第110話 九死は一生の始まり




「シッ!!」




 暗闇に銀光が浮かぶ。

 『聖灰せいはいつるぎ』──ディア教国においても、教団や聖堂騎士団の一部の剣士にしか賜与されぬ業物だ。

 所有者の要望に合わせて緻密に調整した剣は、手練れが握れば手足の如く自由自在に振るうことが叶う。


 アグネスも、その例外ではない。

 歴代の聖堂騎士団長の多くに剣術を授けた彼女は、剣士としても超が付く一流。寄る年波でスタミナこそ全盛期に及ばないが、積み重ねた歴史に裏打ちされた技術に、依然衰えは来ていない。むしろ今が全盛期だ。


 並の騎士であれば打ち負かせる剣技は、一つの芸術と呼んでも過言ではない──しかしだ。


「ッハハァ!!」


 歓喜の哄笑を響かせ、サルガタナスは難なく回避する。

 凄まじい動体視力、そして反射神経だ。これにはアグネスも内心舌を巻く。


(だが、そいつは織り込み済みさねっ!!)


 事前に敵の情報を得ていて対処せぬアグネスではない。

 回避したところ目掛け、アグネスの聖霊が剣を振るう。世界が真っ二つに裂けたと錯覚するほどの残影を描き、刃は地面──いや、そう呼ぶのも正しいか分からぬ足元に降ろされた。


 アグネスは聖霊使いとしても一流。

 肉体の衰えに影響されないという意味では、現役時代以上に研ぎ澄まされている技術だ。


「──〈ソトラメントゥム〉」


 それをだ。

 サルガタナスは、


「惜しかったな」

(やっぱり歪められるかい!!)


 いや──歪みに耐えきれず、刃が砕けたと言うべきだろう。

 聖霊も物理的な破壊力を有す以上、攻撃に耐えうるだけの原型が存在する。もしも敵の攻撃で原型を留められなければ、当然聖霊も破壊されてしまう訳だ。


「威力も速度も申し分ねェ……だがなァ!!」

「チィ!!」


 それを見越していたアグネスは飛天で飛び退く。無策な追撃は寿命を縮めることを、嫌というほど知っていたからだ。


 だが、サルガタナスは距離を取るアグネス目掛けて掌を突き出す。

 直後、握るような仕草を見せ──そして。


「──〈ラテルクルス〉」


 空間ごとアグネスの体を引っ張った。


「チィ!!」


 目には見えぬ引力に体を引き寄せられ、アグネスは歯噛みする。

 再度飛天で距離を取ろうにも、空間そのものがサルガタナス側へと歪められているのだ。


「厄介な力だよ、ったく!!」

「ッ!!」


 ならばとアグネスは前へ踏み込んだ。

 サルガタナスは瞠目する。瞳には驚愕と落胆、しかしほんのわずかに歓喜が浮かび上がっていた。


「いいのかババァ、自殺行為だぞ!!」


 前へ飛び込んだことでアグネスの体はグングン加速する。

 あと数秒もしない内に両者の距離はゼロと化す。そうなってしまえば近接戦で無法の力を発揮するサルガタナスに軍配が上がるのは明白だ。


 だが、アグネスは諦めてなどいない。

 強い意志の光を宿した瞳は、しっかりと悪魔の姿を見据えていた。


 それを目撃したサルガタナスだからこそ、鋭い歯を剥き出して笑う。


「上等だ……来い、ババアッ!!」

「年上にゃ敬語使いな、若造ぉ!!」


 鏡合わせの銀光が、二つほど浮かんだ。

 風を裂く甲高い音が鳴った後、タンッ、と軽快な着地音が遅れて響く。


 血の臭いを嗅ぎ取ったサルガタナスは振り返る。


「──あァ?」


 次の瞬間、彼は背中側の足元に滴り落ちた血を見つけた。

 直後、背中に熱い感覚を覚える。広がる湿っぽい感覚からも、結果は歴然としていた。


──斬られた?


