第8話

 今回の出産には、女性陣全員が間に合った。真っ先に到着したのは、アニタである。エスカは狂喜した。

 続いてヘンリエッタ。驚いたことに、イモジェンまで来てくれた。

「お産のお手伝いはできないけどね。ふたりと二匹のお世話兼雑用係よ」

 サイムスの指示だな。ありがたい。前回は、出産の直前に攻撃されたし、ひとりだったしで、心細いことこの上なかったが、もう安心だ。

 エスカは、アニタの手料理をたらふく食べ、出産に臨んだ。ヘンリエッタには、胎児について説明してある。

 子どもたちとアスピシア、カエサルは、リビングでイモジェンが見てくれている。

 エスカは、安心して出産できた。二度目だから進行がスムーズで、安産だった。

 だが産まれた赤子を見て、ヘンリエッタが息を飲んだのを、エスカは感じ取った。やっぱりね。疑惑が確信に変わったのだ。

 アニタが覗き込む。

「何となく、男の子の方が強い気がするけど?」

「そうよね。両性だけど、完全体ではないような。平気よエスカ。幼児のうちに手術すれば、問題なし!」

 そこでヘンリエッタは、エスカに赤子を見せてくれた。エスカは頷く。赤子は元気に泣いている。

「この声で泣ければ、健康優良児ね」

 ヘンリエッタの言葉に、三人で笑った。アニタが、赤子をバスタオルで包んで、浴室に連れて行った。

 と、インターホンの音が聞こえる。こんな日に誰?

