第12話
開演三十分前、エスカは、ラドレイ市民劇場の入り口に着いた。エスコートはマーカス。
今日は、アルトスの卒業記念コンサートなのだ。エスカの腕には花束。
受け付けで、プログラムを受け取る。ふたりの後ろに、やはり花束を持ったイレが、嬉しそうに控えている。
この日のエスカは、産まれて初めてのワンピース姿。ブルー基調のミディアム丈、靴もバッグも、エヴリンの見立てである。
髪は、アニタの妹ペニラがカットしてくれた。魔女号に乗り込んだ時の、肩先で切り揃えたおかっぱ頭である。それを見たアルトスが、絶句したものだ。
「エスカ! 全然年取ってないじゃないか! あれから八年近くは経ってるだろ?」
「中身は年齢相応だよ」
エスカ自身も、鏡を見た時驚いた。出産もして、一人前の女性になったと思っていたのだが。
「頭の程度が表れてるんじゃないのか」
「まあまあ。若いのは結構なことじゃないか」
イレが割って入る。エスカは、横を向いてむくれた。後でイレとふたりきりになった時、エスカは愚痴った。
「同じことを他の人が言っても、なんともないんだ。でもアルトスに言われると、めっちゃハラ立ってさ」
イレは、一瞬エスカを凝視した。次の瞬間、愉快そうに大笑いする。ウリ・ジオンが、イモジェンをエスコートして、待っていた。
「受け付けで、花束預かってくれるよ。最後の舞台挨拶の時に、進呈すればいいって」
イレが、エスカとマーカスの花束を持って受け付けに向かう。少し離れた所で、セダとサイムスが、落ち着かなげに立っているのが見えた。
エスカは、マーカスに断わって、ふたりの傍に行った。
「司法試験の発表が、遅れてるんだ」
セダが、不安そうなサイムスを見ている。エスカは二秒ほど目を閉じた。
「単に遅れているだけだよ。後ニ分」
そこで、後ろから誰かに抱きつかれた。
「わぁいエスカ!」
ゾーイである。
「久しぶり! 随分背が伸びたね」
「でしょ! 九月から高校生だもん!」
ふたりで旧交を温めあっていると、階段の辺りに、パルツィ一家が勢揃いしている。
そちらに歩を進めようとしたエスカだが、ルシウス・パルツィの目が、信じられない光景を見たかのように、大きく見開かれたのを見た。
ルシウスの視線を追ったエスカも、さすがに驚いた。入り口から入って来た男性の集団。
先頭に立つのは、ラヴェンナのクリステル国王ではないか。すましてスーツなど着込んでいる。その背後で、マティアスが苦笑していた。
咄嗟に、ルシウスは騎士の礼を取った。続く一同。エスカは、そろそろと後退りをする。
「いやいや。お忍びだからな。それはなし」
お気楽なクリステルは微笑んで、手でそれを制した。
「久しいなルシウス。息災であったか。家族を紹介してくれないか」
ルシウスはまず妻のマリエ。後は上から順に紹介していく。マーカスの傍に立っていたウリ・ジオンは、逃げるタイミングを図ってその場を離れようとした。
その時、クリステルの視線が、ウリ・ジオンを捉えた。
「そなたは?」
しまったという感情を微塵も見せず、ウリ・ジオンは恭しく丁寧にお辞儀をする。
「ウリ・ジオン・タンツと申します」
するとクリステルは、不審げな表情を見せた。
「タンツ? ほう。パルツィではないのか」
きょとんとするルシウス。エスカは、咄嗟に隣のマリエを見た。マリエは一瞬、硬直したようだ。
その時、サイムスとセダの歓声が上がった。
「やった〜!」
いいタイミングだ、サイムス! サイムスとセダが、小走りに家族の元に来る。
「合格した!」
「司法試験か!」
後は、わいわいと一同盛り上がる。よかったねサイムス。知ってたけど。
エスカは、目でウリ・ジオンを促して、先に会場に入ろうとした。歩きながら、内心愚痴が出た。
『まったく。余計なこと詮索してないで、とっとと帰れよクソ親父』
聞こえるはずはない。交信ではなく、単なる心の呟きである。クリステルが、くすくす笑ったのに気づく。
振り向くと、愉快そうな目で、エスカを見ているではないか。。
聞こえた? これまでのエスカの疑問は、一気に氷解した。同時に、エスカは心にバリヤーを張った。
読めるのだ。潜在意識は無理だろうが、はっきりした心の呟きは聞けるのだ。
だから、エスカが実の子だと理解した。ただこの能力は秘密だろうな。だから『カンがいい』などと、とぼけるしかなかったのだ。
しかし、これはご法度だ。返信はできるのだろうか?
エスカはバリヤーを解き、呟いてみた。
『お見事です陛下。しかしこれは禁じ手です。続けられるなら、いずれ神罰が下りますよ』
クリステルの顔が蒼白になったのを確認して、エスカは席に着いた。一方的に読むだけで、返信はできないようだ。
だがその能力で人心を掴み、政務に励んで『名君』と言われている。これはこれでいいか。
左にマーカス、その左にはイレ。右にイモジェン、その右にはウリ・ジオン。ウリ・ジオンは、心なし困惑しているようだ。
今ごろマリエは、夫の浮気していた時期と、ウリ・ジオンの年齢とを引き合わせて、計算しているに違いない。
一方、ルシウスは内心パニックかな。いずれにせよ、他人の家のことだ。考えないにしよう。
第一部は、オペラのハイライトである。アルトスは主要メンバーとして登場したが、どういうわけか、主役ではない。
抜群の声と歌唱力なのは、言うまでもないのに。何かあったのだろうか。
そこへ、あらぬ情報がエスカの脳裡に入って来た。やれやれ。
コンサートは二部構成になっており、幕あいがあるはずだ。それまで待つしかない。
幕が降り、場内が明るくなると、エスカは招待席に向かった。クリステルめ、アルトスにゴリ押ししたな。
「失礼いたします。マティアスをお借りしてよろしいでしょうか?」
わざと馬鹿丁寧に、クリステルに挨拶をする。クリステルは鷹揚に頷いた。カエルのお顔にお小水のクチか。
不審顔のマティアスを、非常口の近くに引っ張って行く。
「帰りのスケジュールは、どうなってるの?」
「ん? コンサートが終わってから、市内でパブのハシゴでもして、出発は深夜だな。最短ルートでシボレスの上空を通過」
「シボレス上空はまずい。狙い撃ちされるよ」
「なにっ!」
さすがにマティアスは絶句した。
「国王暗殺を図るって、どういう人たち?」
「グンナル前国王のシンパだな。前王妃も含むが」
「あんな奴に、味方がいるんだ」
「甘い汁を吸ってたのさ。クリステルと王太子を倒して、グンナルの次男を即位させる気だ。まだ十才だがな。
成人するまで、誰かが摂政になるつもりだろう。担ぐ神輿は、軽い方がいいからな」
エスカは、開いた口が塞がらない。そんな了見で国を動かす気か。
「遊んでないで、終わり次第出発して。迂回することになるから、早い方がいいよ」
「となると、イシネスの上空を飛ぶことになるが」
「ディルに連絡しておくよ」
マティアスの表情が、やっと綻んだ。
「ディル・ミューレン少佐か。よろしく頼む。こちらは予定通りのフライトと、発表しておこう」
話がついたところで、マリエがこちらを見ているのに気づいた。マティアスは、そそくさと立ち去る。三十六計だろう。
マリエは、遠慮がちにエスカに近づいた。
「あなたなら、正直に話してくださるわよね?」
エスカは頷いた。元より、マリエを騙すつもりはない。
「ウリ・ジオンは、ルシウスの息子なの?」
マリエらしい、単刀直入な切り出し。エスカは、そういうマリエをとても好ましく思っている。
「はい。検査もしました。間違いありません」
「わたし……どうしたらいいんでしょう。あの時も、ルシウスは何も言わなかったし。
わたし、ハンナと泣きましたの」
「ルシウスが何も言わなかったのは、罪悪感があったからでしょう。
相手の女性は、遊び半分で男を誘い、その人の人生を、平気で狂わせるような人です。
あなたが競り合うようなレベルの人では、ありません。その証拠に、ルシウスは戻って来たでしょう?」
マリエは、エスカの胸に縋って、すすり泣いた。エスカの方が、少し背が高い。
「お家に帰ったらね。ルシウスに、う〜んと高い物をおねだりするといいですよ。毛皮とか宝石とか。
そしてハンナと、高級レストランで豪遊するんです」
マリエは、涙だらけの顔を上げた。泣き笑いの笑顔を見せる。
「いい考えね!」
開演五分前のベルがなる。扉の前にルシウスがいた。
「ほら、お迎えですよ」
アルトスの歌は圧巻だった。生来の美声、鍛えられた歌唱力、そして情緒豊かな表現力。
その歌は、エスカが歓迎フェスティバルで初めて聴いた、恋の歌だった。
盛大な拍手の中に「ブラボー!」の声が響き渡る。知らない声だから、サクラではない。続くスタンディングオベーション。
明日から、複数の歌劇団からオファーが押し寄せることだろう。
最後に花束贈呈があり、続々と花束を持った人々が、舞台に上がる。
エスカも、ウリ・ジオンに続いて、アルトスに花束を渡した。どぎついメイクに驚いたが、アルトスは、いつもの笑顔でエスカの頰にキスをしてくれた。
行列について舞台を降りると、ウリ・ジオンがエスカに目配せをした。エスカは頷いて、後に続く。
その夜、パルツィ家主催のディナーが、レストランの一室を借りて行われることになっている。
エスカもウリ・ジオンも、欠席にしてある。家族と、ごく親しい者が参加すればよい。
アルトスとサイムスが誘ってくれたが、エスカは気後れがして、固辞した。ウリ・ジオンにしてみれば、気後れ程度ではないだろう。
「家で、お茶でもどう?」
ウリ・ジオンのアパートか。エスカはまだ行ったことがない。それに、今のウリ・ジオンに不安定なものを感じたエスカは、頷いた。
疲れている様子のウリ・ジオン。エスカはアパートに着くと、勝手にお茶の支度をした。
濃いめに淹れたお茶に、ウリ・ジオンは、酒を入れようとするではないか。エスカは腕を抑えて止めた。
「僕ね。マッサージするつもりで来たんだよ。お酒が入ると、血の巡りが良すぎて、悪酔いするよ」
嘘も方便
「そうなのか? 飲むと、よく眠れるんだけどな」
眠れてないくせに。依存症は、こういうところから始まるのだ。エスカは、女神殿のシェルターで聞いた話を思い出した。危険だ。
「シャワーは朝やるよ。マッサージ頼む」
ウリ・ジオンは、前と同じに上半身裸になり、ベッドに俯せに寝た。相当、ストレスが溜まっている。
「ウリ・ジオン。またしばらくウチから通勤しない? これ解さないと」
既に、眠りに落ちようとしているウリ・ジオンは、頷いた。
「うん。できればずっと……」
帰りのエアカーから、エスカはアダに連絡した。
「今、ウリ・ジオンのアパートを出たとこ。マッサージして寝かしつけたけど、相当参ってるね。お酒、飲み始めたの知ってた?」
アダが、息を飲む気配がした。
「まだお茶に入れる程度だけど、この段階で止めさせたいんだ。またしばらく、ウチから通ってもらうよ」
「頼む! 実はな。ウリ・ジオンが引き継ぐ前は、副支社長が代理を務めていたんだ。
そしたら、業績が右肩下がりになっててな。それをなんとかウリ・ジオンが立て直したんだよ。
この数ヶ月でな。大したもんだ。
ところが、それが面白くなかったらしい。自分が支社長になるつもりだったから、若いウリ・ジオンが来て、不満だったんだろう。
副支社長に実力があるなら、会長は彼を支社長にしたはずなんだ。会長は見る目があるってことさ。
それで、今現在、ウリ・ジオンの秘書をやっている女性が、副支社長と不倫中。あることないこと、社内にデマを振りまいててな。
それを、会長にご注進する輩もいる。本来の仕事じゃないところで、足を引っ張られてるわけさ」
「社内で、ウリ・ジオンの味方はどのくらいいるの?」
「約半数かな。だが残る半数は、古参の社員だから、手強いんだ。ところで、エスカたちが消えた後、マティアスが来たんだ。
エスカを、ラヴェンナに連れて行きたいと。陛下のご意向だよ。
マーカスが相手してな。現在、行方不明と言っておいた。急ぐらしく、後日お迎えに上がりますだとさ」
うわぁ〜! どうしよう。
「エスカ、明日日曜だろ。民族大移動して、農場に行こうぜ。みんなに来てもらって、知恵を出してもらおう」
「わかった」
翌日、エスカは朝から外出の支度。気は進まないが、知恵はほしい。
それと察したアスピシアとカエサルは、元気がいい。農場が大好きなのだ。
お出かけするというので、子どもたちも大喜び。
初夏なので、ランチは木陰でバーベキューだそうだ。案の定、エスカ一行は大歓迎された。
農場のメンバーの他に、アダもマーカスもイモジェンもいる。つまり全員集合である。
「お陰でよく眠れたよ」
ウリ・ジオンは、照れくさそうな笑顔を見せた。アルトスとサイムスが、家から出て来た。
「寮を引き上げて来た。後は学位授与式だけだからな。またここで居候だよ」
アルトスの奴、さてはまたサイムスを手伝わせたな。サイムスはにこにこしている。
バーベキューが始まると、アルトスはシウスを膝に乗せた。それを見たウリ・ジオンは、リトヴァを膝に。サイムスはフィネスを抱き抱える。
アスピシアとカエサルには、セダが肉を与えている。フリーのエスカは、お陰で食べるのに専念できた。