 サルガタナスは背中を手で拭う。

 すかさず掌を見下ろせば、べっとりとまとわりついた血の色が目に飛び込んできた。


「……」

「──アンタの〈罪〉、〈愚癡〉とか言ったかい?」

「てめェ……」

「最初に聞いた時は随分無法な力があるもんだと思ったが……なんだい、


 不敵な笑みを湛える聖女は、血濡れの剣を突き付ける。

 彼女の剣を濡らす血はサルガタナスのもの。聖霊の一撃すらも指一本で無力化した悪魔に一太刀浴びせた何よりの証拠である。


「なんてこたぁないこの世の真理さね。水でも空気でもなんでもいい。そこにあるものを退かせば、


 違うかい? と。

 アグネスは剣を振り、血を払った。


 証拠はもういらない。

 これから必要なのは結果だ。


 サルガタナスを、レイエルの仇を討ったという結果が。

 それを得る為ならば、挑発以上の意味合いを持たない血など不要だ。さっさと振り払って次の一太刀の準備を進めるに限る。それだけの話であった。


「つまり、アンタが歪めている側と“逆側”。そこには歪められた空間に流れ込もうとする引力が発生している」


 例えるなら、水中で泳ぐ人間の周りに渦巻く水流。

 人間が前に進んだからといって、元々人間が存在していた空間がぽっかり空いたままにはならない。必ず空いた空間に向かって周囲の水が流れ込むはずだ。


(こいつの力はその究極系──。そいつが奴を中心に発生してる)


 硬い物と柔らかい物で押し合えば、当然柔らかい方が負けて崩れる。

 サルガタナスはその前者だ。付け加えて言うならば、森羅万象に対して押し負けることのない絶対的な“力”。


(〈愚癡ぐち〉……か)


 道理に暗いのではない。

 道理に暗いからこそ、世界を捻じ曲げても尚、己を──歪まぬと信じるに値する一本鎗を貫き通そうとしているのだ。


 なればこその〈愚癡〉。

 この暗い〈聖域〉は、まるで彼の価値観の表れであるかのようだ。


「……可哀そうに」


 それをアグネスは──憐れんだ。

 一瞬の隙が命取りとなる死地。その中において尚、己に手に掛けようとする相手に殺意を……ともすれば敵意さえ滲まぬ瞳を湛えて。


 対するサルガタナスは、


「…………………………あ゛ァ゛?」


 眦を、決した。

 互いの姿ばかりがはっきりと望める世界の中、見開いた眼球より放つ眼光が燦然と閃くほどに。


「ババア……どォいう意味だ?」

「アンタは自分の力しか信じられない……認めてもらえない世界で生きてきたんだね」

「知ったようなクチを利くんじゃねェ」

「それが環境のせいと言ったらお終いだけどね」


──そいつは悲しいことだよ。


 憐れみの視線は、尚も注がれ続ける。

 己の命を奪おうとする相手に。


「ッッッ……!!」


 軋む音が鳴り響いた。

 それは歯か心か。サルガタナスは周囲を……いや、周囲が歪んでいると錯覚させるほど、湧き上がる憤怒に表情を歪めていた。


(なんだァ、この感覚は……!!?)


 初めて──いや、久しく感じていなかった感覚。

 それはまだサルガタナスという悪魔が、誰に知られることもなく孤独に生きていた時代に味わった辛酸と苦渋。


(そうか……思い出したぞ)


 悪魔の世界は弱肉強食。

 弱者が生き残るには、強者に取り入るか、歯向かってくる敵全てを殺すしか道はない。


 サルガタナスが選んだのは後者。

 茨の道、それも血に塗れた剣山を歩むが如き修羅の道だった。


 毎日、叩き潰す相手に困ったことはない。

 己が力を誇示したい、あるいは自分より弱そうな相手を痛めつけたい、文字通り悪魔がひっきりなしに現れた。


 その全てをサルガタナスは返り討ちにした。

 だが、勝ったからと言って心が満ち足りることはない。自分はただ生きる為に戦っているのだ。敗北すれば死ぬのだから勝利する、ただ当然のことを繰り返しているだけだった。


 しかし、時折現れるのだ。


 手も足も出ない強者。

 文字通り“次元”の違う存在が。


(あいつらと同じだ)


 そのような絶対強者たる奴らが向ける眼差しは、得てして二つ。


──蔑視と憐憫


 前者は理解できる。

 持つ者が持たざる者より優れているなど、馬鹿の自分でも理解できた。

 特に“力”だ、“力”はいい。あれ以上に単純で分かりやすい価値のあるものはない。だからこそ自分は“力”を追い求め、だからこそ自分は“力”で今の地位にまで上り詰めた。


 だが後者は──憐憫だけは理解の外にあった。


 何故憐れむ?

