第13話

 エスカ一家が、農場を引き上げて自宅に戻ったのは、晩秋だった。ずっと一緒に暮らそうと、みんなが言ってくれた。

 心から感謝しながらも、エスカにはやることがあった。あと数ヶ月で、子どもたちは五才と三才。フィネスには早いが、訓練の計画を立てなくてはならない。

 それに来年度には、リトヴァとシウスは幼稚園だ。ここからなら車で二十分で行ける。農場からは一時間以上。遠すぎる。

 三人を保育施設に預けて働くことも、考えた。だが、フィネスはまだ不安定。他人の前に出せる状態ではない。

 ヴァルス公爵は、国王不在のままの称制を続けている。即位せずに、国王と同等の権力を持って、政務を執り行っているのだ。。

 その一方で、共和制への移行を目指す。貴族院で、連日会議が行われていると聞く。

 農場の状況は、すっかり変わってしまった。

 ウリ・ジオンは、イモジェンとの旅行の後、ラヴェンナでマティアスと暮らしている。、

 モリス社のラヴェンナ支店長として、活き活きと働いているそうだ。

 元はと言えば、ウリ・ジオンはラヴェンナ人。水が合うのだろう。マティアスも、明るい弟との同居を楽しんでいるそうだ。

 それに、ウリ・ジオンは頻繁にビデオ通話をしてくれる。父親としての愛情と責任感は、忘れていないようだ。エスカは、これで満足しなくてはいけないと思っている。

 アダは、モリス社のラドレイ支店長に戻った。

 サイムスは、シボレスの検事局に採用された。シボレスは首都だから、採用人数が多いのだ。

 当然、シボレスに部屋を借りた。ラドレイまで飛行機で二時間、空港から農場までさらに二時間。

 毎週、農場に来るのはきつい。二週に一度、サイムスが農場に来る。セダが、二週に一度シボレスに行くということで、折り合いをつけた。

 そんな生活が、いつまで続けられるだろう。いずれサイムスは、ラドレイに異動願いを出すだろう。それまでの辛抱だとは思うが。

 イレは、大学を卒業したら、教師として就職するかも知れない。

 そうなったら、セダは農場でひとり暮らしになる。あの広い農場で。これも、エスカにとって心配の種である。

 それにアルトス。フィネスの予言通り、『べちゅ』のオファーが来た。

 シボレスの音大からのオファーである。専任講師。

 アルトスは、返事を一日待ってもらい、エスカに打診に来た。

「俺と一緒にシボレスに行く気ある?」

「無理」

 エスカの言葉を受けて、無言でアルトスは頷いた。そして無言で帰って行った。

 現在、アルトスはシボレスの音大で働いている。

 それを聞いたラドレイ音大の教授陣は「しまった!」と顔を見合わせたそうだ。

 流言飛語と知りつつ、噂の源となった学生の父親に忖度したのだ。

 国会議員だという。稀有な才能を逃がしてしまった。後悔先に立たず。

 エスカは、片翼をもがれたような喪失感を味わった。子どもたちを思い、身動きできない状況だったのだ。

 だが、せめてひと言、本音を伝えなくてはならなかったと後悔した。

「本当は、行きたいけど」

 と。愚かな自分を責めた。


 そんなある日、イレが来た。シボレスの家族に会いに行って来たと言う。お土産をどっさり差し出す。

「父からのお礼だ」

「え、僕何にもしてないよ」

「いやいや。そもそもの発端は、エスカがラヴェンナの王宮で、俺に声をかけてくれたことじゃないか。

 あれがなかったら、今の俺はないよ。

 それにな。なぜか、シボレスのルシウス・パルツィ氏が、父に専任講師の仕事を世話してくれたんだ。

 語学学校で、ラヴェンナ語のネイティブの講師を探していたのを、校長会で耳にしたと言ってな。

 それまでは、非常勤講師のかけ持ちで、食いつないでいたんだ。それに、マティアスがラヴェンナでの勤務経験を調べて、シルデスのと合算。

 定年退職後は、年金を受け取れるように手配してくれた。感謝していたよ」

「でもそれって、マーカスが手配してくれたんじゃないの?」

「そう。だから、昨日マーカスの家にお礼に行って来た。泊めてもらったよ」

 イレは(できるだけ)さらりと言った。

「あ。そ、それはお疲れだったね」

 想定外のイレの告白に、エスカはおバカな返答をしてしまった。イレは爆笑した。

「全くもって、お疲れだったよ」

 笑いを収めて、イレは真顔になる。

「マーカスは、心根のやさしい男だな」

 よく知ってます。

「これからは、時々会うことにしたよ」

 心底嬉しそうである。よかった。本当によかった。

「ついでに、サイムスとアルトスにも会って来たよ。アルトスは、一度もラドレイに帰って来てないんだってな。パルツィ家にも行かないようだ」

「慣れない仕事で、忙しいんでしょ」

「それは、サイムスも同じだ。何かあったのか?」  

 エスカは、躊躇いつつも話し始めた。

「シボレスに、一緒に行かないかと言われたんだけど。僕、素っ気なく断っちゃって」

 涙が零れた。

「もっと他に言い方が。もっと素直に」

 イレの胸に頭をつけた。イレはエスカの背をさする。

「そうだな。だが、エスカが身軽に動けないのは、知ってるはずだよ。それでも誘いたかったんだな。

 磁石が反発し合うのは、知ってるな? だが一方の力が弱まれば、回転するかも知れないだろう? 

 そしたら、引き合うじゃないか。意地を張ってるのはどっちだ?」

「……僕」 

 イレは頷いて、エスカの髪を撫でた。


 その週末。サイムスから連絡があった。

「農場に行くよ。途中でエスカの家に寄る。アルトスも一緒だ」

 イレが焚きつけたな。その時、電話が鳴った。ディルである。

 通話ボタンを押すと、何やら揉めている音声が、入って来た。

『わたしが話す。せめてもの誠意を示したい。最後ではないか』

 最後? 最悪の予感が、エスカを襲った。止めるディルを公爵が押し切った形である。

 エスカは引き出しを開け、レコーダーを取り出すと、スイッチを入れた。

「久しぶりだなエスカ。変わりないか?」

「はい」

「良くない報告だ。落ち着いて聞いてほしい」

「はい」

「イシネスは、数年後に共和制に移行するのは、知っているな。大改革だよ。

 歴史が、丸ごと変わる。だが、未だに王政を望む声は高い。

 共和制に移行する理由のひとつに、王家の血を引く後継者がいないことが、挙げられる。純血主義に拘った結果だよ。

 そこで、女神殿のエスカの名が挙がった。亡き王妃が極秘に出産なさったお子が、密かに女神殿で育てられていることを知る者は、意外に多かったのだ。

 密かに育てられたということは、先の国王のお種ではない。エスカはイシネスにいる時、カラーコンタクトで、目の色を変えていただろう?