「上等なお肉だね。奮発した?」
肉を焼いているイレが、顔を綻ばせる。
「少将閣下の差し入れだよ」
マーカスは、満足そうに肉を頰張っている。子どもたちも、小さく切ってもらって、ふうふう言いながら食べている。
エスカは、平和な空気を楽しんだ。そこへ携帯が鳴った。
マーカスが立ち上がり、ポケットから携帯を取り出すと、手で挨拶をして席を外そうとした。
「マティアスだったら、後で代わって!」
エスカは声をかけた。話しておくことがある。
マーカスは、二分ほどで戻って来た。エスカに携帯を手渡し、頰にキスをしてくれた。
エスカは、テーブルから離れながら電話に出る。
「ああ、エスカ。昨日の顛末は、マーカスに話しておいたから、後で聞いてくれ。それで陛下だが、エスカをラヴェンナに是非招待したいと仰せなんだ」
「それね。いずれお会いするかもだけど、今じゃないとお伝えしてよ。問題はその陛下なんだ。
陛下が、他人の心を読めるの知ってた? 読むだけで返信はできないけどね」
「なに?」
「ふたつの条件の元でだけどね。まず、相手が目の前にいること。それから、相手が、心の中ではっきりと考えを呟くこと。
つまり、相手との距離があったり、考えがもやもやしていたりする場合は、読めない」
「それでか! どうりでな。まるで、こちらの思考がバレているような気がしたことが、何度もあるんだ。
では、見抜かれたくない場合は、夕食のメニューでも考えておこう。逆に理解してほしい場合は、はっきりと心中で呟けばいいと言うことか。
ありがとうエスカ。大いに参考になった」
パルツィ家の人たちは、みんな頭の回転が速くて助かる。
「ところで、昨日はどこに行ってたんだ? ウリ・ジオンもいなかったようだが。詮索するつもりはないが、気になってな」
バレてたのか。
「治療だよ。ウリ・ジオンが、ちょっとメンタルやられてて」
暫しの沈黙。
「転地療法で、ラヴェンナに来れないかな。わたしの宿舎はファミリータイプだから、部屋はあるぞ。
子どもの教育のために、妻と子どもたちは、シルデスに引っ越した」
聞いたことがある。
「家事は、通いのメイドがやってくれるよ。軍の射撃場に出入りできるよう手配しようか。射撃が好きだと聞いたが」
「いいかも! ありがとうマティアス。話してみるよ」
「お礼を言うのはこちらだよ」
チュッという音。エスカは笑って、電話を切った。やっとウリ・ジオンにいい風が吹いて来た。そんな気がした。
テーブルに戻ると、一同、待ち構えていたような雰囲気である。マーカスが報告する。
「今朝方、襲撃者たちがラヴェンナに帰国したところを待ち構えて、一斉逮捕。
早速、尋問を始めるそうだ。上手く行けば、芋づる式だな。陛下が、エスカに感謝しておられるとさ」
安堵の空気が流れた。
「その陛下だけど。お会いする機会はないとは思うけど、一応心がけておいてね」
エスカは、マティアスにした話をした。一同は驚愕したようだ。
「それって、霊術?」
アルトスが首を傾げる。
「呪術に近いね。イシネスのは、いわゆる正統派の霊術。
ラヴェンナのは呪術だけど、それも霊術の一種だからね。だからイレは、すんなり訓練を受け入れられたんだ。
砂漠の民のも、呪術に近いしね」
頷くイレとアルトス。満足そうなマーカスとイレの視線が合う。
「それでウリ・ジオンのことだけど。マティアスが転地療法を勧めてるんだ。部屋が空いてるから来いと。
僕の治療より効果があるかもしれないよ」
「そうか! 元々ウリ・ジオンは、ラヴェンナ人だしな。行って来いよ。
珍しい果物なんかあって、いいとこだぞ」
サイムスが身を乗り出す。
「そうはいかないよ。仕事が半端なんだ」
「ここまでやれば十分だよ。ウリ・ジオンの足を引っ張った分は、自分たちで尻拭いをすればいいさ」
アダは身近で見て、状況を理解している。マーカスが頷いた。
「ヘンリエッタに、精神科医を紹介してもらおう。診断書を書いてもらって、休養願いを出したら出発だ。
早い方がいいんだろう?」
「ちょっと待ってよ。僕まだ」
「軍の射撃場に出入りできるように手配するって、マティアスが言ってたな」
ぼそっとエスカが言う。俯いていたウリ・ジオンは、顔を上げた。輝くような笑顔である。
「行く!」
一同コケた。そこで、イモジェンが手を挙げる。
ひたすら食べ続けて、ようやくひと息ついたふうだ。絶食でもしていたのか?
