第10話

 アルトスとイレをお伴に、ヘリポートに到着したエスカは、目を丸くした。

 意気揚々のモリスが、待ち構えていたのだ。そりゃあ、ヘリの手配をモリスに頼みはした。他の手段がなかったからだ。

「イシネスのことならお任せあれ! なに、平気です。安全な場所から拝見させていただきます!」

 拝見って……イシネス人のパイロットが、笑いを堪えている。

 ウリ・ジオン経由で、タンツ商会のヘリを借りる案もあった。そうなると、当然会長の耳に入るはずだ。

 側近の口から、情報が漏れるかも知れない。それを軍警察が知ったら、えらいことになる。

 マーカスが『シルデス国民(エスカは一応シルデス人ということになっている)を支援する』などと言って、一個中隊を引き連れてイシネスに乗り込む事態は避けたい。

 何にでも手と口を出すラヴェンナも、マティアスが『元王子殿下をお助けせよ』と、近衛師団を率いてやって来る可能性もある。お祭り好きの兄弟。

 エスカは、陽気な近衛師団の面々が大好きなのだが、今それはナシ。

 二週間の船旅をする時間的ゆとりはないため、モリスに頼んだのだ。これ以上、事件が起きる前に片付けたい。

 と言うわけで、エスカは仲間たちと相談した結果、箝口令を敷くことにした。

 協力してくれているニルズには悪いが、事後報告にする。ニルズは人はいいが、少々口が軽い。

 エスカは当然、母の形見の短剣、アルトスは、ラヴェンナ王家から譲り受けた短剣(いいのか?)を携行している。

 元神官のイレは、武器を持たないため、モリスから店の展示品を借り受けた。国宝級の代物である。

「壊したらどうするんですか?」

「エスカさまのお役に立てるなら、かまいません」

 随分と太っ腹である。ヘリが離陸してから、緊張気味のふたりに、エスカはレクチャーした。

「親玉は僕がやる。子分は多分六人だから、ひとり三人ずつ相手してね。

 市井の、つまり一般人の霊能者たちだから、基礎から術を学んではいないだろう。

 見様見真似とか、知り合い同士のなあなあとか。長いことやってきたとしても、所詮烏合の衆だよ。

 ふたりは覚醒して日は浅いけど、基本をしっかり身につけているから、大丈夫だ。

 臆せず奢らず油断せず、自信をもって対処してほしい」

 ふたりは顔を見合わせて頷いた。

『以後は、交信で』

『了解』

 異口同音で返事が来た。


 イシネスは初冬だった。以前来た時も同じ季節だったのを、エスカは思い出した。

 厚着をしてきたはずのアルトスとイレは、ヘリが病院の屋上に着陸した際、身震いした。

 アルトスは二度目だが、イレにとって、この寒さは初体験だろう。

 裏口の非常階段を駆け降り、裏門に出る。モリス手配の車が待っていた。

 目的の民家までは十分ほど。その民家を遠巻きに、ディル率いる精鋭部隊が待機していた。

 ごく普通の民家。境界を示す低い石垣が、家の周囲を取り囲んでいる。

 ここイシネスでは、南部地方以外では、高い垣根は造らないのだ。雪の重みで潰されてしまうから。

「ヤン・リードと、男女合わせて六名。家人はおりません。何やら会議中のようです」

 ディルが報告してくれた。過度に緊張することも高揚することもなく、落ち着いている。

 公爵の副官をしてはいるが、ディル自身、自らも部下を持つ優れた軍人なのだ。

 見ると、石垣の周囲にバリヤーが張られている。範囲が広いから、バリヤーに厚みはない。

「部下たちに、石垣から少し距離を置くように言ってね。触ると痛い目みるよ。僕たちが攻撃開始するまで待機。

 それから、けっこう酷いことするけど、手も口も出さないこと。よろしく」

「承知しました。全て仰せのとおりに」

 ディルは会釈して、部下たちに何やら指示を出している。さて。エスカは、左右に陣取る助さん格さんに交信した。

『敵がバリヤーを取っ払うと同時に攻撃開始。僕はヤン・リードに専念するから、後はお願いね』

『分かった』

 こちらの動きは察知しているだろう。どうやって逃げ切るつもりか? 

