第11話

 夏の盛りが過ぎ、朝夕は涼やかな風が吹き始めた。エスカは、フィネスの入院の支度に余念がない。

 農場には頼めないので、留守の件はアダに相談した。入院は十日前後。 

 手術後の飛行機は、フィネスの体力を考えると避けたい。

 行き帰りともエアカーとなると、片道二日、往復で四日。予定通りいったとして、二週間は優にかかる。

 エスカは、フィネスに専念する。残るリトヴァとシウスは、まだ三才。連れて行くわけにはいかない。病院に泊めることはできないからだ。

 アダの出した案はこうだ。

 アダはその間、エスカ宅から商会に通う。

 イモジェンも、エスカ宅から通学する。

 問題は昼間である。グウェンはできるだけ協力はするが、二週間は厳しい。

 それで二週間の間、モリス宅のメイドに常駐してもらう。と決まった。

 モリスは、大はしゃぎである。何なら自分も、とか言い出しそうで、アダとエスカはひやひやした。

 どのみち、農場に連絡は行っているだろう。アダも、まるで農場と無関係とは言えないが、エスカは他に思いつかなかった。


 出発当日、モリスと共にメイドが来た。六十前後、グウェンと同年配の、品のいいイシネス人の女性である。

「助産師の資格のあるメイドです。信頼してくださって大丈夫ですよ」

 なぜ今さら助産師? モリスの目に、得意そうな色がある。

「ヨアンナと申します」

 ひと目エスカを見て、身体を二つに折る。自己紹介したきり、頭を上げない。

 不審に思っていると、ぽたりと涙が床に落ちた。

「エスカさまに、お話があるそうにございます」

 モリスが気を利かせ、リビングを出て行った。残されたエスカは、ヨアンナにソファを勧める。

「お見苦しいところを、お見せしてしまいました」 

 ヨアンナは、

涙を拭いて顔を上げた。グレーヘアが、端正な顔を縁どっている。

「わたくしは、前王妃陛下にお仕えしていた者でございます」

 エスカは「あっ」と声を上げた。

「保養地にも、王妃陛下のお供をさせていただきました。助産師の資格があるメイドということで」

 そこでヨアンナは、エスカを正面から見つめた。目に誇りがある。

「では、僕を取り上げてくださったのは」

「はい。わたくしでございます。その際、もうひとり若いメイドがおりました。

 ふたりで約束したのですよ。この秘密は、墓場まで持って行こうと。

 そのメイドは、数年前亡くなりました。その前日、急を聞いて駆けつけたわたくしに、苦しい息で喘ぐように申しました。『墓場まで』と。

 あなたさまを大巫女さまにお預けしたのは、わたくしでございます。王妃陛下の命令と言うより、お願いでございました。

 大巫女さまは、あなたさまをじっとご覧になり、快諾してくださったのです。

 その後、王妃陛下が、北の塔に幽閉された時、わたくし共以前からのメイドは、全て解雇されました。

 ですから、王妃陛下のご最期は、噂でしか存じません。もうひとりのメイドと一緒に、嘆き哀しみました。

 それを期に、わたくしは信仰を断ち切りましたの。

 それ以来、あなたさまのことは、殆ど耳に入ることはございませんでした。

 モリス男爵の事件が、明るみになるまではね。その後、シルデスにお渡りと聞きました。

 留学という名目でしたけれど、脱出というのが近いのではと、密かに推測していたのですよ。

 男爵家は、お父さまの代から、王妃陛下に同情的でございました。ですから、養子云々というのは、決して悪意のある話でないことは、察しておりましたが。

 あのような結果になり、胸を痛めておりました。

 わたくしは、その後長いこと、助産師として暮らしておりまして。

