第一章:2話 暴食の入り口と「チキンソード」
暴食のダンジョン。日本の中心部に突如出現したその塔は、現代のコンクリートジャングルの中に、異質な威容をもってそびえ立っている。周囲は厳重な警備と、ダンジョン資源を求める露天商、そして数多の探索者たちでごった返していた。
恭平は、くすんだ色のタクティカルウェアと古びたレザージャケットという、目立たない服装で、群衆の中に紛れ込んだ。最新の装備を誇示する若手や、派手なコスチュームのダンジョン配信者たちとは対照的だ。彼は彼らを横目で見て、心の内で毒づいた。
(最新技術の鎧も、派手な配信も、結局は『危険、汚い、キツイ』を覆い隠す化粧に過ぎない。特に配信者どもは、無駄にリスクを冒して目立とうとする。馬鹿げている)
恭平は、情報収集のために耳を澄ませる。飛び交うのは、モンスターの出現パターン、深層階での戦闘の噂、そしてトップ冒険者「剣豪」「雷帝」といった、同世代の成功者たちの華々しい武勇伝だ。
彼らの名を聞くたび、恭平の心には、嫉妬と、そして拭いきれない敬意が湧く。彼らは努力し、リスクを負い、そして成功した。自分は、過去のトラウマから逃げ、楽な道を選び続けている。
(いいさ。俺は俺の『安全第一』を貫く。目的は貯金だ。英雄になりたいわけじゃない)
ダンジョン入口のゲートをくぐる直前、恭平は真鍮の鞘を撫でた。
「さて、お前が本当に俺を安全に導けるか、『不敗の免罪符』」
鞘からはまだ何も出てこない。アイテムの効能は、逃げ続けることで剣の「賢さ」が育つというものだった。
恭平は、アザゼルから得た情報に基づき、他の探索者が避けるような、モンスターの湧きが頻発する「裏の通路」を選んだ。当然、汚いし、きつい。だが、人目に付かず、正面戦闘を避けられる。
「安全第一だ。正面からのぶつかり合いは避ける」
彼は魔導端末のナビゲーションを起動し、周囲の魔力の流れと科学的なセンサーを併用して、モンスターの位置を正確に把握した。彼の戦闘スタイルは、事前に設置したトラップ、遠距離からの精密射撃、そして仲魔を使った攪乱戦法だ。
地下1階。通路は狭く、湿気がひどい。壁は、暴食のダンジョン特有の、脂ぎった粘液で覆われている。
(早速『汚い』を満たしやがる)
通路の角を曲がった瞬間、突如、巨大なナメクジ状の魔物「スライム・グラトニー」が出現した。
体長2メートル。すべてを溶かす強酸性の粘液を垂らしながら、鈍重な体躯を揺らしている。
一般の探索者なら、初見で慌てて突っ込むか、魔法で焼き払うところだ。だが、恭平は違った。
彼は即座に後退し、通路の天井に簡易的な音響トラップを貼り付けた。そして、小型レールガンを構えることなく、後方へ全速力で逃走した。
「逃げるぞ、逃げるが勝ちだ!」
スライム・グラトニーが音響トラップに反応し、奇妙な音を発している間に、恭平は別の通路に逃げ込んだ。
その瞬間、腰の真鍮の鞘が、微かに熱を帯びたように感じられた。
『不敗の免罪符(インデムニティ)』発動。逃走距離と累積リスクを演算、微細な魔力変換を実行。
恭平は、背後に迫る粘液の臭いを振り切り、全力で走った。
地下2階。彼は再びスライム・グラトニーの群れに遭遇したが、今度は通路に事前に準備していた強力な粘着性のゲル(科学技術)を散布し、その場を離脱した。
「チッ、体力を使うな。3Kから脱却したいのに、きついことばかりだ」
疲労感が増す一方で、彼の内側には、奇妙な充実感が生まれていた。彼は、戦うのではなく、「逃げる」という行為でダンジョンを攻略している。
地下3階。迷路のような通路で、恭平は初めて戦闘を強いられた。逃走ルートが、小型のゴブリン型モンスター「ホブ・グラトン」に完全に塞がれたのだ。
「仕方ない。最低限の対処だ」
恭平は小型レールガンを構えた。初速が速く、魔力防御を持つ魔物にも有効なこの科学武器は、彼の主戦力だ。彼はホブ・グラトンの頭部に精密射撃を加え、瞬時に一体を仕留めた。
残りの二体は恐怖で動きが止まる。その隙に恭平は、術式ナイフを取り出し、残りの二体を切りつけ、再び全速力で逃走した。
戦闘は、わずか5秒で終了した。正面衝突を避ける、彼の真骨頂だ。
この戦闘と逃走の繰り返しが、彼の肉体を著しく疲弊させていく。目の下の隈はさらに濃くなり、肩で息をする。
(これが免罪符の代償か……逃げて力が蓄積される分、体がボロボロになる。しかし、確かに、さっきのホブ・グラトンは、以前より簡単に倒せた気がする)
真鍮の鞘が、わずかに重みを増したように感じられた。
その時、鞘の中から、かすかな声が聞こえた。それは、非常に弱々しく、しかし知性を持った声だった。
『……逃げ、逃げていますね、マスター。素晴らしい、実に「チキン」な判断です』
恭平は立ち止まり、思わず鞘を二度見した。
「……お前、喋ったのか?」
『はい。私は貴方様の『不敗の免罪符』。逃走と生存への執着により、微弱ながら「知性」を獲得しました。しかし、貴方様の選択は、私の概念に恥じません。存分に逃げてください。そして、強くなってください、チキンソードのマスター』
恭平は、その剣(まだ剣になっていないが)の言葉に、苦々しい表情を浮かべた。
「チキンソード……俺の未来の剣が、よりにもよって『チキン』を自称するか」
だが、恭平はすぐに表情を引き締めた。剣が会話できるようになった。それは、彼が着実に目標に近づいている証拠だ。
「いいか、『チキンソード』。俺の目的はマグネタイトの塊を手に入れ、無事に帰還することだ。安全第一、無駄な戦闘はしない。お前はそのための道具だ。せいぜい、賢い助言をしろ」
『御意に、マスター。先程の逃走で、私は深層階の『食糧庫』エリアまでの最適な逃走ルートを導き出せました。この先のモンスターは、さらに貪欲で、しつこいです。存分に逃げましょう』
恭平は、再び歩き出した。彼の腰には、しゃべる真鍮の鞘、チキンソードが揺れている。彼の「安全第一」の旅は、いよいよ深層へと向かう。彼の最大の敵は、外の魔物ではなく、彼自身の「怠惰」と、逃げ続けることによる「体力消耗」だった。
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