 エスカは巫女ではなかったから、大した霊力はないはずだと思っているだろう。

 ヤン・リードは自身の力と経験で、エスカを抑えられると自信満々かも知れない。。

 エスカの血筋について、噂程度は知っているだろう。エスカを抑えれば楽勝だ。くらいの感覚か? それにしても油断は禁物。

 ややあって、ドアが開いた。六人の弟子らしき者たちが出て来る。男が四人、女が二人。

 六人の弟子たちは、真ん中の道を空け、恭しく頭を下げた。最後に登場したのが、ヤン・リードだろう。

 部下たちが普段着なのに、祝詞をあげる神官のような装い。こいつも目立ちたがりか。

 整った顔だちだが、卑しい印象を受ける。悪いことばかり考えて生きてきたのだろう。

 エスカには理解できないが、カリスマ的な面があるのかも知れない。話術が巧みとか。

「やっと来たか、女神殿の下僕よ。初めましてかな?」

 よく通る滑らかな声。女性信者が多いと思われる。

『俺は右の三人。イレは左の三人を頼む』

『了解』

 ふたりの交信が聞こえた。

 ヤンが瞬きひとつしないのは、交信を聞き取れないからだ。これは、ヤンの霊力が低いせいではない。

 エスカの交信の波長が、特殊だからだ。最初から、レベルの高い交信を教えている。

「父親の異なる子を三人も産むとは。さすが下僕。イヌ並みだな」

 怒らせて隙を狙う作戦か? ならばこちらも。

「あんたに言われたくないなヤン・リード。親子どんぶりしてた輩にさ」

 ヤンは大きく目を見開いたが、哄笑した。

「さすが元下僕。耳年増の小僧めが」

「お褒めに預かりまして。あのさ、教えてほしいんだけど。なんでマリンカに母親を殺させたのさ?」

 少し離れた所で、ディルが高性能のレコーダーを作動させているはずだ。

「はは。それくらいは教えてやってもいいかな。

 わたしが娘に手を出したと知って、ぎゃあぎゃあと煩く騒いだからだよ。マリンカは上手くやってくれた」

 殺人教唆か。

「なるほどね。そういうことを重ねて、出世してきたのか。でも僕の目には、惨めに物乞いをする子どもの姿が見えるんだけど。

 気持ちとしては、その頃と変わってないよね」

 ヤン・リードの取り繕った表情が一変した。正鵠を射たようだ。さっと右手を左右に引く。バリヤーを払ったのだ。同時に両手から空気弾のような物が放たれた。

 六人の手下たちが攻撃を始めるより早く、エスカの左右から電撃が走る。ディルの部下たちが前進した。

 エスカは、両手で空気弾を受け止めつつ、そのまま踏み留まる。数秒後、状況が一変した。

 攻撃していたヤンが、喉を掻きむしって苦しみ出した。自身の投げた弾が、跳ね返されて戻って来たのだ。

 エスカは、腰の短剣を素早く抜く。両手で、真っ直ぐ上に短剣を掲げた。そのまま、前方に切っ先を向ける。

 短剣から火球が発射された。ヤンに着火すると同時に、燃え広がる。凄まじい絶叫。

 ヤンが立ったまま、炎に包まれてもがき苦しんでいる様子が、見て取れた。

 火はさらに燃え広がった。電撃で麻痺して倒れ込んでいる弟子たちに飛び火する。

 思わず一歩前に出ようとする部下たちを、ディルが手で制した。 

 ヤンは立ったまま、弟子たちは地面に転がったまま、なす術なく、エスカの炎の攻撃に晒された。

 一瞬、エスカの脇をヤンの発した弾が走り抜けた。エスカは、構わず攻撃を続ける。

 やがて、弟子たちを襲っていた炎は、一気に消滅した。

 黒焦げの死体になっているはずの弟子たちは、衣服もそのままに地面に転がっている。さすがに失神はしているようだ。

 ヤン・リードを襲っていた火は、しばらく燃え続けた後、やはり自然消滅した。

エスカが、短剣をひと振りする。ヤンは崩れ落ちたが、やはり見た目、外傷はない。

 エスカは、大きく息を吐いた。

「霊力を焼いた。みんな普通の一般人になったよ。逮捕してください」

 ディルの合図で、部下たちが七人を拘束した。全員が失神しているから、運ぶのが大変かな。

 などとエスカが暢気に構えていると、突然、背後から眩い光が振り注いだ。

 光の正体を知ったエスカは、数歩下がりひざまづいた。右手を左胸に当て、深く頭を垂れる。

アルトスが続く。イレ、ディル、部下たちも同様の姿勢を取った。

『見事であった。我が子よ』

 聞き取れたのは、エスカだけだっただろう。光が消え、エスカは立ち上がった。

 少し離れた所でひざまづいていた男も、立ち上がったのが、視界に入る。

「カシュービアンさま!」

 エスカはよろけながら、公爵に向かって走った。公爵も大股で近づき、大きく両手を拡げてエスカを迎えた。

「カシュービアンさま! カシュービアンさま!」

 やみくもにしがみつくエスカ。

「よくやった。よくやったなエスカ」

 ふたりの間には、何人なんぴとも入り込めない。納得して、穏やかに微笑むディル。雪が舞い始めた。