 モリスさまが、シルデスで働くメイドを募集しておいでと聞き、ダメ元で応募いたしました。

 同じ国にいるなら、いつかあなたさまにお会いできるかもと妄想しておりましたが、妄想ではなかったのですね!」

 モリスは調べただろう。大切な妻と子どもを託すのだから。そこで、思わぬお宝を掘り当てた。先程の得意そうな表情も、納得である。

「そのモリスさまでございますが。数年前のクーデターの際の功績で、貴族に復帰させるというお話を、固辞されたのはご存知でしたか?」

 エスカは頷いた。

「それが、今回のカルト集団一掃の件で、またそのお話が持ち上がりましたの。

 お受けすることになさったとか。商売にも、肩書きのある方が良いということでして」

 ヨアンナは、ころころと笑った。

「男爵さまから、伯爵さまになられます」

「それは嬉しい! 今回のことは、モリスの協力がなければ不可能でしたからね」

「それから、あなたさまのお身体と、手術を受けられるお子さまのお身体でございますが。

 わたくし助産師をしておりました時に、何人か同じ症例を見ました。

 珍しいことではございますが、決してないことではないのですよ。

 その子たちは、イシネスの医師に、適当な名目の診断書を書いてもらい、シルデスで手術を受けたはずです。

 その後帰国した人もいますし、そのまま、シルデスに留まった人たちもいるはずでございます」

「では、バチが当たって、こうなったのではないと?」

「罰だなんて、滅相もございません! 単に、遺伝と確率の問題でございます」

 エスカの目から、滂沱の涙が流れ落ちた。

 出発前、ヨアンナはフィネスを抱っこしてくれた。

「生きていて、よかった」

 そう呟くヨアンナを、モリスが満足そうに見ていた。


「男の子の方が、やや成育はいいですね。しかし、もし女の子をお望みなら、そちらも可能ですよ。

 性格としては、どちら向きとお思いですか?」

 プレイグ医師の目に笑いがある。全身から、喜びが湧き立っているかのようだ。

 再会した時、天井まで飛び上がりそうな勢いで、喜んでくれた。

 エスカは、ふたりのへぼシャーマンを壁に叩きつけた時の、フィネスを思い出した。

 口で言うより、手の方が早いタイプ。エスカの腕に抱かれたフィネスは、満足そうに眠っている。

「男の子ですね」

「ではそういうことで」

 プレイグは笑顔を見せて、立ち上がった。

「あなたは豊かになられた。患者さんの幸せな姿を見るのは、医師として無上の喜びです」

 エスカは、深々と一礼した。


 手術は順調に進んだ。フィネスは健康体で、他に問題はなかった。医師の腕も確か。

 それでもエスカは、手術の間中、祈っていた。プレイグの笑顔を見るまで、生きた心地がしなかった。

 術後、エスカはディルに報告した。

「手術は無事に終わったよ。フィネスは男の子になった」

 すぐに公爵と代わる。

「ありがとうエスカ。わたしの血を継ぐ者がいるなんて、望外の喜びだよ」

 電話の向こうで、カシュービアンとディルが、歓喜のダンスを踊っているのが、見えるようだった。

 今フィネスはベッドに横たわり、エスカに癒やしの術を施されている。

 麻酔が切れた後の痛みを、エスカが引き受けているのだ。

 ノックの音がして、看護師が入室して来た。六十代の端正な顔立ちの女性。黒い肌、濃い金髪。誰かに似ている。

 母親は看護師。

「看護師のドーラ・ハウエルです。こちらを担当させていただきますね。よろしくお願いします。フィーちゃん、お熱測りましょ」

 ハウエル、ハウゼン。なるほど。

 ベテラン看護師らしく、手際が良く、当たりが柔らかい。

 うつらうつらしていたフィネスは、笑顔を見せて、そのまま眠りに落ちた。