「マーカス兄さん! どうしたの?」

 イモジェンの驚いた声が聞こえる。

「いや。ちょっと挨拶にな」

 別件のようだ。元気な産声が、廊下まで聞こえているのだろう。

「産まれたのか?」

「うん。でも今は処置中だから、呼ばれるまで待ってね」

 さすがイモジェン。焦るマーカスを抑えてくれている。

 ややあって、アニタがリビングに声をかけた。一同競って、寝室になだれ込む。

 一番手はアスピシア、続くカエサル、マーカス。イモジェンは、リトヴァとアンブロシウスを連れて殿しんがり である。歓声が上がった。

「可愛いい〜!」

 赤子を覗き込む一同の頭越しに、エスカはマーカスを見た。前回の出産の時も、マーカスは、真っ先に駆けつけてくれた。

 前世で、お産婆さんでもやっていたのだろうか。ふたりの目が合った。

「おめでとうエスカ」

 心から祝福してくれているのが、嬉しい。

「で、どなたの子だ?」

「ヴァルス公爵」

 マーカスは目を丸くし、口を半開きにした。「そいつは豪勢な」とか何とか、もごもご言っている。

「休暇なの?」

 ヘンリエッタが訊く。そう言えば、ヘンリエッタはマーカスの姉だった。

 マーカスが口籠ったのを察したのか、アニタが一同を促した。

「ママは、ねんねしないといけないの。さ、向こうでおやつにしようね。シフォンケーキ食べよう!」

「シフォンケーキなら食べたい!」

 とエスカ。

「運んであげるから、寝てなさい」

 エスカから離れたがらない子どもたちを連れて、イモジェンが笑いながら出て行く。二匹は、そのまま自分たちのベッドに寝そべった。

「実は辞表を出した」

 マーカスは、重大なことをさらりと言った。

「出世街道まっしぐらだったのに、何があったの?」

 動じないヘンリエッタ。笑いを堪えている。さすがパルツィ氏の娘である。

「父さんには言わないでくれよ。再就職したら、オレから話す」

 『オレ』だって。いつもは『わたし』なのに。やはり身内は違うんだな。

「誰かが、責任を取らないといけない事態になってな。該当者の中で、チョンガーなのがオレだけだったんだ」

「だ〜か〜ら〜!」

 ヘンリエッタの怒りの声が響く。

「高望みはやめて、さっさと次に行きなさいと言ったでしょう! 結婚してれば、無事だったんじゃないの」

「姉さんに言われたくない」

「わたしは、主義として独身なの。マーカスは違うでしょ。さっさと玉砕して諦めるのね。他に道はないわよ」

 マーカスの高望みのお相手は誰だろう。うつらうつらしながらエスカは思った。

 ラサリ先生なら、お似合いだけどな。上官のお嬢さんかも。

 その時、エスカに閃いたものがある。『高望み』だって? カモフラージュかも知れない。

 その奥にあるものは? 疑惑は、エスカの胸でむくむくと膨らんでいく。

 ドアが開いて、アニタがトレイにケーキとお茶を運んで来た。相変わらず気が効く。

「お。ありがたい。これをいただいたら退散するよ。午後、農場に荷物が届くことになってるんだ。

 仕事が見つかるまで、居ていいってさ。農業を手伝うのが条件だよ。

 デスクワークばっかりやってたから、身体がなまってる。肉体労働やるぞ~」

 ヘンリエッタに口を挿まれないよう、早口のマーカス。勢いよくばくばくとケーキを食べ、お茶を飲むと立ち上がった。

「じゃあな〜」

 そそくさと出て行こうとする。エスカが呼び止めた。

「荷解きは、必要最少限にしておくといいよ。それから、農場ではヴィットリアの話はしないように」

 何か訊きたそうなマーカスだったが、ヘンリエッタの愉快そうな表情を見て、退散を決めたようだ。

 後ろ姿で、ひらひらと手を振りながら、出て行った。

「少し眠りなさいね」

 ヘンリエッタは、トレイを持って出て行った。

 エスカは携帯を取り出した。気が重いが、報告しなくてはならない。

 ディルはすぐに出た。

「産まれたよ。ごめんなさい。両性だった」

「何を謝るんです?」

 スピーカーに切り替えたようだ。

「カシュービアンだ。おめでとうエスカ。頑張ったね」

「で、でも」

「幼児のうちに手術すれば、問題ないのだろう? 何年か待てば治るのだ。考えすぎるなよ」

 尤もだが、自分の責任でなくて、なんだと言うのだ。。エスカは涙を堪えた。

「ありがとうございます。名前をください」

「うむ。『フィネス』だ」

 途端に、エスカの気持ちが高揚した。古代イシネス語で『未来』を表す。

「素晴らしい! 感謝します」

 全身で、この幸せを受け止めた。


 翌朝、ウリ・ジオンとサイムスが来た。大学に行く途中で、立ち寄ったようだ。一応気を遣って、静かに入室する。エスカに手で挨拶し、フィネスを覗き込む。

「金髪だぁ。公爵似だね」

 等と喜ぶ。ウリ・ジオンが、小声で早口に説明した。

「来週から、支社に勤務なんだ。アダが来てくれるよ。週末に、アパートに引っ越すことになった。詳しい事は後で」

 ふたりは、慌ただしく出て行った。しばらくして、アダが、グウェンを連れて来てくれた。入れ替わりにアニタが帰る。

 ヘンリエッタとイモジェンは、もう一日いてくれることになっていた。昼休みを使って、アルトスが来た。

「ごめんな。時間がなくて」

 と言いながら、リトヴァとシウスを抱き上げる。

「おめでとうエスカ」

 エスカとフィネスの頰に、そっとキスをすると、走るように帰る。ランチは運転しながらだろう。

 午後イレが来た。こちらも例にもれず慌ただしい。夕方には、セダが来た。イレと交替で、じゃんけんでどちらが先か、決めたと言う。

「無理して来てくれなくていいのに」

 エスカは苦笑した。

「無理してでも来たいんだよ」

 セダは嬉しそうに笑った。

 エスカ、グウェン、ヘンリエッタ、イモジェンの四人での夕食時である。子どもたちは、先に食べさせて、寝かしつけた。

ヘンリエッタがエスカに訊いた。

「イレってどういう人?」

 興味が湧いたようだ。エスカはフィネスにミルクを飲ませていた。

「ラヴェンナの元神学生で、タンツ商会の元ラドレイ支社長。現在は、農場を手伝ってくれているんだよ」

 ざっくりとエスカは説明した。グウェンが続ける。

「アダの先輩でね」

 とエスカを見る。話しちゃっていいの?

「みんな知ってるからね」

 エスカの言葉に自信を得て、グウェンは話し始めた。

「元々は、商会の諜報員みたいなことやってたんだよ。辞めた時は、ラドレイ支社長だった。奥さまと不倫したのがバレてね。

 ホロ、わたしの夫ね。会長のご本宅でコックやってたから、顔見知りだったの。

 ここに来てからは、時々テイクアウト買いに来て、ホロと密談してた。

 イレが辞めてからは別の人が来て、情報交換してたみたい。それで、社員の人たち、みんな怒ってるって。

 イレだけが責任取って、奥さまはお咎めなしは酷いって。誘ったのは、奥さまに違いないのにって」

「イレは遊ばれたんだよ」

 エスカは断言した。

「やっぱりね。ウリ・ジオンさんが出て行ったのも、奥さまがシェトゥーニャさんとのこと、猛反対したからでしょ。

 その時のこともあって、会長の株はだだ下がり。いくら奥さまがラヴェンナの王族出身だと言っても、尻に敷かれっ放しで情けないじゃないか。

 それが今回、奥さまを別荘地に隔離した。前々から準備していたらしいの。

 会長の評判は、右肩上がりになって来たそうだよ。それに、ウリ・ジオンさんが戻るっていうし。

 でもホロは、ウリ・ジオンさんが、うまいこと利用されてるんじゃないかって、心配してる」

 と、グウェンはエスカを見た。

「それはあると思うよ。ウリ・ジオンは承知の上だ。

 ミズ・コッタンの息子さんたちが一人前になるまではって、分かってる。だから、アダを付けてもらったんだ」

 エスカは、場の雰囲気が重くなってきたのを感じて、話題を変えた。

「神殿繋がりで、イレの武勇伝があるんだけど」

「わぁ!」

 イモジェンが歓声をあげた。

「エスカは、いろんなウラ話知ってるもんね!」

 座が盛り上がり、楽しい女子会になった。


 翌日の午後、モリスが来た。ヘンリエッタ、イモジェンとハグをする。モリスにとって、ふたりは義姉と義妹にあたるのだ。

 ヘンリエッタが、赤子を取り上げてくれたことを聞き、モリスは感動した。眠っているフィネスを見つめ、泣かんばかり。

「子どもたち三人とも、僕のものだからね」

 エスカは釘を刺す。

「承知しておりますよ。でも、夢見るだけならかまわないでしょう?」

 幸福感満載のモリスは、今日引き上げる予定の姉妹を、市街地まで送ってくれると言う。

「あたし近いから、できるだけお手伝いに来るね!」

 イモジェンの言葉は、ただただありがたい。ヘンリエッタはシボレスの病院勤めだから、遠い。

「何かあったら、我慢しないで連絡してね」

 立ち去ろうとするヘンリエッタに、エスカも挨拶を返した。

「ありがとう。マーカスは大丈夫だから」

 エスカの言葉に、ヘンリエッタは安堵の笑みを浮かべた。


 週末、ウリ・ジオンとマーカスが来た。ふたりとも、それぞれエアカーに、 引っ越し荷物を積んでいる。

「まず、僕から報告ね」

 リトヴァとシウスは、リビングでマーカスと遊び始めた。その様子を眺めながら、ウリ・ジオンが説明してくれた。

「みんなで話し合ったんだよ。大前提として、農場を無人にしないこと。

 それには、どう考えても人員が足りないんだ。イレ、アダ、セダは、魔女号に乗ることだけは譲らなかったからね。まるで子どもだよ」

 ウリ・ジオンは、可笑しそうに笑った。

「そこで、モリスに相談したんだ。結果、モリスの店には、イシネスの工房長に来てもらうことになった。

 アダが魔女号に乗る時は、セダに支社に来てもらう。イレは農場だ。セダが乗る時も、イレは農場。イレが乗る時は、セダが農場。

 イレがいてくれなかったら、どうにもならなかったよ。呑み込みはいいし、よく働いてくれてる。

 協調性もあるしね。本当にいい人に来てもらったよ。

 はい、交替」

 ウリ・ジオンは、マーカスに代わって、子どもたちの相手を始めた。

「実は上官から電話があってね。辞令が出た。ラドレイ士官学校の校長だとさ」

「あ、やっぱり」

 思わず口走ったエスカを、マーカスは面白そうに見た。 

「身近な人のことは、分からないんじゃなかったのか」

 エスカは返答しなかった。『もう、身近な人ではなくなったからだよ』とは言えない。

「その上官に、直接辞表を渡したのに、そのようなものは知らない等と言う。勤務先はシボレスの士官学校になっていた。

 腹が立ったから、わがままを言ってみた。何となく、今なら通る気がしてね。

『ラドレイ校に変更できませんか』

『あいにく、別の御仁に下話をしてしまってね。了解は頂いてある。どうしてもと言うなら、直接交渉してみたらどうだ? 正式な辞令はまだなんだ』

『どなたです?』

『確か元ラヴェンナの騎士で、ルシウス・パルツィ殿とか』

 みなまで言わぬうちに、上官は吹き出した。からかってやがる。一応礼を言って、親父に連絡してみた。

 腰を痛めてな。年も年だし、現場は無理ということで、退職したそうだ。そしたらすぐに、シルデス軍警察からオファーがあったと。

 大喜びで受けてくれたよ。シボレス校なら自宅から通えるからな。家族と一緒に暮らしたいそうだ。

 手続きは、全部こちらでやることで、了承してもらったよ。

 エスカ、ラドレイ勤務当たってたな。この前の官舎よりワンブロックこちらに近い住まいだ」

「よかったよね。僕のアパートにも近いし」

「うん。オフの日は、農場を手伝うぞ! だがその後でな、お袋から苦情の電話が来たんだ。

『元気で留守でいい夫だったのに、自宅通勤可って、なんてことしてくれたの!』だとさ」

 エスカとウリ・ジオンは笑い転げた。

「詮索するようで悪いが、イレの前職は何だ? 