「あたしも行く!」
「はあ?」
呆れるサイムス。
「あたし、小さい時ラヴェンナにいたんだけど、殆ど憶えてないのよね。
大兄さんとこに泊めてもらって、ウリ・ジオンと一緒に観光する! ちょうど夏休みに入るしぃ」
「お前な〜」
怒り出しそうなサイムスを、大人のマーカスが宥める。
「それくらい、気楽に行けばいいんだよ。今日中に、ヘンリエッタに連絡するから」
「ウリ・ジオン。念のため、パルツィのパスポートを持って行くといい。タンツのは嫌だろ」
とアダ。
「そんなのあるの?」
「はは。ウリ・ジオンがパルツィ氏の息子だと分かった時、作っておいたんだ」
「アダは偽文書作成のプロだからな」
と可笑しそうなセダ。
「あ、今のはオフレコで」
マーカスとサイムスに、慌ててとりなすイレ。兄弟は笑って頷いた。
「サイムスは、来週検事局で面接なんだ。」
セダは不安そうだ。
「ラドレイで就職できるといいな」
「俺は根回ししないぞ。妙なしがらみは、ない方がいいだろう」
と、マーカスは冷静だ。
「わかってるよ。アルトスには、オファーが殺到するだろうな」
「オファーは来ないよ」
アルトスは、肉を飲み込むと、さらりと言った。
「昨日の舞台見たろう? 直前で主役を降ろされた」
座は沈黙で包まれた。アルトスは苦笑する。
「自業自得なんだよ。エスカに言われてからは、修道女みたいに暮らしてたんだが。それ以前に、いろいろやらかしてたからな。
担任の教授の奥さんと不倫してるって、噂が流れた。俺は、担任の奥さんには会ったこともない。
もちろん、奥さんもそう言っているそうだ。担任は信じてくれたが、スキャンダルはまずい。
で、今回は引いてくれということになった。ソロだけは、卒業生全員がやるのが慣例だから、やらせてもらえたよ。
誰が噂を広めたかは想像がつくが、もうどうでもいい。
なぁセダ。農場で雇ってもらえるか?」
「もちろんだよ! 人手が足りなくて困ってるんだ。イレが来てくれて、だいぶ楽になったけどな。それなりに欲も出る」
「北側が空いてるだろ? じゃがいもを植えようかと」
イレも嬉しそうだ。
「ありがたい。それで、時々パブで歌いたいんだよ。弾き語りとか。オペラにはこだわらない。歌えればいいんだ」
「パブなら、いい店知ってるぞ。紹介しよう」
イレは、この中で一番ラドレイが長い。その時、フィネスがサイムスの膝から降りて、とことことアルトスの膝元にやって来た。
小さな手で、アルトスの膝をつつく。
「ん? どうしたフィー?」
吹っ飛ばされたのを忘れたのか、アルトスはやさしい。
「べちゅの来るよ」
え? 一同が、不審そうな表情になる。
エスカが、 静かに立ち上がった。リトヴァとシウスも、それぞれ慌てて膝から滑り降りる。
「あ〜フィーくん、やっちゃった〜!」
「でもでも、悪気はなかったんだよ!」
リトヴァとシウスは、懸命にフィネスを庇い、エスカに縋りつかんばかりである。
エスカはしゃがんで、フィネスと視線を合わせた。フィネスは、てへ〜と笑う。
会話の内容を理解できたはずはない。フィネスは、アルトスの心情を感じ取ったのだ。
「そうだね。アルパパを慰めようとしたんだ。フィネスはやさしいね」
「そう! フィーくんは、やさしいの!」
「だから、こっつんこはなしでね!」
「分かった。でも、もうやってはいけないよ」
勢いよく頷くフィネスの頰に、エスカはキスをした。ふたりの姉と兄にもキスをする。
「いっぱい食べたかな?」
「うん! ご馳走さま〜! 遊んで来ていい?」
エスカは笑って、三人の口元を拭いた。走り出す三人の後を、アスピシアとカエサルが追って行く。
「あの二匹、腹が重そうだね」
すっかり元気を取り戻したウリ・ジオンである。
「『こっつんこ』ってなんだ?」
とマーカス。
「おでこ、こっつんこして眠らせて、霊力を抑える。まだ事情を知らない保育士さんに、預ける段階じゃないんだ。
でもこの調子だと、いつまで抑えられるか。予定より早く訓練を始めるかも知れない。
嫌がるようなら、無理をさせる気はないよ。霊力なんかなくても、普通に暮らしていけるんだし。
でも、訓練で霊力を発散すれば、他の場面で暴走はしないから」
「エスカも苦労だな」
サイムスが、同情顔である。
「……アルトスについては、べちゅのを待つか」
アダが締めくくった。
全員で後片付けに入った時、エスカは子どもたちに声をかけた。
「これ終わったら、帰るからね」
