第一章:1話 怠惰と免罪符
「暴食のダンジョン……」
恭平はジャンク屋を出て、薄暗い路地を歩きながら、魔導端末で情報を再確認した。
1999年7月、世界7ヶ所に突如出現した塔型ダンジョンの一つ。日本に出現したのは、その名の通り、底知れぬ食欲を象徴する「暴食」のダンジョンだ。常にモンスターの湧きが激しく、探索者の消耗が凄まじいことで知られる。
「楽に稼ぐ」を信条とする恭平にとって、最も避けたい場所の筆頭だった。だが、目の前には、真鍮の鞘に収められた『不敗の免罪符(インデムニティ)』がある。
「逃げた分だけ強くなる、か。本当に『チキンソード』らしい代物だ」
彼は、このアイテムを鑑定士に見せることはしなかった。悪魔との契約や魔導具の性質を熟知している彼には、この物品が、嘘偽りのない「魔導具」であることを感覚的に理解できたからだ。
(逃げれば逃げるほど強くなるが、一度の戦闘で効力を失う。つまり、常に『逃げる』ことを前提とした戦闘スタイルになる。安全第一の俺には、ある意味完璧な補助ツールだ)
恭平は、自身の生存能力と知識、そして交渉術に長けている。正面からの戦闘は避けるが、裏をかく戦法には自信があった。この免罪符は、彼の「慎重さ」と「怠慢さ」という二つの性質に、恐ろしいほどのシナジーを生むように見えた。
「マグネタイトの塊……暴食のダンジョンマスターは、人間との共栄を秘密裏に目指している者と、全てを支配したい者と、どちらだろうな」
恭平は、情報屋が言っていた「曰くつき」という言葉を反芻する。始まりのダンジョンを支配する7人のマスターは、それぞれ異なる思想と行動原理を持っている。全てを支配しようとするマスターがいれば、秘密裏に人間と交渉し、ダンジョン資源を渡して共栄する者もいる。
日本を支配する「暴食」のマスターがどちらのタイプか、恭平は知る必要があった。彼の目標はあくまで「安心安全な老後のための貯金」であり、マスターたちの勢力争いに巻き込まれるのは本意ではない。
彼は魔導端末を開き、特定のチャットルームにメッセージを送った。
メッセージ: {アザゼル。今晩、例の場所で。対価はマグネタイトの粉末(高品質)。{要求:暴食のマスターの動向、及びダンジョン内構造図の最新版。}
『アザゼル』。恭平の「仲魔」の一人だ。悪魔は契約により使役できるが、契約は守るが穴を突く。彼らはドライなビジネスパートナーであり、恭平は彼らの能力を最大限に活用し、見返りとして対価(マグネタイトや情報など)を提供する。情は移さない。それが、過去の経験から恭平が自分に課したルールだった。
悪魔との取引
その夜。恭平は、街外れの廃墟となった教会跡にいた。辺りには、魔導科学知識に基づいて設置された簡易的な悪魔除けの結界(安価で実用的なもの)が張られている。
空間が歪み、漆黒の煙とともに、一人の青年が姿を現した。細身で端正な顔立ちだが、瞳の奥には冷たい嘲笑が宿っている。アザゼルだ。
「やあ、恭平。またしても地味で金にならない仕事かい?君の『怠惰』には感心するよ。トップランカーの連中が日夜、憤怒や傲慢に挑んでいるというのに」
「余計なお世話だ、アザゼル。俺は『安全第一』だ。命あっての金だ。お前との契約も、その原則から逸脱していないだろう?」
恭平は冷静に、テーブルの上にマグネタイトの粉末が入った小瓶を滑らせた。
「対価だ。先に情報を開示しろ。暴食のダンジョンマスターについて、だ」
アザゼルは小瓶を指先で弾き、その品質を確かめるように匂いを嗅ぐ。満足したようだ。
「暴食のマスターは『グラトニー・ロード』。彼は、全てを支配する『大罪戦争』には、あまり興味を示していない」
「共栄派、ということか?」
「正確には、『飽食』を求めている。彼にとって、ダンジョン攻略による資源提供は『餌』だ。人間の持つ欲望、知識、技術、そしてマグネタイト。全てが彼の『食料』。だから、ダンジョンの深層階を除けば、人間への干渉は最小限に抑えられている。彼が恐れているのは、自分の『食料庫』が荒らされること、ただそれだけだ」
恭平の目の下の隈が、わずかに緊張で引き締まった。
「なるほど。つまり、彼にとって深層階の『マグネタイトの塊』を奪われるのは、食料庫への侵入者と見なされる、というわけだ」
「その通り。だが、逆に言えば、表層で大騒ぎしなければ、彼は放置する。それに、グラトニー・ロードは自身の軍勢に無関心ではない。他のマスターの軍勢、スタンピードが活発化している。それを抑えるために、彼は人間側の探索者に『餌』を与え続けているんだ」
アザゼルは、恭平の持つ真鍮の鞘に視線を向けた。
「ほう。それは『不敗の免罪符』ではないか。伝説の『チキンソード』。君の『安全第一』にはぴったりのアイテムだ。逃げれば逃げるほど強くなり、一度の戦闘では死なない……だが、その代償は『著しい体力消耗』だ。肉体のリミットを超えた力が、君の体を蝕むだろう」
「契約は守るが悪魔は契約の穴をつく。お前がその穴を指摘するのは、警告か、それとも嘲笑か?」
「どちらでもない。ただの『情報』だ、恭平。対価は支払われたからね」
アザゼルは、最新版のダンジョン構造図を恭平の魔導端末に転送した。
「深層階へのルートはこれだ。例の『マグネタイトの塊』があるのは、特にモンスターの湧きが激しい『食糧庫』エリアだ。君の『生存能力』と『知識』、そしてその『免罪符』が、どこまで通用するか。楽しみにしているよ」
漆黒の煙が再び立ち上り、アザゼルは姿を消した。
恭平は、魔導端末に映し出された構造図を睨んだ。
(暴食のダンジョンは、日本の中心部にそびえ立つ塔。入口から『食糧庫』エリアまでは、最短ルートで2日。他の探索者やダンジョン配信者がひしめく中、気づかれずに深層まで潜る必要がある)
彼は、護身用の小型レールガンを握りしめ、冷たい決意を固めた。
「安全第一。逃げるが勝ち。老後のための貯金だ。必ず、生きて帰る」
翌朝、佐倉恭平は「暴食のダンジョン」へと足を踏み入れた。その腰には、まだ剣が収まっていない、ただの真鍮の鞘が揺れていた。彼の目には、疲労の色と、微かな賭けの興奮が宿っていた。ギャンブル好きの血が騒いでいた。全ては、楽で安全な未来のために。そして、二度と仲間を失わないために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます