第8話 多面性というよりも真球
一年生のクラスはすべて4階にある。教室のある北棟は4階建て、先程自分がいた美術室などがあるのが3階建ての南棟。この2つの棟の間は中庭になっていて、その中心にはベンチが4つ置かれている。座っている生徒を見たことはないが。
4階と3階の廊下から見れば美術室の前の廊下が見える。でも昨日と今日は雨が降っていて、外側には雨粒が、内側には室内外の気温差によって生じた結露があった。お世辞にも視界が良いとは言えない。意識して見ない限り誰もが見逃してしまう。視界不良であれば、いつでも犯行をすることが出来る。そもそも美術室なんて用事が無い限り誰も行ったりしない。誰も見ていないのであれば、壁に掛けてある絵を取り外して破壊工作を行うことは容易だ。
「絵を取り外して、美術室に運び込む。鍵を使って美術準備室から道具を取り出して、絵を破壊する。そしてそれを再び廊下にかけ直して帰る」
「……」
「今日は急な用事があるって言ってたけど、それにしては少しのんびりしすぎじゃないかな?」
「何の話してるの?」
窓の方をじっと見つめている彼女は、いつもと同じような顔で首を傾げている。制服の裾に水滴が付いている。一度、外に出たのだろうか?こちらを向いた顔はすぐに元に戻ってしまう。
「時間の無駄だから簡潔に言う。あの絵を破壊したのは君だろ」
「絵?何のこと?」
「昨日、俺が美術室に行った時、床にガラス片が落ちてた。あの絵を見ていなければ、ガラス片だとは思わなかった。あれはきっと、「真球を求める者」を額縁から取り出した時に内側から落ちたものだったんだと思う」
その生徒は何も話そうとしない。ぼうっと窓の外を眺めている。視線の先には美術室がある。樋口さんは宝島にすでに絵の件を話してあると言っていた。少なくとも彼女が知らないはずはない。
「犯人は昨日の部活終わりもしくは、今日の早朝に犯行を行った。わざわざ部活に最後まで残って鍵を使って準備室から道具を取り出して……破壊。その後、道具を元に戻して何食わぬ顔で今日登校をする。美術室なんて部員以外は誰も足を運ばない。当然、発見は遅れる」
「なんでたかだか紙切れを破壊するのにわざわざ鍵まで使って道具を使うの?そこら辺のとがっている物でいいじゃん。なんなら手で破ってもいいし」
「さっき確認したけど。あの額縁から絵を取り出すにはドライバーが必要だ。100円ショップに売っているようなものなら、留め具を弄るだけで取り外しできるかもしれないけど、あれには一か所ネジで締めなければいけない部分があった」
「……」
「ドライバーで額縁を開いて絵を取り出し、そのまま手に持っているドライバーで適当にブスリと刺す」
「昨日の夜か、今日の朝ね……でも、それなら誰か気が付くでしょ?北棟の3階は何も完全に人通りが無いわけじゃない」
「そう、そこが分からないんだ。俺の推理は穴だらけだ。犯行が昨日の夜から今日の朝にかけて行われているのであれば、昨日のガラス片が落ちていた件がおかしくなるし、かといってその前から絵が破壊されていたわけじゃない。俺は無事な状態の絵を昨日の時点で見ている」
「……じゃあ、何が言いたいの?くどくど前置きばかり、おしゃべり自慢?」
「だから、犯人は絵をすり替えた。あらかじめにあの絵とそっくりな絵を描いておいて、額縁の中の絵とすり替える。その後、取り出した絵を破壊する。ただ、すり替えたのは偽物の絵だ。そのうち誰かが気が付くかもしれない。下手をすれば、昨日の時点で気が付かれてもおかしくなかった。だから一日で破壊済みの本物の絵を戻した。」
「絵をすり替える?何それ……コナンじゃないだからさ。第一、そっくりな絵って何?」
「コピーを取った可能性も考えたけど、学校の印刷室は職員室の隣にある。そんなところへわざわざ額縁から抜き取った絵を持って行く奴は居ない」