 農場でいろいろ手解きしてくれてな。分かりやすくて、説得力があるんだ。

 教師だったんじゃないのか。インテリっぽいところもあるし」

「いや、タンツ商会に勤めてたんだよ。ラヴェンナの神学校出だ」

 ウリ・ジオンに説明を任せて、エスカはぐずり出したフィネスのおむつを替えた。リトヴァとシウスが欠伸をする。

「ねんねのお部屋でお昼寝しようか?」

「ここでねんね」

 とシウス。

「み〜んな一緒!」

 リトヴァは両手を拡げてみせた。

「そっか。わかった。ちょっと待ってて。フィネスのミルク持って来るから」

 ふたりは、床に拡げた毛布に寝転がった。エスカが哺乳瓶を手にリビングに戻ると、ふたりは眠りかけている。

 アスピシアとカエサルは、ふたりを挟むように眠っていた。

「破門?」

 マーカスが、不審そうな声をあげた。エスカは、フィネスを抱えてソファに座った。

「卒業前なら、退学か放校ではないのか? 破門というのは、神官に対して使う言葉のような気がするが。

 イレは、一応卒業したのではないかな」

「あ」

 と、エスカとウリ・ジオンは、顔を見合わせた。

「ラヴェンナでは、神学校卒業後、大学で学位を取れば、哲学の教師になれる。

 シルデスの教育システムは、どうなっている?」

「よく知らないんだ。そも、シルデスには神学校はないしね。稀に哲学を学びたい者はいるよ。

 その場合は、大学の哲学科卒業後、ラヴェンナの神学校に編入するんじゃなかったかな」

 マーカスは嬉しそうに聞いている。

「シルデスのシステムについて、調べてくれるか? わたしはラヴェンナの神学校に確認する。

 エスカ。オンライン学部では、週一で出席すれば、後は自宅学習でいいんだよな?」

「そう。働きながらだと大変だけどね」

「週一なら、商会から作業員を派遣できるよ。繁忙期に来てくれてた社員たちは、ラドレイ支社の者なんだ。勝手が分かってるしね」

「後は、イレの意思次第だな。

 わたしは、決して農業を軽んじているのでないのは、分かってくれていると思うが。

 適材適所ということがあるからな。ラヴェンナでのことは、マティアスに頼もう」

「え。お父さんが退職したなら、マティアスはシルデスに来て跡を継ぐんじゃないの?」

「それがな。異動させてもらえないそうだ。陛下は『罰だ』と仰ったそうだが、なんのことかわからないと、マティアスは言っている。

 エスカ。心当たりはあるか?」

 エスカは小首を傾げた。

「ひとつだけあるけど……」

「話してみろ。陛下は、マティアスを手放す気はないだろう。些細なことにでも、いちゃもんをつけて引き留めようとするさ」

「この前、シェトゥーニャを救出に行った時のことだけど」

 クリステルが、マティアスを蹴飛ばした段になると、マーカスとウリ・ジオンは爆笑した。

「エスカ。国王陛下を先にお助けしようとは、思わなかったのか?」

 笑いを収めたマーカスが言う。

「え。シェトゥーニャの方が重症だったから。まずかった?」

「いや、それでいい。結局、陛下は誰からも人工呼吸はしてもらえなかったんだな」

「うん。喉を擦っただけで、息を吹き返したからね。心身ともに健康なお方だよ」

「それはちと寂しかったかもな。このままだと、陛下ご在位中は、マティアスはラヴェンナから動けないわけだ」

 エスカは、たっぷりミルクを飲んで眠ってしまったフィネスを、そっと毛布に寝かせた。

「本当にエスカは、面白い話を知ってるんだな」

 ウリ・ジオンは、愉快そうだ。

「面白い話と言えば、もうひとつ。ニルズ曹長から聞いたんだけど」

 と、エスカは笑いを含んだ目でマーカスを見た。

「話していい?」

「もちろんだ。わたしに恥ずべきことは、何もないぞ」

「では遠慮なく。尋問室でのことだよ。ヴィットリアをラドレイ署に連行したのは、知ってるよね?」

 「あっ」という短い声を発して、マーカスが立ち上がった。

「その件については別だ!」

「え〜! いいって言ったのに」

 マーカスは、エスカの肩を掴んで立ち上がらせた。いきなり唇を塞ぐ。喋らせないためだろう。

 最初エスカは抗おうとしたが、すぐにおとなしくなった。調べるチャンスかも知れない。

 ウリ・ジオンが焦って、ふたりの周囲をうろうろと回る。

「やめなよマーカス! 嫌がってるじゃないか!」

 別に嫌がってはいませんけど。単なる検査と言うか、実験だよ。ややあって、マーカスは唇を放した。

「ああ、びっくりした」

 エスカはけろりとして、ソファに腰を下ろした。マーカスは、そっぽを向いている。

 興奮しているのは、ウリ・ジオンである。

「何でだよ! 僕の時は足を刺したのに、マーカスはお咎めなしか!」

「あの時は、妊娠の危険性があったからだよ。今は、もうないから」

 ウリ・ジオンは、怪訝な表情を浮かべた。

