8.子供用のジョークリップ

「大人は悪口を言わない。総て冗談である」

 優斗は日記の一節を読み上げた。それは高校時代に描いた妄想の一片だった。

 テーブルの向かい側に座って化粧に勤しむ樫矢が、怪訝な顔をした。自室でメイク作業の大半は済ませたが、未だ満足しておらず、卓上ミラーで自分の顔を入念に確認している。睫毛を触りながら樫矢が優斗を睨んできた。

「そんなわけないやん。阿呆なん?佐々木とか、アイツめっちゃ陰口いうし。前も山田のことをさぁ━━」

 と、ここで口紅を塗る為、彼女は静かになった。これを良いタイミングにして、優斗は冗談を言ってみる。

「まあ、大人が悪口言わないってのは冗談だ。お前がその代表例だし」

「あ?」

「冗談だって」

「気持ち悪。せっかく構ってやってんのに、私としては感謝して欲しいんやけど」

「ああ、いつもありがとう。君はいつも僕に優しい」

「取って付けたような感謝。安っぽ。死んだ方がいいんちゃう?」

「そんなことない。怒った顔も可愛い」

「うるせえ、死ね!」

「おい!可愛い。好き」

 樫矢が”優斗が冗談に思えない”冗談を吐いた時、優斗は出来る限り愛を伝えるようにしていた。彼女が”笑えない”冗談を吐いた時、優斗は好きと伝える。成長した優斗が彼女と付き合っていく為に、苦心惨憺の末に打ち出した策だった。

「お前は、よく私のことを好きとか可愛いいうけど。時々、雑な時があんねんな」

 未だ万全ではなかった。

「うそ?それってマジ?それとも冗談?」

「大マジ」

「知ってた」

「死ね」

 笑いながらも樫矢は、鏡とのにらめっこを続けている。優斗も大学生になって、高校生の頃よりも見た目に気を遣うようになったが、やっぱり樫矢の方が準備がかかる。実際、こだわった後の彼女も美人なのだから(こういう言い方をしてはいけないのかもしれない)、結局のところ大歓迎なのだが、しかし絶賛遅刻中なのだ。

 優斗はスマホを弄りながら感慨深げに言ってみた。

「っかさあ、はよ大学いこうや。一限もう逃してんだけど?」

「ちょい待って」

「……ねえ」

 この後。どうせ彼女はヘアアイロンで髪の毛を挟み始めるのだ。

「待って」

「……もうそろ、いきません?来夏さん?」

「しつこい」

 そう口の端を吊り上げながら樫矢は、優斗に口紅を投げた。優斗の額に口紅が刺さって、こつんと軽い音が鳴った。

「あた。いって」

「嘘つけ、痛くないやろ」

「そうだけど、傷になっちゃったかも。血ぃでてるかも」

「どちらかっつうと、キスマやね」樫矢が鏡を此方に向けてくれる。鏡面に成長した顔が写る。前髪をかき上げて露わになった前額はまっさらで。当然、血はついていない。キスマークもない。

「手に付けてみ」

 優斗は口紅を拾い上げて、手の甲に軽く触れさせてみた。

 肌に薄い赤がついた。

 それはだんだんと肌に滲んで染み込んで。

 最後には何もなくなった。

 かと思えば、手の甲に独特の清涼感だけが残っていた。

「これ、無色じゃん」

「そう、無色」

「スースーするし、保湿用のアレ?」

「……珍しいやろ。人の体温とかに反応して色無くなんねん」

「へぇ、そんなんあるんだ」

「うん、あるよ」

「でも、ひんやり感えぐい。なんか、おもしろ」

 優斗は口紅を樫矢に返す。

「何がおもしろいねん」

 受け取った彼女は歯を見せて笑った後、別の口紅を唇に重ねて塗り始める。






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子供用のジョークリップ 産坂愛/Ai_Sanzaka @turbo-foxing

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