「僕、五、六年前にこの病院で手術受けたんですけど。その時、お会いしましたっけ?」

 ドーラはにこりと笑った。

「夫が、バイパス手術をこちらで受けた頃かしら? わたしお休みいただいてましたから」

 そういうことか。

「そうでしたか。その後、ご主人はお元気で?」

「はい。一病息災と申しますか。高校で、非常勤講師として働いています」

 明るい笑顔である。

 父親は教師。

「わたしもね、正規の職員として交替勤務はつらい年ですので、パートにしていただいてるんですよ」

 やるべきことをてきぱきとやり、ドーラはにこやかに退室した。

折りを見て、もう少し突っ込んでみよう。その機会は、予想より早くやってきた。

 フィネスは、順調に回復している。以前から甘ったれだったが、その傾向はさらに強くなった。

 赤ちゃん返りというものか。無理もない。母親をひとり占めして、ご満悦である。

 その様子を見たドーラは、可笑しそうに笑った。

「男の子の方が甘えますよね。わたしにも男の子がいたのですけど。

 めちゃめちゃ甘える子でしてね。わたし思ったものです。

『いずれ親から離れて行くから、今のうちに、その分甘えているのかも知れない』ってね。当たりました」

 この時だけ、ドーラの表情が曇った。

「会えなくなって、かれこれ十七年になります。シルデスにいるという噂を聞きましてね。

 同じ国にいれば会えるのではないかと、一家揃って引っ越したんですよ。

 まだ夢は叶いませんど、諦めてはいませんのよ」

 エスカは頷いた。

「お子さんは、おひとりで?」

「あと娘がふたり。息子のすぐ下の娘は、やはり看護師でしてね。中央病院に勤務しています」

「中央病院? 僕の知り合いが、中央病院で働いてますよ。ヘンリエッタ・パルツィという……」

 ドーラの顔が、ぱっと輝いた。

「パルツィ先生! 娘がお世話になってます!」

「この子を取り上げてくれたの、ヘンリエッタです」

「まあまあ! 世間は狭いものね!」

 一気にふたりは親密になった。ドーラは、はしゃいだ。

「末娘は、保育士なんですよ。ふたりとも、それぞれひとり暮らししてますけどね」

 妹がふたり。決まりだな。肌の色と濃い金髪、何よりも、広い額と整った鼻筋が物語っている。母親似でなければ、分からなかっただろう。

 ドーラが退室した後、エスカは携帯を取り出した。一度の着信で、イレは飛びつくように出た。

「エスカ!」

「イレ、お母さんが見つかったよ。電話番号教えていいかな?」

 数分で、ドーラは戻って来た。

「忘れ物しました!」

 なるほど、サイドテーブルにファイルがある。

「ミズ・ハウエル。イレが見つかりました」

 ぽかんとするドーラ。理解できないようだ。エスカは携帯を差し出した。

「イレの番号です。電話を待ってますよ」

 呆然自失状態の中で、それでもドーラは、ポケットから携帯を取り出す。番号を押そうとするが、手が震えている。

「僕が」

 エスカはドーラの携帯を受け取り、イレの番号を入力すると、持ち主に返した。

「あ、あ……あの」

 言葉にならない。

「母さん?」

 イレの震える声が聞こえる。ドーラは、携帯を耳に当てたまま、ベランダに出た。エスカは、霊術で自身の耳を閉じた。

 その夜、ヘンリエッタが訪ねて来た。

「もう! なんで連絡してくれないのよ! わたし、農場のメンバーじゃないでしょ!」

 笑いながら抱き締めてくれた。事情は聞いたようだ。

「リーズ・ハウエルから聞いたの。よく働く看護師よ。イレの妹さんだったなんて。見つけてくれたのね。さすがエスカ!」

「たまたまだよ。でもよかった」

「うん! よかったよかった」

 他人のことながら、ふたりは心から喜び合った。


 その週末、イレがシボレスに来ると言う。ドーラは嬉しそうに語った。

「ラヴェンナ料理を作ります」

 スキップしそうな足取りである。


 週明けに退院が決まったので、その前日、エスカは買い出しに出た。眠っているフィネスを、看護師に託して。

 車で二日かけて帰る。車中とモーテルで食べる食料が必要だ。病院の近くのマーケットで買い物を済ませ、フィネスの元に急ぐ。

 通りの向かいの歩道から、賑やかな声が聞こえて来た。五、六人の若者たち。学生だろうか。その集団の中に、見慣れた顔がある。

 背が高い上、あのオレンジ頭。隣の黒髪の愛らしい女性と手を繋いでいるのまで、見えた。

 エスカは、気づかぬ体で前を見たまま、歩を進めた。自然と足早になる。

 フィネスの手術は成功裡に終わり、経過も順調。毎日電話しているリトヴァとシウスも元気。

 これ以上、何を望むと言うのだ。今日は何も見なかった。


 退院の準備をしていると、ドーラが駆け込んで来た。

「え。勤務は午後からでは?」

「お礼に参りました」

 深々と頭を下げる。

「ありがとうございました。感謝の言葉もございません。滅多に泣かない夫が泣きました。

 やっぱりイレはいい子でした。ラヴェンナ料理をたくさん食べてくれて」

 農場のメンバーは、全員、大飯喰らいだもんね。さらに深く頭を下げ、ドーラは声を絞り出した。

「このようなこと、お願いできる立場ではございませんが……あの、どうか破門を赦してはいただけませんでしょうか」

 言葉遣いが明らかに変わっている。イレのお喋りめ。一体どこまで話したんだ。エスカは笑い出した。

「とっくに解除してますよ。でも僕意地悪だから、そのこと言ってないんです」

 そう。マーカスとの一夜の後、破門は取り消し、霊力は戻した。 

 エスカは、マーカスを解放した。同時に、マーカスもエスカを解放してくれたのだ。

 ドーラの目が歓喜に溢れた。

「で、では、本人たちがそう思い込んでいるだけと?」

 ドーラは爆笑した。

「思い込みって怖いよね」

 ふたりで笑う。

「承知いたしました。ではわたしも、今の話は聞かなかったことにいたします」

 そう言うと、ドーラは再度深々と、丁寧なお辞儀をした。

 来た時と同じモーテルで、一泊。

 エスカはタブレットを開き、プレイグ医師に、税金が掛からない程度の謝礼金を送った。

 さらに病院宛に、匿名で多額の寄付金も送った。

 翌日、車の中で、エスカはプレイグ医師からの電話を受けた。

「わたしの分は、ありがたく頂戴いたします。しかし、あの寄付金もあなたでしょう?」

「僕のポケットマネーです。お受け取りください」

 ありがとうございます。カシュービアンさま。

「つかぬことをお伺いしますが。あなたは、イシネスの王侯貴族にゆかりのある方で?」

「はい」

 嘘をつく気はない。プレイグの声が弾んだ。

「では遠慮なく、こちらも頂戴いたします。イシネスは大金持ちだそうですから」

 愉快そうな声。

「あのお金で、最新の医療機器が買えます。本当にありがとうございました」


 無事に帰宅した数日後、ディルから電話が来た。

「よくない報せです」

 胸の動悸が速まる。

「ヤン・リードが死にました。自死です。

 今日、判決が出る予定だったのです。『死刑』という判決を受けるには、誇りが許さなかったと、わたしは見ています。

 一応ご報告したまでです。エスカさまとは、一切関わりのないことですから。あの男の選んだ人生ですからね」

「……他の生き方もあっただろうにね」

「その通りです。死者に鞭打つようですが、リードは、結局楽な道を選んだのだと思います。