 だから、父親が他国人とは、誰も思わなかったのだよ。そんな機会はなかったはずだしな。イシネス人の貴族と深い仲になったのではないか、ということになった。

 当然、名乗り出る者はいない。いくら調べても分からない。だが、王家の血を引いていることに間違いはない。

 それが明らかになると、共和制移行案は、白紙になる可能性が高くなるのだ」

 ここで、公爵は一息ついた。エスカはこの時点で、これから公爵が言わんとしていることを、ほぼ正確に理解した。

「王政派は、わたしにその意志がないのを知っているから、エスカを即位させようとするだろう。

 共和制派は、エスカを亡き者にしようとするかも知れない。

 国の平安のためには、どちらも避けなくてはならない。エスカは、存在すべきではないことになった。

 あのクーデターから国を守ってくれた人間に、酷い話だ。

 エスカがイシネスを出る際に、四名の暴漢に襲われただろう? 行方不明になって一年後、死亡宣告がなされた。

 それが、事実ということになったのだ。

 その後、エスカ生存説が、都市伝説のように飛び交ったが、根も葉もない噂だったことになった。

 クーデターの時や、カルト退治の時に働いてくれたのは、エスカによく似た別人。

 その証拠に『あの時の女性は、目の色が濃かった』と言う者が結構いたのだ。

 ディルの部下が、わたしと抱き合うエスカを見ている。秘密の愛人の女魔道士だそうだ。現在行方知れず」

「……分かりました。エスカは十五で事故死した。当然出産はしていない。

 この先、イシネスがどうなろうと、『隠し子がいた』などと言って、フィネスを迎えに来ることはありませんね?」

「誓って、ない。だからエスカ。酷いことを言うが、エスカの名は棄ててほしい。

 母君からいただいた大切な名なのは、百も承知だ。エスカの身の安全を守るために、これだけは約束してほしい」

「分かりました。明日から、僕は別の人間になります。せめて今日は、エスカでいさせてください」 

「もちろんだよ。イシネスのために命がけで戦ってくれたのに、守ることができなかった。恨んでくれていい」

「とんでもありません。言いにくいことを話してくださって、ありがとうございます。カシュービアンさま、ディル、お元気で」

 通話は終了した。エスカはレコーダーのスイッチを切ると、バスルームに駆け込み、激しく嘔吐した。

 子どもたちが、リビングから走って来る足音がする。母親の異変を感じとったのだろう。

「ママ!」

「大丈夫?」

「ママァ!」

 バスルームのドアを、どんどん叩く。その時、上空からエアカーのエンジン音が聞こえた。

 アルトスとサイムスが、到着したのだ。ひとりの足音が、外に向かう。

「ママがぁ〜!」

 上空に向かって叫ぶ声は、シウスだ。エスカはようやく立ち上がって、バスルームを出ると、ベッドに倒れ込んだ。

 リトヴァとフィネスが、ベッドに上がってエスカにしがみつく。 

 アスピシアとカエサルが、ベッドに前足をかける。

「ママ、冷たい!」

 ふたりは、エスカをさすり始めた。寒い。ここはシルデスではなくイシネスだ。

 極寒の雪原に放り出されたかのように寒い。毛布は、なんの効果もないように感じられる。

 どたどたと賑やかな足音がして、ふたりの来訪者が現れた。安心したのか、子どもたちは泣き始めた。

「吐いたって? つわりか?」

「お前は、そんなことしか考えられないのか! もっと重い病気だったら、どうするんだ!」

 アルトスが、一ヶ月年長のサイムスに怒られている。

「ママ、すっごく冷たいんだよ!」

 リトヴァが、涙でぐしょぐしょの顔で、ふたりの大人に訴える。 

 フィネスは、エスカにしがみついて泣きじゃくるのみ。

「よしよし。大丈夫だ。アルパパが治してくれるよ。さぁ、みんなはランチにしような。任せたアルトス」

 サイムスは、子どもたちを促して、寝室から出て行った。アスピシアとカエサルも続く。

 エスカは、アルトスが靴と上着を脱ぐ気配を感じた。すっとベッドに入って来る。

 丸くなってがたがた震えているエスカを、背後から抱きしめ腕をさすってくれた。エスカの頰に、アルトスの熱い頰が触れる。

「あ、温かい」

「だろ? 俺は燃える男だからな」

 アルトスは、エスカが眠りにつくまで、そうやって温めてくれた。

 エスカが目覚めた時、辺りは薄暗くなっていた。眠りに就いたのは昼前だったはず。何時間眠ったのだろう。

 飛び起きたエスカは、枕元の小さなテーブルを見る。何もない。引き出しを開ける。目指す物はなかった。

「しまった!」

 レコーダーを隠すゆとりを、持てなかったのだ。サイムスかアルトスが、持ち去ったのだろう。既に、録音内容を聞いたかも知れない。

「いっか。説明する手間が省けたかな」

 捨て鉢になっている。キッチンから美味しそうな匂いが漂って来た。覗いて見ると、アルトスが鍋をかき混ぜている。

「やぁ。お目覚めか」

 何事もなかったかのような反応。

「サイムスは農場に行ったよ。俺はここに泊まる。食欲はあるか?」

 エスカは鍋を覗き込んだ。

「そのスープなら」

「美味いぞ。俺ひとり暮らし始めてから、腕が上がったんだ」

 アルトスは得意そうだ。

「子どもたちは、リビングで遊んでるよ」

 アルトスは、お玉を置いてエスカを見た。

「聞いたよ。今夜ウェブ会議やる。エスカは、子どもたちと一緒に早く寝るといい。

 あ、エスカって呼ぶの、今夜限りだな。新しい名前を考えておけよ。他のことは、俺たちで相談するから」

 アルトスは、エスカを抱きしめた。

『愛しいエスカ。大切なエスカ』

 アルトスの溢れる想いが、エスカに滲み込んで来た。

 その夜、アルトスの忠告通り、エスカは子どもたちと早めに床に入った。

 昼間あんなに眠ったのに、寝つきは頗るよかった。

 明け方、爺さま龍が夢枕に立った。

『ミカエラだ』

『力強い名ですね。なぜミカエラと?』

『大昔、儂が惚れていた女の名だ。縁起がいいぞ』

『へぇ。あなたさまにも、お若い時がおありで……てっ!』

 細いもので頰を突かれた。そこで目覚めた。鏡を見ると、右頰に赤い点がある。髭の先で突かれたらしい。

「ミカエラ」

 新しい名をもらった女は、穏やかな笑みを浮かべた。

 朝食の支度をしていると、アルトスが来た。

「おはようアルトス。早いね」

「おはよう。え〜と」

「ミカエラだよ」

 アルトスに笑みが零れた。ミカエラを抱きしめる。

「おはようミカエラ。綺麗な名だ。ところで、その赤い点は?」

 ミカエラは笑って、爺さま龍との経緯を話した。アルトスは痛快そうに笑う。

「そうか。あの爺さん龍にも青春時代が……いてっ!」

 突然、アルトスの頰に赤い点ができた。

「バカッ! 言葉に気をつけなよ! 神出鬼没なんだから、あのじ……」

 アルトスがミカエラの口を抑えた。ああ、そうだった。ふたりは顔を見合わせて、大笑いした。

「昨夜の会議な。結論は出なかった。で、今夜も続きやるんだ。俺は、夕方シボレスに帰るよ。

 明日から、また仕事だからな。ちょっと待て。イレに連絡しておこう」

 アルトスは、窓際に一分ほど立っていた。イレと交信しているのだろう。笑顔で振り向く。

「よしっ。これで会議が捗るぞ。エ、ミカエラ。幼稚園で面接したか?」

「ネットで予約しただけだよ」

「なら、顔も声も知られてないな。前の名前でしてるよな。取りあえずキャンセル。後のことは、今夜相談するよ。

 お前がまずやることは、イメージチェンジかな。別人に見せる必要があるだろ。

