第30話 夢の中で
景砂は一人で琴を演奏していた。紅蓮ばかりが見事に咲き誇る、池のそばで。
すると、淡い緑色の服を着た男が一人、彼女の隣に立った。
「父上」
景砂はまるで彫刻のような顔立ちをした父親を見上げながら嬉々とした様子で呼びかける。
「どう? 新しい譜面の曲は上手く演奏できそうかい?」
「談会までにはなんとかなると思いますが、思ってるほど上手い演奏ではないかもしれません」
「ほう? そんなに難しかったか。もしかすると、談会には初めて参加するから緊張しているのかもしれないね」
言いながら、父親は景砂の頭を撫でる。あっという間に整えられた髪が乱れていった。だが、それでも二人の間にはただ笑い声が沈黙を繋いだだけだった。
「でも、私は別に談会に参加するわけじゃありません。開幕の際に演奏するだけだから、興を添えるだけです」
「いや、それでも十分大切な役割だ。景砂がいないと、百里家の談会はそもそも始めることすらできないからね」
景砂はただただ笑いながら父親に抱きついた。しかし、その瞬間に父親の姿は消え、代わりに菱藍雲が怪しげな椀を彼女に向けて差し出していた。
「これを飲むんだ。でないと、残りの人生の中で再び琴を弾ける日が来るかすらわからなくなってしまうかもしれないよ」
その冷水のような響きを纏った言葉を聞きながら、景砂は差し出されていた椀の中に入った薬を飲んだ。それを飲んではいけないとわかっていながら。
これでひとまず危険なことは終わった、と思ったその刹那、景砂の前に今度は上官双晶が現れる。
「景砂。そろそろ目覚める必要があるかもしれませんね」
その予言のような言葉が聞こえたかと思うと、景砂の視界には菱家の暗い部屋が映った。
(何だ、夢か)
しかし、目ははっきりと目覚め、意識もはっきりしているはずなのに、なぜか景砂の頭の中だけはまだ白い靄がかかったようだった。
(早く、ここから逃げなくては)
そう思うのに、この部屋を出てからどの方向へ向かえばいいのかもわからない。仮にこの菱家を無事に出られたとして、どうやって「家」に戻ればいいのかもわからなかった。
(でも、動けば何か状況が変わるかもしれない)
景砂には自分の奥底に眠っていた行動力を奮い起こして、乱れた服のまま部屋を飛び出した。
菱家の青い窓、紫紺の壁に囲まれた建物の間を無我夢中で走る。もう日が傾いているおかげで、敷地内を歩いている人はまばらだった。
だが半刻くらい走ったところで、見慣れた顔を見つける。菱夫人が先ほどまで景砂がいた部屋に向かって歩いていたのだ。
(隠れなきゃ)
まだ菱夫人に顔を見られる前に、景砂は最も近くにあった部屋に飛び込んだ。
そこは、まるで夜のように暗い、まるで隠し部屋のような部屋だった。
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