 ラドレイのヘリポートについたのは、昼近かった。興奮気味のモリスに礼を言うと、三人はそれぞれ車に乗った。

 アルトスとイレは、エスカ宅に寄ってから、農場に報告に行くと言う。

 エスカの家では、グウェンがランチを用意して待っているからだ。

 イレは言わば初陣だったせいか、興奮醒めやらぬ様子である。アルトスは慣れてきてはいるが、結果が上々だったため、やはり気が昂ぶっているふうに見えた。。

 家に入った途端、一同は子どもたち、アスピシアとカエサルに大歓迎を受けた。

 グウェンがお玉を手に、キッチンから笑顔を覗かせる。

「もうすぐお昼ごはんだからね」

 一同がご機嫌で、テーブルに着こうとした時、エスカの携帯が鳴った。ニルズである。

「あ、そうだった」

 イシネスでの一件を、報告するつもりだったのだ。ニルズの興奮したような、狼狽したような声。

 エスカは、スピーカーにした。

「マリンカが死んだ」

 エスカ、アルトス、イレの三人は硬直した。

「死亡推定時刻は昨晩の二十二時から二十四時」

 時差からして、戦闘の真っ最中だろう。

「死因はまだ不明。緊急で司法解剖に回すことになった。

 ただ、点状出血とチアノーゼが見られることから、窒息死ではないかと」

 ヤン・リードのあの空気弾だ! エスカの脇をすり抜けて行ったあの弾。エスカの背に悪寒が走った。

「でもな、絞殺したような痕跡はどこにもないんだよ。そういう症状に、心当たりはあるか?」

「いや、全然。実はね、ついさっきイシネスから戻って来たところなんだ。

 あちらの霊媒師たちは、ほぼ逮捕したよ。後は洗脳された一般人たち。

 イシネスには多勢いるだろうけど、ラドレイには数人というところかな」

「そうか! 頑張ったな。署でも市で逮捕した男から、諸々聞き出しているんだ」

「ご迷惑をおかけします」

 ニルズは軽く笑って、通話を終えた。振り向くと、アルトスとイレが、青褪めてエスカを見ている。

 エスカは、ひとまずソファに腰を下ろした。一週間食を絶った後の戦闘。そしてヘリでの移動。体力は限界に近い。

 男たちも座る。

「マリンカが急死……不審死? あの戦闘の時さ。一瞬、奴が何か飛ばしたよな? まさかアレが……なぜ恋人を殺す?」

 声が震えるアルトス。

「詐病がバレて処刑されるより、いっそのこと自分の手で。ってところかな。それとも口封じとか」

「そこまでやるか?」

「やらなきゃ極悪人にはなれないでしょ」

「処刑って、ヤン・リードは、マリンカが詐病なのを知っていたとか?」

「詐病を唆したのは、ヤン・リードだよ」

 息を飲むふたり。

 「それにしても、イシネスからラドレイへ? そんなこと可能か?」

 とイレ。

「ああした術に、時間と空間は拘わらないんだよ」

 アルトスが、納得して頷いた。

「そういうことか! 以前、ラヴェンナの前王太子が亡くなった時、俺訊いたよな? シルデスに居て、ラヴェンナを攻撃することはできるか? と。

 お前は『できるけどしない』みたいな返事をした」

「でも、それって霊術と言うより呪術だろ? エスカ、呪術もできるのか?」 

「知らなければ防げないよ」

「そうか。あの飛んだ弾みたいなのは、最初にエスカを攻撃したヤツか? 返されて喉を掻きむしっていたな」

「そう。だから、僕を襲ったのが逸れたと思ったんだよ。あの火の攻撃を受けて、苦し紛れに放ったと。

 でも違った。あの状況で、正確にマリンカを狙って飛ばしたんだ。大した術者だったな」

「止められなかったのか?」

 アルトスは、単に疑問を口にしただけかも知れない。だがエスカは、その口調に非難の色を感じた。

「無理。僕は自分の闘いで精一杯。一瞬たりとも気を抜けない状況だった」

「でも、

弾が飛んで行くのは見えたんだよな?」

 とイレ。

「一瞬ね。でも対処するゆとりはなかったし、その気もなかった。

 気を緩めれば、僕の火焔が僕に返って来るからね」

 こんな不毛な話題、早く終わってほしい。いつの間にか、アスピシアとカエサルが、エスカの足元に来ていた。

「なんとかならなかったのか……」

 未練がましいアルトス。エスカは、顔色を変えて立ち上がった。そこへグウェンが割って入る。

「なんだね。いい大人が、か弱い女の子に難癖つけて!」

 アルトスは、脚を組んでソファにふんぞり返った。嘲笑っているふうに見える。

「はっ! か弱い女の子って、どこにいるんだ? 俺の目には」

 言いかけて、アルトスは弾けたように立ち上がった。イレも続く。

 アスピシアとカエサルが起き上がり、歯を剥き出して唸り声をあげたのだ。威嚇ではなかった。エスカの怒りを感じとったのだ。

 エスカは決して怒鳴らない。最高潮に達した怒りを、低い声に凝縮して、押し出した。

「あの者たちが、炎で苦しんでいるのは見たよね? 僕は、あれで精一杯だった。

 一歩間違えれば、僕も窒息死させられていたんだ。 僕が自分を犠牲にしてまで、マリンカを助ける義理がどこにある!」

 言いながら、自身の左二の腕をぽんと叩いた。アルトスの口が「あっ」と開く。

 思い出したか、うつけ者めが! 驚愕したイレがふたりを見比べた。

「そ、その傷って、そのバカ女が?」

 その時、既に席に着いていたシウスが椅子から滑り降りると、叫んだ。

「ママを虐めるヤツは帰れ!」

「アルパパもイレパパも、大っキライ!」

 リトヴァの涙は、周囲に飛び散る勢いである。フィネスが両足を踏ん張り、両手を前に突き出した。

 フィネスの手は、空を突いたのみ。だが、男たちの身体は吹っ飛び、壁に激突する。強かに背中を打ったようだ。

 かろうじて転倒は免れたが、一瞬息が止まったのだろう。ぜいぜいと喘いでいる。

 同時に、フィネスがわっと泣き出した。シウスが、リトヴァとフィネスを抱きしめる。ふたりを護る気のようだ。

 シウスは、父親よりずっとデキがいい。エスカは誇りを感じた。

エスカは、デキの悪い男たちに向き直った。

「今後、この家の敷居を跨ぐことは許さない。とっとと帰れ」

 言うと、さっと右手を横に払った。愕然とするふたりの男。

「……申し訳なかった」

 イレが、身体を二つに折って頭を下げた。アルトスは無言で会釈をし、出て行った。待ちわびたランチの匂いを背に。

 すっとグウェンが出て行く。エスカは、子どもたちを抱き締めた。

「かばってくれてありがとう」

 そして、二匹を撫でた。三人の子どもたちは、ぎゃいぎゃい泣きながら、エスカに縋りつく。

 グウェンが、笑いながら戻って来た。

「塩撒いてやったよ。それにしてもさ。紙パンの子にヤられるなんて」

 みんなで大笑いして、楽しいランチになった。


 グウェンは、翌朝帰って行った。アダが迎えに来たのだ。

 昨日のことは、耳に入っているに違いない。それでも、何も言わずに抱き締めてくれた。

 ホロ一家は、エスカの行動云々より、まずエスカを全面的に受け入れてくれる。ありがたかった。

 午後、ディルから連絡が入った。先日の礼を兼ねて、訊きたいことがあると言う。

「騎士たちが、騒いでいましてね。『美形の助さん格さんは何者だ』と。どこまで話したものでしょう?」

 面白がっている。

「オレンジ頭は、ラヴェンナの元王子アルトス。金髪は、ラヴェンナの元神官イレ。ということでよろしく」

「アルトス殿下は予想しておりましたが、あの男は神官でしたか! どうりで、一種独特の雰囲気がありましたね」

 うきうきしている。

「浮気はいけないよ」

「わたしでなく、公爵ですよ。興味を持たれたようで。

『浮気は許しません』と、一発かましておきました」

 堪らずエスカは吹き出す。

「カシュービアンさまにそんなこと言えるの、ディルだけだよ」

 ふたりで大いに笑った。それからエスカは、真顔になった。

「洗脳された人の中に、貴族がいるかも知れないね。王城で働く人とかも」

「そうなんです。ヤン・リード以外は、ぼちぼち話し始めましたから、慎重にことを進めるつもりです」

 ディル少佐は、頼れる男である。エスカの気持ちは、少し軽くなった。

 それに、公爵と上手くいっているようで、エスカは嬉しい。 


 その週末、サイムスがやって来た。セダの遣り手婆め。

「セダが来たいと言ったんだけど、強引に俺が来た」

 と、何事もなかったかのような笑顔を見せた。

 サイムスは、子どもたちを代わる代わる高い高いなどして、喜ばせた。

 こういう場面を見ると、父親は必要かも知れないと、エスカは感じる。いや、単に体力と腕力の問題だけなのだが。

「アルトスが悔しがってたよ。『紙パンのチビにヤられた』って。

 イレは『俺たちが、如何に未熟かってことだよ』と笑っていたけどな。

 イレは、苦労人のせいか、セダに似ているところがあるな」

「浮気は厳禁だよ」

「するはずないだろ」

 このカップルも大丈夫だな。

 だがエスカは、せっかくのホロのランチを三分の一しか食べられなかった。サイムスの心配そうな視線を感じる。

「胃が縮んじゃったみたいなんだ」

「ママはね、ちょっとしかご飯食べないの」

「そいで、ねんねばっかりしてるんだよ」

 口々に訴えるリトヴァとシウス。

「体力を消耗し過ぎたのか?」

 エスカは頷いた。

「時間が経てば回復するよ。さて、お昼寝の時間だね。

 ママは、サイパパと大切なお話があるからね。みんなはいい子してお昼寝。頼むよ」

 と、二匹に語りかける。リトヴァが、不安そうにサイムスを見上げた。

「サイパパは、ママを虐めたりしないよね?」

 サイムスは、衝撃を受けたようだ。あのふたりは、子どもたちの前で、母親を糾弾した。トラウマになっていないだろうな。

「そんなこと、するわけないだろう。安心してお昼寝……」

 次の瞬間、エスカが身動きした。

「伏せて!」

 咄嗟にサイムスは、手近にいたリトヴァを巻き込んで床に伏せた。エスカはフィネスを。一番窓の近くにいたシウスは、単独で伏せる。

 間一髪、銃弾が窓ガラスを突き破って、部屋を横断した。

「よし。みんなお利口だ。そのままハイハイして、サイパパのお腹の下に潜り込むんだ」

 リトヴァはそのままの位置、フィネスとシウスは高速ハイハイで、サイムスの腹の下に潜り込んだ。脇をアスピシアとカエサルが固める。

「うう。雛を守る母鳥の気分」 

 サイムスの呟きが聞こえて、こんな場面なのに、エスカの心は解れた。

 エスカは、素早くテーブルの携帯を手にする。這って窓際に近寄ると、そっと外を見た。

 前庭に三人、裏庭に二人。呼び出すと、ニルズは直ぐに出た。

「エスカだよ。襲われた。敵は五人」

 携帯を切り、考えを巡らす。おっつけ、ラドレイ署のエアパトが来るだろう。

 いつもながらのニルズの迅速な対応に、期待しよう。久しぶりに二箇所攻撃だな。

いでよ」

 エスカが足を踏ん張る間もなく、突風が周囲を襲った。轟音と共に家鳴り振動する。

「サイムス! 裏庭のふたりをお願い! 抵抗したら張り飛ばして!」

 と、粘着テープを投げる。

「おうっ!」

 テープを受け取ると、サイムスは嬉しそうに部屋を飛び出した。

「ねんねのお部屋に行っててね。お願い」

 と三人と二匹に言うと、エスカは粘着テープを手に前庭に飛び出した。

 予想通り、三人の男たちが転がっている。ひとりは仰向けに倒れ、意識がないようだ。脳震盪だろう。

 ひとりは顔面血塗れ。残るひとりは倒れる際顔を庇ったのか、手首が折れたらしい。

 猟銃一丁

と拳銃が二丁、転がっている。エスカはそれらを蹴飛ばし、ひとりずつ、テープで両手両足をぐるぐる巻きにした。

 三人目を巻き終える頃、サイムスがひとりを引きずって来た。片手に銃。

 ほいっと獲物を転がすと、残るひとりの元へ戻って行く。

 その間にエスカは、男たちの身体検査をした。ご丁寧に、全員ナイフを隠し持っている。

 サイムスが、残るひとりを引きずって来た。ふたりの被害者、いやさ襲撃者たちは、顔が派手に腫れている。

「正当防衛だよ」

 ご機嫌のサイムス。そこへ、エアパトのエンジン音が聞こえて来た。五台である。

「真っ昼間から襲撃とは、いい度胸だな」

 上機嫌で、ニルズが車から降りて来た。自分たちは戦わずに逮捕出来るのだから、当然と言えば当然である。

「あんたら金欠か? えらくショボい銃だな」

 警官のひとりが呆れて見せた。覗き込んだマローンが、大笑いする。

「ラッキーだったな。下手したら暴発していたぞ。骨折や打ち身どころじゃ済まないところだった」

 マローンは、サイムスを見てにやりと笑った。サイムスは素知らぬ顔をしている。

「さて、尋問室は満パイだな。遺体安置室でも借りるか」

 警官たちは、はしゃいでいる。ナイフを証拠品袋に入れている警官に、エスカは声をかけた。

「毒が塗ってあるかも知れないから、気をつけてね」

「なにっ!」

 ニルズは、鋭い目つきで五人の男たちを睨みつけた。

「完全に仕留めるつもりだったな。男たちが寄って集って、若い女性と子どもたちを……サイムスさんがいてくれたから、よかったものの」

 サイムスは、くすぐったそうである。

 ニルズは、ひと通りエスカとサイムスから事情を聞くと、引き上げた。

 一時間以内に、ガラス屋が来てくれることになった。

 エスカとサイムスは、エスカたちの寝室に避難する。三人と二匹は、安全になったのを知ったのか、全員お昼寝をしていた。

「エスカ。お前、あのおチビたちに、避難訓練でも躾けてるのか?」

「そう。さっきの状況見たでしょ。僕の子に産まれたばっかりに」

 いくら詫びても足りない。

「エスカさ。ホントは、イシネスにあのふたりを連れて行かなくても、ひとりで対処できたんじゃないか?」

 今の戦闘を見て、感じるところがあったようだ。エスカは、困ったような笑みを浮かべた。

「イレに、実戦を体験させておきたかったんだよ。イレだけ誘うと、元殿下がうるさいと思って、ふたり連れてったんだけどね。

 こんなに抉れるなんて、失敗だったな」

「あのな。イレは、他人を批判したりしない男だ。一緒に暮らして、それがよく分かった。

 だから今回のことは、アルトスが主体だったんじゃないか? それで、セダがイレに突っ込んでみた。アルトスの居ない所でな。

 そしたら、帰りのヘリの中で、アルトスはカラ元気を出しているふうに見えたとさ。気づいたか?」

「僕、ずっと眠ってて」

「そうか。で、これはイレの推測だが。お前、公爵と抱きあったって? 