 髪は切らずに、そのまま伸ばすとか。派手な服を着るとか。そういうのは、エヴリンに相談だな」

「鼻にピアスとか?」

「それは勘弁してくれ」

 ふたりは笑った。朝からよく笑う日だ。

「お願いがあるんだけど。次にここに来る時、イレと一緒に来て。ふたりならできるかも知れない」

 ミカエラは、左二の腕に触れた。アルトスは目を丸くする。

「治療? 俺たちにできそうか?」

「ふたりとも、霊力上がったからね。一緒にやってくれる?」

「お、おう!」

 アルトスの目が輝いた。

 ミカエラは割り切って、みんなにこの一件を丸投げすることにした。第一、考える気力が残っていない。

 いずれ、イシネスを棄てる日が来るかも知れない。いや、フィネスを、イシネスに送り出すことになるかも知れない。

 そのふたつの想いが、常に頭の一隅にあったのは、確かである。

 まさか、あちらから断たれるとは。思いも寄らない結果を受け入れはしたものの、混乱が治まるには、時間が必要だ。

 取りあえず、幼稚園の面接はキャンセル。他には保育園しかない。

 市内の保育施設を探す。幼稚園と違うのは、新年度からスタートではなく、空きがあれば、いつでも入園可能なこと。空きがなければ、空くまで待つしかないということだ。

 一応、市の福祉課に申し込みをしておいた。

 少し早いが、子どもたちの訓練を始めてみようか。問題はフィネスだ。ついていけるか。様子を見るしかない。


 翌朝、アダから連絡が来た。昨夜の会議の結果である。

「ミカエラの意思を確認しておきたい。全てはそれからだ。

 聞いてくれ。俺たちの計画を実行するには、大前提が必要なんだ」

 言いづらいことなのだろうか。アダらしくもなく、歯切れが悪い。

「六年前、アルトス・パルツィとミカエラ・グランデは結婚した。(姓は、グランデだ。何か偉そうだろ?)異議はあるか? こういうことにしないと、話が進まない。

 エスカは、既に死んでいることにしないといけないからな。

 その後動いていたのは、既婚者のミカエラだ。まったく、ご亭主は何やってるんだか」

 ミカエラは、目をぱちくりするのみ。

「あの。話が全然見えないんだけど」

「嫌でも受けてもらいたい。諸々の手続きが終わり次第、離婚していいから」

 素直になる時が来た。そんな気がした。ものごとは、収まる処に収まるのだ。

「……嫌じゃない」

「そうか!」

 ジャンプしそうなアダの声。

「よしっ! では子どもたちの父親は、アルトスということで、手続きを進めるぞ。数日待ってくれ」

 電話は切れた。


 その週末、アルトスとイレが来た。治療のためである。ひとしきり子どもたちと遊んだ後、三人の大人は、寝室に籠もった。

 アルトスとイレは、念入りに手を洗う。その間に、ミカエラは氷入りの洗面器とタオルを用意した。

 ミカエラは、椅子の肘掛けに肩まで腕まくりした手を乗せる。

「痛いかもしれないよ」

「任せろ!」

 ふたりは元気がいい。

「僕がなにか言ったりしたりしても、気にしないで、治療に専念してね」

「はい、お師匠さま」

 和やかに治療が始まった。ものの一分も経たないうちに、アルトスとイレの顔が強張った。

歯を食いしばっている。痛みが来たのだ。額に脂汗が滲み出る。それでもふたりは、意識をミカエラの腕に集中させている。

 ミカエラの唇が動いた。古代イシネス語の、祝詞か呪文のようである。

 痛みが徐々に引いていくのが、ふたりの表情から見て取れる。

 途中で、洗面器に手を入れて冷やしながら、治療は続いた。 随分長い時間が過ぎたように、ミカエラは感じた。それでも三十分はかかっていないはずだ。

 ミカエラの合図で、アルトスとイレは、ようやく手を放した。ふたりの手は、熱で赤くなっている。ミカエラは立ち上がり、冷たい水の入ったペットボトルをふたりに差し出した。

