第9話

 十日ほどして、アルトスが嬉々としてやって来た。エアカーは、以前エスカが乗っていた小型車である。よほど気に入っているらしい。

 週日は朝登校、帰宅後、エスカの手抜き料理を嬉しそうに完食。

 エスカが、子どもたちを寝かしつけている間に、防音室で歌の練習。

 訓練はその後になるから、終わるのは深夜になる。それでもアルトスは、心底楽しそうだった。

 週末は、いつも通り農場に行く。それも気分転換になるようだ。

 アルトスの温かさは、美貌の陰に隠れて見えづらい。それがよく分かるエスカは、アルトスと共に暮らして、満たされているのだった。

 日曜の夕方、アルトスは農場から早目に引き上げて来た。

「今夜の訓練休んでいいか? ウリ・ジオンとアダもいて、全員集合だっんだ。いろいろ話があって」

 訓練の時間は、ふたりのティータイムとなった。

「ヴィットリアの実妹の双子の子たちのことは、聞いてるよな? 伝書バトやってくれてる子たちだ。

 むろん、ラヴェンナ側にも、こちらの情報は伝えているだろうから、言葉には気をつけているさ。

 それでその女の子の方から、ウリ・ジオンに嫁話が来た」

 アルトスは、面白がっているようだ。

「え、それって、いとこ同士じゃないの? ラヴェンナでは、いとこ同士の結婚は、禁止されてるんじゃなかったっけ?」

「それは置いといて、まずその縁談な。何で王族や貴族でなくて、シルデスの商人に目をつけたのか。

 目的は金のようだ。ヴィットリアが好き放題やっていると聞いて、羨ましくなったと。説明してやったよ。

 そのヴィットリアは、やり過ぎて追放されたも同然。

 今やウリ・ジオンは、父親の愛人の息子が、一人前になるまでのつなぎに過ぎない。平均より、ちょっと高めの給料をもらっている会社員、といったところだよ。

 狙うならその愛人の息子だな。優秀だそうだ。将来は、天下のタンツ商会会長だぞ。

 年は二つ三つ若いかもだが、問題はないだろう。それにいとこでもない。と、諭しておいたよ」

「それなら、ウリ・ジオンは無事だね。あのおっかない婆さんの家系には、関わらない方がいい」

 アルトスは苦笑した。が、表情を改めた。

「その後で、クリステル陛下から連絡があった。話を聞いて、ウリ・ジオンについて、調べたそうだ。

『子どもがいるというのは、本当か?』と。

『あの縁談は消滅するんだから、それは関係ないでしょう。ウリ・ジオンは、陛下もよくご存知のシェトゥーニャ(わたしの姉のね)

