第三章 ヤニ吸う彼女と抵抗する

第1話 買い物

 灰咲さんに合鍵を渡した日から半月が経った。


 あれから灰咲さんは毎日のように俺の家にいる。時々自宅に帰っているようだが、基本的には俺の家で生活している。


 平日でも安全という保障はない。週末よりは確率が低いとはいえ、灰咲さんの元カレが平日にやって来ないとは限らないのだ。


 だからリスクを回避するなら、生活の基盤を俺の家に移してしまったほうがいい。もうほとんど同居と言ってもいいくらい、生活を共にしている。


 家族以外と一緒に暮らしたことがない俺にとっては、慣れない環境に最初は変な感じがした。


 男友達ならまだしも、相手は年上の美人なお姉さんだ。既に数回は家に泊めたことがある相手とはいえ、緊張しないほうが無理がある。


 だが人間というのは不思議なもので、半月もするとすっかり馴染んでしまった。


 俺の順応力が凄いのか、灰咲さんの人柄がせるわざなのか、はたまたどちらもなのかはわからないが、非日常がいつもの変わらない日常になるのはあっという間だった。


 それでも新鮮味は失われていない。

 おもしろ味のない日常が、楽しくて充実した日々に変わった。


「――今日はどうする?」


 隣にいる灰咲さんがこうやって尋ねてくるのも、二人で生活しているからこそだ。


「作ってくれるんですか?」

「うん。そのつもりだよ」

「なら、カレーはどうっすか?」

「いいね。作り置きできるし、カレーにしよっか」


 この会話から察せられるかもしれないが、俺たちは今、スーパーで買い物をしている。


 今日は二人ともバイトのシフトが同じだったので、せっかくだから帰りに食材の買い出しをしようということになったのだ。


 こうして女性と二人で食材の買い出しをするのは、前までなら非日常感があった。だが、今では普通の日常になっている。


 以前まで当たり前だったなんの変哲もない日常とは違う。毎日が充実している特別な日常だ。


 こういう日常だったら悪くない。ずっと続いてほしいとすら思う。


 しかし、それはあくまでも俺の都合だ。

 今ある日常は、大変な事情を抱えている灰咲さんの境遇があってこそ訪れたものだということを忘れてはならない。


 早く灰咲さんの問題が解決してほしいと願いつつも、今の日常を失うのは捨てがたいとも思ってしまう。

 自分にとって都合のいい考えが脳裏をよぎってしまうくらい、灰咲さんと過ごす今の日常を気に入っている。


「――どうかした?」


 矛盾した願いに葛藤していると、怪訝そうな表情の灰咲さんが俺の顔を下から覗き込んできた。


 買い物中だったのに、つい足を止めてしまった。

 並んで歩いていた灰咲さんが不思議に思ってしまうのは無理もない。


「……ちょっと考えごとしてました」

「私のことでも考えてた?」


 揶揄からかうように言う灰咲さんだが、その言葉に驚いた。


「……なんでわかったんですか?」

「え……、まさかの当たり?」


 目が点になった灰咲さんに、「そのまさかです」と返しながら頷く。


「そのまさかかぁ~」


 今度は目をしばたく。


「テキトーに冗談を言ったらまさかの的中とは……」


 そして次は苦笑交じりに頬を掻く。


 いつもクールな灰咲さんにしては珍しく表情の変化が目まぐるしい。


「……もしかして、私でえっちなことでも考えてたの?」

「違いますよ……。灰咲さんは俺のことをなんだと思ってるんすか……」

「え……? 若い男の子なら当たり前のことだと思ったんだけど……」

「まあ、あながち間違ってはいないですけど、そんな所構わずさからないですよ」


 灰咲さんの言い分に思わず肩を竦めてしまう。


「あぁ……、そもそも私にそんな魅力はないか……」

「いや、灰咲さんはとても魅力的ですよ。ただ、俺が言いたいのはそういうことじゃなくてですね……」

「ごめんごめん。冗談だよ、冗談」


 気のせいかもしれないが、周囲から生暖かい視線を向けられている気がする。

 同棲カップルがイチャイチャしているとでも思われているのだろうか……?


 だとしたら大きな勘違いだ。

 俺たちはそんな関係じゃない。


 でも、はたから見たらカップルだと勘違いしてしまうのは、仕方がないかもしれない。

 大人の男女が二人で仲良くスーパーで買い物しているところを見たら、俺だってカップルだと思ってしまうかもしれないし。


 正直、悪い気はしない。

 ただ、非常に居た堪れない。


 第三者視点での気持ちは理解できるが、周囲の生暖かい視線を無視できるほど俺のメンタルは強靭じゃない。


 なので――


「――買い物、続けましょ」


 一先ず、この場から退散することにした。


 素知らぬふりを貫く俺に促された灰咲さんは「そうだね」と頷くと、いつもの気怠げな雰囲気に戻った。


 心臓に悪い冗談に胸中で嘆息した俺は、再び歩き出した灰咲さんの後ろ姿を眺めながら頭を掻く。


 友達としての関係を壊さないように適切な距離感を保っているのに、異性として意識してしまうような揶揄からかい方をされると、理性が揺らぎそうになってしまう。


 男に苦手意識がある灰咲さんが俺にそういう冗談を口にするってことは、それだけ気を許してくれているという証拠でもあるのかもしれない。


 だとしたら嬉しいが、程々にしてほしい。


 勘違いしてしまいそうになるから――。

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