


(アロイス様……?)


 おずおずとアロイスを見上げると、彼の顔はゼナではなくライラたちの方へと向けられていた。そのせいで、こちらから表情はうかがえない。


「ゼナ、帰るぞ」

「へ……」


 かと思えば、アロイスはゼナの手を強引に握り、屋敷のある方角へと早足で歩き出す。

 低い声と有無を言わせない雰囲気に、ゼナは半ば強制的に足を動かしていた。


 アロイスは無言のまま倒れた樹木の横を通り抜ける。キツく握られた手が痛いが、ゼナは彼を拒めない。


(はやく、あの二人と違う場所へ行きたい)


 それがゼナの本音だった。アロイスの行動は、今のゼナにとって救いだ。

 

 ライラとリリスの声はもう聞こえなくなっていたが、二人の視線はゼナの背中に深く突き刺さって離れない。過去を振り払うのは容易ではないということが、今、身をもって理解できた。


 往来を突き抜け、人通りのない狭く暗い道へと入ると、アロイスはその足を止めた。握られた手はそのままである。


「はぁ……」


 ゼナは片手を胸に当てて、息を吐き出す。アロイスの歩幅に着いていくのが大変だったのもあるが、緊張がようやく和らいだのだ。


「アロイス様……?」


 何も言わないアロイスに、ゼナは無性に不安を感じて声をかける。

 しかし、彼は依然として口を閉ざしたまま、ゼナと向き合う。その表情には影が落ちており、瞳に光はない。


(これはまるで、あのときの……)


 かつて夜中に廊下で抱きしめられたときのような仄暗さを纏うアロイスに、ゼナの芯が冷える。


 その瞬間、強い力で肩を掴まれ、ゼナは口付けられていた。


「ん、ぅっ……!?」


 唇の隙間から侵入した舌が、口内を甘やかに貪る。

 いったい、なにが起きているのか。

 ゼナはあまりに突然のことに頭が追いつかず、吐息だけを零す。クラクラと目眩がして、思考がおぼつかない。


 鮮やかなルビーがゼナを捉えて離さない。瞬きと同時に彼の長い睫毛が揺れる。音にならない掠れた息が耳に届く。

 初めてのことに、ゼナはその場に立っていられず、アロイスの胸に縋るように身を委ねる。


 唇が離れると、ようやくアロイスが言葉を紡ぐ。


「ゼナ、俺だけを見ろ。過去のことは全て忘れるんだ」

「あっ……」


 大きな指で顎を掴まれ、ぐいと持ち上げられる。影のかかった深紅の瞳に見据えられ、無意識に喉が鳴る。

 息がかかるほどの距離で、アロイスが悪魔のように囁く。


「俺があなたを幸せにする。約束だ」


 ゼナは半ば放心状態で、彼の宣言を聞いていた。

 不思議とキスの羞恥はない。心の奥底から言いようのない情動が込み上げてきて、目頭を熱くなる。


『俺が幸せにするから、安心してね』


 同時に、ゼナの脳内に柔らかな声が響き渡った。

 これは、目の前の男が発したものではない。ゼナの記憶に刻まれた声だ。


(どうして思い出せないのだろう……)


 アロイスが隠している秘密を、きっとゼナ自身は知っている。知っているのに思い出せない。

 それは、背中の羽の痣、ノアの天使の絵画、時々見る神殿の夢と関わっているはずだ。それらの断片だけが渦巻いて、未だに形を成さないでいる。


(アロイス様は過去を忘れろと言うけれど……きっと、思い出さなければ真に愛される資格はない)


 自分の不甲斐なさに涙が溢れ、頬を伝う。

 アロイスは白い指先でそれを拭って、ゼナの背に腕を回す。


「わるい」


 そして、ゼナを抱きながら小さく呟いた。


「わたしの方こそ……」


 謝るのはこちらの方だ。

 はやく、本当の意味で彼の婚約者になりたい。そのためにも、自分の力で秘密を、記憶を取り戻さなければ──。

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