と駆け落ち同然で、家を出た。

 なのに、結局別れてしまったんですよ。

 意気消沈して、まだ完全には立ち直っていないんです。傷つけるようなことは、慎んでいただきたい』

『もちろん、普通ならそうだがな。その子どもを産んだのが、エスカだと聞いたのだ。

 エスカは、アルトスの子を産んだのではなかったのか。どちらが本当なのだ?』

 どちらも本当ですとは言えず、俺は黙りこんでしまった」

「陛下と僕は、他人だと言っているのに。何でそうこだわるかな」

「俺もそう申し上げたよ。そしたらこうだ。

『わたしは、異様にカンがいいのだ。これまでに外したことはない。

 例え身に覚えがなくても、エスカはわたしの子だよ。だから、せめて見守りたい』

 めちゃくちゃだよな。え?」

 エスカは硬直した。そうだったのか。やっと腑に落ちた。

「あの。ちょっと長くなるけど、聞いてもらえる?」

 頷くアルトス。

「イレと暮らしている時、聞いたんだけど。イレの家族で霊力のあるのは、イレだけだったんだって。

 でも何代か前に、霊力のある人がいたそうなんだよ。だからイレは、言わば先祖返りってヤツ」

「クリステルが先祖返りってか? どこで混じったんだ? 母方は、代々貴族だぞ?」

「王族や貴族に、占いに凝る人いるでしょ。それで専属呪術師を雇うとか。

 何代か前に雇ったその呪術師が、魅力的な男性だったら?」

「おいおい。また父親疑惑か? だがそりゃ、あり得るな。それでクリステルが」

「いや。それにしては弱すぎるよ。先祖返りは、僕だと思う」

 驚愕するアルトス。

「エスカが呪術師……まさかそんな」

「ラヴェンナ、つまり父親側ではね。イシネスでは、正統派の母親由来のシャーマンだよ。

 どうりで大巫女さまが、時々呟かれておられたわけだ。『この子は何か混じってる』って。

 僕は、ラヴェンナとイシネスの血のことかと思っていた。呪術師っぽい側面が、見え隠れしていたのだろう。

 アルトスの霊力が、母方だけにしては強いと感じたのが、父親疑惑の、そもそもの始まりだったのにね。

 僕も、母方だけではないことに、全く気づかなかった。

 イレの話を聞いた時は、まるで他人事だったし。自分のことは分からないって、本当だね。

 気づかせてくれたクリステル様々だね。ちょっと何か教えてみたい気もするな」

「やめてくれ〜! これ以上ややこしくするなよ」

「はは。それでね。イレを訓練してみたら、シャーマンというより呪術師の要素が強いんだ。

 アルトスは砂漠の民だから、どちらかと言えば、やはり呪術師に近い。

 ふたりとも、傾向が違う霊術をよく覚えてくれた。大変だったと思うよ。

 今まで基本を教える時は、ふたりとも同じだったけど、これから先は、少し変えていこうと思うんだ。

 アルトスは戦闘系、イレは治癒系が強い。違うことをやっても、気にしないでね」

「わかった。任せるよ。それでウリ・ジオンだが。やっぱり大変みたいだ。

 痩せたってさ。よく眠れていないようだ。あの温厚なアダが、ぶりぶり怒っている。

 ラドレイ支社には、魔女号の元クルーが結構いるんだってさ。彼らは、身元も人物も折り紙付きだ。

 当然、ウリ・ジオンが来てくれて、大歓迎してくれた。

 先代船長であり、支社長でもあるイレが、セダの農場にいることも、喜んでくれたそうだ。

 だが、反対派もいるわけだ。『追い出された身で、のこのこと戻って来るとは。プライドはないのか。そんなに金と地位が欲しいのか』とね」

 エスカは、息を飲んだ。そういう見方もあるのか。

「だから、ウリ・ジオンに向けられているのは、敵意というより軽蔑だよ。

 ウリ・ジオンは、ミズ・コッタンの息子たちの成長を待たずとも、自分より適任の人材がいるなら、いつでも身を引くつもりでいるんだ。

 だが、そうそういるものじゃない。それにアダの見たところ、会長は、ウリ・ジオンを手放す気はないようだ。

能力は十分だし、長いこと親子として過ごしてきたから、情もあるだろうし」

 エスカは考え込んだ。

「ミズ・コッタンの息子さんたちね。確かに優秀だし、人柄もいい」

