水彩の記憶
色街アゲハ
水彩の記憶
それは何時か夢で見た、幼い頃の記憶。その頃住んでいた灰色のコンクリート張りの、小高く重苦しい集合団地を背にして、目の前に広がる砂利交じりの、所々小さな黄色い花を咲かせる、だだっ広い空き地に座り込んで、広がる空と、地面とを、代わる代わるに眺めながら、ゆったりと流れる雲と一緒に、ゆるゆる過ぎて行く時の流れをただ嚙み締めていた、幼い頃の記憶。
遠い空から降りて来た穏やかなそよ風が、優しく頬を撫でるのが擽ったくて、何故だか嬉しくて、少しでもそれを確かに感じられる様に、目を細めて、口を半開きにして、じっとしたままその場を動かないでいた。
薄くつむった瞼の裏に射す、強い陽射しの光が、赤く流れる血潮を透かして、何も見えない暗い視界に、温かい真紅の光を齎していた。
飴色に溶けた陽の光が、ガラスの様に透き通った草の葉先に当たると、細かく砕けて、霧の様に細かい粒子になって、辺りをほんのり金色に染め上げていた。
その中を音も無く飛び回る熊蜂の、あっちの花、こっちの花と忙しなく、その薄く半透明の羽から伝わる振動が、頭の先から足先まで細かく震わせている様な気がして、視線を上げればシルクスクリーンの空が青く、その中を一杯に横切る様にして座り込んだ、小高い山の様に折り重なった入道雲が、冷たい大理石の様に輝いていた。
ブルブル伝わる振動は、何時しか広がる空にまで伝わって、重たくその身を横たえる雲の隅々までをも揺るがして、見る間に崩れて雪崩の様に、こうして座り込んでいるこの場所まで降り掛かって来て、この身諸共、後ろに控える集合団地を、空いて穴だらけになった蜂の巣さながらに、骨組みだけを残して残さず削り取ってしまうのだと。そんな予感に身を縮ぢ込めて、怯えていた夏の陽の午後。
それは想像なんかじゃない。何時の日か必ずそうなると、何時の日か皆居なくなってしまうのだと、何故だか確信していた未来の記憶。何て儚い世界なんだろう、と。 そうして残るのは誰も居なくなったこの場所に、変わらず咲き続ける小さな可愛らしい花と、蜜を求めて花から花へと飛び回る黒く太った熊蜂と、なみなみと絶えず清らかな空気を湛える果ての無い青空と、洗い晒しの、白く輝く入道雲と。他の全てが押し流されてしまったその後に、それ等だけは何時までも、遠く手の届かない永遠へと通じていた。
微睡の中、その中を横切る物が一つ。鳥? ではなく、それは陽の光を反射して、時折こちらの目を刺す飛行機の姿。音一つ伝わって来ない所を見ると、グライダーだろうか? 実際にはかなりの速さで飛んでいる筈なのに、ここから見ていると、非常にゆっくりと、空に貼り付いている様にさえ思えて来る程に、殆ど止まっている様な錯覚を起こさせる程に、さながら、それは記憶の中で永遠に動かない絵の中の風景の様に見えていた。
突如として破られる静寂。遠目にも分かる、グライダーの腹部が開いたと見ると、そこからばら撒かれる小さなパラシュートの群れ。それ等全てに小さな袋が括り付けられており、そんな降って湧いた情景を、それ等が空一杯に広がって行く様を、軽い驚きで以て眺めていた。
この思いも掛けない空からの贈り物。やがてここにも届く事だろうと。それとも永久に届かない? 何故って、この夢の中、絵画の様に完璧で閉じられた世界に、変化など望んで良い物だろうか、と。あれ等の贈り物が地上に到達する正にその刹那、この夢の世界その物が消滅してしまうのではないか、そんな風に思えて。
夢は一旦そこで途絶える。二つの相反する道を前に、それ以上続く事が出来ずに、目覚めた後、そもそも何故あの変化を拒んだ、その内に永遠を内包する安らぎの箱庭の世界に、わざわざパラシュートは放たれたのかと、そんな事を考えていた。
あの永遠を模した完全に静止した世界。青空のスクリーンに何か変化を見い出しかったのだろうか? 夢と云う無意識のスクリーンに、もう疾うに忘れ去られたものと思っていた在りし日の映像が、眼球と云う記憶の刻まれたレンズを通して一杯に映し出される。そんな夢の映写機の、空の天幕に映し出された、甲虫めいたグライダーの、それは無意識の内に夢の揺り籠に留まろうとする静止した世界に、その先にある物、この夢の根幹に関わる何かを引き出そうとする試みだったのかも知れない。
あのパラシュートの包みの中には何が入っていたのか? その時この手の内に一体何を受け取ったのか。肝心な部分が曖昧で、それ以上進む事が出来ずに、その片鱗さえも摑む事が出来ない。そもそも包みは受け取られたのか、パラシュートは果たして地上に降りて来たのか、それ以前にそれ等は空に放たれたのか? 今となってはそれさえ危うい。時と共に記憶は気付かない内に零れ落ちて行き、だからこそ、抜け落ちた記憶の断片を夢の中で埋め合わせようとするこれ等の空からの贈り物。
それはもしかしたら、元あった物とは掛け離れた物に成るのかも知れない。しかし、それでも”ただ其処に在った”物に、その奥の、本質的な何かに迫れ得るのかも知れないと信じて、必死になって数ある可能性の中から、目を凝らしてパラシュートが地面に到達するイメージを探ろうとする。