 第三者が、一ミリたりとも入り込む余地のないような抱擁だったと。それが、

ショックだったんだと思うと言っていた」

「何を今さら。僕にとって、カシュービアンさまは特別なお方だよ」

「知識として知っているのと、実際に見るのとは違うだろう。

 元神官さんが言うには『男女の愛やら恋やらとは、次元の違うオーラがあった。言わば魂の結びつきみたいな感じだった』と。

 イレは、アルトスに『恋が下手なんだな』とも言った。

『お前が言うか』とセダが吹き出したんだ。それでみんな一緒に笑ったよ。

 イレは、完全に振っ切れたな。エスカに感謝していた」

 エスカは頷いた。と同時に、ひょっとして、案外ヴィットリアもイレに本気だったのかも知れないと、ふと思った。

「それはそうとね。イシネスが片づいたら、マリンカをヤるつもりではいたんだよ。これだけは仕方がない」

 お茶しながらする話ではないが、気を鎮めるために、ふたりはお茶を飲んだ。

「マリンカが、イシネスで精神鑑定を受けたのは、誤魔化せると思ったからだろうね。

 刑務所の医療病棟は、監視が緩い。脱獄のチャンスはあると、言い聞かされたのかも。

 セイン元伯爵の隠し金は、たっぷりあっただろうし。それを医師たちにバラ撒いたんだ。

 でも、シルデスで鑑定を受けることになって、危機感を覚えたのかも知れない。

 金も減ってきているし、鑑定方法がまるで違うかも知れない。

 結果を待たずに、逃げ出す可能性があった。そしたらどうなる? 

 僕の関係者を、次々に消して行く。僕を最大限苦しめて、最後は僕、という計算かな。

 空港で、マーカスが狙われた時のことを考えてみてよ。

 乗客たちを巻き込むことなんて、歯牙にもかけなかったでしょ。

 これ以上の惨事を防ぐには、僕が動くしかないと思ったんだよ。 

 証拠は何ひとつ残さず、完全犯罪をやってのけられるしね」

「手間が省けたな」

 陽気な口調で、サイムスが言った。将来の検事の言うことか。

 だが、人を責めないサイムスの人柄に、エスカは心からの安堵を覚えた。

「それでなエスカ。アルトスとイレの霊力奪ったのか? 交信すらできなくなったと言って、狼狽えていたぞ」

「当然。破門したんだから」

「破門!」 

 サイムスは驚愕した。

「師匠を能力不足と糾弾したんだよ。それも子どもたちの前で。

 少なくとも、リトヴァにはトラウマになったの、分かったでしょ」

 サイムスは頭を抱えた。

「もっと優秀な師匠を見つけて、入門するんだね」

 言い放って、エスカはお茶を飲んだ。

「エスカより優秀な師匠なんているもんか」

「掃いて捨てるほどいるでしょ。ヤン・リードだって、僕が知ったの十日前だよ。

 だから、他にもいると考えるのが自然でしょ。

 ヤン・リードは、ほんとに優れた術者だった。神学校に行くお金があって、ちゃんと教育を受けられたら、立派な神官になれただろうに。残念だよ。

 公爵たちが、奨学金や貧困層の救済に取り組んでくださっているから、少しずつでも、いい方向に向かって行くことを期待してるんだ」

「でも、エスカだって酷い境遇だったのに、グレなかったじゃないか」

「僕が道を踏み外したとして、一番不幸になるの、僕だよ? 

 イシネスを出る時に、僕決めたんだ。これから先、どこで暮らすことになっても、イシネス時代より幸せになるって。

 僕、今幸せだよ」

 と、エスカは、眠っている三人と二匹を見た。サイムスは、なぜか少しつらそうだった。

「でもエスカ。ここも危険なんじゃないか?」

「もう行く所がない。ここで迎え撃つよ」

 サイムスを送り出しながら、エスカは思いきって言った。

「これまでに散々お世話になったのに、こんなこと、ホントに罰当たりだと思うけど。

 僕たちのこと、ほっといてほしいんだ。静かに暮らしたい」

 サイムスは無言で頷き、項垂れた。気の毒になったエスカは、特別サービスをすることにした。 

「絶対に内緒にしてほしいんだけど。あのふたりの霊力ね、奪ったんじゃないんだ。一時的に封印しただけ。だから、いずれ折りをみて解除しようかと」

「エスカ! 愛してる!」

 渾身の力で、サイムスはエスカを抱き締め、キス攻めにした。


 三日後の夜、ディルから緊急連絡が入った。

「ヤン・リードが毒殺されそうになりました」

 エスカは絶句した。

「セイン元伯爵とは、縁が切れていなかったようです。以前、伯爵家で執事をしていた男が差し入れにチョコレートを持ってきました。

 ヤン・リードが逮捕されてから、こちらも用心しましてね。本人に渡す前に、鑑識に調べてもらいました。人気の店の品で、以前から、リードはそれが大好物だと明言していたそうです。

 十二個入りのお洒落なチョコレートでね。そのひとつが毒入りでした。

 死後解剖しても、痕跡の残らない種類の毒だそうです。

 いつそれを口にするかは分からないまでも、数日中には食べる。残った物を調べても異状はない。よく考えたもんです。

 それで、販売店を調べました。何と、購入したのは、リード逮捕の数日前ということでした。

 元執事を追求したら、『リードが逮捕されたら、差し入れしてやってくれ』と元伯爵に渡されたと。

 それで、現在元伯爵は面会禁止、一日一度許可されていた電話も禁止。通信手段を全て奪われ、独房入りです。『何も知らない』と、抗議しているとか。

 リードは、逮捕されたら差し入れしてほしいと、周囲の者に頼んでいたようです。

『差し入れはありませんか』などと、看守に尋ねていたのを、目撃した者もいますよ」

 エスカは首を傾げた。あっさり毒殺されるようなタマか? 

