第96話 愛は宗教の始まり
スーリア教国の〈洗礼〉は成人してから執り行われる。
ここで言う〈洗礼〉とは〈罪〉を発現させる為の儀式だ。
国によって〈洗礼〉の時期は多少異なるものの、大概〈罪〉を扱うに足る自制心が備わる時期として成人の機会が多い。
〈色欲の聖女〉リオもそれは例外ではない。
彼女は生まれて間もなく小児洗礼の儀を受け、その際に〈色欲〉の〈罪〉を持っていると判明したのだ。
小児洗礼は〈洗礼〉の前段階。
赤子の段階で保有する〈罪〉を明らかにし、幼い内より大成し得る教育を施そうとするスーリア教団の方針だ。
その結果、〈色欲〉を狙った者の襲撃で実母が殺されてしまった事件は痛ましいに尽きる──が、それがリオという聖女への支援を後押ししている実情は、なんとも複雑な気分にさせられる。
だが、誰よりも己が〈罪〉に複雑な感情を抱いているのはリオ自身だろう。
近衛騎士風情があれこれ言える立場ではない。
自分にできることは傍で守り、そして、支え続けることだ。
その一心で〈洗礼〉の儀が終えるのを待つこと半刻。
当事者しか立ち入りの許されぬ大聖堂の一室、〈洗礼〉が執り行われる間の扉が開いた。
『──……』
『リオ様、お疲れ様です』
『……』
『リオ様?』
『……あ、ハハイヤ』
どこか上の空だった少女がこちらを見上げる。
成人して垢抜けた美貌は教団内でも絶世と謳われるほどだが、今はそれが憔悴した色が浮かび上がっているように見えた。
『いかがいたしました?』
『えっと……その、疲れてしまって……』
『左様ですか』
私はその言葉に違和感を覚えた。
歳を経るごとに聖女たらん立ち振る舞いを身に着けた彼女は、滅多なことでは疲労を口にはしなくなった。それが四六時中傍に控える近衛騎士でもだというのだから凄まじい。
だからこそ、私はその言葉の裏を感じ取ったのだ。
滅多に出さぬ言葉を口にしても、覆い隠したいと思う真実がある。
『……罪冠具はそれを選ばれたのですね』
『え、えぇ』
話を変えるように罪冠具について振る。
彼女の首には金色に輝く
『一生ものです、大切に使いましょう』
『……』
『リオ様?』
『ハハイヤの罪冠具は……何の……』
『私のですか?』
訊かれて私は右手を差し出した。
私の罪冠具は中指のアーマーリング。指輪よりは大きく、腕輪よりは小さい塩梅といった代物だ。小さ過ぎず、それでいて重過ぎず……罪冠具専門彫金師が生み出した努力の結晶である。
だが今更だ。
私の罪冠具など、彼女には昔何度も話したものだ。
『……ねえ、ハハイヤ。たしか逸話では、使い込まれた罪冠具には罪使いの〈罪〉が刻み込まれるって……』
『? そのような話はありますね』
『じ、じゃあ、もしもわたしがハハイヤの罪冠具を身につけたら、わたしがハハイヤの〈罪〉を──』
『それは……流石に眉唾かと』
たしかに〈罪〉に刻まれた罪冠具を他人が身に着け、本来と違う〈罪〉を発現する御伽噺はある。
しかし、御伽噺は御伽噺。
実際に御伽噺を信じた者達が試したが、いずれも失敗したと文献で残されている。そもそも人体と融合した罪冠具を外すことは、肉体を大きく損傷する為、教団でも大々的に禁じられている。
『〈罪〉は一人につき一つ、それが原則です』
『ッ……や、やっぱりそうですか……』
『〈罪〉は欲すものではございません。御するものです』
力を求めて〈罪〉を宿すなどあってはならない。
〈罪〉とは魂に根付く当人の気質、それによって定義される善悪の基準だ。
『〈洗礼〉で何があったかは問いません。しかしリオ様、貴方は聖女なのですよ? 〈罪〉など、必ずしも聖女に必要なものではございません』
『ッ……!』
『武道に魔道、学道……むしろ大切なのはそちらの方です。リオ様が聖女として果たされるべき使命へと繋がる道は、まず間違いなく正道にございます』
〈罪〉とは本来邪道の力。
神話の時代、全ては人と魔が混ざり合ったことがきっかけだ。人は人として純粋に己が〈罪〉に向き合う為ではなく、自身に流れる魔の力を呼び起こす手段として〈罪〉を用い始めた。
それが人として、いや、聖女として人々を救う為に必要か?