 こつこつ働いて、分相応の暮らしをする気はなかった。能力を使って、騙したり脅したり、人を殺したりして大金をせしめ、楽な暮らしをする道をね」

「……僕には、助けてくれる人たちがいた。リードにはいなかったのかな」

「それは、エスカさまご自身が、引き寄せたものです。あなたも逆境においでだったのに、善意一筋に生きてこられた。

 そういうお方の元には、自ずと人が集まるものですよ。

 爺さんみたいなお説教をしてしまいましたね。とにかく、この件はご失念くださいますよう」

 理屈通りにはいかない。エスカは携帯を手にしたまま、暫しソファにへたり込んでいた。


 カラ元気を出して過ごしていた週末、アダが来た。農場とは、さほど縁がないという建て前のようだ。

 しょっちゅう手伝いに行っているのは、知っている。

 モリスとの繋がりがあるため、エスカも無碍にはできない。

「今回、モリスに援軍を頼んで、ヨアンナが来てくれただろ? それが、思いがけない結果を生んだ。

 グウェンとヨアンナが、意気投合したんだ。

 ふたりとも、生まれ育った所から離れて、ここに来た。同年配の友達がいなかったんだよ。

 俺は全く気がつかなかった。申し訳なかったと思ってるよ。

 それで、ヨアンナの休みに合わせて、グウェンも休みを取った。 

 ふたりでショッピングモールに行ったり、ランチしたりで、楽しんだってさ。モリスも喜んでいた」

 エスカは、にこにこアダの話を聞いている。幸せな話は、何よりのご馳走だ。

「それでアルトスがな。シボレスで、エスカを見かけたと言っている」

「やっぱり見られてたんだ。退院する前の日だよ。買い出しに出かけた時。何人かの同級生らしい学生と一緒だった。

 フィーが眠っている隙に出たんだよ。看護師さんにお願いはしておいたけど、フィーが目覚める前に帰りたかったから、急いでた」

「それでか。急いでいたみたいだから、声はかけなかったそうだ。

 アルトスは、クラスメイトと一緒に、職場見学に行ったんだ。歌劇団をハシゴしたってさ」

「大学院の最終学年?」

「ああ。サイムスは、司法試験の準備で大変そうだぞ」

「皆さん頑張ってね〜」

 エスカは手をひらひら振った。苦笑するアダ。

「それで先週末、マーカスが農場に来たんだ。運動させてくれとか言って。

 イレが『お世話になって』とか礼を言っていたよ。神官資格云々の件だろう。

 その後、いつもの調子でお茶しながら、みんなでわいわいやっていたんだ。マーカスとイレは、一緒にソファに座っていた。

 俺は向かいに座ってたから、よく見えた。ふたりは時々目を合わせて、楽しそうに笑って寛いでいたよ」

 エスカは、くすりと笑った。アダが身を乗り出す。

「そうなのか?」

 頷くエスカ。

「この前、マーカスが別件で家に来た時にね。背後に、ぼんやりとイレらしき姿が見えた。

 可能性があるとは、思ってたよ。ああ、よかった〜!」

「身近な人のことは、分からないんじゃなかったのか?」

「それがね。この前イシネスで、僕としては大技を使ったんだ。一週間断食してね。

 そしたら、レベルアップしたみたいなんだよ。自分以外の人のことは、あらかた見えるようになった」

「それって、すごいことなんじゃないか?」

「うん。でも何かあった時以外は、誰にも言わないよ。未来は、その人の意思で変わるものだし」

 アダは頷いた。

「マーカスとイレか。意外と言えば意外だが、お似合いに見えたな。

 で、イレが農場に来た時、数ヶ月前だな。セダがイレの部屋をリフォームしたんだ。

 ウリ・ジオン、エスカ、アルトス、セダとサイムスで、それぞれ次の間付きの角部屋だろ? 

