第一章 死の日々

第1章〜Prologue〜その後の日々

 斎川葉介のその後の一日はヤケドの洗浄から始まる。


 バスルームに入りシャワーを細く絞る。腕を伝う水を集めて膿の浮かんだ部分を指先でそっと慰める。毎日しっかり石鹼で洗うように言われている。破れた水疱やヌルヌルとした壊死部分に触れるのは気持ちのいいものではないが、感染症のリスクは防がなければならない。

 先週皮膚科の主治医から白く浮かんだ壊死部を溶かすための軟膏が処方された。

 壊死した皮膚をそのまま放置するとやがて石膏のように固くなってしまうらしい。ところがその晩、せっかく再生してきた周辺の皮膚まで溶かしてしまったらしく、翌朝血を吸って重たくなった包帯に葉介は青ざめた。

 ゆっくりと流水で肘から手首にかけてぬめりを晴らし、これと同じ処置を右脇腹にもする。どちらかといえばこの小さな火傷のほうが難儀だ。普段は長めに切り出したメンディングテープでガーゼを留めているが、次第にテープの跡が赤いミミズ腫れを起こし、かがんだり体を捻ったりする度にうるさく痛む。


 こうして恐ろしい儀式を経て、ようやく葉介の一日が始まる。

 もうぐったりだ。たった今シャワーを浴びてきたばかりなのに、ベッドの縁に腰掛けたまま顔も上げられない。

 朝晩の抗生物質と痛み止めも欠かせない。退院後しばらくは高熱と激しい痛みで夜中に叩き起こされたが、近頃は薬のおかげでそれも減ってきた。

 静脈に刺していた点滴で膨れ上がっていた手の甲もようやく元の神経質そうな指先を取り戻しつつある。しかし深い火傷で神経の一部が断裂したらしく、利き手の薬指と小指には弱々しい握力しか戻っていない。

 指先をやられては、マジシャンとしてふたたび板の上に立つ日はもう来ないだろう――。

 しかし今はそれすらもどこか他人事のようにしか思えない。先々を見据える勇気などどこからも湧いてくる気配すらない。



 それでも頼みもしない朝はやってくる。

 朝9時を少し回っていた。少し前までオフィスで最初の電話を受けていた頃だ。

 だいたいはシステムが立ち上がらないだの決済エラーになったなどというクレームで、それに全力で謝罪しつつ9時半から始まるチームミーティングへの準備をする。昨日の問い合わせ件数や内容を箇条書きにし、あわせて今日のタスクも発表しなければならない。

 そういえば、最後にはそのミーティングからも外されてたっけ――。

 

 静かな窓の外に今日を占う。

 ふたたびベッドに横になり、痛みに顔を歪めながらゆっくりと寝返りを打つ。

 近頃は両親も何も言ってこない。妻や娘たちも<事件>が起こる前と比べても特段何も変わらずに接してくれる。


 4月1日未明に起きた<事件>――。

 なぜ深夜浴室で練炭を炊き、自殺未遂など引き起こしたのか。

 それについて何かしら探ったりうるさく聞き出す代わりに、彼らはそもそも<事件>などなかったことにした。一刻も早く風化させることで葉介自身だけでなく斎川家全員を救おうとしたのである。

 葉介の父も母も人の話をじっくり聞くのが苦手なタイプではあった。しかし彼らのそうした対応について葉介はどことなく安心をしている。老いてなお葉介を否定し続けた人々への断罪など今はする気力もない。

 しかし置き去りにされてしまったような気持ちが日に日に膨らみつつある。

 別に構ってほしいわけではない。ただ自分なりの理解よりも先に「あれはなかったことにしよう」という暗黙が確立されてしまったことに何とも言えぬ正体のなさを感じる。


 それでもまぶしい朝はやってきて「昨日は何をして今日は何をするつもりだ」と揺さぶりかけてくる。

 疎ましかった朝のクソチームミーティングと同じだ。昨日と今日が繋がっていることを報告させることで、「どこから来てどこに向かおうとしているのか」などというくだらない疑問を考える隙間も与えない。伸び切ってしまったテープからはかすれた声しか流せないというのに――。


 窓から差し込んだ朝日が立てかけたボールペンの影を机に落としていた。

 ナイフの先でえぐられるような腕の痛みだけが葉介の現在地だ。それ以外に昨日も明日もない。

 微動だにしない指先の前をペンの影が作った日時計が静かに過ぎていった。

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