「お疲れさま。ありがとう。大成功だよ」

 と、左腕を差し出した。滑らかな白い腕。アルトスとイレは、歓声を上げた。

「やった〜!」

 と、手を取り合ってジャンプする。

「俺たち、大したもんだな〜」

 自画自賛するアルトス。

「これで、万が一、僕の腕の怪我を知っている者がいても、大丈夫。傷痕は、跡形もなく消えた。

 皮膚の移植手術をした医師を探しても、 いない。完璧だよ。ありがとう」

「そうだな。ところで、さっきの呪文はなんだ? あれで痛みが引いたんだが」

 こういう方面、さすがに元神官は敏感だ。

「あれは、呪詛返しだよ」

「呪詛返し?」

「怪我をして十年近く経つのに、未だに、寒い季節はけっこう痛む。

 ひょっとして、呪詛の祈祷を受けた武器を使ったかも知れないと思ってさ」

「すると、その呪詛はかけた本人に戻っていった? 倍返しになって?」

「いや。かけた本人は、既に鬼籍の人だから」

「ヤン・リード!」

 アルトスとイレが、異口同音に叫んだ。

「命令を下した者に、返って行ったはずだよ」

「セイン元伯爵か!」

 アルトスとイレは、顔を見合わせ、考え込んだ。先に口を開いたのは、アルトスである。

「いくら娘が可愛くても、ねだられるままに、殺傷能力のある武器を渡すとは、正気の沙汰ではないと思っていたが、呪詛までするとは」

「亡き王妃が、極秘出産なさった。その子が、女神殿で育てられていことを知る者は多いと、言っていたな。

 生きていれば、王位継承権がある。ミカエラ、マリンカとか言うその馬鹿娘は、公爵を狙っていたそうだが。

 女神殿のその子がいなくなれば、公爵が王位に就く。馬鹿娘と結婚すれば、セイン元伯爵は王妃の父。外戚として権力を振るえるな」

「『ヤン・リードに利用されただけで、わたしは何も知りません』とか言ってなかったか?」

「殺人罪で娘が逮捕されても、詐病で監視の緩い医療病棟行き。頃合いを見計らって、金を使って脱獄させるという筋書きか」

「ミカエラ。呪詛が倍返しで戻って行くと、どうなる?」

 ミカエラは首を振った。

「知らない。経験ないから。死ぬのと気狂いするのと、どっちがマシかなぁ? だから呪術は嫌いなんだよ。

 光明呪術も暗黒呪術も伝授する気はないんだ。僕が教えるのは、正統派の霊術のみってことで納得して」

「それはいいが。その『僕』はやめろ」

 アルトスの言葉に、イレがくすくす笑った。ミカエラは苦笑する。

「疲れたでしょ。向こうで子どもたちと甘いお菓子でも食べようよ」

 ミカエラは、建設的な意見を出した。どのみち、ここで心配しても、どうにもならないのだ。


 二、三日後、アダが来た。

「ひと通り、処理は終わったよ。その報告だ。先日、モリスがイシネスから帰った。

 モリスは、怒りのあまり発熱。話を聞いたヨアンナは、血圧が上がって病院に行った。

 ふたりとも一過性のものだから、心配ない。

 モリスとミカエラが、直接連絡を取り合うのは、今後一切なし。俺を通してくれ。それとモリスの伝言だ。

『どの地でお暮らしになろうと、王家の血を繋いでくださることに、心より感謝申し上げます』

 だとさ。それでディル直属の騎士の中に『王政復古を夢みる会』のメンバーがいてな。話してくれたそうだ。

