〈アサギ〉

「アサギさん、場所を変えましょうか。私の部屋でもいいですか?」

「ああ、気を遣わせて悪いな。」

スミレは一瞬動揺したような顔を見せたが、すぐに普段の冷静さを取り戻していた。そしていつもよりゆっくりと、彼女の部屋に向かって歩いていく。


────俺に合わせてるのか?


身長差があるから普通に歩けば俺の方が速くなるはずなのに、それがなぜかスミレは俺がギリギリ追いつけない速さで前を歩いている。俺の体調が良くないことを見透かされているようだった。

薬のおかげか皆のおかげか、今はまだ落ち着いていられる。ただそれも意識がここにいるだけというもので、精神的にも体力的にもかなり消耗していることは自分でも気づいていた。それでもこれ以上皆を不安にさせないようにと取り繕っていたことも、彼女は気づいているのかもしれない。

「どうぞ、アサギさん。」

スミレは扉を開けると振り返ってそう言った。妙に既視感のある彼女の部屋に入ったとき、俺は話そうとしていたことを忘れてしまうほどの物を目にした。

「す、スミレ。あれは、どうしたんだ?」

「ああ、あれですか。虫がいたので少々強く叩きすぎました。すぐに片付けますね。」

部屋の壁にかけられた鏡が、その意味をなさないほどに粉々に割れている。スミレは床に散乱したガラスの欠片をほうきで集め始める。

「…………えーっと、スミレ。そのほうきは、なんでここにあるんだい?」

「これですか?物置から持ってきたんです。長いこと母と暮らしてた部屋に置いてあったので、部屋にほうきがないと変な感じがするんです。」

確かに、そう言われるとこの部屋の内装にも納得がいく。凝った装飾が無い代わりに、まるでもう1人住んでいるような感じがする。椅子が2つあることとも、カップが2人分あることも。スミレの部屋は、彼女が昔母親と過ごした部屋を再現しているのかもしれない。

「にしても派手にやったな、怪我はしていないんだよな。」

「この程度では怪我はしませんよ。それで、アサギさん。私に話があると言っていましたね。できるだけ早く済ませましょう。誰かの邪魔が入る前に。」

スミレはほうきを片付けて椅子に座った。それから俺を向かいの椅子に座るように言った。

「話と言ったが、別に君を疑っている訳では無いんだ。これを君にだけ見せようと思ってな。」

俺はテーブルの上に地下で見つけた血液サンプルを並べた。スミレはためらいながら試験管を1つずつ手に取って見ていく。

「名前と数字が書かれていますね。テツグロおじさんの研究に使ったものでしょうか。」

「ああ、俺もそう思う。」

「特に気になるのは、アサギさんとクチナシさんのものですね。このふたつだけは0パーセントになっています。その次に低いのはシノノメ君の56パーセント。随分差があるように思えます。」

スミレの言葉に少し満足する。やはりスミレは賢い。おそらく彼女はこれから俺が話す内容も察しているのだろう。催促こそしないが、俺が切り出しやすいように答えてくる。

「この数字の意味だが、見当はついてるんだ。だが、これから話す仮説を正とするとおかしなことが起こるんだ。」

「おかしなこと、ですか?」

「あぁ、この仮説だとクチナシの数値を説明できないんだ。」

何から話そうかと考えて、こんな質問を投げかけてみる。

「 スミレ、鬼はなんだと思う?」

想定していなかった問いかけに、スミレは少し戸惑ったような表情を見せた。それから少し考えてこう答える。

「鬼、ですか。種族の1つ、と捉えるのが良いでしょうか。国から指摘されるまで私たちはその存在すら知らなかったので、あまり実感はありません。」

「そうだ。鬼も種族の一つだ。そして、このグレイディア王国で2番目に多い種族でもある。」

「そんなに多いんですか……?」

「あぁ。国民は人間、鬼、それから混血の3つの種族で構成されていて、1番多いのが混血だな。一部の貴族にしか知られていない極秘情報だが、今となっては隠しようがないだろう。混血は異能をもたないとされていたのが、何がきっかけか鬼の血が薄くても異能を扱える者が増えてきている。先祖返りも考えものだな。」

スミレはあまり驚いていないように見えた。むしろ、納得したような顔をしている。おそらく彼女自身も自分のの理由を知りたかったのだろう。

「簡潔に言えば、この数値は鬼の血の濃さを表しているんじゃないかってことだ。」

「────!それは、」

「ああ、俺はだ。大昔の契約のおかげで俺の家系は鬼の血と混ざらないようになっているんだ。」


はるか昔、鬼と人間は共に暮らしていた。そして彼らはグレイディア王国建国時にも力を貸してくれたという。しかし、国政も安定してきた頃鬼と人間は大きな問題に直面した。混血が増えすぎたのだ。このままでは鬼も人も全てこの国から消えてしまうだろう。鬼の長はそう言うと、それに賛同した貴族の男と秘密裏に契約を結んだ。


互いの血を交えないこと。

鬼村の所在を隠し通すこと。

そして、男の子孫を代々守護し続けること。


その契約こそ、俺が人間である理由だった。


「つまり、アサギさんの一族以外で純粋な人間はいないかもしれない、ということですね。」

「そういうことだ。」

話し終えて、大きく息を吐く。それは安堵のため息か、それとも話してしまった後悔なのか俺にはまだ分からなかった。だが、ここで気を抜くわけにはいかない。スミレには、まだ聞かなければいけないことがあった。

「それと、これはスミレが持っているといい。」

スミレの血液サンプルを彼女の手に押し付ける。そうして、彼女の耳元でささやく。

「君の血が特別だというテツグロの手記を見つけた。これは、他の誰かが持っているよりも君が持っていた方がいいだろう。」

「────、ありがとう、ございます。」

スミレのカタコトな返事にふと冷静になって、勢いよく体を起こす。別に大した意味もなかったんだが、スミレが困ったように固まっているからこちらまで恥ずかしくなって顔を背けてしまう。

そして、その時俺は初めてソレに気づいた。どうして今まで気づかなかったのか。割れた鏡に気を取られて目に入らなかったのか、それともそんな余裕すらなかったのか。


遠くから聞こえる懐かしいチェロの音の中に、口からこぼれたソレの名前が消えていく。


「────青き満月。」


直後、視界が歪み激しい頭痛に襲われる。心臓が拒否するのを無視して無理矢理引き出されるあの恐ろしい休日の記憶に、俺は一瞬にして飲み込まれてしまった。


第3話

【完】

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