「分かるのか?」

「おぼろげながらね。でも、トップに立つのは、違うと思う。重役とか参謀とかの方が、力を発揮するタイプ。

 ウリ・ジオンには、なんて言うか……華があるでしょ」

「カリスマ性か?」

「それ。でね。この訓練が終わったら、ウリ・ジオンに来て欲しいんだ。

 一週間ほど、ここから出社する感じで。少し楽にしてあげられると思うよ」

「おおっ! 頼むぞ!」

 大感激のアルトスである。


 アルトスが、想定以上の訓練の成果を上げて引き上げた三日後、ウリ・ジオンが来た。平日の夜八時過ぎである。

「残業は、早めに切り上げることにしたよ。僕がいつまでも仕事してると、部下たちが気をつかうってさ。家でやることにしたよ」

 などと言いながら、夕食を頰張る。なるほど、少し痩せたせいか、やつれて見える。

 覚悟をして行ったのだろうが、想定外の厳しさだったのだろう。

「寝る前に呼んでね。熟睡できるお呪いするから。わざわざ呼びに来なくても、小さな声で呼ぶだけでいい」

「分かった。でも遅くなるよ」

「かまわない」

 深夜、ウリ・ジオンが遠慮がちに呼んだ。

 眠っていたエスカは瞬時に目覚め、二階のウリ・ジオンの部屋に行く。

 ウリ・ジオンは、ベッドに座っていた。エスカはベッドに上がって、ウリ・ジオンの後ろに回る。額のツボに、親指を押し当て揉み解した。

「ああ。気持ちいいな」

「よしっ。では上半身脱いで、うつ伏せに寝てね」

 ウリ・ジオンは怪訝な顔を見せたが、素直に従った。エスカは馬乗りになり、ゆっくりとマッサージを始めた。

 マーカスに施したのと同じものだ。これは、心身の疲れを癒やす。

 心地よさそうに目を閉じたウリ・ジオンは、数分後には入眠した。エスカは、しばらくマッサージを続け、終えると毛布を掛けて引き上げた。

「重いな」

 それが感想だった。

 翌朝、ウリ・ジオンは、清々しい笑顔で階段を降りて来た。

「ありがとう。久しぶりに、よく眠れたよ」

 子どもたちは、まだ眠っている。子どもたちが眠っている時刻に出かけ、子どもたちが眠りに就いてから、帰宅する。

 それでもウリ・ジオンは、朝晩、子どもたちの寝顔を見るのを欠かさなかった。やはり父親である。

 少しずつ、ウリ・ジオンは、元気を取り戻していった。

 その週末は雨だった。

「セダから電話だ。雨だから来なくていいってさ。よし、遊ぶぞ!」

 張り切って子どもたちの相手をしていたら、アルトスから電話である。

「農場は休みだ〜! ホロのランチ持って行くぞ。俺も泊めてくれ」

「げ」

 何考えてんだアルトスは。あらぬことを心配しているのだろうか。エスカは可笑しい。まぁいい機会かも。マッサージを覚えてもらおう。

 みんなで楽しくランチをし、子どもたちにお昼寝をさせようとした時だ。シウスがエスカを見上げ、真剣な顔で言った。

「ここで、ねんねがいいの」

「み〜んな一緒!」

 リトヴァが両手を大きく拡げて、笑顔を見せる。やっぱり、そう来たか。

「そっか。みんなのいるお部屋で、ねんねしたいんだね。でもママたちお喋りするから、うるさいかもよ」

「へ〜きだ〜!」

 希望が通るとみて、シウスははしゃいだ。

「毛布持って来るからね」

 毛布を運びながら、エスカは、少しショックを受けていた。普段おとなはエスカひとり。足りないのだろうか。さみしいのだろうか。

 幸せなシングルマザーなんて、独りよがりの幻想だったのか。

 リビングのドアを開けた時、エスカは陽気だった。

「さあ、ねんねだよ。フィーは、もっかいおむつ見ようね」

 フィーは、リトヴァとシウスに挟まれてご機嫌である。三人の足元にはアスピシアとカエサル。

 何とも平和な光景を見て、ウリ・ジオンが呟く。

「雨の日ってさ。なんか落ち着くよね」

「そうそう。家族っていいな」

 おとな三人は、和やかな時間を愉しんだ。

 夜、エスカはアルトスを伴って、ウリ・ジオンの部屋に行った。ウリ・ジオンには、予め話をしてある。 

 まず額のマッサージ。終えると、ウリ・ジオンは上半身を脱いだ。

 ベッドにうつ伏せになるウリ・ジオンを見て、アルトスは興味津々である。