「どういうことだよ。説明してよ」

 マーカスは、横を向いたままである。

「僕の身体が発育不全なのは、知ってるでしょ。それなのに、妊娠して出産した。三回もね。

 随分と無理をして、体に負担をかけてしまった。僕の女性部分はぼろぼろだよ。だから、もう妊娠はない」

 ウリ・ジオンは絶句した。マーカスの顔は見えない。何拗ねてんだ。

「とにかく、ふたりとも新しい門出だね! 頑張ってね!」

 エスカは、精一杯明るく言った。泣くのは後にしよう。


 ふたりの男たちは、それぞれ市街地の新しい住まいに向かって出発して行った。

 最後までマーカスは、一言も発しなかった。エスカをまともに見ようとすら、しなかった。

 ウリ・ジオンは、何か訊きたそうにエスカを見たが、エスカは首を横に振った。訊きたいのはこちらだよ。

 二十一才になったばかりのエスカに、ひと回り年上のオジさんの心の動きなど、分かろうはずもない。

 やっと気持ちに踏ん切りをつけたのに、焼けぼっくいは勘弁だ。育児だけで精一杯なのだ。余計なことは頭に入れたくない。


 毎日ばたばた過ごしているうちに、産後の一ヶ月が過ぎた。

「おめでとうフィネス! 新生児を卒業して、一人前の乳児になったね!」

 意味は分からないながらも、リトヴァとアンブロシウスは喜んでくれた。

「よかったねフィーちゃん」

 略称で呼び始めたのは、シウスである。リトヴァはリィ、シウスはシウス、アスピシアはピシア。言いやすいのだろう。

 カエサルはそのままである。エスカは微笑ましく見ていた。

 あれから、マーカスからは音沙汰なし。変化はなかったと思われる。

 公爵の場合は、ディルという、刺激を与える人物が身近にいた。マーカスには誰もいない。かてて加えて、本人の体質やら症状の程度もあるだろう。

 何故かは知る由もないが、マーカスに不快な思いをさせたことは事実である。

 キスを仕掛けてきたのは、マーカスなのに。エスカは考えるのをやめた。


 週末、イモジェンが手伝いに来てくれた。ふたりで手分けして家事と育児をやっても、目が回るほど忙しい。やっと三人がお昼寝してくれたところで、エスカとイモジェンは、ひと息ついて、お茶にした。

「マーカスとは、その後どう?」

 イモジェンが珍しいことに、遠慮がちに訊いた

「あれからなんにも」

「そうなんだ。実はウリ・ジオンが気にしてて。

 マーカスが、エスカにキスしたんでしょ? 何で、マーカスが機嫌損ねるかなぁ。エスカ、噛みついたりしてないよね?」

「まさか。別にイヤじゃなかったし」

 イモジェンは、面白そうにエスカを見た。

「あのね。あたしがラドレイに来ることになった時、母さんに言われたことがあるの。

『マーカスには垣根があるから、それを越えないようにね』って」

「垣根?」

「そう。小さいうちは、明るくて素直な子だったんだって。それが思春期を迎えた頃から、段々無口になっていって。

 成長段階によくあることだからと、両親は気にしなかったみたい。

 ところがいつまで経っても、マーカスはそのままだったの。

 それで両親は話し合って、そっとしておくことにした。マーカスの内面を大切にしようってことでね。

 その後士官学校に行って、卒業後はシルデスの軍警察でしょ。

 特に、人間関係でトラブル起こしてはいないし、普通に過ごしているみたいだから、格別心配することはないと思ってたんだけどね」

 垣根か。エスカにもある。だのにエスカは、土足でマーカスの垣根を乗り越えてしまったのだ。

『善かれと思って』なんて言い訳にもなりゃしない。

 公爵が喜んてくれたので、マーカスも喜んでくれると、勝手に思いこんでいた。 

 マーカスにすれば、他人に知られるくらいなら、このままの方がましだと、思っていたのかも知れないのに。

 エスカは、両手で顔を覆った。嗚咽が漏れる。途切れ途切れに、言葉を紡ぎ出す。

「僕は、あんなに、良い人を、怒らせてしまった。マーカスの、逆鱗に、触れたんだ。僕はサイテーだ」

 イモジェンはエスカを抱き締め、幼い子を宥めるように背中を擦ってくれた。擦りながら、ため息をつく。

「ウリ・ジオンにも、泣かれたんだよね」

 エスカは驚いて、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。

「え。ウリ・ジオンが、何で?」

「エスカの人生潰したって。エスカの作った中絶薬、棄てたんだってね。

 てっきり、シェトゥーニャに頼まれたんだと思ったそうよ。

 エスカは、無理に出産して身体を壊した。あの時、自分が薬を棄てなければ、エスカは健康だったのにって言って」

「そんな! 僕は子どもたちを産んで、後悔したことなんて、一度もないよ! 子どもたちのお陰で、幸せに暮らしてるよ! 