「そうなると、主犯はセイン元伯爵で、リードは雇われて命令を聞いただけってこと? 

 用が済んだから、口封じされそうになったというストーリー?」

「違うので?」

「可能性だよ。主犯でないなら、死刑は免れるかもとか。それなら脱獄のチャンスもあるしね。

 ひとつ、試してほしいんだけど。同じ物を買って、その執事から差し入れしてもらってよ。

 ただし毒ナシ。この前のチョコレートの件を、ヤンは知らないでしょ?

 執事は信者かも知れない。元伯爵の命令というのは嘘かも知れない。その辺も考慮に入れてね。

 リードは、まさか霊力を奪われたとは気づいていないだろう。霊力があれば、毒入りのは分かると思っているハズ。

 だから、安全なのをひとつふたつ食べて、後は看守にお裾分け。ってところかな。看守が死んだって、意に介さないしね。

 ところが、毒の入っていないチョコレートの箱。仮に霊力があっても、区別がつかない。

 怖くて食べられないと思うよ。死ぬ気なんてないんだから。全て看守さんにプレゼントになるね」

「そうか! そのチョコレートを食べるかどうかですね」

 ディルの声が弾んだ。


 四、五日後の午後、突然マーカスから電話が来た。

「これから行く。泊めてもらうよ。別件でね。夕食は持っていくから」

 返事を待たず、電話は切れた。エスカはパニックに陥った。

「突然なんなんだよ! ああどうしよう。どんな顔して会ったらいいんだろう? 別件て、ナニ?」

 まぁ、マーカスは農場関係者かどうかは、微妙なところではあるが。 

 そこへまた電話。今度はディルである。

「執事を逮捕しました」

「どういうこと?」

「リードを元伯爵に紹介したのは、執事ですよ。前々から信者だったようです。

 元伯爵がリードを追い払った時、執事も解雇されています。

 マリンカが、エスカに大怪我をさせ、元伯爵が逮捕された時ですが。

 その際の調べで、夫人がリードと密会を重ねていたことが発覚。元伯爵は、怒り心頭だったことでしょう。

 逮捕後、執事は、何度も元伯爵に面会を申し込んでいたそうです。しかし元伯爵は拒否。あまりにしつこいので、一度だけ応じたそうです。

 その様子が、監視カメラに映っていましてね。元伯爵が執事に何か頼む雰囲気ではなく、怒りの表情でひと言言っただけで、面会は終了。

 だがこれで、執事が元伯爵と面会した事実は、あったことになりました。何年も前から、計画は進められていたんですね。

 チョコレートですが、リードは食べませんでした。一緒に逮捕された弟子たちとは、隔離されています。口裏を合わせられないようにね。

 逮捕された時の連絡方法は、いわゆる交信ですか。それを使えばいいので、特に不安はなかったと、弟子のひとりが白状したんです。 

 訊問で『最初に真実を話した者の刑を軽くする』と言ったのが効きました。

 交信はできないわ、チョコレートは見破れないわで、ようやく霊力がなくなったことに、リードは気づいたようです。

 気の毒なほど落ち込んでいるそうで。それで、エスカさまにお会いしたいと懇願しているそうですが、どうなさいます?」

 エスカは、ぷるぷると頭を振った。

「無視」

 情が移ると困る。

「分かりました。では、着々と裁判に向けて進めます。ようやく一件落着ですね」

 エスカは、礼を述べて電話を切った。ヤン・リードは、裁判を受ける気があるだろうか? 