「これ、凄く効くんだ。いつも途中で寝ちゃうけど」

 言った端から、ウリ・ジオンは寝息を立て始めた。構わず、エスカはマッサージを続ける。

 アルトスは、真剣にその様子を見つめていた。

 やがてエスカは治療を終え、ウリ・ジオンに毛布を掛ける。アルトスを促して、部屋を出た。

「次、アルトスね。無理に覚えようとしなくていいよ。ただ、百聞は一見にしかずと言うからね」

「俺、眠る前に他のことしたくなっちゃうな」

 あらぬ期待をしているようだ。エスカは笑いながら、アルトスの額を抑えた。

「ここだよ」

 ツボの位置を教える。

「これはね。普通の人でもできるんだ。でも僕たちがやると、効果てきめんだから。農場の人たちにやってあげるといいよ。イレに教えてあげてね」

 おとなしくベッドに寝たアルトスの背中に触れたエスカは、小さな声を上げた。

「張ってるね」

 意外だった。例によって、ひとりで我慢していたのか。ウリ・ジオンより軽いとはいえ、長期に渡って蓄積している慢性疲労のようなものだ。

 心労だな。お気楽な学生生活を送っているものとばかり思っていたが、そうでもないようだ。

 アルトスも、手もなく眠りに落ちた。何回かの治療が必要だな。大学には、しばらくウチから通ってもらうか。


 翌朝、雨は上がっていた。そこに、セダからのありがたいお達しである。

「ゆっくりでいいよ」

 お言葉に甘え、子どもたちが起きるのを待って、みんなで朝食を摂った。食後、エスカが、ウリ・ジオンとアルトスに申し渡す。 

「ウリ・ジオンは、あと一週間ウチから通うこと。アルトスも同様。以上」

「偉そうだな。何だよ。まぁ、通ってやってもいが」

 どっちが偉そうだアルトス。

「僕は、ずっとここから通いたいな」

 協力的過ぎるよ、ウリ・ジオン。エスカは腰に手を当てて、ふたりを睨みつけた。

「我慢していて、重くなってから駆け込まれるのって、こっちも大変なんだよ。軽いうちなら、ひと晩で治る。

 だから今後、一週間にひと晩は、泊まって欲しいんだ。あの治療は、夜限定だからね」

 ふたりの男たちは、嬉しそうに顔を見合わせた。

 しめしめ。内心ほくそ笑むエスカ。これで週一は、子どもたちが父親と過ごせる。治療もできるし、一石二鳥である。


 週一で家族全員が揃う。そうこうしているうちに、フィネスは、はいはいができるようになった。リトヴァとシウスはまだニ才。

 三者三様、それぞれ好きな方向に行く。アスピシアとカエサルが手伝ってくれるからいいものの、エスカひとりの手に負える状態ではない。

 モリスがシッターを世話してくれようとしたが、エスカは固辞した。知らない人に頼みたくなかった。

 フィネスという、特異体質の子がいるのだ。手術を受けるまでは、秘匿しなくてはならない。

 グウェンとアニタ、イモジェンが時々来てくれるのも、ありがたかった。やはり適材適所。何も言わずとも、必要な時に必要な働きをしてくれるのだ。

 ウリ・ジオンとアルトスも、子守りをしてくれるのはありがたい。だが結果的には、大飯喰らいの大きい子どもがいるようなものである。


 そんな週日の夜、子どもたちを寝かしつけながら、うとうとしていたエスカの脳裡に、閃くものがあった。

 そっとベッドから抜け出し、廊下に出る。ニルズ曹長に、電話をした。曹長は、一度のコールで出てくれた。

「エスカです。夜分ごめんなさい。約三十分後に、シボレス行きの便が離陸するはずだけど、爆発物を持った女が、乗り込んでるよ」

 曹長の殊の外、狼狽えた様子が伝わってきた。

「そ、それって、少将が乗られる予定の便じゃないか!」

「えっ!」

 今度は、エスカが動転した。

「昼間、たまたまお会いしてな。シボレスで会議があるから、今夜の便で発つと。あああ〜!」

「落ち着いて。真ん中へんの通路側に座っている、若い女だ。膝に乗せている黒いバッグの中。

 栗色のロングヘア、濃い化粧。マーカスは僕に任せて。そちらよろしく」

 続いて、マーカスに電話をする。搭乗時刻が迫っているから、電源を切っているのか。それとも、エスカを着信拒否?