 何故他人のお前が?

 何故、何故、何故──。


 何百回も噛み砕き、反芻しようとも理解できぬ感覚だ。


 自分を殺そうとする相手を憐れむなどと──。

 だが、一つだけ理解できることはない。


 憐れんでいるということは自分を負かした強者と同じ。

 自分が下に見られていることと同義だ。




「俺様を──俺を、見下してんじゃねェぞォッッッ!!!」




 爆発。

 感情の発露と共に、空間も大きく歪んだ。


 激しく乱雑に歪められ、〈聖域〉の中には荒々しい気流が生まれる。アグネスの髪や修道服もパタパタと、サルガタナスの方へとはためいていた。


「……アンタは」

「俺を誰だと思ってやがるッ!!? 六魔柱のサルガタナスだ!!! 誰よりも魔王に相応しい最強の悪魔になる男だッ!!!」

「魔王になりたいのは自己の価値観……存在証明の為かい?」

「違ェ!!!」


『そんなモンの為じゃねえ!』と、サルガタナスは激昂。その咆哮は三度空間全体を揺るがした。


「俺は、俺以上に強い奴が居ねェ……“最強”を証明する為に魔王になる!!!」

「本当かい?」

「当然だッ!!! それ以外に意味はねェ!!!」

「アンタ──愛されたことがないんだろう?」

「──」


 聖女の瞳より発する眼光。

 その問い詰めるような視線に貫かれ、サルガタナスは……何も言い返せなかった。


 それを見たアグネスは、はぁと溜め息。


「いや……違ったね。何が『愛される』ってことか分からない顔だ」

「……うるせえ」

「アンタの力を担ぎ上げた奴らは大勢居るだろう。けど、アンタ自身を見てくれる奴は居なかった」

「やめろ」

。だからアンタは──」


 その先の言葉は紡がれなかった。


「もう、いい」


 何故なら、アグネスの目の前には彼が。


「黙れ」


 悪魔が剣を振り下ろす。


「チィ!」


 すかさず横に飛ぶアグネス。

 だがしかし、サルガタナスの〈罪〉が刻まれたであろう剣は、切り裂いた空間を中心に激しい気流を生み出す。

 それはアグネスの老躯であり痩躯を引き寄せるには十二分な力だった。

 このままではやられる──即断したアグネスは、自身の聖霊を纏わせる。


十天流アストラ第九天 〈原動天〉


 聖霊を用いた剣術流派・十天流の中でも高難度の技。

 その真髄は魂の力たる聖霊を纏い、鎧と成すこと。そして、纏った聖霊の力で相手の攻撃を受け流すことにある。


(近寄ってきてくれるなら僥倖!)


 先述の通り、サルガタナスの歪みは無敵ではない。

 どこかを歪めれば、必ず別の場所に皺寄せが来る。そこに攻撃を乗せればいい。あとは流れに従って、攻撃はサルガタナスへと届くはずだ。


(アタシも歳だ。罪化も聖化も負担が大き過ぎる!)


 罪使いの罪化や聖霊使いの聖化のような自己強化の手段も、老体のアグネスには余りにも過酷。リスクとリターンが見合っていない。

 それ故に今まで素の状態で戦ってきたが、長々と戦っていれば先に追い詰められるはこちら側。


(今──ここで決める!!)


 繰り出すは、文字通り奥義。


(十天流、第十天──〈至高天〉!!)


