第11話
夏の盛りが過ぎ、朝夕は涼やかな風が吹き始めた。エスカは、フィネスの入院の支度に余念がない。
農場には頼めないので、留守の件はアダに相談した。入院は十日前後。
手術後の飛行機は、フィネスの体力を考えると避けたい。
行き帰りともエアカーとなると、片道二日、往復で四日。予定通りいったとして、二週間は優にかかる。
エスカは、フィネスに専念する。残るリトヴァとシウスは、まだ三才。連れて行くわけにはいかない。病院に泊めることはできないからだ。
アダの出した案はこうだ。
アダはその間、エスカ宅から商会に通う。
イモジェンも、エスカ宅から通学する。
問題は昼間である。グウェンはできるだけ協力はするが、二週間は厳しい。
それで二週間の間、モリス宅のメイドに常駐してもらう。と決まった。
モリスは、大はしゃぎである。何なら自分も、とか言い出しそうで、アダとエスカはひやひやした。
どのみち、農場に連絡は行っているだろう。アダも、まるで農場と無関係とは言えないが、エスカは他に思いつかなかった。
出発当日、モリスと共にメイドが来た。六十前後、グウェンと同年配の、品のいいイシネス人の女性である。
「助産師の資格のあるメイドです。信頼してくださって大丈夫ですよ」
なぜ今さら助産師? モリスの目に、得意そうな色がある。
「ヨアンナと申します」
ひと目エスカを見て、身体を二つに折る。自己紹介したきり、頭を上げない。
不審に思っていると、ぽたりと涙が床に落ちた。
「エスカさまに、お話があるそうにございます」
モリスが気を利かせ、リビングを出て行った。残されたエスカは、ヨアンナにソファを勧める。
「お見苦しいところを、お見せしてしまいました」
ヨアンナは、
涙を拭いて顔を上げた。グレーヘアが、端正な顔を縁どっている。
「わたくしは、前王妃陛下にお仕えしていた者でございます」
エスカは「あっ」と声を上げた。
「保養地にも、王妃陛下のお供をさせていただきました。助産師の資格があるメイドということで」
そこでヨアンナは、エスカを正面から見つめた。目に誇りがある。
「では、僕を取り上げてくださったのは」
「はい。わたくしでございます。その際、もうひとり若いメイドがおりました。
ふたりで約束したのですよ。この秘密は、墓場まで持って行こうと。
そのメイドは、数年前亡くなりました。その前日、急を聞いて駆けつけたわたくしに、苦しい息で喘ぐように申しました。『墓場まで』と。
あなたさまを大巫女さまにお預けしたのは、わたくしでございます。王妃陛下の命令と言うより、お願いでございました。
大巫女さまは、あなたさまをじっとご覧になり、快諾してくださったのです。
その後、王妃陛下が、北の塔に幽閉された時、わたくし共以前からのメイドは、全て解雇されました。
ですから、王妃陛下のご最期は、噂でしか存じません。もうひとりのメイドと一緒に、嘆き哀しみました。
それを期に、わたくしは信仰を断ち切りましたの。
それ以来、あなたさまのことは、殆ど耳に入ることはございませんでした。
モリス男爵の事件が、明るみになるまではね。その後、シルデスにお渡りと聞きました。
留学という名目でしたけれど、脱出というのが近いのではと、密かに推測していたのですよ。
男爵家は、お父さまの代から、王妃陛下に同情的でございました。ですから、養子云々というのは、決して悪意のある話でないことは、察しておりましたが。
あのような結果になり、胸を痛めておりました。
わたくしは、その後長いこと、助産師として暮らしておりまして。
モリスさまが、シルデスで働くメイドを募集しておいでと聞き、ダメ元で応募いたしました。
同じ国にいるなら、いつかあなたさまにお会いできるかもと妄想しておりましたが、妄想ではなかったのですね!」
モリスは調べただろう。大切な妻と子どもを託すのだから。そこで、思わぬお宝を掘り当てた。先程の得意そうな表情も、納得である。
「そのモリスさまでございますが。数年前のクーデターの際の功績で、貴族に復帰させるというお話を、固辞されたのはご存知でしたか?」
エスカは頷いた。
「それが、今回のカルト集団一掃の件で、またそのお話が持ち上がりましたの。
お受けすることになさったとか。商売にも、肩書きのある方が良いということでして」
ヨアンナは、ころころと笑った。
「男爵さまから、伯爵さまになられます」
「それは嬉しい! 今回のことは、モリスの協力がなければ不可能でしたからね」
「それから、あなたさまのお身体と、手術を受けられるお子さまのお身体でございますが。
わたくし助産師をしておりました時に、何人か同じ症例を見ました。
珍しいことではございますが、決してないことではないのですよ。
その子たちは、イシネスの医師に、適当な名目の診断書を書いてもらい、シルデスで手術を受けたはずです。
その後帰国した人もいますし、そのまま、シルデスに留まった人たちもいるはずでございます」
「では、
「罰だなんて、滅相もございません! 単に、遺伝と確率の問題でございます」
エスカの目から、滂沱の涙が流れ落ちた。
出発前、ヨアンナはフィネスを抱っこしてくれた。
「生きていて、よかった」
そう呟くヨアンナを、モリスが満足そうに見ていた。
「男の子の方が、やや成育はいいですね。しかし、もし女の子をお望みなら、そちらも可能ですよ。
性格としては、どちら向きとお思いですか?」
プレイグ医師の目に笑いがある。全身から、喜びが湧き立っているかのようだ。
再会した時、天井まで飛び上がりそうな勢いで、喜んでくれた。
エスカは、ふたりのへぼシャーマンを壁に叩きつけた時の、フィネスを思い出した。
口で言うより、手の方が早いタイプ。エスカの腕に抱かれたフィネスは、満足そうに眠っている。
「男の子ですね」
「ではそういうことで」
プレイグは笑顔を見せて、立ち上がった。
「あなたは豊かになられた。患者さんの幸せな姿を見るのは、医師として無上の喜びです」
エスカは、深々と一礼した。
手術は順調に進んだ。フィネスは健康体で、他に問題はなかった。医師の腕も確か。
それでもエスカは、手術の間中、祈っていた。プレイグの笑顔を見るまで、生きた心地がしなかった。
術後、エスカはディルに報告した。
「手術は無事に終わったよ。フィネスは男の子になった」
すぐに公爵と代わる。
「ありがとうエスカ。わたしの血を継ぐ者がいるなんて、望外の喜びだよ」
電話の向こうで、カシュービアンとディルが、歓喜のダンスを踊っているのが、見えるようだった。
今フィネスはベッドに横たわり、エスカに癒やしの術を施されている。
麻酔が切れた後の痛みを、エスカが引き受けているのだ。
ノックの音がして、看護師が入室して来た。六十代の端正な顔立ちの女性。黒い肌、濃い金髪。誰かに似ている。
母親は看護師。
「看護師のドーラ・ハウエルです。こちらを担当させていただきますね。よろしくお願いします。フィーちゃん、お熱測りましょ」
ハウエル、ハウゼン。なるほど。
ベテラン看護師らしく、手際が良く、当たりが柔らかい。
うつらうつらしていたフィネスは、笑顔を見せて、そのまま眠りに落ちた。