 余計なことを考えているヒマはない。エスカは寝室に戻ると、眠っているアスピシアに、小声で話しかけた。アスピシアは瞬時に目覚めた。

「急用で、出かけなくてはいけない。後を頼んだよ」

 カエサルが目を開け、アスピシアに寄り添う。アスピシアはエスカを理解し、カエサルはアスピシアを理解する。

 不安げなニ匹に、エスカは微笑んで見せた。

 急いで外に出ると、家の周囲にバリヤーを張る。エスカは大きく深呼吸した。一瞬後、エスカの姿は消えていた。


 エスカが着地したのは、エアポートの倉庫裏である。照明はあるが、夜なだけに無人。

 監視カメラの死角に自分がいることを確認し、カメラを停止させる。難なく解錠して倉庫内に入る。ここを通るのが近道だ。

 内部を一気に走り抜け、外に出る。百メートルほど先に見えるのが、第二ターミナルだ。全力疾走し、裏口から侵入、監視カメラを停める。

 内部は、何やら騒がしい。軍警察から緊急連絡が入ったのか。曹長が、迅速な対応をしてくれたようだ。

 搭乗しようとしていたらしい人たちが、足止めを食らって戸惑っている。その中にマーカスがいた。上背があるので見つけやすい。

「マーカス!」

 エスカは、ためらわずマーカスに近づき、腕を引っ張った。驚愕するマーカスの耳に、背伸びして囁く。

「機内に爆発物が」

「なにっ!」

 その時、開け放たれた搭乗口から、忘れ物でもしたかのように、さり気なく速足で歩いてくる若い女性に、エスカは気づいた。手ぶらである。

 背後から、すでに乗り込んでいた乗客たちが続く。飛行機から降ろされ、説明を受ける余裕もなく、ひたすら避難して来たのだろう。表情にゆとりがない。

 トップを切って降りて来たその女性は、悔しそうに唇を歪めている。その厚化粧の顔を見たエスカは仰天した。

 咄嗟にマーカスの背後に隠れる。

「どうした?」

「マリンカだよ」

「マリンカって、あの人質事件の?」

 マーカスも驚いたようだ。エスカはマリンカが通り過ぎるのを待って、背後から近づいた。マリンカの右腕を、抱え込む。

「久しぶりだねマリンカ」

 マリンカは固まった。

「あんたエスカ! 何でここに?」

 組まれた腕を振り解こうとするが、エスカの腕はぴくりとも動かない。掴んでいるのは『トラバサミ』。

「ま、いっか。探す手間が省けたわね」

 元伯爵令嬢とは思えない、やさぐれた空気を纏っている。

「僕を探してたの?」

「そうよ。騒ぎを起こせば、あんたが出て来ると思って」

 なんという単純思考。ムショ暮らしでボケたか。ニルズ曹長が来るまで、時間を稼がなくては。

「それはそうとね、マリンカ。その厚化粧似合ってないよ。マリンカは、素顔のままがキレイなのに」

 途端に、マリンカの身体から力が抜けた。緊張が解れたようだ。

「そう? やっぱりね。看守にもそう言われたの。でも、これって変装だから」

 その時、マーカスがすっと近づいて、マリンカの左腕を抱えた。少しかがんで、耳元に囁く。低くソフトで、甘やかな声音。

「で、どうやって脱獄したんだい?」

 ティーンエイジャーから老女に至るまで、女性なら、いちころで落ちるであろう声色である。マーカスを見上げたマリンカも、例外ではない。

「あなたは?」

「マーカスだよ」

 にこりと微笑む、カサノヴァ・マーカス。

「マーカス! あたしはマリンカよ!」

 エスカはそっぽを向いて、ふたりの話を聞いていた。僕には、あんな口調で話しかけてくれたことなんか、ないじゃないか。この野郎。

「簡単よ。看守をたぶらかしたの」

 『たぶらかした』だって? その一語が、エスカのアンテナに引っかかった。

 前方から、警官隊が、足音を立てて走って来た。重装備の爆発物処理班の姿も見える。エスカは、ほっとひと息ついた。

 警官たちが、エスカたちの前を走り過ぎて行く。ニルズ曹長が、エスカとマーカスを見つけた。エスカに笑顔を見せ、マーカスに敬礼した。

「ご無事で、何よりであります。少将閣下!」

 そう言えば、マーカスは私服である。マリンカが目を剥いた。

「少将閣下? あなた、そんなにエライ人なの? あたし、カシュービアンさまに拘っていたけど、宗旨変えしようかしら」

 エスカはそっと『トラバサミ』を解除し、その場を離れた。これ以上は、自分の仕事ではない。

 元来た道を、速足で戻る。途中、停止させておいた監視カメラを復活させ、倉庫の裏口に着くと、ワープした。エスカの頭は、今や置いてきた子どもたちのことで、いっぱいだった。