 『至天の薔薇』とも謳われる無数の斬撃。

 聖霊の剣が描く軌跡が、薔薇の花弁を彷彿とさせることから、そう称されるようになった歴史ある技だ。


 遡れば、彼の〈怠惰の勇者〉アスタが用いた剣術が源流にある。




 かつて世界を救いし勇者と同じ軌跡を描かんとアグネスは振るう。

 力を──命を振り絞って。




 ***




(〈虚飾〉に出し抜かれたか)


 ライアーが〈転移魔法ミグラーテ〉で転移した直後の話だ。

 己の〈シン〉──〈湮滅いんめつ〉の力をもって、肉体を透明化するフォラスは周囲を睥睨する。


 この場に居る人間は大別すれば四種類。


 聖女。

 彼女達を守る近衛騎士。

 魅了されていた騎士。

 そして、たった今現れた一人の援軍。


(先に殺すのはあの娘だッ!!)


 フォラスは聖女に目もくれず、通路の最奥で矢を番える少女──〈嫉妬のアータン〉へと弓を構えた。


 これはオライの遺品。

 彼の〈使嗾〉の術式が刻まれた、標的を自動追尾する力を矢に与える罪器。


 名を『ペルセクオル』。


(我の罪器はあの男によって打ち砕かれた……だが今は!)


 不可視を発動したまま、矢を番える。

 周囲にはフォラスの着込んだ鎧が打ち鳴らされる音と、矢を番える音だけが聞こえていることだろう。誰も彼の姿を視認することはできない。


 その為、聖女を守る近衛は防御に徹する。

 大聖堂に張られた〈聖域〉により魅了が解除された隊長達も同様だ。ルフールが身を挺し、小盾の〈聖域〉を展開している。


 それが分かっていたからこそフォラスはアータンに狙いを定めた。


 数は減らせるところから減らす。

 疲弊した騎士達を討つのは後でいい。


(我の目的はただひとつ)


 一瞥した先に浮かぶ黒い球体。

 あれは紛れもなくサルガタナスが展開した〈聖域〉──〈世界ウェニ・ウィディ・ウィーキ〉である。


(あやつの王へと至る道は誰にも邪魔させん!!)


 すでに一人を通してしまいはしたが、元より〈虚飾ライアー〉はサルガタナスが獲物と定めていた相手。あのまま交戦したところで問題はない。


 だが、他の有象無象は違う。


 サルガタナスは魔王になるべき逸材。

 かつて、愚かにも戦いを望んだ自分やオライを打ち負かし、地獄という地の底で、太陽に勝るとも劣らぬ燦然たる光を望ませた存在だ。


──彼を魔王に至らせる。


 自分やオライの望みがそれだ。


 そして、今やサルガタナスは六魔柱の一柱。魔王軍において魔王に次ぐ大幹部の一人までとんとん拍子で上り詰めた。

 しかし、ここから先はただ雑魚を殺すだけではいけない。魔王に相応しい力を証明するには、それに足る獲物を見定めなければならないのだ。


 たとえば白金級冒険者。

 たとえば聖堂騎士団長。

 たとえば──勇者。


 何事もなければ歴史に名を残すであろう英雄の最期を、サルガタナスという悪魔の手で悲劇に染め上げる。


 魔王という絶対強者の玉座を奪い取るには、それが一番の近道だ。

 有象無象を相手取らせる暇も必要も、今のサルガタナスには存在しない。


(ただし〈大罪〉!! 貴様の首は別だ!!)


 魔王軍が血眼になって追い求める七つの〈大罪〉。

 伝説の勇者と同じ〈罪〉を持つ彼らだけは強さに関わらず、身に着ける罪冠具を欲されていた。


 弱い獲物で手柄を立てられるなら、それ以上のことはない。


 従者の功績は主の功績。

 自分が〈大罪〉を討ち取り、その首と罪冠具を持ちかえれば、そのままサルガタナスの功績へと繋がるのだから、フォラスが奮い立たぬはずがない。


(そこだ!!)