「え〜!」
「帰るの?」
「お泊りしちゃダメ?」
口々に、子どもたちから抗議の声が上がる。
「ここは昼間来るとこ。お泊りする所じゃないんだよ」
「お泊りした〜い!」
駄々をこねるフィネスに、リトヴァとシウスが同調する。
「ママは、ここに泊まりたくないの。ママとお家に帰るか、ママ抜きで、子どもたちだけでお泊りするか、どっちかだよ」
子どもたちは、半べそ状態である。アルトスが、エスカの肩に手をかけた。
エスカは、内心後退りする。こんなに鋭い目をした男だったとは。
「イモジェン! 今夜、この子たちと一緒に寝てくれるか?」
トレイに食器を載せて、キッチンに向かうイモジェンに、声をかけた。
「いいよ〜」
「よし。エスカは、俺の部屋に泊まれ。イレも来てくれ」
「構わないが、どうした?」
「こいつがこんなに農場を拒むとは、何かくっついているかも知れない。除霊するぞ」
「俺、経験ないんだが」
「俺もない。だが、為せば成るのだ」
エスカは吹き出しそうになった。だがその気持ちは嬉しい。
これまで、向き合いたくなくて避けていたが、時が至ったのか。いつまでも、
逃げてばかりはいられない。
「わかった。ではウリ・ジオンの部屋に集合ね。
部屋に入るのは、ウリ・ジオン、アルトス、イレ、僕の四人。アスピシアとカエサルは、子どもたちをお願い」
「俺は、ウリ・ジオンの部屋の前に、陣取るぞ。だが丸腰だ。包丁でもいいから貸してくれ」
とマーカス。銃を二丁持っているウリ・ジオンから、借りることになった。
「俺とサイムスは、エスカの部屋を守る。アダは、マーカスと一緒に、ウリ・ジオンの部屋を頼む」
ここは、住人のセダが仕切った。
「僕の部屋にはバリヤーを張るよ。それから、家が揺れたり、大きな音がしたりしても、持ち場を離れないでね。
暗くなり始めてから、夜が明けるまでが、勝負だ」
「エスカの部屋に、シャーマンがいるといいんだが、無理だな」
不安そうなサイムス。
「大丈夫。アスピシアがいるから。火を吹けるよ」
一同、驚いた顔を見合わせた。
「訓練したのか。やはり神獣だな」
セダが二匹を撫でる。
ランチが重かったせいもあって、夕食は軽く済ませ、一同は位置についた。
イモジェンが、いつも通り明るく子どもたちの世話をしてくれて、助かった。貴重な人材である。
子どもたちも『ジェンママ』と懐いているから、心配はない。
それでもエスカは、アルトスとイレの力を借りて、部屋に三重のバリヤーを張った。
「これを解除するまで、出入りはできないからね。あとよろしく」
ドア前を守るセダとサイムスを残して、エスカたちは、ウリ・ジオンの部屋に行った。
アダとマーカスにドア前を頼み、室内に入る。
「ウリ・ジオンは、ベッドに寝て。除霊する」
「へ? なんで僕が?」
「メンタルやられる原因のひとつに、そういうのがあるんだ」
問答無用で、エスカはウリ・ジオンをベッドに寝かせる。
「はい。おやすみ」
ちょんとウリ・ジオンのおでこを突いた。ほぼ同時に、ウリ・ジオンは眠りに落ちる。アルトスとイレは、顔を見合わせた。
それから三人は、打ち合わせに入った。
「その、悪霊か? どこにいるんだ?」
「多分、この部屋の床下だよ」
アルトスとイレは、青褪めた。
「大丈夫かよ」
「ふたりは平気だ。健康な精神の持ち主だからね」
「エスカは健康じゃないのか」
「ちょっとね。それで狙われた。あいつは、ずっと僕を襲う機会を窺っていたんだ。あ! 来るぞ!」
窓がガタガタ揺れた。まさに家鳴り振動である。
「落ち着いて。脅かしてるだけだから」
エスカは、短剣を抜いた。床が振動し、三人は壁に背を着けた。突如、隙間などないはずの床から、黒い雲のような塊が湧き上がった。
上下左右に移動しながら、自由自在に形を変える。三人を嘲笑うかのようだ。壁に張り付いて動かないエスカに近づく。
エスカは壁から離れ、両手で短剣を真上に掲げた。脇に控えたふたりは、エスカに近づく。
エスカが、古代イシネス語の文言を呟いた。
その文言に動揺した黒雲は、一気にエスカに襲いかかろうとした。エスカが、眼前の敵に短剣を向ける。
同時に、アルトスとイレは、エスカの肩を掴む。霊力の増強である。
短剣の先から放たれた鋭い光が、黒雲を突き抜けた。雷が落ちたような、凄まじい絶叫にも似た音が、家中に鳴り響く。