否、断じて否である。
『リオ様はリオ様のまま、聖女としての務めを果たしてください』
『ハハイヤ……』
『不安はありましょう。恐怖もありましょう。時には無力に咽び泣き、打ちひしがれることだってありましょう』
だからこそ──。
『そんな時は……私がお支えいたします』
『ッ……うん』
うん! ともう一度頷き、彼女は私の胸に飛び込んできた。
『やれやれ……』
他人に見られると困るな、なんて考えながら。
それでも私は……リオという一人の人間に慕われている事実を心地よく思っていた。
私は、なんて浅はかな人間だったのだろう。
もしも。
もしもだ。
もしも、この時に彼女の抱える真実の正体に気づけていたのなら。
私は──彼女を救えていたのだろうか。
***
「小児洗礼いたしましょう」
「はあ……?」
リオの私室──影武者を演じるアスとの作戦会議室にて、ハハイヤは開口一番そう言い放った。
「小児洗礼ですか」
「やった経験は?」
「まあ何度かは……」
説明しよう!
小児洗礼とは洗礼の赤ちゃん版だ。『そもそも洗礼とはなんぞや?』って人に説明すると、入信の際に執り行われる、お水に浸す儀式のことだと思ってもらったらいい。
要はサッと濡らしてキュッと〆るのだ。
嘘である。そんな料理工程みたいなものではない。
実際はちょっとした水浴びみたいなものだ。正式にはその前に典礼とか礼拝とか色々あるらしいけど、そこまでは俺も知らない。
「つまり今日は
「なんなのその発音」
「エケチェン……」
「私を見ながら言わないで?」
なんだかムズムズするからとアータンはむず痒そうな様子を見せる。
俺のネイティブ発音が受け入れられないのか? それを言ったら本来赤ちゃんはベイビーだけどな。
と、俺のおふざけに一切我関せずを貫くハハイヤは、アス向けに説明を続ける。
「ですが、そう気負うことはありません」
「そ、そうですか?」
「パルトゥスの村の恒例行事のようなものです。毎年リオ様が帰郷されるタイミングで、その年生まれた新生児に執り行っているのです」
「その歳に生まれたエケチェンに……あ、」
「ほら、
うっかりエケチェン呼びをしたアスが赤面し、顔を覆う。
ハッハッハ、罹ったな。
ウェルカム・トゥ・エセネイティブの世界へ。お前はこれからトマトをトメィトゥ、ポテトをポティトゥ、タマゴをタメィゴゥと発音するんだよ!
なんて心の中で高笑いをしていたが、
「と、ともかく……わたしはエケ──赤ちゃんたちに小児洗礼を施せばいいわけですね?」
「はい。儀礼に際しての口上はすでに見繕っておりますので、こちらを読み上げていただければと」
「助かります……!」
今となっては宣教師という立場も非公式だったことが明らかになったアスだ。
これまでは何となくで通っていた洗礼の儀も、毎年恒例ともなっている地域では流石に前準備が必要だろうて。それが他人の影武者を演じつつなら尚更だ。
「よいですか? まず初めにですが──」
「はい……はい。ほぉ……」
小児洗礼は昼から。
それまでに原稿を暗記しなければならなくなったアスを部屋に残し、俺達は他の近衛騎士と共にある場所へと向かった。
そことは──!
「ばぶぅ」
「キャ~♡ カワイイ~♡」
誰の黄色い声だって?