 番えた矢はただの矢ではない。

 魔法で生み出したもの。しかし、やはり〈湮滅〉によって視認はできない不可視の代物である。


 撃ち合いにおいて、見えぬ弾丸ほど恐ろしいものはない。

 何せどこから撃たれているか、いつ撃たれたかさえも分からないのだ。


「ッ!!」


 鋭く駆け抜ける矢がアータンの頬を裂く。

 振り戻される少女の顔は苦痛に歪んでいた。だが、それはフォラスの求めていた狙いではない。


(水の盾? ……反応したかッ!!)


 アータンの眼前に展開される水球。

 それなりの直径を誇る水球が、矢に貫かれる一瞬のを目視させ、反射的に回避行動をとらせたのだった。


(ならばッ!!)


 フォラスは、今度こそ〈嫉妬〉を仕留めんと矢を番える。同じ轍は踏まないと、全力で魔力を注ぎ込んだ極上の矢だ。


 現在アータンは罪化している。

 全身から覗く硬そうな鱗を見るに、魚人系の因子が発現しているのだろう。あれを貫くには相応の武器を用意せねばならない。


 その分生成に時間は掛かるが敵を仕留める為だ。必要だからやる。従者としてはそれだけのことだった。


「ッ……〈氷魔弓ラキエアルクス〉!!」


 ただならぬ空気を感じ取ったのだろう。

 アータンは慌てたように氷の矢を番え、そのまま射る。


 番え、射る。

 番え、射る。


 その繰り返しだ。

 狙いもクソもあったものではない。


(素人めが)


 下手な矢も数撃てばなんとやら。

 それを狙っていると見て、フォラスはすでに天井の梁へと退避していた。着弾場所から凍結が広がる〈氷魔弓〉だが、フォラスが退避したのは、針の穴に糸を通すような正確無比な狙いでなければ当たらない場所。


(ここならば……)


 相手は〈大罪〉の一柱、〈嫉妬〉。

 罪化して発現した魚鱗も、相応の堅牢さを誇ると見るべきだ。


 焦らずじっくり矢に魔力を注ぎ続ける。


 その間もアータンは矢を射続ける。

 一心不乱、死に物狂いと言った様子だ。あれは狙撃手ではない。自分に迫りくる死を追い払おうと、適当な武器を振り回す素人と同じである。


 刻一刻と矢は完成されていく。

 満ち満ちる魔力はスパークを迸らせるが、それさえも〈湮滅〉によって他人に見られることはない。


 不可視の姿。

 不可視の矢。


 誰にも彼の姿を捉えることはできなかった。


(これで終わりだ、〈嫉妬〉)


 弓を引き、狙いを澄ます。

 最悪、狙いは適当でもオライの遺した〈使嗾〉が目標まで矢を導いてくれる。それでもフォラスは同志の遺した罪器が、〈大罪〉を仕留める瞬間を見届けんとしていた。


 張り詰める弦。

 緊張の一瞬に、フォラスは大きく息を吐いた。


(オライ。お前の仇は──)


 そして、次の瞬間。


(我が──ッ!!?)




 




 百メートル以上先の人間とだ。

 真っすぐ、それから視線が逸れることもない。

 まるで深淵のような深い緑色の瞳に睨まれて、フォラスは思わず手を放してしまった。それでも矢は真っすぐ飛んだ。オライの〈使嗾〉はその程度で逸れる力ではない。


 だが、


「ッ──んぅ゛~~~!!」


(避けただとッ!!?)


 やはり見えている。


 何故だ、と。

 動揺の余り呼吸が荒くなったフォラスが目にしたものは──“白”だ。


か!!?)


 〈氷魔弓〉の乱射で通路のあちこちが凍り付いている。

 すれば、通路の気温は必然的に下がる。吐く息に含まれる水分が凝結し、白くなる程度には通路は冷やされていた。


(まさか初めからそれを狙っていたというのか!?)