いちいち説明しなければいけないのは苦痛だが、後からぐちぐち聞かれるよりも今、説明をしてしまった方が効率的だ。
「俺が君を疑う理由は主に3つ。1つ目は美術部員だから。2つ目は昨日、鍵を返したのが君だったから。3つ目は……」
「はぁ……もういいよ。飽きた」
1回深いため息をついてから、瞬きをしてこちらを向く。その顔からは表情が抜け落ちていた。いつもにこやかに笑っている唇はきつく結ばれていて、見開かれているはずの目元も失望の瞳に変わっている。会話の声が途切れたことで、地面や窓を叩きつける雨粒の音が一層大きく聞こえる。
「ハハハ……つまらない推理ごっこは楽しい?歪んだ正義感を持つ人はいろんな人に嫌われるよ。普段、何考えて生きてるの?いっつも気になってたんだよね。いつも無表情で私が話しかけた時も、ピクリとも反応しないって」
「話をすり変えるな」
「そういう強い言葉も使うんだね。意外だなぁ」
「俺は……真相を知りたい。バスが来るまで時間が無い」
スマホの時刻を確認すると、乗ろうと思っているバスの時間が迫って来ている。彼女は乾いた笑い声を上げながら肩を震わせている。それが少し収まってから、口を開いた。
「私、中学生の頃も美術部だったんだ。私と
彼女はひらひらと左手を振りながら、息継ぎもせずに捲し立てる。過去を妬むような恨み言のようにも聞こえるし、友達に愚痴をこぼすような気軽さも感じる。
「題名は決めてあって「イカロス」。太陽に向けて手を伸ばしている青年の絵で、色を塗る前の段階までは作ってあったの」
「それって……」
「そう。あの壁に飾ってあった「真球を求める者」にそっくりな絵。あの娘は私が完成させられなかった作品とほぼ同じ作品を作ったの、わざわざご丁寧に掌に穴まであけて。……ねぇ、どう思う?」
「どうって?」
「君はこれを私に対する当てつけだと思う?それとも、高校でも同じ部活に入れて良かったねの意味で描いたと思う?今、君が決めていいよ。君が決めた方を信じる」
「さぁ?少なくとも悪意は無いと思う。わざわざ自費でガラス板を買うくらいだし」
「あっそ、じゃあ……そういう事にしておこうかな」
そう言うと彼女は鞄を持ち直して、その中から折り畳み傘を取り出した。そして、もう1つ意外なものを取り出した。1枚の紙。いや、絵だった。白と黒で描かれた青年が上に向かって手を伸ばしている。昨日、一目見ただけではあるが、2つの絵は同じものだと勘違いしてしまいそうなくらい似ている。
「……これって」
「それが本当の「真球を求める者」。君が昨日、見たのは私の「イカロス」だよ。大体君の言った通りだよ。2日前の部活終わりに私は額縁を開けて、中にあった「真球を求める者」を取り出して「イカロス」を仕込んだの」
「仕込んだ?」
「そう。この絵の上に私が描いた「イカロス」を重ねて額縁をもう一度閉じたの。紙のサイズまでぴったりだったときは驚きを通り越して呆れたよ。それで同じところに穴を開けた。そうすれば、偽物の完成」
トリックは以外にも単純だった。偽物を破壊済みの本物の上に重ねて額縁に入れることで偽装をしていた。しかし、そうだとすれば、別の疑問が浮かび上がってくる。それを抑えることが出来ず、ほぼ無意識に口に出してしまった。
「そんなことして……何の意味が?」
「意味なんて無いよ。私はあの子にあの絵を見せつけられた。だから私の絵を見せつけて、どう思うのか……いや、どんな顔をするのか見たかっただけ」
そう言っている間、彼女は顔を伏せていた。どんな表情をしているのかは分からない。ただ、いつもより震えて上ずった声だけは聞こえた。
「なら……あの「イカロス」にはいつ穴を開けたんだ?」
「お腹が痛いですって言って授業抜けた時に」