 ディルは『公爵を誑かした女魔道士説を信じてほしい。あのお方をお守りするには、これが最善の策だ』と言ったそうだ。

 騎士たちは、例のカルト退治の際に、居合わせていたからな。納得し難い声もあったそうだ。だが、珍しくディルは『最善』を強調した。

 俺もそう思うよ。本人の気持ちを除けばな」

「……前にも、そういうことがあったよね」

 アダは、つらそうにミカエラを見た。

「シェトゥーニャの時だな。今にして思えば、次善の策はあったかも知れない。だが、この件に関して次善はないよ。納得してくれミカエラ」

 理解はするが、納得はできそうにない。それでもミカエラは頷くしかなかった。

 大事の前に、当事者の気持ちを慮るゆとりはないのだろう。時間をかけて、自分を納得させるしかない。

「それと、セイン元伯爵な。先日独房で死亡しているのが確認された。プレスは押さえたから、公表はないよ。

 地獄を見たような死に顔だったそうだ。発見した看守がチビったとか。ま、これは忘れよう」 

 アダは、鞄から書類を取り出した。

「パソコンにも入っているが、紙の書類も大切なんだ。これ、ミカエラ・パルツィの身分証明書」

 小さな紙を、ミカエラに渡す。

「アルトス・パルツィとミカエラ・グランデは、六年前に結婚。ミカエラ・グランデは、何らかの事件に巻き込まれ、証人保護プログラム下にある。

 前身が不明でも、何ら問題はなし。

 夫婦の間には、その後三人の子が産まれた。当然、出生証明書の父親欄はアルトス・パルツィだ。(アルトスは狂喜していたぞ)

 なぜかミカエラは大金持ちで、隣の広い土地(爆破された所な)と、この家と土地を買っている。

 つまり、名義はミカエラ・グランデ。車も同様。免許証も名義変更してある。

 それからシボレスの件だ。エスカは、

バイクの免許を取っているな。これもミカエラに書き換えた。バイクを買ったのはウリ・ジオンだから、これはこれでよし。

 エスカ名で大学に通っていたのは、ミカエラが偽名を使っていたそうだ。おエラい学者先生に狙われたのも、ミカエラ。

 タンツ会長は、魔道士に騙されたことにした。脇が甘い御仁のようだな。

 エスカは、ラドレイでも大学に通っていたが、これも偽名。女魔道士は、一体どこで、エスカの名を嗅ぎつけたんだかな。

 警察関係者には、マーカスが女魔道士説を流す。パルツィ家には真実を話す。

 クリステル陛下には、マティアスが真実を話す手筈になった。

 以上だ。セダとイレ、俺の三人でまとめた。

 お役所のコンピューターに入り込むのは、イレのお家芸でな。完璧な仕事だったよ」

 ミカエラは、感心することしきりである。

「よく考えたね! タンツ商会の企画二部って、犯罪者集団なの?」

「たった三人で、集団はなかろう」

 けろりとして、アダは言った。

「最近、マーカスとサイムスの耳が、遠くなったってさ」

 ふたりは笑い転げた。

 その夜、サイムスから電話があった。

「電話で話すことではないんけど。顔を見て話す自信がない」

 サイムスの言葉とは思えない。

「実はフィネスのことなんだ。実の父親に会うことは、ほぼないんだよな?」

「ない。だから不憫でさ」

「それで、俺が父親役をやりたいんだ。書類上ではアルトスだが、実際にみんなで会う時に、面倒みる者が必要だろう?