 狼狽しつつも、フォラスは立て直さんと矢を再装填する。

 相手も同じだ。水のレンズ──〈水鱗鏡エクス・オクリス・スクワマエ〉越しに、不可視の標的フォラスに狙いを澄ませていた。


(……おのれ)


 ここからは早打ち勝負。

 世界がスローに映る中、思考だけが平時と同じスピードで冴え渡っていく。


 そんな中、フォラスの胸に湧き上がる──これは敗北感だ。


(この程度のミスを犯すとは……)


 オライならば、こんなはずはなかった。

 獲物を狩る“狩人”と同時に、“狙撃手”としても一流であった彼さえいれば、寒中で吐く息が敵の目印になると、敵の狙いを見透かしたはずだ。


 だが、それももう後の祭り。




「……ままならんものよ」




 再充填した魔法の矢。

 天井の梁に当たるのも厭わず放たれた一撃は、少女目掛けて真っすぐ飛んでいく。当たれば即死は免れない。




「──〈海蛇神の大水魔弓レヴィアタン・オーラアルクス〉!!」




 それは、こちらも同じだった。

 少女の放つ一矢。渦巻く水流を押し固めた矢は、フォラスの射った矢と正面衝突の真っ向勝負に臨む。

 しかしその寸前、矢は巨大な顎を開く一頭の水龍へと変貌を遂げた。

 フォラスの命同然の一矢を、水龍はいとも容易く噛み砕く。

 あまつさえ、食らった魔法──魔力を己が血肉にして成長する水龍。


 その巨大で強大な顎を前には、不可視など無意味。


(──サルガタナス)


 体を水が覆い尽くす。

 全身が粉々に砕けそうな暴力の奔流だ。


 だが、フォラスの頭を埋め尽くすは今日までの走馬灯。

 付き従った主の後ろ姿と、共に歩んできた同志の横顔ばかり。


 最期に浮かんだのは……在りし日の思い出だった。


『ぐ──っはぁ!?』

『……なんだ、終いかァ?』

『馬鹿な……この我が無名の悪魔なぞに……!!』

『ハッ、無名ねェ。これに懲りたら二度と歯向かってくんじゃねぞ。次は殺す』

『ま……待て! いや、待ってくれ!』

『あァ?』

『お前は……お前の名を教えてくれ!』

『俺ェ? ……どォしててめェに教える必要がある?』

『お前が──』




──お前こそ、魔王に相応しいと思ったからだ!!




(……すまんな、サルガタナス)


 持ち上げた神輿を途中で手放してしまうなど、配下として言語道断。

 だが、不思議と不安はない。


 彼は孤独だった

 そして、孤高だ。


 元より徒党を組む性質ではない。

 今日まで自分が付き従ったのも、ただただ彼の王に至るまでの覇道を、この目に焼き付けたかったからだ。


 彼には目指すべき玉座を指し示した。

 故に、従者としての役目はとうに終わっているに等しい。


 彼はこれから誰の導きがなくとも進んでゆける。

 その確信と信頼こそ、今際の際に安堵を抱ける理由であった。


(お前が魔王になった姿を望めぬこと……実に残ねン、だ……──)


