〈クチナシ〉
「とらんくいっろ…………?」
窓辺の座って、広げた紙を見る。そこにはいくつかの名前が書いてある。ゾウゲは、この紙に自分たちの名前が書かれていると言っていた。私にはどうにも確かめようがないけど、今はこれが唯一の手がかりだった。
「かるまーと、は聞いたことがあるわ。」
ぶつぶつと紙の上の名前を読み上げても隣で眠る男は目を覚ます気配がない。私たちが思っている以上に、本人が感じている以上にアサギは疲弊しているらしい。事実上部屋で1人なのをいいことに、私は昔の記憶をゆっくりと辿り始めた。
「いーい?自分の住んでる場所の偉い人の名前くらい覚えておかないと後から困るんだから。本当ならもうとっくに覚えてるはずだけど、しかたないから私が教えてあげる。」
私にとっての最後の家族だった姉さんは────血は繋がってないけど────私に必要な知識を教えてくれた。ただ、勉強は好きでもどうしても人の名前を覚えるのは苦手だった。まるで、脳みそが拒絶してるみたいに抜け落ちていく感覚。そのまま伝えると、姉さんは困ったような顔をして半ば諦めたように笑っていた。
「それにしても、これ本当に私たちの名前なのかしら。なんだか数が合わないような気もするけど。」
トランクイッロ家──アディ、マズルカ、アリア
カルマート家──レント、■■■■
アルフィーネ家──ラン
家名無し──ディム、■■■
綺麗にまとめられた一覧表から少しずれた場所に無理やり書きたしたのか、『コハク』と書かれている。
「…………コハクはコハクのままなのね。他の名前はちゃんとしてるのに。」
もう一度見直そうと上から順番に名前を小さく読み上げ始めると、突然小さな低い声が苦しそうに部屋に響いた。
「────ッ、うぅ」
スミレによって仮面が外されていた青白い顔はきつく歪んで、先程まで落ち着いていた様子が嘘のように呼吸が荒くなっていく。一体どんな夢を見ているのか──、私はどうすることもできずアサギの手を握った。
「アサギ、アサギ!」
声をかけると、強い力で握り返される。華奢で頼りなさそうな普段の様子からは想像もできないような大人の男性の力。手の骨が折れそうな痛みも構わずに、私は声をかけ続けた。
「────ろ、───いくな。」
「何言ってるの?大丈夫よ。私はここにいるんだから。」
大丈夫、と何度か言ったところで私の手を握る力が弱まった。それから少しして、ピクリとアサギのまぶたが動く。
「────」
少し長い前髪の奥で、ゆっくりと弱々しくまぶたが開かれる。吸い込まれるような深い青色の瞳がぼんやりと揺れていた。
「アサギ…………?」
まだ目が覚めきっていないのか、名前を呼んでも反応が鈍い。顔を上げてこっちを見たあと、何度かまばたきをして、急に驚いたように大きく目を開くいた。
「クチナシ?どうして……」
「どうしてじゃないわよ。スミレと話しているときにあなたが急に倒れて、少しの間様子を見て欲しいって頼まれたからここにいるの。…………本当に、心配したんだから。」
つい怒ったような口調になって、なんとなく下を向いた。そうしたら、アサギは無理やり体を起こして、握った手はそのままで、反対の義手で私の頭を撫でる。いつもモエギにそうするみたいに。
「悪かったな、心配かけて。ずっとそばにいてくれたんだろう?ありがとう、クチナシ。」
まだ寝ぼけているのか、それともこっちが素なのか分からないけど、突然甘やかすような優しい口調になったアサギに困惑して動けなくなる。文句を言おうと顔を上げると、青い瞳が私だけを見ていた。
「────っ、もう!さっさと仮面つけなさい!」
「え?ああ、外してくれてたのか。俺は別に構わないんだが、」
「私が気にするのよ。だって、」
似てるんだもの。
あの目を見てるだけで、恐ろしい日を思い出す。懐かしい暖かい思い出と一緒に、全てが壊れていく瞬間を思い出す。近づいたら、みんな離れていく。もう絶対に手の届かない場所に、私を置いていなくなる。だけど、もうそんなのは嫌────。
「ほら、つけたよ。これでいいだろう?」
「え、ええ。って、ちょっと待ちなさいよ。そんなに急に動こうとしたら、危ない!」
ベッドから下りて立とうとしたアサギは、私が止めたのも気にしないで見事に数歩目で崩れ落ちた。
「だから言ったじゃない。」
「怒るなよ。俺だって時間が惜しいんだ。」
「カッコつけてないで休みなさい。見てられないわ。」
床に座ったまま私を見上げるアサギは、まだ顔色が悪くて体に力が入っていなようだった。それでもベッドに戻る気は無いらしく、壁に手を付きながら立ち上がった。
「……ほら。私だってあなた一人ぐらい支えられるわ。」
「助かるよ。まったく、頼もしいなあ、ここの住人たちは。」
「ええ、あなたが1番頼りないわ。」
「残念だけど、反論できないね。」
少し離れた椅子まで連れて行って、たぶんスミレとアサギがそうしてたように向かい合って座ると、さっきまでヘラヘラと笑ってたアサギが真面目な顔をする。
「さて、少し真剣な話をしようか。」
「……戻った?」
思わず声が出たけど、アサギは気にしてないらしく話を続ける。
「これ、どこで見つけたんだい?」
「────!」
アサギは1枚の紙を広げて見せた。それは、眠っているアサギの横で私が見ていたもの。なぜそれがアサギの手にあるのか、まさか。
「手を貸さなければ良かったわ。心配した私が間違ってた。倒れたフリをして盗むなんて。」
「椅子の上に置いておいたものが気になっただけさ。それに、まだ足に力が入らないのは事実だからね。それはさておき、質問に答えてもらおうか。この紙で、何をするつもりだったの?」
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