「僕、五、六年前にこの病院で手術受けたんですけど。その時、お会いしましたっけ?」
ドーラはにこりと笑った。
「夫が、バイパス手術をこちらで受けた頃かしら? わたしお休みいただいてましたから」
そういうことか。
「そうでしたか。その後、ご主人はお元気で?」
「はい。一病息災と申しますか。高校で、非常勤講師として働いています」
明るい笑顔である。
父親は教師。
「わたしもね、正規の職員として交替勤務はつらい年ですので、パートにしていただいてるんですよ」
やるべきことをてきぱきとやり、ドーラはにこやかに退室した。
折りを見て、もう少し突っ込んでみよう。その機会は、予想より早くやってきた。
フィネスは、順調に回復している。以前から甘ったれだったが、その傾向はさらに強くなった。
赤ちゃん返りというものか。無理もない。母親をひとり占めして、ご満悦である。
その様子を見たドーラは、可笑しそうに笑った。
「男の子の方が甘えますよね。わたしにも男の子がいたのですけど。
めちゃめちゃ甘える子でしてね。わたし思ったものです。
『いずれ親から離れて行くから、今のうちに、その分甘えているのかも知れない』ってね。当たりました」
この時だけ、ドーラの表情が曇った。
「会えなくなって、かれこれ十七年になります。シルデスにいるという噂を聞きましてね。
同じ国にいれば会えるのではないかと、一家揃って引っ越したんですよ。
まだ夢は叶いませんど、諦めてはいませんのよ」
エスカは頷いた。
「お子さんは、おひとりで?」
「あと娘がふたり。息子のすぐ下の娘は、やはり看護師でしてね。中央病院に勤務しています」
「中央病院? 僕の知り合いが、中央病院で働いてますよ。ヘンリエッタ・パルツィという……」
ドーラの顔が、ぱっと輝いた。
「パルツィ先生! 娘がお世話になってます!」
「この子を取り上げてくれたの、ヘンリエッタです」
「まあまあ! 世間は狭いものね!」
一気にふたりは親密になった。ドーラは、はしゃいだ。
「末娘は、保育士なんですよ。ふたりとも、それぞれひとり暮らししてますけどね」
妹がふたり。決まりだな。肌の色と濃い金髪、何よりも、広い額と整った鼻筋が物語っている。母親似でなければ、分からなかっただろう。
ドーラが退室した後、エスカは携帯を取り出した。一度の着信で、イレは飛びつくように出た。
「エスカ!」
「イレ、お母さんが見つかったよ。電話番号教えていいかな?」
数分で、ドーラは戻って来た。
「忘れ物しました!」
なるほど、サイドテーブルにファイルがある。
「ミズ・ハウエル。イレが見つかりました」
ぽかんとするドーラ。理解できないようだ。エスカは携帯を差し出した。
「イレの番号です。電話を待ってますよ」
呆然自失状態の中で、それでもドーラは、ポケットから携帯を取り出す。番号を押そうとするが、手が震えている。
「僕が」
エスカはドーラの携帯を受け取り、イレの番号を入力すると、持ち主に返した。
「あ、あ……あの」
言葉にならない。
「母さん?」
イレの震える声が聞こえる。ドーラは、携帯を耳に当てたまま、ベランダに出た。エスカは、霊術で自身の耳を閉じた。
その夜、ヘンリエッタが訪ねて来た。
「もう! なんで連絡してくれないのよ! わたし、農場のメンバーじゃないでしょ!」
笑いながら抱き締めてくれた。事情は聞いたようだ。
「リーズ・ハウエルから聞いたの。よく働く看護師よ。イレの妹さんだったなんて。見つけてくれたのね。さすがエスカ!」
「たまたまだよ。でもよかった」
「うん! よかったよかった」
他人のことながら、ふたりは心から喜び合った。