俺だよ、俺。生まれたばかりのエケチェンを見て悶える俺様さ。エケチェンなんてナンボカワイイって言ってもいいものだ。
カワイイだけの生き物……。
祝福されるべくして誕生した存在……。
最早こいつらはカワイイという誕生罪を抱えて生まれてきたに等しい。
そんなわけで俺達は、小児洗礼が執り行われる村の教会へと来ていた。
理由として儀式に必要な準備を整える為だが、そんなもの小一時間も作業していれば済む程度に用意は済まされていた。
毎年収穫祭のタイミングにリオが帰ってくるっつってたものね。そりゃ同じ時期にやる小児洗礼も、頃合いを見計らっていておかしくはない。
そんなこんなで俺達は新たなるミッション、カワイイ赤ちゃんたちのご機嫌取りを遂行していた。
家族の方は儀式に向けて着替えなどの準備がある。それまでの間、リオの近衛騎士達が赤ちゃんの面倒を看るのも恒例となっているらしい。
とは言うものの、要は赤ちゃんを可愛がっているだけだ。
まったく役得だぜ、ゲヘヘッ。
「や~だ~か~わ~い~い~♡ 目に入れても痛くないでちゅね~♡」
「ばぶぅ」
「
「ライアー!?」
油断していたら目に指を突っ込まれた。
こ、こいつ……できる。的確にバイザーの隙間を狙いやがった。おかげで地面の上でのたうち回る羽目になったぞ。
俺をここまで追い詰めたのは両手で数えられる数しか居ない。グーパンダ、カタパンダ、ハイキックマに次いで四番目だ。きっとこの赤ちゃんは大成することだろう。
「や、やるなお前」
「ばぶぅ」
「おいおい、『Bar, Boo』って……その歳から酒場批判か? まだミルクしか飲めないからって、そりゃやっかみが過ぎるだろ」
「おぎゃあ?」
「『Oh, Gear?』──そうだ、酒は大人にとっての歯車なのさ。お前も成人したらきっと理解できるぜ」
「赤ちゃん相手に変なこと教えないで」
「バブゥ~」
赤子との対話を試みていたらアータンに止められた。
そんなアータンも小児洗礼を目前にしてぐずるお姫様と王子様の相手中だ。
とは言っても、流石は元孤児院の年長さんである。
最初は泣き声が泣き声を呼ぶ合唱団と化していた赤ちゃん達も、適切に対処するアータンのあやしを経て、健やかな眠り顔や満面の笑みを浮かべるに至っていた。
そして今も尚、アータンは一人の赤ちゃんを抱きかかえている。
カワイイがカワイイを抱いているのだ。
それってつまり──最強じゃん?
「あぅ~」
「ふふっ、カワイイ~」
「あむっ」
「指を吸ってもミルクは出てこないよ?」
「んぅ~!」
アータンが赤ちゃんと戯れている。
こんなんもう宗教画だろ。
余りの尊さに釘付けとなっていれば、こちらの視線に気づいたアータンがはにかんだ。
「ねえ。こんな風に二人で赤ちゃん抱いてたら、なんだか夫婦になったみたいだね」
「──」
「ライアー? どうかし──し、死んでる……!?」
「ばぶぅ」
「あ゛りがとうございますッ!?」
余りにも高火力な一撃に意識を飛ばしていたら、目覚ましの目潰しを喰らった。
ありがとうございます、エケチェン師範。貴方のおかげで黄泉平坂より逃げ果せることが叶いました。代償として視力をいくらか失ったかもだけど。
「フ、フフ……ここらのエケチェンは活きが良いぜ……!」
「そんな鮮魚みたいに……」
「けど実際そうだろ? この打ち上げられた魚のような光景は」
「それは……うん」
赤ちゃんに髪を遊ばれながら視線を移すアータン。
そこには教会前の庭に広げられた絨毯の上に並べられる赤ちゃんと赤ちゃんと赤ちゃん赤ちゃんが──!
