Fantôme d'une belle vue

 僕が子供の頃はまだここら辺も再開発されていなくて、古い建物がいっぱい残っていたんです。今はもう…跡形もないですけどね。


 駅前からちょっと離れたところに、ごみごみと建物が密集しているところがあったんです。

 …僕たちはそこを「三角州」って呼んでたんですけど、単に小さな川に囲まれてたってだけで、実際には全然三角州ではないんです。

 どうも、昔の子たちが理科の授業で三角州ってものを知って、「じゃああそこも三角州や!」ってなって…完全に間違えてるんですけど、勝手にそう呼び始めたらしいんですよ。それを代々、遊んでいた子が引き継いでいく感じでそう呼ばれてて。


 そこ、戦後の時期は闇市があったらしくて。その名残だと思うんですけど…とにかく狭い道の両側一杯に、建物が建っていて…小さな居酒屋とか、商店とか、そういうお店をやっている人たちの家とかが、こう…ぎゅうっとひしめき合っていて、一帯が建物で作られた大きな迷路みたいになっていたんです。

 …そんなの、子供からしたら格好の遊び場ですよね。三角州の中には駄菓子屋さんも小さな公園もあったから、近所の子供たちはみんなあの一帯に集まっていた。

 三角州に住んでいる人達も…なんていうんですかね、昔からあった土地だからみんな優しいおじちゃんとかおばちゃんばっかりで。悪いことや危ないことをやっていたらちゃんと叱る、そうでないときは見守ってくれている、そういう大人たちばっかりだったんです。…今思うと、昔の大らかさってのもあったのかな。あれだけ子供が遊び回っていたら、相当うるさかったはずですからね。

 …いろんな遊びをしていたけど、三角州に集まるとやっぱりみんな鬼ごっこばっかりやってたな。

 あそこで鬼ごっこをやると楽しいんですよ。さっきも言ったように、もう…めちゃくちゃ入り組んだつくりになっている場所だから、鬼ごっこの、…なんていうのかな…ゲーム性がすごい高くなるんですよね。逃げ場所も隠れるところもたくさんあって。校庭とか公園とかでやるよりも断然面白かった。


 それで…夏休みのある日に三角州に遊びに行ったら、やっぱり夏休みだからみんなおじいちゃんおばあちゃんの家とかに行っていて、集まっている人数がすごい少なかったんです。しかも仲の良い奴が全然いなかった。大繩やってる女子とかしかいなくて…「ヤバいな、あの輪の中には入れないな」ってなって。

 そこで、「じゃあ今日は一人で三角州を隅から隅まで探検しよう!」ってなったんです。やっぱり普段は鬼ごっこの鬼に追っかけられてたり…あと他の遊びとかしてたりで、あまり余裕を持って三角州を見て回ったことがないことに気付いたんですよね。


 それで、はじめて三角州のいろんな場所を見て回ったんですけど、人が暮らす場所だから、遊びだとなんとなく踏み入れないところが沢山あったんです。

 家と家の間を流れている用水路だったり、三角州の中に住んでいる人たちが使っているであろう小さな商店だったり。

 僕はこの場所のことを何も分かってなかったんだなあ、と子供心に思って。

 そうやって目的もなく歩き回っているうちに、完全に迷っちゃって。

 後から考えると、迷うほど広い場所ではないはずなんですけど、…子供ですからね。ほら、スーパーとかデパートとか、ああいう大人のスケールだと迷わないような場所でも子供の頃は簡単に迷ってたじゃないですか?ああいう感じで迷っちゃったんだと思います。

 でもまあ…正直、その後に予定とかもなくて、昼間だから帰れなくなっても親に怒られるような時間でもなかったし、そもそも焦るような場所じゃないので特に困ってはいなかったと思います。「まあ本当に困ったらそこら辺のおじちゃんおばちゃんに訊けばいいや」と思っていたし。


 どれぐらい迷っていたのかな…なんか、時間感覚とか、あとどこをどういう風に歩いたのか、とかそういうことが妙に曖昧なんですけど。暫く歩き回っていて、どこかの細い路地を脇に入ったんです。


 そしたら、急にものすごい開けた場所に出て。

 さっきも言ったように、三角州の中ってだいたい建物に囲まれているんですよ。でもそこだけは、…いや、もちろんそこも建物に囲まれてはいたんですけど、だとしても異様に広くて。

 パッと見は急に広い草むらが現れた感じでしたね。この体験をしたのって確か小学三年生ぐらいの頃だと思うんですけど、その当時の僕の、膝のところぐらいまで草が伸びていて。


 うわ、何だここ、って思いながら辺りを見回したら、その草むらの真ん中に一軒の家があったんです。当時からしても少し古ぼけた感じの家。

 その家の縁側に女の人が座っていたんです。

 白い生地に紺色の何かしらの模様が入った浴衣を着ていて、団扇で顔を扇いでました。年齢は…ちょっとよくわからなかったな。でも、なんとなく若い人、って印象を受けました。

 え、人がいる、と思ったのと同じぐらいに、その女の人と目が合ったんです。そしたら、ちょっと微笑んで会釈をしてきたんで、僕も会釈しながら手を振って。

 子供心に、ここって私有地みたいな場所だろうからあんまり入らない方が良いな、と思って、その家に背を向けて路地に戻りました。

 …そこで何があったかというと、もう…それだけだし、たぶんあそこにいた時間って三分もなかったと思うんですけど…あの場所にいた間、ずっーと気持ちの良い風が吹いていて、風鈴の音が聞こえていたのを覚えています。


 そこからどう帰ったかをよく覚えてないんですよね。記憶が飛んでて。

 家に帰ってから、テレビ見ながらおやつを食べているときに、「いや、あの狭い三角州にあんな広い場所あるわけないよなあ」ってぼんやり考えていたのは覚えてるんですけど。

 でも、夢や幻だとも思わなかったし、怖いこととも思ってなかったです。これは今もそうなんですけど…そういうこともあるんだなあ、と思っていた。


 その後、友達と一緒に俺が見つけた三角州のおもしろポイントを教えてやるぜ、って言って、一人で歩き回っていた時に見つけたいろんな場所を紹介して回ったりしたんですけど、友達に広い草むらを見たってことは一切言わなかったです。

 …なんか、人には言わなくていいかなあ、と思って。親にも弟にも言いませんでしたね。隠すつもりはなかったけど、自然と言わなかった。

 それに、たぶん自分もあそこには二度と行けないだろうな…と思っていたんですよ。特に理由はないんですけど。だから、一人の時でもあの場所を改めて探そうとはしなかったです。


 こうやって大人になって思い出してみると、変な体験だったなあ、とは思うんです。物理的に辻褄が合わないわけだし。

 でも、僕の中ではすごく良い思い出なんですよね。


 …ちょっと気障な言い回しになるんだけど、たまにあの風景を思い出して、ああいう風に生きてみたいなあ、って思うことがあるんです。でも同時に、僕はあの風景に相応しい大人でいられているかな、それはわからないなあ、って思っちゃう。

 あれはあの年齢でしか触れることのできない、大切な体験だったのかもしれない、なんて柄にもなく思ったりするんですよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る