その週末、イレがシボレスに来ると言う。ドーラは嬉しそうに語った。
「ラヴェンナ料理を作ります」
スキップしそうな足取りである。
週明けに退院が決まったので、その前日、エスカは買い出しに出た。眠っているフィネスを、看護師に託して。
車で二日かけて帰る。車中とモーテルで食べる食料が必要だ。病院の近くのマーケットで買い物を済ませ、フィネスの元に急ぐ。
通りの向かいの歩道から、賑やかな声が聞こえて来た。五、六人の若者たち。学生だろうか。その集団の中に、見慣れた顔がある。
背が高い上、あのオレンジ頭。隣の黒髪の愛らしい女性と手を繋いでいるのまで、見えた。
エスカは、気づかぬ体で前を見たまま、歩を進めた。自然と足早になる。
フィネスの手術は成功裡に終わり、経過も順調。毎日電話しているリトヴァとシウスも元気。
これ以上、何を望むと言うのだ。今日は何も見なかった。
退院の準備をしていると、ドーラが駆け込んで来た。
「え。勤務は午後からでは?」
「お礼に参りました」
深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。感謝の言葉もございません。滅多に泣かない夫が泣きました。
やっぱりイレはいい子でした。ラヴェンナ料理をたくさん食べてくれて」
農場のメンバーは、全員、大飯喰らいだもんね。さらに深く頭を下げ、ドーラは声を絞り出した。
「このようなこと、お願いできる立場ではございませんが……あの、どうか破門を赦してはいただけませんでしょうか」
言葉遣いが明らかに変わっている。イレのお喋りめ。一体どこまで話したんだ。エスカは笑い出した。
「とっくに解除してますよ。でも僕意地悪だから、そのこと言ってないんです」
そう。マーカスとの一夜の後、破門は取り消し、霊力は戻した。
エスカは、マーカスを解放した。同時に、マーカスもエスカを解放してくれたのだ。
ドーラの目が歓喜に溢れた。
「で、では、本人たちがそう思い込んでいるだけと?」
ドーラは爆笑した。
「思い込みって怖いよね」
ふたりで笑う。
「承知いたしました。ではわたしも、今の話は聞かなかったことにいたします」
そう言うと、ドーラは再度深々と、丁寧なお辞儀をした。
来た時と同じモーテルで、一泊。
エスカはタブレットを開き、プレイグ医師に、税金が掛からない程度の謝礼金を送った。
さらに病院宛に、匿名で多額の寄付金も送った。
翌日、車の中で、エスカはプレイグ医師からの電話を受けた。
「わたしの分は、ありがたく頂戴いたします。しかし、あの寄付金もあなたでしょう?」
「僕のポケットマネーです。お受け取りください」
ありがとうございます。カシュービアンさま。
「つかぬことをお伺いしますが。あなたは、イシネスの王侯貴族にゆかりのある方で?」
「はい」
嘘をつく気はない。プレイグの声が弾んだ。
「では遠慮なく、こちらも頂戴いたします。イシネスは大金持ちだそうですから」
愉快そうな声。
「あのお金で、最新の医療機器が買えます。本当にありがとうございました」
無事に帰宅した数日後、ディルから電話が来た。
「よくない報せです」
胸の動悸が速まる。
「ヤン・リードが死にました。自死です。
今日、判決が出る予定だったのです。『死刑』という判決を受けるには、誇りが許さなかったと、わたしは見ています。
一応ご報告したまでです。エスカさまとは、一切関わりのないことですから。あの男の選んだ人生ですからね」
「……他の生き方もあっただろうにね」
「その通りです。死者に鞭打つようですが、リードは、結局楽な道を選んだのだと思います。
