第54章 菱珪玉最後の祈り

 菱珪玉は無心で菱家まで駆けた。夜を徹し、辰砂領から錘輝境すいききょうまでは結局丸一日の時間を要してしまったが。

(どうして、私にばかりこのような不運が重なるんだ)

 誰にも気づかれずに自室にまで戻った菱珪玉は、ただひたすら壁に拳をぶつけていた。

 彼の拳が細く流血し始めたとき、外の灯篭とうろうがぼんやりと彼の元まで光を届けているのだけが目に入った。

(もう夜になったのか)

 菱珪玉自身もぼんやりしながら、その場に腰を下ろした。そこでようやく、彼の腹から音が鳴った。まあ、前日の昼に食べてから、一食もしていないので当然と言えば当然のことなのだが。

 彼女はこの婚約に乗り気なのだろうか。

 いつの間にか、菱珪玉にはそれ以外のことが考えられなくなってしまっていた。そして、なんとそのまま朝日が昇るころになった。それと同時に、菱家の兵士たちが精力的に鍛錬する掛け声まで聞こえてきた。

 いつか、菱家の世子である菱珪玉が菱家の当主になった暁には、あの兵士たちは必ず自分のような当主を殺しに来るのだろう、と彼はその声を聞くたびに思う。

 しかし、この時ばかりは違った。

 百里景砂もこの兵士たちに殺されることがないよう、自分がしっかりしなくては。

 という感情が、ようやく菱珪玉を支配したのだった。

 菱珪玉はふらりと風にでも舞い上がってしまいそうな体を起こし、厨房に向かう。そこでくすねた饅頭を、うまやで食べた。

 そしてそのすぐ後に、彼は筆と短冊紙を引っ張り出し、そこに『菱、祭壇』とだけ書いて、伝書鳩にそれを括り付けた。

 順調に飛んでいく伝書鳩を見送りながら、菱珪玉はただ祈ることしかできなかった。

(無事に彼女の元まで届くといいが。少なくとも、私にはこれくらいのことしかできない)

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