 自宅の前庭に着地したエスカは、家のバリヤーを解除した。何事もなかったようだ。途端に力が抜けて、壁に手をつく。

 この前、ワープしてから何年経っただろう。イシネス脱出の日、襲撃者たちから逃れた時だった。杉の木にエアバイクを衝突させて逃げたっけ。

 成功してよかった。大事故は防げたし。ワープの後の全力疾走が効いたな。

 エスカは、ふらつく足で我が家に入った。そっと寝室のドアを開ける。寝静まっている。

 アスピシアとカエサルが顔を上げた。涙がこみあげた。二匹を掻き抱く。

「ありがとう。本当にありがとう」

 気持ちは通じたようだ。二匹は、鼻を鳴らしてエスカに応える。今回の最高功労者はこの子たちだな。

 ディルに連絡しないといけないが、真夜中である。明日の朝イチにしよう。


 早朝、子どもたちは、まだ眠っている。エスカが、リビングで二匹にマッサージを施していると、着信があった。ディルである。

「朝早くから、申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」

 ディルは、エスカが早起きなのを知っている。

「いや、起きていたよ。昨日のこと?」

「はい。昨夜遅くに、シルデスの軍警察から、王立警察に緊急連絡がありました。マリンカの件です。

 刑務所側は、マリンカが脱獄したことを伏せて、捜索していたそうです。

 まさか国外に逃亡していたとは、思わなかったようです。警察にバレないうちに発見できると、踏んでいたようですね。

 手助けする者が、複数いると思われますので、金の流れとともに調べてみます。またご活躍だったようですね」

「……あの。父親の伯爵は、服役中だよね?」

「はい。爵位剥奪の上、全財産は没収済みです。しかしこうなってみますと、隠し財産があるかも知れません」

「刑務官は、女性のみにしていたんだよね。男はたぶらかされるからと」

「その通りです。それで、直接関わった者に訊いてみたそうです。そうしましたら、ひとりの中年の女性看守が『自分の娘と同じ年頃で、身につまされた』と」

 その手があったか。

「僕の襲撃事件の後で、マリンカは、精神鑑定受けたよね。どんな医師が担当したの?」

「三名の年代の異なる医師ですが。優秀だと聞いております」

「その頃の、伯爵の金の流れを調べてほしいんだけど」

「わかりました。伯爵は、あちこちに金を預けていましたからね。まだ調べきっていない部分が、あったかも知れませんね。

 医師たちに、金をばら撒いた可能性は、あります」

「それとね。僕を襲う半年以上前に、マリンカが、本やネットで、精神疾患について検索していたかどうかも、調べてほしい」

「詐病の疑いがあると?」

 ディルは、回転が速くて助かる。

「可能性だよ。半年前頃にね、取り巻きのひとりが『マリンカがちょっとおかしい』って言っていたそうなんだ。

 本人がそう感じたのか、マリンカに言わされたのかは、不明」

「学院の院長と一緒に、シルデスで逮捕された三人のひとりですよね。

 院長は服役中ですが、女の子たちは大分前に釈放されて、普通に暮らしているようです。

 詐病だとなりますと、マリンカは母親を殺していますからね。それに今回の大量殺人未遂。

 イシネスなら死刑ですが、シルデスだと終身刑。

 それもあって、シルデスで事件を起こしたかも」

「そうなんだよ。顔良し、スタイル良し、頭良しで、悪いのは性格だけだからなぁ」

 ふたりは苦笑して、通話を終えた。

 昼近くに、ニルズ曹長から電話があった。

「さっきまで、イシネスの王立警察と、話していたんだよ。マリンカの精神鑑定は、こちらでやることになった。

 しがらみのない所で、まっさらな状態でやるのがいいということでね。 

 揉めたのは、その後だ。鑑定後、マリンカの身柄をイシネスに引き渡してほしいとおっしゃる。

 だが、大量殺人の被害に遭いそうになったのは、シルデス国民だ。『逃がしたくせに何を言うか』と言ったら、先方は黙ったよ」

 勝った曹長は、得意そうである。

「そのことは、また今後の話し合いだな。イシネスには、死刑制度があるからなぁ。

 シルデス国民の感情もあるし。難しいところだよ。

 それであのご令嬢だが。署長、いや少将は、何をなさったんだい? 

