第1話 月の光
長年仕えてくれたパーカーソネットのボールペンをペン立てに戻すと葉介は目頭をもんだ。
改めて妻への手紙の最後に記した自分の名前を透かす。最後ぐらい惚れぼれするほど流麗に署名をしたかったが、その字は焦りに乱れてやや右上がりなものになっていた。
もっと静かで落ち着いた夜のはずだった。
最後はドビュッシーの『月の光』と決めていた。仕事の帰りによくこの曲を聞きながら、何もかも楽しかった若かった頃を思っていた。
もう娘たちとの写真を見ても涙は流れないだろう。しかしこれ以上の自傷行為はやめよう。充分「ありがとう」も「ごめんなさい」も捧げてきた。ほんの1時間だけでいい。最後は自分だけと向き合いたかった。
ところが直前になって妻の晴香が2時間近くも部屋に居座ったため、自分と向き合うための時間がなくなってしまった。
「これはパパがショーに出る時に必ず付けていたお守り。お客さんの前に出る前にこのペンダントを握ってみんなのことを思い出すんだ。だから――」
娘の手にペンダントを握らせつつ、いよいよ耐えられなくなって顔を伏せた。
20代の頃イギリスで買った大粒のグリーンアンバーのペンダント。舞台に立つときはお守りとして必ず首からさげていた。やがてそれは歯医者や予防接種を怖がる娘たちの首にかけてやることのほうが多くなった。
ところが突然その大事なペンダントを握らせてきた父に、下の娘はともかく10歳の長女は異変を察知した。
「なんで泣いてるの?パパおかしいよ。受け取れないから」
葉介は強引にペンダントを握らせると力いっぱい彼らを抱きしめた。
さようなら。パパの娘に生まれてくれてありがとう――。
最後の「大丈夫だから」は娘たちに背中を向けたままになってしまった。
しかしこのやり取りをキッチンから覗いていた妻が、子どもたちが寝静まった後「あれはどういうつもり」と問いただしに来たのである。
「何がじゃないでしょ。言いたいことがあるなら言ってよ」
「もう伝えたいことは全部伝えた。大丈夫だからあなたももう寝て」
本当は何も伝えられていない。
諸々含めて一度きちんと謝っておきたかった。そして20年も一緒にいてくれてありがとうと直接伝えたかった。しかしそれは自室に戻った後に綴ったA4用紙に籠めることで残すことにした。
「急に娘たちが小さかった頃のことを思い出してしまった。もう二度と寝る前に子どもたちが不安になるようなことはしないから」
だからもう一人にしてくれ――。
しかし妻は部屋の扉で腕を組んだままなかなか去ってくれなかった。
どうにか妻を追い返した頃にはすでに日付をまたいでしまっていた。
その後も想定外は続いた。
スマホやクレジットカードの解約のための画面遷移にイライラしているうちに、4月1日月曜日は午前2時を回ろうとしていた。そして最後に立ちはだかったのは、練炭への着火方法だった。
練炭の大きな段ボールが届いた日、「友達とキャンプに行くことになったから」とごまかした。しかしいよいよ燃料に着火して浴室に運ぶだけという段階に来て、実際に川辺で魚を炙った経験がないことに立ち塞がれた。
いつもこうだ。最後の最後で取るに足らない小さなことで足元をすくわれる。
何度やってもマッチは細い煙を残してすぐに消えてしまった。葉介は呆然と立ち尽くし黒い燃料を見下ろした。
半ば自棄になりマッチを束にして溝の上に置き、火が全体に周るようにコンロを傾けてみた。その瞬間ふわっと低い炎が燃料の表面を舐めた。細かい火の粉がずっと不機嫌だった葉介の顔を明るく照らした。
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