こつこつ働いて、分相応の暮らしをする気はなかった。能力を使って、騙したり脅したり、人を殺したりして大金をせしめ、楽な暮らしをする道をね」
「……僕には、助けてくれる人たちがいた。リードにはいなかったのかな」
「それは、エスカさまご自身が、引き寄せたものです。あなたも逆境においでだったのに、善意一筋に生きてこられた。
そういうお方の元には、自ずと人が集まるものですよ。
爺さんみたいなお説教をしてしまいましたね。とにかく、この件はご失念くださいますよう」
理屈通りにはいかない。エスカは携帯を手にしたまま、暫しソファにへたり込んでいた。
カラ元気を出して過ごしていた週末、アダが来た。農場とは、さほど縁がないという建て前のようだ。
しょっちゅう手伝いに行っているのは、知っている。
モリスとの繋がりがあるため、エスカも無碍にはできない。
「今回、モリスに援軍を頼んで、ヨアンナが来てくれただろ? それが、思いがけない結果を生んだ。
グウェンとヨアンナが、意気投合したんだ。
ふたりとも、生まれ育った所から離れて、ここに来た。同年配の友達がいなかったんだよ。
俺は全く気がつかなかった。申し訳なかったと思ってるよ。
それで、ヨアンナの休みに合わせて、グウェンも休みを取った。
ふたりでショッピングモールに行ったり、ランチしたりで、楽しんだってさ。モリスも喜んでいた」
エスカは、にこにこアダの話を聞いている。幸せな話は、何よりのご馳走だ。
「それでアルトスがな。シボレスで、エスカを見かけたと言っている」
「やっぱり見られてたんだ。退院する前の日だよ。買い出しに出かけた時。何人かの同級生らしい学生と一緒だった。
フィーが眠っている隙に出たんだよ。看護師さんにお願いはしておいたけど、フィーが目覚める前に帰りたかったから、急いでた」
「それでか。急いでいたみたいだから、声はかけなかったそうだ。
アルトスは、クラスメイトと一緒に、職場見学に行ったんだ。歌劇団をハシゴしたってさ」
「大学院の最終学年?」
「ああ。サイムスは、司法試験の準備で大変そうだぞ」
「皆さん頑張ってね〜」
エスカは手をひらひら振った。苦笑するアダ。
「それで先週末、マーカスが農場に来たんだ。運動させてくれとか言って。
イレが『お世話になって』とか礼を言っていたよ。神官資格云々の件だろう。
その後、いつもの調子でお茶しながら、みんなでわいわいやっていたんだ。マーカスとイレは、一緒にソファに座っていた。
俺は向かいに座ってたから、よく見えた。ふたりは時々目を合わせて、楽しそうに笑って寛いでいたよ」
エスカは、くすりと笑った。アダが身を乗り出す。
「そうなのか?」
頷くエスカ。
「この前、マーカスが別件で家に来た時にね。背後に、ぼんやりとイレらしき姿が見えた。
可能性があるとは、思ってたよ。ああ、よかった〜!」
「身近な人のことは、分からないんじゃなかったのか?」
「それがね。この前イシネスで、僕としては大技を使ったんだ。一週間断食してね。
そしたら、レベルアップしたみたいなんだよ。自分以外の人のことは、あらかた見えるようになった」
「それって、すごいことなんじゃないか?」
「うん。でも何かあった時以外は、誰にも言わないよ。未来は、その人の意思で変わるものだし」
アダは頷いた。
「マーカスとイレか。意外と言えば意外だが、お似合いに見えたな。
で、イレが農場に来た時、数ヶ月前だな。セダがイレの部屋をリフォームしたんだ。
ウリ・ジオン、エスカ、アルトス、セダとサイムスで、それぞれ次の間付きの角部屋だろ?