『マーカスが傍にいてくれたら、何でも話すわよ』などと、のたまっている」

 曹長は可笑しそうだ。

「それでジョンソン准尉、タンツ令夫人の尋問をしてくれた刑事な。と相談して、予め、マリンカに予備知識を与えることにしたんだ。

『あの御仁は、積極的な女性が苦手なようだ』と。

 そしたら『情報ありがとう。あたし、しおらしくしているわ』だってさ。それなら、少将も逃げ出さないだろ?」

 ふたりで大いに笑った。

「それで尋問だけど」

「おおっ!」

 ヒント到来である。曹長が身を乗り出しているのが、見えるようだ。

「詐病の可能性ありということを、念頭においてね」

「なにっ! もしそうなら、責任能力ありで有罪になるか? シルデスなら終身刑だが、イシネスなら死刑……」

 さすがに、驚いたようだ。

「慎重にやらないとな」

「よろしくです」

 通話を終えて、エスカは、大きく息を吐いた。後は司直の手に委ねよう。大巫女さまが、おっしゃっていたではないか。

『物を投げたら、落ちる先は見るな』

 もしシルデスで服役するなら、マリンカは脱獄を繰り返すだろう。その度に、エスカのみでなく、子どもたちまで危険に晒される。

 その時は、エスカ自身が動かなくてはならない。綺麗ごとは言っていられない。肚を括らなければならないだろう。エスカは、暗澹たる気持ちになった。


 その週末。アルトスとウリ・ジオンが、いつにもまして嬉々としてやって来た。

「エスカ。明日は一日ひとりで遊んで来ていいよ。たまには息抜きしなよ」

「そうそう! 俺たちふたりいるからさ。強力な助っ人もいるし」

 と、アルトスはアスピシアとカエサルを見た。

「ありがたいけど、大丈夫?」

「平気だ。セダの提案なんだよ。エスカが、ひとりで無理してるんじゃないかって」

「ショッピングでもしてくれば? その服、相当古いだろ」

 そうだった。シボレスでウリ・ジオンに買ってもらった服だ。あれから背が伸びたため、つんつるてんになっている。

「そうだね! 子どもたちにも、可愛いの買ってあげたいし」

 久しぶりに、エスカの気分は高揚した。


 翌朝、エスカは、うきうきとエアカーで出かけた。最近は、もっぱらアルトスが使っている、コンパクトな車を使うことにした。。

 リトヴァとシウスは納得してくれたが、ウリ・ジオンの腕の中で、フィネスはぐずっていた。 

 さっさと買い物を済ませて、早めに帰ろう。ひとりで買い物ができるだけでも、ありがたい。

 ランチは、公園でフィッシュアンドチップスを食べた。荷物は車に運んである。

 手ぶらのエスカは、市の立つ日であることを思いだした。

 オレンジかリンゴを買っていこう。シボレスにいる時、市でサイムスと出くわしたんだっけ。あれからいろいろあったな。

 などと、思い出に耽りながら歩いていると、前方から見知った顔が来るではないか。

 しかも、美女とのふたり連れ。エスカは瞬時に垣根を高くした。

 マーカスは、エスカを見て緊張したようだ。空港での一件後、マーカスは、何も言って来ない。

 ニルズ曹長から情報をもらっているから、何ら問題はないと言えば、ないのだが。

 エスカは、微笑して会釈をし、通り過ぎた。カップルの邪魔をする気はない。お似合いです。心で呟いた。

 お似合いということは、本命の、高望みのお相手ではないだろう。玉砕して諦めたか、突撃の前に撤退したか。

 いずれにせよ、マーカスは正しい選択をしたのだ。

 そう言えば、ヘンリエッタは、高望みのお相手を知っているようだったな。もう関係ないけど。

 その時、拳銃の発砲音が聞こえた。立て続けに数発。マーカスたちの去った方角だ。エスカが振り向くと、若い男が、銃を振り回しながら、こちらに走って来る。

 厄介なことに、幼児を小脇に抱えている。幼児は泣き叫んでいた。二才くらいか。

 咄嗟にエスカは、男に金縛りをかけた。二、三十メートルはあったが、男は瞬時に硬直する。

 走り寄りると、エスカは、素早く幼児を引ったくった。

 引き返して来たマーカスを見て、エスカは金縛りを解く。マーカスは男に飛びかかり、押し倒した。背中に馬乗りになり、両手を捻り上げる。

 そこに追いついたカップルの女性が、マーカスに手錠を渡した。警官だったのか。

 腑に落ちたエスカは、女性警官に幼児を渡し、踵を返した。そっとその場から離れる。

 マーカスが、ラドレイに拘った理由が分かった。どう考えても、首都シボレスの士官学校の方が、格上である。

 出世後回しのマーカス。愛されてますねジョンソン准尉(多分)。

 買ったオレンジを、車の助手席に放り込む。次はホロの店だ。ウリ・ジオンが、夕食を予約してくれているはず。

 早くここから立ち去りたいエスカは、ハンドルを握った。ホロのレストランまでは、車で約五分。その間に、エスカは考えを巡らせた。


 駐車場に車を停め、レストランの裏口のドアをノックする。緊張した面持ちのホロが、顔を出した。

「何かあったのか? さっきから、エアパトが何台も飛んでいるが。ニュースにはまだ出てないし」

「市で、銃の乱射事件があったんだ」

「巻き込まれたのか?」

「いや。マーカスが逮捕した」

「マーカスが? この前の爆破事件の時も、マーカスがいたんじゃないのか? 狙いはマーカスか?」

 エスカは首を振った。