「去年はお楽しみでしたねってとこか」
「?」
「ばぶぅ」
「下世話なネタですみませんでしたっ!」
「三撃目はそろそろ致命傷だよ!?」
疑問符を浮かべるアータンの代わりに、エケチェン師範からツッコミ──というより、指を突っ込まれた。
不味い。これ以上アウト判定喰らったら、ここから指四本一気に突き刺されて眼球に北斗七星刻まれちゃうわ。
「と、ところでベルゴは……?」
「ベルゴさんならあっちだよ? エケチェンのお母さん達のところ」
「え?」
「え? ……あ」
とうとうアータンにも伝染った。
それを本人も自覚してか、アータンは顔を真っ赤にして俯く。その変わりぶりが面白いのか、赤ちゃんはこの世の悦という悦をしゃぶり尽くすかの如き笑い声を上げていた。怖いわ。
「諦めろ、アータン。今日からお前は一生赤ちゃんを見るたびに『エケチェン』が脳裏を過るようになる……」
「怖いこと言わないで!?」
「エケチェン……」
「わー、わー! 聞こえない聞こえない!」
「ほら、あそこには
「新出単語!?」
人間の洗礼にかこつけてペットにも施してもらおうとする家庭が持ち込んだ動物の赤ちゃんもいくらか来ていた。子犬と子猫の可愛さは万国共通……否、万世界共通だ。
可愛さだけが取り柄の毛玉共が。
その可愛さ、生きるに値する。末永く幸せに生きろ。
さて、そんなフワフワを通りすがりに一撫でしつつベルゴの下へと向かう。ベルゴは赤ちゃん達の母親に囲まれている真っ只中だ。
「若奥様なんかに囲まれちゃって。ベルゴったらもぉ~」
「──中々泣き止まないと。そういうことだな?」
「はい。どこか悪いのかと不安で……」
「ふむ……少し待ってくれ。こうやってちょっときつめにおくるみをだな……」
「……えっ!? あれだけ泣いてたのにもう泣き止んだ……!?」
「はははっ、この子も不安だっただけのようだな。もう一度やり方を見せよう」
「ありがとうございます!」
「ベルゴったらもぉ~」
若奥様に向けて育児のレクチャー決めているベルゴ。
ミカを育て上げた経験から出力される的確な対処法は新米ママの心を射止めたようだ。近くに居た新米パパも、嫉妬と羨望の血涙を垂れ流しながらその光景を見守っていた。
子持ちの夫婦とは言え、シングルファザーには経験値で劣るか……いい勉強になったぜ。
ベルゴは次々に赤ちゃんを泣き止ませていく。
もう保育士にでも転職しろってくらいの手際の良さだ。それを見た母親が一人、また一人とベルゴの下へと駆け込んでいく。
「すみません! この子も診てもらっていいですか!? さっきのおくるみのやり方をしても泣き止まなくて」
「どれ……むっ? おくるみに問題はなさそうだが、これは一体……?」
あれだけ快進撃を続けていたベルゴの手が止まった。
これにはベルゴの表情も苦々しくなり、傍で見守っていた母親の顔にも不安が浮かぶ。
「な、何か病気でしょうか!?」
「少し待ってくれ」
ベルゴはそれから『う~む』と唸り声を上げる。
やれやれ……俺達の出番か。
「ベルゴ、このエケチェンはミルクを飲んだか?」
「ああ、飲んだばかりだ」
「ベルゴさん、このエケチェンのオムツは替えた?」
「それも替えたばかりだ」
「暑いんじゃないか?」
「寒いのかもよ?」
「待て待て、このエケチェンの服は……あ」
「「え?」」
「……ごほんっ!」
ベルゴは咄嗟に咳払いをして誤魔化す。
残念だったな。既にエケチェンパンデミックは始まっているのさ。貴様もエケチェンの波に呑まれるがいい。
「退きな、ベルゴ」
「ア──アグネス様!?」
「何驚いてんだい。早くエケチェンを渡しな」
「アグネス様?」
「なんだい? カワイイじゃないか、エケチェンって呼び方」