 イレだけ、中部屋で寝室のみだったからな。隣の部屋とドアで繋げたんだよ。リビングにできるだろう。

 イレは恐縮していたが、嬉しそうだったそうだ。あいつはタンツ時代、結構な給料をもらっていたはずだが、最初に借りたボロアパートにそのまま住んでいた。

  面倒くさいだけだったかも知れんが」

「そのうち、マーカスと家具を買いに行くかもね」

 ふたりで笑った。

「そうなるといいな。ところで、マーカスの別件の方は?」

「円満解決」

「そうか。で、あのふたりの破門の件だが」

 エスカは、大笑いである。

「あのふたり、まだ気づいてないの? 修行が足りないね。

 とっくに解除してるよ。霊力もね」

「おう、エスカ! 相変わらず性格悪いな」

 と言いながら、アダはエスカに抱きついた。

「自分たちで気づくまで、内緒ってことでね」

「おう! そいつは愉快だ」

 アダの性格も、良いとは言えないのではないか。気が合うと思ったら、同類だったようだ。


 一週間ほどして、セダから連絡が来た。

「今、アルトスがそっちに向かってるぞ」

「え、なに?」

「『もう我慢できん』とか言って、飛び出して行った。厳かに破門取り消しを言い渡してやってくれ」

 背後で、男たちの笑い声が聞こえる。

「みんな知ってるの?」

「実はアダから聞いた。知らないのは、アルトスだけだよ。

 今回は、いや今回もか? 悪いのはアルトスだろう。お仕置きということで、内緒にしといた。知ったら激怒するだろうな〜」

「分かった。お互い芝居頑張ろうね〜」

 面白いことになった。さて、アルトスはどんな顔で来るかな。エスカは、お茶の用意を始めた。

「やあ、久しぶり。元気にしてたか?」

 何事もなかったかのように、けろりとしている。この男のことだから、そんなものだろう。

「おチビたちは?」

「お昼寝中だよ」

「おお。吹っ飛ばされずに済むな」

 憶えていたか。

「美味い。喉が渇いてたんだ」

 満足そうにお茶を飲み干す。

「近々ペニラが来るそうだ。散髪してもらいたいなら、ここまで出張してくれるってさ」

「ありがたい! ぜひお願いするよ」

 エスカは、伸び放題の髪を、後ろで無造作に結んでいる。

「手に職があるって、いいね。僕、何にもできないから」

「なに言ってんだ。エスカは、何でもできるじゃないか」

「カマドの足しにならないことばかりね」

 アルトスは、以前のように、なんの屈託もなく笑った。

「フィネスが幼稚園に行ける年になったら、働きに出るつもりだよ。僕世間知らずだから。

 それでアルトス。就活してるんでしょ? ひとつ忠告いいかな」

「おう」

 アルトスは、背筋を伸ばした。

「女の子とは全て手を切って、身辺整理をしておかないと。スキャンダルは命取りでしょ。

 特に、堅い仕事に就こうと思ったらね」

 アルトスは大きい目を見開き、エスカを凝視した。

「見えてるのか? アダに聞いたけど」

「幾つかの可能性のひとつだよ。選ぶのはアルトスだ」

 アルトスは、深く頷いた。

「肝に銘じておくよ。ありがとうな。

 それでイレだが。神学生の頃、イシネスの霊術の噂を聞いたと言うんだ。神殿繋がりで、シャバの者には聞けない話が聞けるわけだな。

 それによると、最高の霊術として、イシネスには『神の手』というのがあると。

 それがどういう術なのかは、誰も知らない。伝わっているのは『神の手』という言葉のみ」

 エスカは息を飲んで、アルトスの次の言葉を待った。

「それを聞いて、ウリ・ジオン、サイムスと俺は、思わず顔を見合わせた。

 それを、アダが見たらしい。セダに目配せしたのに、ウリ・ジオンが気づいた。

 その晩、サイムスはセダにつつかれたそうだ。『何か知っているな』と。

 サイムスは『墓場まで持って行く話だ』とその場を逃げたが、今後は自信がないと。

 アダとセダには、話すしかないかな」

「うん。どのみち隠し切れないね。あのふたりなら、秘密は守ってくれるよね」

「分かった。イレはどうする?」

 エスカは暫し考えた。

「イレは、マーカスに話すかな? そうなると、僕は殺人犯で逮捕?」

「ばぁか。証拠がないのに逮捕できるか。

 単なるほら話か、誇大妄想狂の話だと思われるのが、オチだよ。

 マーカスは、エスカの仕業だと確信するだろうが。エスカに不利なことをするはずがないよ。ジャスティス一辺倒の男じゃない」

「で、でも僕のこと軽蔑したりしない?」

 アルトスは立ち上がると、エスカの隣に座った。エスカの肩を抱く。

「なんで、そんなに自分を否定するんだ」

 エスカは、その手をやんわりと振り払った。

「僕を、何かと非難するヤツがいるからだよ!」

 アルトスの顔から、血の気が引いた。

「悪かった。傷つけたなら、本当に申しわけない」

 傷ついたに決まっとろうが。このあんぽんたん。

「イレに言われたんだ。俺は言い方がきついから、言われた方は責められたと思うって。エスカを責める気など、毛頭ないよ。

 さて、目的は達したから、これで引き上げるとするか。お茶ご馳走さまな」

「え。何もしていないじゃないか」

 目的って何だったの? 