 息が続かない。

 意識が遠のく。

 目の前は暗く。




 それでも──最後まで月光は煌めいていた。




──地上の太陽など目ではない。




──あの磨かれた刃の如き鋭い月光こそ、我らにとっての真の太陽だった。




 ***




「──宗教ってのは……何の為にあると思う?」


 鉄臭さが漂っている。

 それでいて湿っぽい。


「……あァ?」

「アタシゃあね、愛の輪を広げる為にあると思うんだ」

「何を言うかと思えば……それがどォした」

「人ってのは……弱い生き物だ。とても……一人じゃ生きてけない」


 だから助け合う、と。

 口から血を流す聖女は血溜まりに背中を預けたまま、見下ろしてくる悪魔を見上げた。


 聖女の腹部には、紅い一文字が描かれていた。

 致命傷だ。どこからどう見ても。


「けど、人を助けるってのはそう簡単なことじゃない。人間、なまじ知性があるからね。理由を……求めるんだ」


 額には脂汗が滲んでいる。

 つい先刻まで剣を握っていた指も、今は死んだ虫の足のような中途半端な開き方だった。もう一度立ち上がり、剣を振ることは叶わぬだろう。


「その為に……人間は群れを作る」

「……群れだァ?」

「ああ。国や町……もっと小さい括りで言えば友達や家族が良い例さね」

「ハッ。てめェの家族だろうと見捨てる奴なんざいくらでもいるぜ?」

「だからこその宗教さ」


 フッと。

 自分を手にかけた相手へ向けるものとは思えない慈愛の笑みを、アグネスはサルガタナスへと浮かべてみせた。


。たったそれだけで宗教ってのは同族を作るんだ。……あぁ、別に神なんて大層なもんじゃなくたっていいよ? 自分と同じものを信じている……その意識が何の関わりもなかった人々を繋げ合う」

「……」

「そうして見返りを求めない愛を……無償の愛の注ぎ方を学ぶんだ。人が最初に受ける無償の愛が親からのものさ。でも、それを得られなかった人々にも宗教は機会を与えるんだ」