「
なんてふざけていればだ。
元聖堂騎士団長がたじたじする相手、聖女アグネスが参戦してきた。
しかも堂々なるエケチェン呼び。これが年の甲……有無を言わさぬベテラン聖女の風格という奴か。無意識に感化されたベルゴも自然とエセネイティブとなっている。
それはさておき、ベルゴから渡された赤ちゃんを抱き上げて観察するや、アグネスは絨毯の上に置き、迷いなく肘や膝と言った関節をマッサージし始める。
すると──。
「あ……泣き止んだ!?」
「ふふっ。成長痛だったみたいだね。毎日たくさんミルクを飲んで育ってる証拠さ」
『この子は将来大きくなるよ』とアグネスが微笑みかければ、赤ちゃんの両親は涙ぐみながら何度も頭を下げた。
ベルゴが診ても分からなかった原因を瞬時に見抜くとは、流石はベテラン聖女だ。含蓄の量が違ぇや。
「ベルゴもまだまだだね」
「精進します……!」
「……その姿勢を俺は否定しない」
「道を正すのも仲間の役目だよ?」
危うく保育士の道へ歩みかけたベルゴの背を押してしまいそうになり、アータンから制止を食らう。
「フンッ。今更何を目指そうが構やしないが、分からないことがあったらアタシに聞きなよ。なんでも教えてやる」
「お婆たま……」
ヤダ……このお婆たまイケメン……。
「それとだ。あんたにゃこれが終わった後、稽古をつけてやるからね。アタシの全部を叩きこんでやる」
「お婆たま……!」
ヤダ……このお婆たまスパルタ……。
果たして俺はこの後生きていられるのだろうか?
今から不安で昼と夜しか寝られない。いや、あれは眠るってより気絶しているに等しい状態だけれども。それくらいお婆たまの稽古は熾烈で苛烈で激烈なのである。おかげさまで俺の全身は筋肉が断裂しそうだ。
「どうしてそこまで俺を鍛えようとするモチベが溢れてくるんだよ……」
「アタシももう先が短いからね。残りの命は後進の為に注ぐと決めてるのさ」
「注がれた生命力で後進が破裂するわよ?」
そう言ってやればアグネスは鼻を鳴らした。
「何言ってんだい。自分も他人も守れるぐらい強くなる為にゃ、あれぐらいで泣き言言うんじゃないよ」
「ぴえん」
「──でないと、アタシみたいに自分ばかり生き延びる羽目になるからね」
急に声のトーンを落としたアグネス。
それには俺も反射的に出かけた軽口を飲み込む。茶化そうとは思わない。思えなかった。
なにせ彼女の人生を言い表すが如き、重い……重い含蓄を抱えた言葉だ。
聖女として国や民を守り育む為に費やしてきた半世紀という時でさえ、亡くしたもの全てを悼むにはまだ足りない。
立ち止まることを許されなかった──否、彼女自身が許さなかったのだろう。
「……分かってるよ」
「それならいいさ。それにこれからは若い奴らの時代。遺せるモンは何でも遺していかなきゃね」
「それがあのかわいがりか。可愛がられ過ぎて感涙に咽びそうだぜ」
「クックック。そいつは良かった」
赤子を抱き上げながら、老練された聖女は白い歯を覗かせて笑う。
「アタシゃ──皆に“愛”を遺したいのさ」
***
「──サルガタナス」
「あぁ?」
ここはスーリア教国領のとある廃城。
かつての主に見捨てられ、それでも尚存在し続ける伽藍堂にしか過ぎなかった城内には、新たな住人が居座っていた。
片や埃を被ったソファに寝転びつつ、リンゴを齧る青年──もとい〈六魔柱〉の一柱、〈愚癡のサルガタナス〉。
その彼に対し、親密とも慇懃とも感じられる声音で呼びかけたのは、重厚な鎧に全身を包んだ悪魔であった。
「フォラス、何の用だ?」
「いつまでそうしている?」
「……どういう意味だ」
諫めるようなフォラスの物言いに眉尻を上げるサルガタナス。