「何かシたいのは山々だが」

 帰りかけたアルトスは、いたずらっぽい目でエスカを見た。この下ネタ男め。

「本当はな。消された霊術を戻してもらえるならとは、思っていた。でもな、門前払いも覚悟してたんだよ。

 それが、前と同じに迎えてくれて、お茶まで出してくれた。大満足だよ。ありがとう。またな」

 誠実なアルトス。エスカは胸が詰まった。

「素直でいい子だから、ご褒美ね」

 背伸びをして、アルトスの唇に一瞬キスをした。

「エアカーに乗ったら、イレに交信してみて。今、ふたりとも解除した」

 アルトスは、無言でエスカを抱き締めた。髪にキスをすると、くるりと踵を返し、走り出て行く。

 直後、フィネスの声が聞こえた。おめざのようだ。

「危機一髪だったな」

 エスカは携帯を取ると、セダに報告した。

「一件落着」


 その翌日、セダから緊急連絡が来た。

「イレが、そっちに向かっている。例の『神の手』について、何か訊きたいそうなんだ。

 アルトスから話を聞いて、深刻な顔をしていた。元神学生だからな。俺たちと違う考えがあるんだろう」

 エスカはお茶の支度をして、イレを待った。しばらくすると、イレが忙しなげにやって来た。

「セダに時間をもらった。単刀直入に聞くぞ。『神の手』というのは、暗黒呪術だな?」

 頷くエスカ。

「使ったのは二回のみで、間違いないな?」

「そう。もう誰も使えない。『幻の手』と言うのが正しいかもね。

 イシネス女神殿の、代々の大巫女さましか使えない呪術だからだよ」

「だが、エスカは使った」

「大巫女さまが、お年を召して弱られたから、僕に託されたんだ」

「断われなかったのか?」

「断わっていたら、僕は今、ここにいないよ」

「……分かった。余計なことを言って悪かったな。

 何度も使うと、いずれ自分に返って来ると聞いて、心配になってね」

「ありがとう。返るにしても、主犯に対してだよ。僕は単なる実行犯。と、思いたい。

 女神殿には、もう霊術も呪術もできる大巫女さまは、いない。

 今の大巫女マーナさまは優秀だけど、その力はないから。

 例えばね。舞踊でも絵画でも、素人でも努力すれば、ある程度は上達するでしょ。それ以上は別の話になるけど。

 ところが、霊力は全然違う。素質のない人がどんなに頑張っても、スタート地点から一歩も進まないのさ」

「……先代の大巫女が、エスカに『神の手』を託したということは、エスカを次期大巫女に任命したということではないのか?」

 エスカは苦笑した。

「そう思ったけど、僕にはその気が全くないから、気づかない振りをしてたよ。

 第一巫女さまと第二巫女さまも、とぼけていた。自分たちにその気があったからね。

 イシネスに男女差別はないけど、年功序列は、きっちりあるんだ。

 霊術ができるからと言って、順序を飛ばして高位の巫女の上に立つなんて、とんでもないことだよ。

 でも、マーナさまのお考えは違う。僕に、大巫女の座を譲り渡したいとの仰せだ。実力のある者が、就くべきだと。

 それで、しょっちゅうメールや電話が来る。無視すると、突撃訪問する可能性があるから、返事はするようにしているよ。

 イシネスの情勢が耳に入るという、利点もあるしね。

 それに、綺麗なイシネス語を聞けるのも嬉しいし」

「だが、もしエスカが大巫女になったら、『神の手』は『幻の手』ではなくなるわけだ」

「その可能性は、一ミリもなし」

 イレは安堵の笑顔を見せて、立ち上がった。

「やっぱり、みんなのエスカだ。お茶ご馳走さま」






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