第55章 蜂起準備の痕跡

 婚約が決まってから魂が抜けたような日々を百里景砂は送っていた。

 いつ命を落としてもおかしくない、と言うのに、まるで何も起きていないかのように彼女の元には婚礼衣装の試作品が送られてきた。

 しかし、いかんせん百里景砂はこの婚礼に乗り気じゃない。婚礼衣装がどんな仕上がりだろうと、破れてさえいなければ十分だった。

 上官家の世子は別に悪い人じゃない、と百里景砂は常々思う。でも、それだけで終わってしまうのだ。どうあがいても、婚約が決まってから何とか感情を変えようとしてみたけれど、上官家の世子に対して愛慕の情はまるで浮かばなかった。

 ふと、百里景砂は自分の手が紅蓮の玉佩を触っているのに気づいた。記憶を取り戻してからそれを見るたび、かつて交わしたばかげた約束を思い出してしまうのだった。

(自分のことすら守れそうもないのに、彼を守ることなど、私なんかにできるのだろうか)

 情けなくなって使命を果たす前に死んでしまいたくならないよう、百里景砂は手を玉佩から離した。

 ちょうどその時、彼女の自室に一羽の伝書鳩が舞い込んできた。それには、言伝がしっかりと巻き付けられている。すぐさま彼女は言伝だけを引き抜き、中身を見た、

『菱、祭壇』

 とだけ書かれた書簡の字体は急いで書かれたものらしく、尋常じゃなく乱れている。

 今のところ何の知らせもないところを見ると、菱珪玉の身には何も起きていないのだろう、と思うが、それでも一応、百里景砂は彼の無事を祈祷した。

 それからすぐに、百里家の祭壇へと足を向けた。

 祭壇は辰砂領を挙げての儀式が行われるとき以外は、使用されることがない。儀式の前には、祭壇が埃まみれで掃除するのが嫌になる、という使用人たちの文句すら聞こえてくるくらいだ。

 それなのに、祭壇は異様なまでに清潔を保っていた。誰かが定期的に訪れているかのように。

 しかし、正面から見る祭壇には何の異変もないようにしか見えない。百里景砂が何の気なしに祭壇の背後へまわると、そこには数えきれないほどの刀と弓矢が積み上げられていた。その武器の間からわずかにはみ出ていた玉佩のような紅の許可証には、菱、とだけ書かれている。それは、紛れもなく百里玄武の側妃菱氏の通行許可証だった。しかし、たとえ菱家が蜂起するにしても、百里家に菱家の人間が使うための武器を隠す必要はない。百里家に菱家の兵士が潜んでいる場合を除いては。

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