これがただの悪魔であれば、機嫌を損ねた事実に震え上がり、泣いて許しを請うほどの事態であった。
しかし、フォラスに恐れは窺えない。
むしろ、怠惰を極める己が主の有様に、怒りさえ覚えているかの如き空気を纏っていた。それは彼の纏う重厚な鎧など屁でもないと思わせる重圧な威圧感。
事実、高ぶる感情に呼応して放たれる魔力が、周囲の調度品が悲鳴を上げていた。
「……〈大罪〉の居場所は割れている。仕掛けるなら今だと言っている」
先日、サルガタナスが襲撃した〈大罪〉。
〈嫉妬〉、〈怠惰〉、〈色欲〉──そのどれもが魔王軍が必要とする〈大罪〉であり、打ち倒すべき標的でもある。
しかし、今や〈大罪〉の一行は聖女リオの影武者を演じている有様だ。
聖女会談の為に聖都へ向かう以上、辿る道程も立ち寄る町村も判明しているに等しい。
ならば、わざわざ聖女会談を待たずとも〈大罪〉を仕留めることはできる。むしろ好都合だ──それがフォラスの主張であった。
「わざわざ律儀に会談の日を待たずともいい。サルガタナス、お前が〈大罪〉を討ち取って魔王に相応しい“実力”を証明するべきだ」
力説するフォラス。
その並々ならぬ語気を前にしたサルガタナスと言えば、
「ハッ」
鼻で笑った。
興味なさそうにリンゴを齧る彼は、残った芯をどこへともなく転移させて処分する。
それを見たフォラスの拳は震えていた。
鎧越しにも拘わらず、手の甲に血管が隆起している様がありありと目に浮かぶようだった。
「サルガタナス!」
「……俺様に〈大罪〉の寝首を掻けってかぁ?」
「そうだ! 奴らは会談の日に我らが来るとばかり思い込んでいる。そこを盤石な戦力の下で攻め入り、奴らの首を獲る!」
『それの何が悪い』とフォラスは乗り気でない主を必死に説得する。
サルガタナスはフォラスの主。魔王軍に君臨する六柱が一柱の内、“実力”こそ魔王の才に相応しいと考える強者だ。
だからこそフォラスは彼に惚れ込んでいる。
大々的に触れ込みこそしないが、彼こそが魔王に相応しいとさえ考え、ゆくゆくは彼が玉座に就くようあれこれ思索を巡らせるほどだった。
故に認めがたい。
この好機を逃す主の考えを。
「何故だ、サルガタナス!?」
「──分かっちゃねェなァ」
「ッ……なんだと?」
「てめェは分かっちゃいねェよ」
興味の失せていた半目に光が宿る。
敵ではなく身内を威嚇する眼光だ。長年連れ添ったフォラスでさえ、一瞬にして総毛立つ死の予感を感じさせるのは、やはり彼も超絶とした力を持つ悪魔──〈六魔柱〉だからと言えよう。
その強者の主張はこれだった。
「不意打ちして掴んだ勝利に何の価値がある?」
「価値だと……? 勝利は勝利だ。〈大罪〉を討った実績こそが何よりの価値だろう!」
「おいおい……」
はぁ~と呆れるようにサルガタナスは溜め息を吐く。
「──勝利の価値は勝ち方だろうが」
一瞬だった。
窓が、花瓶が、空間が。
全てが悲鳴を上げるように亀裂が入り、恐怖に耐えかねたもの達から断末魔を上げて崩れ落ちた。
「……!」
「殺し合う中での不意打ちと、盤外での不意打ちは訳が違ェ。戦ってすらいねェ敵を殺して、一体誰が俺の力を認める?」
「ッ……それができるのも、ひとえに実力だろう……!」
「そうだ。けどなァ──俺様が納得しねェんだよッ!」
立ち上がるサルガタナスが咆哮し、空間そのものが震えた。
陶器やガラスの家具は粉々に砕け散り、多少展延するであろう鎧や剣といった飾り物も、サルガタナスの怒りによって粘土の如く捻じ曲げられていく。
「魔王がせこせこ暗殺するかァ!? しねェよなァ!? 魔王なら格上だろうが多勢が相手だろうが、てめェの力で捻じ伏せてナンボだろうが!」