 それ以前に……エスカは、思考を停止することにした。本当に、これでジ・エンドなのだろうか。

 夕刻、マーカスは何事もなかったかのように、以前と同じ態度でやって来た。子どもたちに大歓迎され、ご満悦の体である。

「マーパパは、ママを虐めたりしないからな」

 ははぁ。全部知ってるな。

「農場に寄って来たんだ。シボレスで会議があって、土産のチョコレートを渡して来た。

 おチビちゃんたちには、お子さま向けのケーキだよ」

 食事中、マーカスが、さり気なくエスカを観察している。気づいたエスカは、頑張って食べようとしたが、所詮無理なものは無理。

 別件は、子どもたちを寝かしつけた後になるだろう。

「お風呂に入れて、寝かしつけてくるから。適当にお茶でも飲んでて。

 あ、部屋は階段上って左の突き当たり使ってね」

 エスカは、パジャマの上に部屋着を羽織って、リビングのドアを開けた。

 大切な話なら、この姿では失礼かも知れない。面倒くさいからいいや、くらいの気持ちだったが、ソファに座っているマーカスも同様だったので、ひとまず安心する。

 マーカスがお茶を淹れてくれた。

「わぁ! マーカスのお茶久しぶり!」

 お茶好きのマーカスは、淹れるのも上手い。エスカがお茶を味わう姿を見て、マーカスは得意そうである。

「数多くある、わたしの長所のひとつだよ」

 エスカは可笑しくて堪らない。血が繋がっていなくても、こういうところは、アルトスに似ている。

「さて」

 エスカがお茶を飲み終えるのを見て、マーカスは切り出した。

「申し訳なかった」

 いきなり頭を下げられて、エスカは困惑した。

「礼を言うべきところだったが、恥ずかしくてな」

 別件ってそれか! どうしよう! 平静を装っているものの、エスカは、内心パニックである。

「あのキスの後、黙って引き上げたのはだな。つまりあの時、わたしは、いわゆる欲情したんだ」

 え? そんなに直ぐ効果があったの?

「産まれて初めての経験だったから、すっかり狼狽えてしまった。帰宅してよく考えたよ。一過性の状態かも知れないと。それで様子を見ることにしたのさ。

 エスカに相談しようかとも思ったが、プライドに負けた」

 エスカは力が抜けた。

「いつから気づいていた?」

「あのキスの時。それで、僕に気づかれたから、マーカスが傷ついてると思ったんだ。

 それで、嫌われたと思って、つらかった」

 エスカは、切れ切れに言葉を紡いだ。

「なんで、わたしがエスカを嫌うんだ。感謝してるんだよ。ただ、少し問題があってな」

 エスカは、涙目でマーカスを見た。

「一過性ではなかった。だが、エスカのことを思う時、限定なんだ」

 きょとんとするエスカ。

「僕って、そんなにセクシー?」

 マーカスは涙を流して笑った。無礼者め。

「それでな。やはりここは、思いきって玉砕しないと、前に進めないと分かった」

 あ、ヘンリエッタの言ってた『高望みのひと』ね。

「で、玉砕しに来た」

 目をぱちくりするエスカ。マーカスは、エスカの隣に移動して来た。

「玉砕しても、お互い気まずくなりたくない。以前みたいに、友達でいてほしい」

「な、なんのこと? 僕にはさっぱり」

「鈍い女だな」

 マーカスの顔が近づく。 

「ヘンリエッタの言ってた高望みのひとって、その」

「エスカ以外に居ないだろう!」

「僕が? 冗談にもほどが……」

「身分が違い過ぎるだろ」

 マーカスの唇が迫る。

「待ってよ! 玉砕するのに、泊まるつもりで来たの?」

「夜、暗い中をしょんぼり帰るのは、嫌だったんだ。それでは、再出発するのにショボい。

 朝日を浴びて、意気揚々と帰りたいと思ってな」

 高校生か!

「予定変更かもね。僕、マーカスを拒む気はないよ。最初で最後だけど。それで、お互い再出発しよう」

「まずい! 玉砕しなかった場合のことは、想定していなかった」

 マーカスは、軽く笑うとエスカにキスをした。それから肩を抱えて、エスカを立ち上がらせた。ふたりは寄り添いながら、階段を上って行った。


 翌朝、エスカはいつも通り、朝食の支度をしていた。明らかに睡眠不足のはずなのに、なぜか体調が頗る良い。絶好調と言ってもいい位だ。

 イシネスから帰って以来、身体の奥底に澱んでいた重苦しいものが、きれいさっぱり流されたような気がする。

 マーカスと愛を交わしたことが、癒やしになったのだろうか。窓の外を見る。

 マッサージを終えた二匹が、元気に走り回っている。生活は、日常に戻った。

 マーカスがキッチンを覗く。

「おはよう」

 エスカに近づき、キスをする。新婚さんみたいで、くすぐったい。

「早起きして大丈夫か? わたしは、なぜか気力体力共に充実しているんだ。疲れているはずなのにな」

「頑張ったもんね」

「あ、こいつ!」

 ふたりは笑い転げた。

「楽しかったな」

「うん! 楽しかったね」

 エスカは、マーカスの全身を舐めるように見た。マーカスが怯む。

「もう大丈夫だよマーカス。今後は、誰とでもオーケーだ」

「治療したのか?」

「いや。副産物みたいなものだよ。あのキスの後と似たようなもの。

 それに、力が漲っている気がするでしょ。僕もなんだ。ありがとうマーカス」

 マーカスは、エスカを強く強く抱き締めた。

「それなのに、終わり?」

「終わらないと、次に進めないでしょ。マーカスには、他の人が現れるはずだよ」

 エスカの目に、ぼんやりとその人の輪郭が見えた。

「最後にひとつ、教えてくれ。イシネスで使ったという技の名は?」

「『火だるま』」

 マーカスは、我が意を得たりとばかりに、会心の笑顔を見せた。

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