「鍵は?」
「昨日、君の絵を手伝った時にあの机の下にドライバーを置いておいたの。授業で美術室を使った日は黛先生、教室に鍵かけないでそのままにしておくんだよ」
すべてがつながった瞬間、全身から倦怠感が襲ってくる。少しだけわくわくしていたのは自分でも理解している。でも、そんな謎の結末があまりにもくだらなすぎて、心の中で自嘲してしまう。
「それ、彼女に返しておいて。あと穴が開いた方の絵は捨てちゃっていいって言っといて」
「良いのか?」
「もう要らないよ。何のために穴を開けたと思ってんの?」
まぁ、書いた本人が良いと言っているのだから良いのだろう。もう一度、窓から美術室の方を見ると、さっきまでいた美術部員はどこかに行ってしまっていた。外では依然として斜めった雨が降り続けていた。目の前にいたはずの宝島深月は俺の隣を通り過ぎて背後にいた。しかし、突然こちらを振り返った。
「あっ、最後に聞いても良い?」
「どうぞ」
「さっき遮っちゃったけど、私を疑った理由の3つ目って何?」
一番言いたくない答えなので、少し口ごもってしまう。しかし、真相をちゃんと話してくれた彼女に今更言いたくないというのはいささか道理が通らない。
「……3つ目は……その……個人的に君が好きじゃないから」
「へぇ……思ってたよりムカつく」
「じゃあ、俺も一つだけ質問しても良い?」
「何?」
わずかに不機嫌な声と顔を隠そうともせず、聞き返してくる。
「宝島の本当の顔はどっち?」
「どっち?何を言っているのかは分からないけど私は私だよ。裏も表もない」
そう、それだ。数秒前まで不機嫌な声と顔をしていたのに、今の一瞬で声も顔もいつもの宝島 深月に戻った。その切り替えの速度が普通の人間よりも速いからこそ俺は二面性を疑ったのだ。しかし、二面性でもなければ多面性でもない。面のない物体、真球って言ったところかな。さながら真球少女。
「やっぱり仲良しじゃん」
+ +
「……過ぎてるし」
本物の「真球を求める者」を美術室に届けてから。顧問の先生や、3年の先輩、樋口さんからの質問攻めを何とかかわしていたらいつの間にか20分ほど経過していた。次のバスの時間を確認すると現在時刻から20分後だった。時間を潰すには短いし、急ぐ時間でもない。
ゆっくり歩きながら行けば待ち時間も少しは減るだろう。そう思って、今はゆっくりと階段を下って1階の廊下に到着したところ。
歩きながら、ふと考え事をしてしまう。「真球を求める者」と「イカロス」がいかに似ている作品とは言え、誰も気が付かなかったのか?製作者である樋口さんも、2年生の青崎先輩も、あの廊下を通った第三者もみんな。
「アガサ君?」
昇降口に立っていたのはこれまた意外な人物だった。片手に傘を持って外を見つめていた戮淵カフカだった。
「どうしたの?今日は部活無いのにこんな時間まで」
「今日はバスで帰ろうと思って、時間を潰してた」
素直に理由を話すと、彼女は納得した様子で頷いた。
「なるほど」
「カフカは?」
「今日は雨が強いから、お母さんに迎えに来てって連絡したの。だから待ってる」
「なるほどね。じゃあ、俺は帰るよ」
今、カフカと話すような話題は無い。それにまた長話でもして、時間を消費してしまったらもう一度バスを逃すことになってしまう。
「うん、また」
そう言って靴を履き替えて、傘立てから自分の傘を探す。黒いハンドルのビニール傘を探す。……黒いやつ。
「ない」
傘は盗まれていた。
+ +
この次の日、宝島 深月は美術部を退部。その翌週、相談部には新部員が2名入部した。
あとがきが謎を残す 広井 海 @ponponde7110
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