イレだけ、中部屋で寝室のみだったからな。隣の部屋とドアで繋げたんだよ。リビングにできるだろう。
イレは恐縮していたが、嬉しそうだったそうだ。あいつはタンツ時代、結構な給料をもらっていたはずだが、最初に借りたボロアパートにそのまま住んでいた。
面倒くさいだけだったかも知れんが」
「そのうち、マーカスと家具を買いに行くかもね」
ふたりで笑った。
「そうなるといいな。ところで、マーカスの別件の方は?」
「円満解決」
「そうか。で、あのふたりの破門の件だが」
エスカは、大笑いである。
「あのふたり、まだ気づいてないの? 修行が足りないね。
とっくに解除してるよ。霊力もね」
「おう、エスカ! 相変わらず性格悪いな」
と言いながら、アダはエスカに抱きついた。
「自分たちで気づくまで、内緒ってことでね」
「おう! そいつは愉快だ」
アダの性格も、良いとは言えないのではないか。気が合うと思ったら、同類だったようだ。
一週間ほどして、セダから連絡が来た。
「今、アルトスがそっちに向かってるぞ」
「え、なに?」
「『もう我慢できん』とか言って、飛び出して行った。厳かに破門取り消しを言い渡してやってくれ」
背後で、男たちの笑い声が聞こえる。
「みんな知ってるの?」
「実はアダから聞いた。知らないのは、アルトスだけだよ。
今回は、いや今回もか? 悪いのはアルトスだろう。お仕置きということで、内緒にしといた。知ったら激怒するだろうな〜」
「分かった。お互い芝居頑張ろうね〜」
面白いことになった。さて、アルトスはどんな顔で来るかな。エスカは、お茶の用意を始めた。
「やあ、久しぶり。元気にしてたか?」
何事もなかったかのように、けろりとしている。この男のことだから、そんなものだろう。
「おチビたちは?」
「お昼寝中だよ」
「おお。吹っ飛ばされずに済むな」
憶えていたか。
「美味い。喉が渇いてたんだ」
満足そうにお茶を飲み干す。
「近々ペニラが来るそうだ。散髪してもらいたいなら、ここまで出張してくれるってさ」
「ありがたい! ぜひお願いするよ」
エスカは、伸び放題の髪を、後ろで無造作に結んでいる。
「手に職があるって、いいね。僕、何にもできないから」
「なに言ってんだ。エスカは、何でもできるじゃないか」
「カマドの足しにならないことばかりね」
アルトスは、以前のように、なんの屈託もなく笑った。
「フィネスが幼稚園に行ける年になったら、働きに出るつもりだよ。僕世間知らずだから。
それでアルトス。就活してるんでしょ? ひとつ忠告いいかな」
「おう」
アルトスは、背筋を伸ばした。
「女の子とは全て手を切って、身辺整理をしておかないと。スキャンダルは命取りでしょ。
特に、堅い仕事に就こうと思ったらね」
アルトスは大きい目を見開き、エスカを凝視した。
「見えてるのか? アダに聞いたけど」
「幾つかの可能性のひとつだよ。選ぶのはアルトスだ」
アルトスは、深く頷いた。
「肝に銘じておくよ。ありがとうな。
それでイレだが。神学生の頃、イシネスの霊術の噂を聞いたと言うんだ。神殿繋がりで、シャバの者には聞けない話が聞けるわけだな。
それによると、最高の霊術として、イシネスには『神の手』というのがあると。
それがどういう術なのかは、誰も知らない。伝わっているのは『神の手』という言葉のみ」
エスカは息を飲んで、アルトスの次の言葉を待った。
「それを聞いて、ウリ・ジオン、サイムスと俺は、思わず顔を見合わせた。
それを、アダが見たらしい。セダに目配せしたのに、ウリ・ジオンが気づいた。
その晩、サイムスはセダにつつかれたそうだ。『何か知っているな』と。
サイムスは『墓場まで持って行く話だ』とその場を逃げたが、今後は自信がないと。
アダとセダには、話すしかないかな」
「うん。どのみち隠し切れないね。あのふたりなら、秘密は守ってくれるよね」
「分かった。イレはどうする?」
エスカは暫し考えた。
「イレは、マーカスに話すかな? そうなると、僕は殺人犯で逮捕?」
「ばぁか。証拠がないのに逮捕できるか。
単なるほら話か、誇大妄想狂の話だと思われるのが、オチだよ。
マーカスは、エスカの仕業だと確信するだろうが。エスカに不利なことをするはずがないよ。ジャスティス一辺倒の男じゃない」
「で、でも僕のこと軽蔑したりしない?」
アルトスは立ち上がると、エスカの隣に座った。エスカの肩を抱く。
「なんで、そんなに自分を否定するんだ」
エスカは、その手をやんわりと振り払った。
「僕を、何かと非難するヤツがいるからだよ!」
アルトスの顔から、血の気が引いた。
「悪かった。傷つけたなら、本当に申しわけない」
傷ついたに決まっとろうが。このあんぽんたん。
「イレに言われたんだ。俺は言い方がきついから、言われた方は責められたと思うって。エスカを責める気など、毛頭ないよ。
さて、目的は達したから、これで引き上げるとするか。お茶ご馳走さまな」
「え。何もしていないじゃないか」
目的って何だったの?