 セダも、後押ししてくれているんだが、どう? イヤか?」

 ミカエラの鼻の奥が、じ〜んとなった。

「イヤなはずないでしょ! ありがとうサイムス。嬉しいよ。フィネスも懐いてるし。よろしくお願いするね!」

「おおっ!」

 サイムスの歓声が聞こえた。

 数分後、今度はアルトスである。声が弾んでいる。

「俺たち、結婚してたんだってな! 知らなかったぞ」

「ぼ、あたしもよ」

「離婚はナシだぞ」

「もちろん」

「よしっ! もうすぐ夏休みだ。帰るからな」

 言うだけ言うと、電話は切れた。『帰る』そのひと言で、ミカエラの胸は満たされた。

 同時に、不意にアルトスの姉、シェトゥーニャの姿が、思い出された。

 シェトゥーニャは、自分には子どもができないことを、知っていたのだろう。だから、愛するウリ・ジオンの子を欲しがったのだ。

 子どもが産まれなくても、その人の使命はある。

 砂漠の民の長シェトゥーニャ。各国の民族舞踊を、世界に広めようとしている、シェトゥーニャ。

 自身の置かれた処で、生きていってほしい。

 すると、また着信音。千客万来である。セダだった。

「ありがとうミカエラ!」

「お礼を言うのは、あたしでしょ」

「はは。夏休みになったら、アルトスに合わせて、ウリ・ジオンとサイムスが休暇を取るってさ。子どもたちを、動物園や水族館に連れて行くって、張り切ってるぞ。

 それとは別に、俺とサイムスは、小旅行の予定を立ててるんだ」

「いいね。一度も、ふたりで旅行したことないでしょ。楽しんで来てね」

「そのつもりだよ。イレとマーカスも、旅行するらしい」

 みんな幸せそうで、ミカエラは嬉しい。自分の周囲には、善い人ばかりがいる。ありがたい限りである。


 翌週、市の福祉課からメールで連絡があった。希望の保育園に空きが出るそうだ。取りあえず上のふたり。三日後に面接とのこと。 

 ミカエラは、了解の旨を返信。迅速な対応に、お礼を述べた。


 面接は午後である。午前中、ミカエラは、子どもたちの衣服を用意した。新しい普段着。電話が鳴る。知らない番号である。だが予想はできた。

「やぁミカエラ。久しいな」

 案の定、クリステルだった。

「元気か?」

 マティアスから話を聞いたのだろう。気遣いが伝わってくる。

「ひとつ、言いたいことがあるのだ。そなたの故郷は、ここラヴェンナにもあるということをな。いつでも帰っておいで。大歓迎するぞ」

 明るく軽く紡ぎ出される言葉に、底知れぬ愛がある。

「ありがとうございます。お父上」

 自然に、その言葉が出た。

「うむ。その言葉を聞きたかった。ついでにひとつ聞くが、なぜわたしは、そなたの父親なのだろう?」

 一件、笑えるような質問である。だが、クリステルは真剣なのだ。

「イシネス王妃と、キスなさったでしょう?」

「うむ。した。したが、えっ……」

 さすがに絶句した。

「しかし、まさか、それで……」

 クリステルの狼狽ぶりが、可笑しい。

「それです。母はシャーマンでしたので」

 暫しの沈黙。

「理解した。教えてくれてありがとうミカエラ。そなたがわたしの娘で嬉しいよ。時々声を聞かせてくれ。またな」

 今日はいい日だ。

 保育園までは、エアカーで二十分ほど。家から最も近い、第一希望の保育園だ。

 車の中で、ミカエラは子どもたちにアドバイスをした。

「先生からいろいろ聞かれるからね。元気にはっきりと、お返事するんだよ」

「はぁ〜い!」

 本日は出番のないフィネスが、一番元気である。楽しいドライブになった。

 保育園では、園長先生、年中組の先生、そして常駐の看護師の三人が立ち会ってくれた。事務室らしい部屋である。

「お名前教えてくれる?」

 園長先生の質問に、一番年上(?)のリトヴァが、しっかりと答えた。

「リトヴァです」

「なんて呼ばれてるの?」

「リィちゃん」

「はいリィちゃん。よろしくね」

 園長先生は、シウスに視線を移す。

「アンブロシウスです。シウス君とも言うよ」

 ふたりとも上出来である。ミカエラはほっとした。突然、付き添いで来たフィネスが、手を挙げる。

「僕はフィーくんだよっ!」

 ミカエラはコケた。事務室は、賑やかな笑い声に包まれた。看護師が、フィーに話しかける。

「フィーくん、ちょっとお外で遊ぶ?」

「はいっ!」

 看護師とフィネスは、手を繋いで園庭に出た。乳児の頃は、母親でないと駄目だったのに、おとなになったものである。

「今、年度替わりですからね。急に転勤が決まって、急ぎ引っ越される方も結構いるんですよ。

 フィーくんも、しばらくお待ちいただければ、空きが出る可能性はあります。今日、面接しましたしね」