「巻き込まれただけかも知れないね。単独犯ではないような気がするんだ。

 調べてみるよ。アダに連絡しておくから」

「気をつけてな。ターゲットは、お前かも知れない」

 ホロは、父親のようにエスカを抱き締め、髪にキスをしてくれた。

 帰宅すると、フィネスが半べそ状態で待っていた。みんなに礼を言い、お土産のオレンジを渡す。衣類の整理は後回しだ。

「このオレンジ、市で買ったのか? さっき速報でやっていたんだけど、まさかその市?」

 ウリ・ジオンが、心配顔である。エスカは無言で頷いた。みんなで食卓を囲む。

 子どもたちの世話をしながら、エスカが口にしたのは、水だけである。

 アルトスとウリ・ジオンが、不安そうに顔を見交わしているが、エスカは、気づかないふりをしていた。

 子どもたちが食事を終えると、エスカは立ち上がった。

「悪いけど、後お願い。瞑想したいんだ。書斎に籠もるからよろしく。連絡があったら受けておいて」 

 携帯をテーブルに置いた。


 翌朝、アルトスは大学に、ウリ・ジオンは会社に出勤して行った。驚いたことに、入れ違いのようにセダが来た。逆方向からはグウェン。

 若いふたりが、経験から事情を察し、ヘルプの連絡を入れたと思われる。

 最初にラヴェンナに行く際、エスカが食を断って

いた事を、思い出したのだろう。大技を掛ける前に絶食したことを。

 エスカの負担を,軽くしようとしてくれている。エスカは心の中で、深く頭を下げた。

 それから、ディルに電話をした。ディルとニルズ曹長から連絡があったことを、ウリ・ジオンとアルトスから聞いている。

「元伯爵は、霊媒師の類と繋がりがあったかどうか、調べてほしい。名前だけでも知りたい」

 ディルの快諾の返事を聞いて、ニルズに連絡する。マリンカの聴取の進捗状況を知りたかったのだ。意外な返答が返って来た。

「すまん! 失敗した」

「失敗って……どういうこと?」

「それがな。少将とジョンソン准尉が同席して、尋問に臨んだんだ。お似合いだったよ。それで、ご令嬢が拗ねたわけさ」

 何と軽率なことを。

「でもな。精神鑑定の方は、順調に進んでいるよ。医師が、マニュアル通りでないやり方で進めるタイプでね」

「それはいいね。マリンカのことだから、セオリー通りのことは、全て頭に入っているだろうからね」

「それで空港での事件な。あれだけで済まないかも知れないという意見が出た。それで、人の集まる場所が狙われやすいと想定して、人員を配置していた。

 たまたま、市に配置されたジョンソン准尉が、少将に出くわしたそうだ。で、ふたりの方が、自然に見えるだろうということで、一緒にいたと。

 エスカに会ったと、ジョンソン准尉が言っていたよ。たまたまか?」

 そう。たまたまだよ。だからこそ不自然なのだ。

 それにしても、なんだ、カップルじゃなかったのか。ちょっと安心のエスカ。

「空港の時も今回も、少将がおられたよな。狙いは少将か?」

 ニルズは不安そうである。

「いや。マリンカは、目立ちたがりだからね。被害者の中に上級将校がいれば、話題になるでしょ。僕の知り合いでもあるし」

「やっぱりあの気狂い女か!」

「首謀者はね。もちろん協力者はいるはずだよ。脱獄を手助けした者。シルデスに逃がした者。シルデスで迎えた者。

 今、イシネスで調べてもらっているところ。最近、イシネスが開放的になって、人の往来が増えたでしょ。

 かと言って、まだ、他国人に大事なことを任せるとは思えないから、ほぼイシネス人がやっていると思うよ。

 マリンカより先に、シルデスに来た者。多分旅行者だね。調べるのは大変だとは思うけど」

「分かった。空港での映像を調べてみるよ」

「よろしく」

 

 その翌日は、アニタがグウェンと交代。セダはサイムスと代わった。

 上のふたりは、可愛がってくれる人なら、誰でも構わないタイプ。これはこれで、心配なこともあるが。

 フィネスは違った。エスカ限定である。それがなぜか、サイムスには懐くのである。

「あの無愛想な男の、どこがいいんだか」

 と、アニタは嬉しそうに笑っている。

「連泊してもらいましょ」

 そうこうしているうちに、ディルから情報が来た。

「元伯爵は、霊媒師を雇っていました。ヤン・リードという五十代半ばの男です。

 それが夫人と不倫して、元伯爵に追い出されたそうで」

 ディルは苦笑しているようだ。

「その後、マリンカと会っていた可能性はありますね。

 リードには弟子が五、六人いて、常に同行しているようです。因みに、王城近くの民家で暮らしています。

 当然、見張りはつけております」

 イシネス。また行かなくちゃいけないのか。エスカはげっそりした。

「ありがとう。リードね。調べてみるよ」

 取り敢えず、これで会話を打ち切った。書斎に籠もり、考えを廻らす。

 ヤン・リード。市井の霊媒師。朧げにイメージが浮かぶ。

 エスカを追っていたのだ。可愛いマリンカちゃんのために。気づかなかったエスカが、迂闊だった。

 マリンカの件は、片付いたものだと思っていた。

 エスカの居場所を、正確に辿ったところからして、ヤン・リードは優秀な霊媒師と思われる。しばらく考えたエスカは、アルトスとイレに非常招集をかけた。

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