第29話 菱夫人の苦心
菱夫人はなぜか、菱珪玉の両眼をじっと見つめたまま、何も言おうとしなかった。
その挙動に、菱珪玉はつい眉根を顰める。ちょうどその時、菱夫人は怪しい目つきをして尋ねた。
「珪玉、あなたあの娘に惚れてるの?」
その瞬間、菱珪玉の頭の中は完全に真っ白になってしまった。こういう話をしたことがなさ過ぎて、何を言うべきかもわからない。
だが、その様子に菱夫人は彼の内心を感じ取ったらしい。
「そうなんだ」
とだけ、彼女は重い口調で言った。
「私があの子に早く記憶を取り戻してほしいのは、あの子に早く自分のいるべき場所に戻ってほしいから。でないと、あの子は百里家と菱家を結ぶ要人になることはできない。当主の思う時期に記憶を取り戻させたら、あの子はただ菱家の人質、もしくは百里家の捨て駒にしかなり得ないもの」
「でも、毒薬で彼女の記憶を刺激したところで、彼女の体には害をもたらすかもしれません」
「でも、雲渓大陸の対局を見据えた時、私が取った方法が最善なの。もし記憶を取り戻せば、あの子もきっと私の考えをわかってくれるはずよ」
いつの間にか立ち上がっていた菱珪玉はひとまず座り、息を落ち着かせる。
「まあ、彼女に関しては母上のおっしゃる通りになるでしょう。でも、万一このことを父上に知られたらどうするつもりですか? 母上は上官家の出身ですから、万一の時父上は母上を排除するかもしれません」
「私がどの家の出身でも、今回のことを知られれば私の命はないわ。でも、大丈夫。たとえ死んでも、私は後悔しない。だって、私が菱家に来たのも、雲渓大陸に平穏をもたらすためだから。今回のことで、あの子が無事に本来いるべき場所へ戻ったら、状況は大きく変わる」
不意に、菱珪玉はわかったような気がした。なぜ、菱夫人がここまで上官景砂に記憶を取り戻させようとしているのか、を。
「母上が彼女を早く百里家に戻したいのは、百里家の娘には代々伝わると言う力のためですか?」
すると、菱夫人は菱珪玉から視線を逸らして、わずかにそれでいてはっきりと頷いた。
「しかし、彼女にはまだその力はないようですよ。母上の行動は早まったものだとは言えませんか」
「百里家の娘が持つ力というのは、ある儀式を行って初めて得ることができる。あの子はそれを迎える前に記憶を奪われてしまった。だから、今のあの子にその力がないのは当然。でも、そろそろその儀式を行うときがあの子にもやってくる。そのとき、あの子に百里家の娘だという自覚がなければ、そもそも儀式を行うことすらできない。だから、私がした行動は間違ってはいない」
そのときだった。菱夫人が上官家から連れてきた侍女が慌てたように部屋の中に入ってくる。それから、礼をするのも忘れて言った。
「夫人! 例の娘が目覚めたそうです!」
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