──無償の愛を受け取る機会をね。


 ゆっくりと目を細めるアグネス。

 今にも途絶えそうなか細い息を紡ぎながら、彼女は目の前の悪魔を……いいや、違う。




 “力”にしか価値を見出せない子羊に、そっと手を差し伸ばした。




「……どうだい? アタシと同じ神……信じてみないか?」

「……ハッ。長々と何を語るかと思やァ……ただの宗教勧誘か」

「ハハッ……違いないね」


 溢れ出た笑い声にも、普段の溌溂さの影がない。

 それどころか吐き出した息によって、口角の血の泡が飛ぶほどだ。風前の灯火。アグネスの命の火は、今まさに吹き消される寸前にあった。


「どうだい? 返事を聞かせておくれ」

「……誰がてめェの神なんざ信じるかよ」

「そうかい……」


 そして、まさに今火を吹き消さんとするサルガタナス──片腕から少なくない血を流す悪魔は、実に興味がなさそうに聖女の勧誘を突き飛ばした。


「残念だねぇ」

「俺は俺しか信じねェ。てめェのいう神も宗教も、無償の愛とやらも必要ねェ。俺はこの力さえ──“暴力”さえあれば生きていける」

「それは……悲しい生き方だよ」

「黙れ」


 サルガタナスは剣を振り上げる。

 刀身が湾曲した──いわゆる、三日月シミターと呼ばれる代物だった。


 だが、死に体の老婆を殺すに過ぎた武器だ。今や彼女はナイフ一本でさえ刺し殺せるのだから。


 それでもサルガタナスは手を抜かない。

 全力で断ち切らねば──自分でも理解し難い衝動に駆られ、柄を握り締める手に全力を込める。




「俺の人生を勝手に決めつけんじゃねェ」




 凍て刺す声音が耳朶を打つ。




『……あぁ』




 直後だ。

 アグネスは温かな世界に立っていた。冷え入るような暗さも凄惨な血の臭いもない、辺り一面燦々とした日光に照らし上げられたかのような眩さに満ちている。


『とうとう……かねぇ』


 だが彼女がここを訪れた経験は一度や二度ではない。

 悪魔との死闘を演じた時や重い病に罹患した時、そして焼かれるドゥウスより逃げ出した時等々──死に瀕した時に見る、いわば今際の世界である。


『フフッ』


 見慣れた光景に笑みを禁じ得ぬアグネスは、目の前に流れる光の奥を見遣った。

 そこには大勢の人影が立っている。距離はまちまちだ。顔が見えないくらいずっと奥に立つ者も居れば、手を差し伸ばせば届きそうな位置に立つ者も居た。


 そんな中、アグネスは最も近くに佇む男女に焦点を合わせた。

 銀髪の騎士と金髪の聖女。

 御伽噺に出てくるような美男美女の並びを見て、アグネスは一層笑みを深めた。


『また会ったね……レイ……それにアニー』


 年老いた自分より先に逝ってしまった存在。

 聖女としても、そして、一人の人間としても子供同然に可愛がった教え子達が、そこには居た。


 彼らだけではない。

 向こう側に居る全ての人間がアグネスの知人であり故人だ。


『安心おし。ミカは元気にやってるよ』


 聖女ではない。

 一人の女性として、屈託のない笑顔を咲かせる。すれば、向こうの愁眉が開くのが見えた。


『そうそう、ベルにも会ったさ。相変わらず図体ばかりデカくって! ……ああ、そうだ』


 カラカラと笑っていたアグネスは、途端に神妙な面持ちを湛えて二人に問う。


?』


 辺りを見渡すアグネス。

 誰も彼もが彼女の知人。アグネスとしては知らぬ人間など居ないと豪語できるほど、見かけた者達の名前ははっきりと頭に浮かんでくる。


『ほら、あの子だよあの子。たぶん五年前ぐらいに来たはずさね』


 それでも──ただ一人見つからない人間がいた。


『知らないかい? ……そう、か』


 誰も反応しないところを見て、アグネスは肩を落とす。

 しばらくして鼻を啜る音が聞こえ始めた。それは紛れもないアグネスより発する音だ。


『居たはずなんだよっ……あの子はっ』


 聖女ともあろう彼女が、人目も憚らず落涙する。

 それがどれほどの意味を持つか、この場の人間で知らぬ者など存在しない。


『ホントッ……自分がヤんなっちゃうよ』


 滂沱の涙は足元を濡らす。

 溢れる涙の止まらぬ理由は、年を取ったからだけではない。


『死んでった皆を忘れないようにと誓った……でもこれなんだ。アタシの為に死んでった子だって居るのに……アタシゃ、自分が情けなくて許せないよ!』


 積み重ねた悲しみは余りにも大きく……そして、多過ぎた。

 堰を切ったように溢れる感情は留まるところを知らない。アグネスは髪を振り乱し、今一度に目を遣った。


『ホントに……ホントにあの子を知らないのかい? アタシ達の為に身代わりになったあの子を……』

『  』

『……え?』


 指が。

 レイエルの指が、ある方向を指し示した。


『……?』


 その指は後ろを、


『……ああ、そうか』


 温かな光に包まれた空間に刻まれた一筋の裂け目。


 その奥には闇が覗いている。

 一度足を踏み入れれば、二度とは戻れぬような、そんな濃密な死の臭いを漂わせる暗闇が。


 しかし、どうしてか──。

 アグネスはその先に、微かな温もりを知覚した。

 そして、覚えがあった。


 この温もりは──。




『そうかい──ずっと……そこに居たんだね』




 アグネスは瞼を閉じる。

 刹那、何かに引かれた。温かな場所から冷たい水中へ引きずり込まれるような、苦しみと痛みに苛まれるような感覚が身を襲う。




 苦しい、苦しい、苦しい──。




 けれど、

 アグネスは、その痛みにそっと身を委ねる。




 そして──。




 ***




「──まったく……癪だねぇ」


 意識を現実に引き戻されたアグネスは、開口一番そう言い放った。


「何が癪なんだ?」

「アンタみたいな若造に……自分の責任を放り投げざるを得ないことさ」


 体は尚も痛む。

 しかし、先刻のような体温が消えゆく感触はない。腹部に刻まれた一文字も、今は流血が止まっていることからいい代わりだ。




 自分は──生きている。




 フッと笑みを零し、アグネスは視線を上げる。

 そこには自分を死に損なわした男が居た。


 鉄仮面を被り、使い込んだマントを羽織り。

 そして、かつての勇者が握ったとされる剣……の贋物をぶら下げるなどという、不敬と不謹慎のダブルコンボな存在が。


「アンタに……やれるのかい?」

「当然よ」


 彼は真っすぐ聖女の瞳を見つめ返す。




「──、俺にだってできる」




 嘘偽りなき言葉だった。

 それを受け取った聖女は、心の底より安堵の笑みを浮かべる。




「上等さ。そいつが一番……難しいんだからね」




──もう大丈夫。




──アタシも、この子も。




 安堵と確信を得た聖女は眠りについた。

 永遠のではない。明日に想いを馳せた、生きる為の休息だ。




(後は任せたよ──ライアー)




 後を託せる本物の勇者が現れたのだから。



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