第一章:3話 悪魔の罠とチキンソードの助言
地下5階。恭平は、アザゼルから受け取った構造図と、チキンソードの導きに従い、他の探索者の気配が全くない裏通路をひたすら進んでいた。
通路はますます狭く、暴食のダンジョン特有の腐敗臭と、消化液の酸っぱい匂いが充満している。
「チキンソード。このルートは本当に安全なのか?」恭平は低い声で尋ねた。彼の目は寝不足と疲労で充血し、目の下の隈は青黒い。
『極めて安全です、マスター。誰もが避ける、最も『汚くキツイ』ルートですからね。しかし、まもなく『罠』が作動する可能性があります』
「罠? アザゼルが仕掛けたのか?」
『いいえ。これは『グラトニー・ロード』――暴食のダンジョンマスターの監視機構です。彼は、自分の『食料庫』に到達しようとする者を、必ず一度は試す』
チキンソードの知性(賢さ)は、逃走を重ねるたびに増している。その助言は、アザゼルが提供した情報よりも詳細で、現場の状況に即したものになりつつあった。
その直後、通路の壁の粘液が、グツグツと音を立てて泡立ち始めた。
「まずいな。粘液が変質している。これは……高熱反応を伴う腐食性ガスか」
恭平は即座に科学的判断を下し、装備していたタクティカルウェアの特殊機能――高性能フィルターと一時的な耐酸性コーティング――を起動させた。
「科学と魔法の融合。この程度の罠、想定内だ」
彼は一歩も立ち止まらず、先を急いだ。しかし、壁面から噴き出す腐食性ガスは、通路全体を覆い尽くし始める。
『マスター、ガスの濃度が閾値を超えました。このままではウェアのコーティングが持ちません。この先の通路は袋小路に見えますが、壁に魔力の薄い箇所があります。そこを「術式ナイフ」で攻撃してください!』
「袋小路……悪魔の罠か!?」
悪魔は契約を守るが、その契約の穴をつく。アザゼルは「最適なルート」を渡したが、それが罠だと明言する義務はない。恭平の「慎重さ」が警鐘を鳴らす。
「待て、チキンソード。そこを攻撃すれば、さらに別の罠が起動する可能性もある!」
『貴方様は私と契約しました。『不敗の免罪符』は、貴方様の生還を最優先に考えます。これは、グラトニー・ロードの監視網を欺くための「逃走ルート」です。信じてください!』
チキンソードの言葉は、恭平の「生存本能」を直撃した。彼は迷いを断ち切り、ガスが充満する中で、予備の武器である術式ナイフを抜き放った。
「くそっ、賭けだ!」
彼はチキンソードが示した壁の薄い箇所に、術式ナイフの魔力を全集中させて突き込んだ。
壁は粘液とともに崩壊し、その奥には、人が一人通れるほどの、隠された通気ダクトのような隙間が現れた。ダクトの奥からは、ガスのない新鮮な空気が流れ込んでいる。
恭平は、崩れた壁の隙間に飛び込んだ。直後、背後の通路全体が、腐食性ガスの爆発的な放出によって白煙に包まれた。
「ハァ……ハァ……危なかった」
彼はダクトの中で、背中を壁につけ、激しく息を吐いた。極度の緊張と、腐食性ガスの中での運動が、彼の体力を極限まで削っていた。
(チキンソード……お前、本当に俺を生かそうとしているな)
『当然です、マスター。私は貴方様の『免罪符』。貴方様が死んでは、私もただの鞘に戻ってしまいますからね。さあ、深層はもうすぐです。このダクトは、直接『食糧庫』エリアの換気シャフトに繋がっています。逃げ切りましょう』
チキンソードの知的な声が、疲弊した恭平を叱咤する。
食糧庫エリア
ダクトを這い、換気シャフトを降りた恭平は、ついに暴食のダンジョン深層階、「食糧庫」エリアに到達した。
そこは、巨大な洞窟状の空間で、天井からは無数の岩塩の結晶が垂れ下がり、足元には、未消化のモンスターの残骸と、大量のマグネタイトの塊が転がっている。
マグネタイトの塊は、強い魔力を発しており、恭平の魔導端末のセンサーがけたたましく鳴り響いた。
「これだ……これが、俺の老後のための貯金だ」
恭平の目は、疲労の奥で、ギラリと光った。彼のモチベーション、「安心安全な老後のための貯金」が目の前にある。
しかし、そのエリアの奥――マグネタイトが最も密集している場所――に、巨大な影がうごめいていた。
『マスター、危険です! あれは『グラトン・ベヒモス』! 暴食のダンジョンマスターの直属の眷属です。知性は低いですが、その食欲は果てしなく、全てを飲み込みます!』
ベヒモスは、全身を分厚い脂肪と硬質な外皮に覆われた、象のような巨大な魔物だった。その口は常に半開きで、周囲のマグネタイトやモンスターの残骸を、音を立てて啜り込んでいる。
恭平は、即座に身を隠し、レールガンを構えた。
「正面戦闘は避ける。奴の弱点を探せ、チキンソード!」
『弱点は、その動きの鈍さです。しかし、驚異的な耐久力と、広範囲の飲み込み攻撃を持ちます。マスター、ここは「逃走」一択です! 奴に気づかれる前に、マグネタイトを回収し、来た道を戻りましょう!』
「……わかっている」
恭平は、深呼吸をした。彼の「慎重さ」と「怠慢さ」が、ここで最大限に試される。危険を冒して大金を得るのではなく、確実に、手堅く儲ける。
彼は、魔導端末でベヒモスの移動パターンを計算し、最も安全なルートを導き出した。そして、体力の限界に鞭打って、マグネタイトの塊が転がる場所へと、極めて低姿勢で移動を開始した。
(俺は、3Kから脱却したい。そのために、この3Kの極致を、『逃走』で乗り越えてやる!)
恭平は、そっとマグネタイトの塊を掴み、リュックに詰め始めた。その時、微かな金属音が、静寂な「食糧庫」に響き渡った。
グラトン・ベヒモスの、巨大な眼が、ゆっくりと恭平の方を向いた。
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