 和やかに笑っていると、外に出たふたりが楽しそうに戻って来た。

「大丈夫です」

 看護師の言葉に、園長先生が頷く。

「では、三人とも通常クラスでね」

 通常クラスか支援クラスか。見極めるための面接という意味もあったのか。

 ミカエラは、ほっとした。普通の子でありがたいと思った。障害があるならあるで、育て方はあるだろうが。

 来週から、お試しの登園である。必要な品を書いたプリントを受け取って、面接は無事に終了した。

 駐車場に行き、子どもたちを車に乗せようとすると、制服姿の警官が二名通りかかった。

「お嬢ちゃんじゃないか。久しぶりだな〜」

 ニルズ曹長とマローン伍長だった。

「元気だったか?」

「子どもたち、随分大きくなったな」

「うん。保育園の面接に行って来たの」

「イメージ変わったな。女性に見えるぞ」

「黙っていれば上品だしな」

 言いたい放題である。ミカエラも一緒に笑った。

 ピンク系の小花柄のブラウスに、黒のロングスカート。敢えて、フェミニン路線で行くことにしたのだ。

「俺たちな、昇進したんだ。元署長の助言があって。『昇進試験を受けてみろ。チャレンジは大切だ』ってことでな。

 で、今は俺が准尉、マローンは曹長だよ」

「ジョンソン准尉は、少尉になった。なんか人生に自信がついたよ」

「おめでとう! 頑張ったんだね」

 ふたりに、貫禄がついた気がする。

「また、署長が戻って来てくれないかな〜って、無理か。

 これから現場に行くんだ。監視カメラを叩き割って、民家に侵入しようとしたヤツがいてな。

 幸いにも未遂だったが。乱暴なヤツだ」

 ミカエラは、小首を傾げた。

「乱暴だからって、男性とは限らないよね。案外、気のよさそうなおばさんだったりして」

「おおっ!」

 ふたりの警官の目が輝く。

「健在だな、お嬢ちゃん! ありがとう。またな〜」

 ふたりは、すっ飛んで行った。

「ママ。お巡りさんとお友だちなの?」

「かっこいい〜!」

 子どもたちは、大はしゃぎである。

 車に乗ってエンジンをかけようとすると、着信があった。アニタである。

「さっき、殿下が夕食買って行ったよ。自宅に帰るって。あんたたち、結婚してたんだってね」

 キャハハと笑う。

「なんだかんだ言って、殿下はあんたにベタ惚れだからね。仲良くするんだよ。

 まぁ、夫婦円満の秘訣は、このアニタさんにお聞きなさい」

「よろしくお願いします。大先輩」

 大好きなアニタ。会いたければいつでも会えるのが、嬉しい。愚痴って落ち込んでいるヒマなど、ないのだ。

「ねぇみんな。アルパパのことは、今日からパパって呼んでね」

「ただのパパ?」

「そう。ママもただのママでしょ」

「そっかぁ。ただのパパと、ただのママだね」

「パパって、『秘密の特訓』できるよね?」

 子どもたちは、霊術の訓練を『秘密の特訓』と呼んでいる。遊びの延長なのだ。

「できるよ。イレもね」

「わぁ! じゃあさ、交信ごっこしようよ!」

「ジャンプもやる!」

 俄然張り切る子どもたち。まだ交信とジャンプしか教えていないが、楽しく取り組んでくれて、ミカエラは嬉しい。

 家に近づくと、庭に人影が見える。大きな狐と犬の姿も。上空を見上げ、エアカーの到着を待っているのだ。

 子どもたちが、エアカーの中から手を振った。わいわいと賑やかだ。

 着地すると、アルトスが、チャイルドシートのベルトを外してくれた。

「面接どうだった?」

「大成功だよ!」

「みんなお利口してたもんね!」

 子どもたちは、得意満面である。

「それは偉かったな。ちょうどおやつの時間だよ」

 子どもたちとアスピシア、カエサルは家に走った。ミカエラは車を車庫に入れた。

 車庫から直接家に入れるのだが、アルトスが外で待っているので、外からシャッターを下ろす。

「長いこと待たせちゃった?」

「ああ。八年な」

 穏やかな笑顔のアルトス。あの出会いから八年。

 その時、磁石が回転した。

 ミカエラは背伸びをして、アルトスにキスをしようとする。

 アルトスは身を屈め、ミカエラをしっかりと抱きかかえた。ふたりは、少し長めのキスをした。

 それから、アルトスとミカエラは、肩を抱き合って家に入った。


                           完           

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『二つ名のエスカ』後日譚2  リトヴァとアンブロシウスと @muchas_hojas

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