「何かシたいのは山々だが」
帰りかけたアルトスは、いたずらっぽい目でエスカを見た。この下ネタ男め。
「本当はな。消された霊術を戻してもらえるならとは、思っていた。でもな、門前払いも覚悟してたんだよ。
それが、前と同じに迎えてくれて、お茶まで出してくれた。大満足だよ。ありがとう。またな」
誠実なアルトス。エスカは胸が詰まった。
「素直でいい子だから、ご褒美ね」
背伸びをして、アルトスの唇に一瞬キスをした。
「エアカーに乗ったら、イレに交信してみて。今、ふたりとも解除した」
アルトスは、無言でエスカを抱き締めた。髪にキスをすると、くるりと踵を返し、走り出て行く。
直後、フィネスの声が聞こえた。おめざのようだ。
「危機一髪だったな」
エスカは携帯を取ると、セダに報告した。
「一件落着」
その翌日、セダから緊急連絡が来た。
「イレが、そっちに向かっている。例の『神の手』について、何か訊きたいそうなんだ。
アルトスから話を聞いて、深刻な顔をしていた。元神学生だからな。俺たちと違う考えがあるんだろう」
エスカはお茶の支度をして、イレを待った。しばらくすると、イレが忙しなげにやって来た。
「セダに時間をもらった。単刀直入に聞くぞ。『神の手』というのは、暗黒呪術だな?」
頷くエスカ。
「使ったのは二回のみで、間違いないな?」
「そう。もう誰も使えない。『幻の手』と言うのが正しいかもね。
イシネス女神殿の、代々の大巫女さましか使えない呪術だからだよ」
「だが、エスカは使った」
「大巫女さまが、お年を召して弱られたから、僕に託されたんだ」
「断われなかったのか?」
「断わっていたら、僕は今、ここにいないよ」
「……分かった。余計なことを言って悪かったな。
何度も使うと、いずれ自分に返って来ると聞いて、心配になってね」
「ありがとう。返るにしても、主犯に対してだよ。僕は単なる実行犯。と、思いたい。
女神殿には、もう霊術も呪術もできる大巫女さまは、いない。
今の大巫女マーナさまは優秀だけど、その力はないから。
例えばね。舞踊でも絵画でも、素人でも努力すれば、ある程度は上達するでしょ。それ以上は別の話になるけど。
ところが、霊力は全然違う。素質のない人がどんなに頑張っても、スタート地点から一歩も進まないのさ」
「……先代の大巫女が、エスカに『神の手』を託したということは、エスカを次期大巫女に任命したということではないのか?」
エスカは苦笑した。
「そう思ったけど、僕にはその気が全くないから、気づかない振りをしてたよ。
第一巫女さまと第二巫女さまも、とぼけていた。自分たちにその気があったからね。
イシネスに男女差別はないけど、年功序列は、きっちりあるんだ。
霊術ができるからと言って、順序を飛ばして高位の巫女の上に立つなんて、とんでもないことだよ。
でも、マーナさまのお考えは違う。僕に、大巫女の座を譲り渡したいとの仰せだ。実力のある者が、就くべきだと。
それで、しょっちゅうメールや電話が来る。無視すると、突撃訪問する可能性があるから、返事はするようにしているよ。
イシネスの情勢が耳に入るという、利点もあるしね。
それに、綺麗なイシネス語を聞けるのも嬉しいし」
「だが、もしエスカが大巫女になったら、『神の手』は『幻の手』ではなくなるわけだ」
「その可能性は、一ミリもなし」
イレは安堵の笑顔を見せて、立ち上がった。
「やっぱり、みんなのエスカだ。お茶ご馳走さま」
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