……一つ一つ、また一つ、と、音も無くそれ等は柔らかい草や日に焼けた砂利の上に降り立って、それはまるでこの手の内に収まるのを待っているかの様だ。ちょっとした刺激で崩れて、再び無意識の中に消えてしまわない様、注意深く手に取ってみると、それは確かな重みをこの手に伝えて来る。包みを開いてみる。コロリと転がり出て来たのは、水色の透き通った星型のドロップ。ああ、思い出した。小さい頃、これが好きだったんだ。ソーダ味の、薄荷の効いた、お気に入りのドロップが。口に含めば冷たい感触。その度に、ああ、空の味ってこんななのかも知れないなんて、そんな風に思っていたあの頃。
ガクン、と頭の芯にまで伝わる衝撃に、思わず見上げた空の片隅。少し掠れた感じの昼の月。夜の時とは違って、白くて、ずっと冷たい感じの、何時か空の中に溶けて行って仕舞うんじゃないかって思える位の、頼りなくて、それが消えるんじゃないかと心配になって、何時までも見上げていた昼の、冷たく儚い月。それは丁度、口に含んだドロップの、冷たく、微かに甘い、それは遠い遠い、空の彼方を思わせる……。
気付いた時には其処に居た。足元には冷たい水。それは今迄に見た中でも群を抜いて透き通って、その下には白く広がる砂の平原。足裏に細かい粒子の感触が快かった。遠浅に何処までも広がる光景に息を呑むばかりだった。所々砂が途絶え、成程、これが地上から見上げた時に在った掠れて空と溶け合っていた所か、と、ぼんやりと考えていた。
こうしている間にも、水の余りに清浄な為か、そこから身体中に染み付いた物、良いも悪いも区別なく、溶け出す様に失われて行くのを感じていた。不思議な事にその事に何の感慨も沸いて来ない。目の前に広がる光景に完全に心奪われてしまったのか、それとも、そんな事を感じる心も既に溶け出してしまった後なのか。それ以上考える事も出来ずに、もう立っている事すら出来なくなって、支えを失い、後ろ向きに倒れ込んでいた。
全身に沁み込む、冷たい水の感触。目に映るのは、果ての無い青い空。繋ぎ目の見えない。それでいて、距離感の無い世界。遥か遠く、その癖、その気になれば手を伸ばせば簡単に触れる事の出来そうな。手元から彼方まで、隙間無く永遠の充満した、時も空間も其処には最早在って無きが物。そんな体が宙に浮く様な感覚。
空の中にただ一つ、さながら水の中に浸っているかの様に在る星の姿。
始めはそれが何であるのか分からなかった。その姿をこうして実際に見るのは初めてだったから。暫く眺めていて気付いた。それはついさっきまで居た場所であると。
……地球。
周りの蒼穹に溶け込みそうになりながらも、それでも確かな存在感が其処に在った。自分は一体其処に何を残して来たのだろう……。静かな水面の様に凪いでいた心に微かな波紋が広がって行くのを感じていた。内から失われた様々の物、それは心だったり、記憶だったり、もしかしたら、存在その物だったり。それ等が失われたのは、てっきりこの世界を覆う水の、余りに清らかな為とばかり思っていた。そうではなく、もっとそれ以前、全てはあの青い星に置いて来たのであって、今此処にいる、最早誰とも分からない存在とは何の関係も無い。
あそこにいる”自分”は、今も尚この場所を眺めながら、きっと何かしらの感慨に耽っているのだろう、とそんな事を考えて、何だか可笑しくなって笑ってしまった。この孤独な月の世界と同じく、すっかり孤立して、ただ見る事しか出来なくなったこの身体の、そんな揺らぐ事の無かった両の瞳に、微かな波が揺れる様になったのは、きっとあの青い星の所為なのだろう。あの星にいる誰かと、一瞬、ほんの一瞬、重なり合った。その刹那に垣間見た、その星の光景、其処に佇んで覚えた様々な想い。今迄この何も無い白い世界とはまるで無縁だったもの。だからこそ、ほんの一瞬とは言えこの瞳は揺らいだのだろうと。
これより先も見続けるだろうあの青い星。そして、其処に居る、もう一人の自分の事に思いを馳せて。この両の眼で何時までも……。
……そんな想像をしてみた。口の中でお気に入りのドロップをコロコロ転がしながら、不意に感じる誰かの視線。それは、幼い頃に何度も感じた、今ではそれに気付くのも稀になってしまった物。
誰も居ない外で、一人遊び回りながら、何故だか気になって見上げる空の、何故だか其処に、大きな白い雲から零れ落ちる、綺麗な水の流れの中に、こちらをじっと伺う透明な、大きな白い月の様な、空に浮かぶ目が其処に在る様に感じられて。
きっとそれは、生まれる以前のこの身の視線。じっと見詰めて、見守る様に。興味深げに、やる事為す事それ等から、少しも目を離すまい、と。何処までも透き通って、時折優し気にそれは揺らいで。
今もその視線は注がれているのだろうか、あの記憶の底に刻まれた蒼穹の記憶の奥底で、今も尚この手の為す全ての事から目を離すまいと。何時か其処に還る事になるだろうその時まで。
その瞳に映る、
ほんの少しのまどろみと、
ほんの少しの微笑みと、
ほんの少しの口づけと。
終
水彩の記憶 色街アゲハ @iromatiageha
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