眠らされているウリ・ジオンの口から、黒い煙が立ち昇った。量は僅かだが、闇を思わせる色。煙は、短剣の光に突かれて息も絶え絶えな黒雲に合体する。そして、同時に消え去った。
三人は、大きな吐息をついた。
「終わったか?」
「ああ。完全にね」
「やった〜!」
アルトスとイレは、抱き合って喜んだ。
「俺たち、役に立ったな!」
「役に立ったなんてものじゃないよ。ありがとう!」
「それにしても、なんであんなヤツが現れたんだ?」
「僕のせいだよ。イシネスで、僕は霊廟を焼いて浄化したでしょ。その際に、怨念を吸い込んでしまったんだ。
守護神が取り除いてくださったけど、僅かに残っていたようだ。
ごく微量だったから、そのうちに消えるだろうと、高を括っていた。身体からは出たけど、その辺を浮遊しているのは見えてたんだ。
そしたら、あのシェトゥーニャとの一件ね。僕の恨みつらみと合体して、膨れ上がったのさ」
「恨みつらみって?」
イレは、大雑把に聞いてはいるようだ。エスカは言いたくなかった。アルトスが解説する。
「つまり、エスカは、ウリ・ジオンとシェトゥーニャを恨んでいたわけだ。そりゃ無理もないよ」
「でもでも、人を恨むなんて」
「人として、普通の感情だろう」
イレも理解を示した。
「でも、そのせいで、ウリ・ジオンにとばっちりが」
「とばっちりではない。ウリ・ジオンは、報いを受けたのさ」
エスカは、珍しく真剣な表情のアルトスを見た。
「あの時、ウリ・ジオンは、エスカと腹の子に付かなければならなかったんだ。
エスカの中絶薬を棄てたのはウリ・ジオンだしな。幾重にも責任があった」
「でも、あの状況では」
「いや。シェトゥーニャを庇った時点で、ウリ・ジオンは間違いを犯した。
その結果、エスカは苦しんだだろう? ウリ・ジオンも苦しんだとは思うが」
「誰しも間違いは犯すよ。だが、これで終わった。忘れよう。これは、俺たち三人の秘密ということでな」
イレが、元神官らしい顔を見せた。エスカは納得して頷くと、廊下に出た。
ドア前を守っていたマーカスとアダが、アルトスのVサインを見て、ほっと息をつく。
エスカの寝室の前に、セダがいた。居ても立ってもいられない様子だ。
リビングからサイムスが出て来た。サイムスは、こちらのドアを守っていたのだ。やはり顔面蒼白。
「無事終了」
簡潔に、エスカが報告する。脱力するふたり。
「ウリ・ジオンは?」
「眠ってるよ」
ようやく、サイムスとセダに笑顔が見えた。
「凄い揺れだったな。ドアがびくともしなかったのを見ると、室内は無事だったようだ」
「そりゃ俺たち、渾身のバリヤー張ったもんな」
アルトスの得意顔は、一瞬で消えた。エスカが手を軽く縦に振ると、あっさりとバリヤーは解除されてしまった。
「なんだと!」
「まぁまぁ、お師匠さまだからな」
イレが宥める。エスカが、そっとドアを開ける。足元にアスピシア。リビングのドアの前にはカエサルがいる。
力及ばぬまでも、みんなを守ろうとしてくれたのだ。
エスカの目に涙が溢れた。二匹を抱きしめる。
「ありがとう、カエサル、アスピシア」
セダが部屋に踏み込み、大きな身体で二匹を包み込んだ。
「人間たちは無事だな」
マーカスが室内を見回した。静かな寝息が聞こえる。
「もう大丈夫だよ。朝まで間があるから、ゆっくりおやすみ」
エスカは二匹にキスをすると、一同を促して廊下に出た。
「そうだな。俺たちも寝ようぜ」
アダの提案に、反対する者はいなかった。
翌朝、エスカが朝食の支度をしていると、ウリ・ジオンが来た。
「あれからどうなったの? 僕眠っちゃって」
「終わったよ。全部完結」
エスカは、ウリ・ジオンを見て驚いた。
「若返ったねウリ・ジオン。十八の時みたいだ」
「そう? なんか体調よくてさ。なら、昔みたいに愛してくれるかなぁ」
エスカを抱きしめようとする。途端に、アルトスの盛大な咳ばらい。
「調子に乗るなよウリ・ジオン。誰が除霊してやったと思ってるんだ」
後ろでイレが笑っている。ウリ・ジオンは、大真面目に頭を下げた。
「おはよう。よく眠れたな。お、朝食か。ありがたい」
マーカス登場である。
「急ぐ人から食べてね。テーブルにパンとお茶があるよ」
「助かる。今日は、朝から射撃のテストでな。監督をやらないといかん」
目玉焼きの皿を取る。
「エスカ。何かやったか? 俺、すぐに寝ついちゃってさ。そういう
不審顔のアルトスである。
「そう言えば、俺も寝つきがよかったな」
とイレも同調する。