己の価値観を語るサルガタナス。
それは魔王を夢見る彼にとって、決して捻じ曲げてはならぬ芯のようなものだった。たとえ誰一人に理解されずとも、彼の中においてはそれこそが絶対なのだ。
「今回は場所とか数の問題じゃあねェ。こっちが仕掛けるって約束した日があんだ。そいつを違えて奇襲するなんて
「サルガタナス……!」
「考えてみろ。奴さんは今頃、会談の日に向けてビクビク戦力を整えてんだ。そいつを真正面から捻じ伏せる……全員をだ!」
──それが魔王に相応しい。
途中から嬉々として主張を語っていたサルガタナスは、改めてソファに体を預けた。
「分かったなら二度と言わせんじゃねェよ。……安心しろ。俺様は〈愚癡のサルガタナス〉だぜ? てめェの道理で世界を捻じ曲げる大悪魔だ」
「……お前が負けるとは端から心配してはいない」
「なら帰れ。俺様もウズウズしてんのを鎮めるので大変なんだ」
怠惰な生活は滾る血潮を鎮める為。
そう告げる主を前に、フォラスはそれ以上反論しなかった。破片で散らかった部屋から静かに退室する。
「フラれちまったかぁ?」
「……オライか」
しばらく通路を歩いていれば一体の悪魔が声をかけてきた。
下半身が馬のような四つ脚と化した部分的な魔人化。さながらケンタウロスの見た目の悪魔は、悪党染みた笑みを湛えてみせる。
「だから言ったんだ。うちの大将にシャバい真似なんざさせようとすんなって」
「……奴を魔王に押し上げるにはそれが最も合理的だ」
「合理性で動くタマかよ」
からから笑うオライ。
そこにはサルガタナスという悪魔に対する一種の信頼が滲んでいた。崇拝と言えるかもしれない。
「お前は心配し過ぎだ。結果は後から付いてくる。力があるなら尚更だ」
「だが……」
「おれ達ゃあいつの力にほれ込んだ性質だろ?」
──だったらドンと構えてろ。
そうオライは笑い飛ばした。
……一理あるか。フォラスは自分が策を弄する余り、主の力を信じきれなくなっていたと省みる。魔王軍は魑魅魍魎の世界。力さえあるならば下の者が上の者に下剋上し、地位を奪い取ったところでとやかく言われる組織ではない。
故に実力で〈六魔柱〉の座を勝ち取り、その上魔王を目指すハングリー精神溢れるサルガタナスに王の風格を見出したのだ。
「……それもそうか」
「だろぉ? どうせ会談の日にドンパチするんだ。それまでおれ達ゃ大将の駒として準備を──」
「話しているところ失礼」
「「!」」
会話に割って入る影があった。
ヌルリと。
しかし、登場した瞬間に辺りを覆い尽くす重圧を放つ大悪魔だった。
「っと、吾が来てやったのだ。失礼とは思うまいな?」
「サタナキア……!?」
「“様”が抜けているぞ」
厳かながら艶っぽい声音を放つサタナキア。
直後、彼の瞳が妖しい眼光を放った。一度見つめれば夢うつつが曖昧になってしまいそうな幻惑を誘う光だ。
「「──」」
「少し仕事を頼みたい。──いいだろう?」
「「……は」」
一変、虚ろな瞳を湛える二体の悪魔は歩き始めた。
その後ろ姿を見送るサタナキアは悠然と、それでいて尊大な立ち姿を晒すがまま、クツクツと喉を鳴らす。
「約束の日までは時間はあるが……ま、構わんだろう」
大悪魔は小悪魔のように悪戯な笑みを浮かべる。
底知れぬ邪悪を、上っ面の良さで覆い隠すように。
「吾が訪ねてやるのだ。歓喜に咽ぶといい、人間」
其の男の名はサタナキア。
冠す〈罪〉は〈我慢〉。
彼にとっては己こそ至上であり至高。
己以外の一切を下賤と見下す、最悪の一柱である。
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