「まさか。緊張したあとだから、ほっとしたんじゃないの。僕も、バタンキューだったよ」
嘘ばかりが上達する。
「そりゃそうだ」
納得するアルトスとイレの後ろを、皿を持って出て行こうとしたマーカスが、エスカを見てにやりと笑った。
バレてる。まぁどだい、マティアスとマーカスを騙そうなどという芸当は、一生できそうにないが。
イモジェンに連れられて、子どもたちと二匹もやって来た。
「よく眠れたぁ。無事に終わったの?」
子どもたちは、朝まで眠っていたそうだ。朝食を飲み込んで、マーカスは立ち上がった。
「昨夜、ヘンリエッタに連絡し忘れて、正解だったな。もう診断書はいらんだろう」
ウリ・ジオンを見て微笑み、ダイニングを出て行った。。
「その代わり、出すのは辞表だ。ウリ・ジオン、今日は残務整理に行くぞ」
食事しながら、アダが言う。
「え」
戸惑うウリ・ジオン。
「これ以上商会にいたら、病気再発だよ。
残務整理と言っても、いつ辞めてもいいようにしていたからな。一日で済む。
引き継ぎは、奴ら、俺たちの仕事を盗み見ていたから、必要なしと」
「なら、明日アパートを解約して、引っ越せば終了か。帰る家があってよかった〜」
嬉しそうなウリ・ジオンに、イモジェンが言う。
「でも、ラヴェンナ旅行には行くでしょ」
「行くよ。その後でマティアスの世話になって、射撃場に行きたい。ラドレイに来てから、やる機会がなくてさ」
マーカスが、挨拶に顔を出した。
「マティアスに連絡しておくよ」
と、出かけて行った。
「わぁい。旅行のプランはお任せを。あたし、そういうの得意なんだ」
イモジェンは、嬉しそうだ。
「俺も、近いうちにラヴェンナに行くんだ。モリス社がラヴェンナ支店を出すんで、その準備」
「え、アダ。モリス社、辞めたんじゃないのか」
驚くセダ。
「人材不足でな。今のラドレイ支店長は、イシネスに戻りたがってるんだ。だから、また俺が戻るのは、モリスの想定内だよ。
イレがタンツを辞めた時に、ラヴェンナ店長の話を持って行ったんだが、断わられたんだよな。事情がわかった今では、理解できるが」
笑いが起きた。照れくさそうなイレ。
「そんなわけで、ラヴェンナ支店は、店長未定のまま、準備が進められている」
エスカは、ホロのパンを頰張りながら、話を聞いていた。ふとアダと目が合う。
あっと、アダが何か思いついた様子を見せた。エスカを見て、満足そうに頷く。
「ところでさ。パルツィ家は、代々騎士の家柄だろ? なんで爵位がないの?」
ウリ・ジオンが、サイムスに訊く。エスカも疑問に感じていたことである。
「我が家の家訓のひとつだよ。『余計な荷物は持つな』」
サイムスが、可笑しそうに説明してくれた。
「昔から、何度も叙爵の話は出ていたそうなんだ。それを先祖代々固辞。
爵位なんか受けてみろ。領地や領民まで付いてくる。
騎士としての義務を果たすだけで、精一杯なんだよ。親父があっさりシルデスに移住できたのも、身軽だったからだし。
それがまた最近、叙爵の話が出てるってさ。陛下は、マティアスを手放すおつもりはないようだ。マティアスはどうすっかな〜」
と、サイムスはエスカを見た。
「誰か代わってあげれば?」
この場の男たち全員が、ぷるぷると首を振った。
洗い物をしていると、アルトスとイレが手伝いに来た。
「オ〜レは気楽なプ〜タロ〜」
美声を披露してくれるアルトス。イレも楽しそうだ。
「あああ〜。千載一遇のチャンスだったのに。寝つきが良すぎるのも、考えものだな」
アルトスが、小声で愚痴る。
「残念だったな」
可笑しそうなイレ。エスカは、笑いを噛み殺した。
「ふたりとも、よくやってくれたね。ついてはご褒美に」
「おおっ!」
ふたりから歓声が上がる。
「一応基礎は身に着いたから、応用編の始まりかな。どういうのやりたい?」
「え。選べるのか?」
「ある程度はね」
「じゃあ、俺は戦闘系がいいな」
イレは少し考えた。
「あの。昨日、エスカがウリ・ジオンのおでこをつついて眠らせただろ? ああいうのはまだ無理かな?」
「できるよ。やれることからやろう。イレには、そういうのが向いてるかもね」
「訓練は夜だけだよな。ならエスカ、ここで暮らせよ。もう平気だろ?」
「うん。しばらくお世話になるね。昼間は家事やるよ」
「決まりだな」
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