 それに、駄目になったのは女性の部分だけで、他は健康だよ。むしろ、あの時止めてくれたウリ・ジオンに感謝してる」

 イモジェンは、満面の笑顔で、エスカを強く抱き締めた。


 翌日来たのは、サイムスである。セダの遣り手婆め。勘弁して欲しい。エスカの混乱は、まだ収まっていないのだ。

 ややぎこちない手つきで、子どもたちを撫でてくれる。気持ちは伝わるようで、リトヴァもシウスも上機嫌だ。

「ウリ・ジオンが来られればいいんだけど、めちゃめちゃ忙しいらしい。

 イレの後任の支社長が、健康に問題があってさ。引き継ぎが半端だったそうだ」

「病気?」

「いぼ痔だってさ」

 言った途端、サイムスは笑い出した。エスカも吹き出す。

「いや。病気なんだから、笑っては気の毒なんだけどな。痛いそうだし。

 でも、手術して経過は良好だってさ。ただ気力が戻らなくて、退職したんだ」

 支社長には悪いが、この話題でエスカの気持ちが解れた。

「それで、来週、セダが助っ人に行くことになった。アダが魔女号なんだよ。

 ウリ・ジオンの借りたアパートには、寝室が二つあるから、そこに寝泊まりする。アダは自宅通勤だしな。

 その間、農場はイレに任せる。イレがいてくれて、本当によかったよ。張り切って働いてくれてるし。

 それで報告だ。神学校については、マティアスが調べてくれた。

 やはり、イレは卒業したことになっていた。単位も出席日数も満たしていて、後二週間で卒業という時期だったそうだ。

 元々、コトを起こしたのは神官長だったからな。若かったイレはパニックを起こして、少々やり過ぎただけだろ。

 神官さんたちの恩情が、働いたわけだ。

 イレに神官の資格を与えてから、破門という形になった。ラヴェンナの神殿に仕えることはできないが、その資格を活かす職業に就くことはできるんだ。

 シルデスについては、アダが調べてくれた。やはり、大学の卒業資格があれば教師になれるってさ。哲学の他に、ラヴェンナ語とか教えられるだろ?

 それで、イレに話してみた。驚いていたよ。少し考えさせてほしいと言っていた。感謝していたよ」

 エスカは頷いた。未来はひとつではないことを、イレは実感しただろう。

「マティアスは、ついでにイレの家族についても、調べてくれたんだ。

 事件の後、国家警察が実家に行ったそうだ。

 責めるためでなく、単に連絡先を知りたかっただけだったそうだが、家族はビビって引っ越してしまった。

 高校教師の父親と看護師の母親、妹がふたり。そのままシルデスに渡ったようだ。その後の足取りは掴めていない」

「……いつか会えるといいね」

「うん。そう願うよ。さて、エスカちゃん」

 来た〜! 報告だけで済むはずがない。

「イモジェンに聞いたけど、マーカスのことで、エスカは、何か心当たりがあるみたいだって」

 イモジェンのお喋りめ。

「確信しているわけではないから、何も言えないよ。聞き出したかったら、マーカス本人に聞けば?」

 聞けるものならね。

「あのな。実はマーカスは、兄弟の中で少し浮いているんだ。嫌いと言うんじゃないが、煙たいと言うか。

 何と言うか、家族にも気を許さないみたいな」

 無理もないよ。

「時間が解決するかもね。そっとしておくのが、一番じゃないかな」

 サイムスは肩を落とした。仕方がない。どうにもしてあげられない。

 その時、エスカはふと思った。なぜマーカスは、キス直後に態度を変えたのだろう? 

 エスカに気づかれたと感じたのか? シャーマンでもないのに?


 その日は、アルトスが手伝いに来ていた。リトヴァとアンブロシウスは、庭でボール投げ、いやさ、ボール転がしをして遊んでいる。見守るアスピシアとカエサル。

 エスカは、フィネスを抱いてベンチに座っていた。隣にアルトス。実に平和である。

「イレだけど。新学期は始まっているから、大学に入学するにしても、来年度からだ。

 魔女号は諦めて、農業と学業に専念したいそうだ。感謝していたよ。マーカスが気づいてくれたんだってな」

 エスカは頷く。

「それで卒業後、教師になるか、このまま農場にいるかは、、今はまだわからないと。随分、農場が気に入っているみたいだ」

「セダと共通点が多いね」

「そうなんだよ。で、セダにも大学に通う気があるか、聞いてみたんだ。以前、中退したそうだから。

 でもセダは、魔女号優先だってさ。週一でも通学するなら、魔女号は無理だからな。

 農場は、セダにとって故郷なんだと。満足しているそうだ。ウリ・ジオンが聞いて、喜んでいたよ」

 ボールが、エスカの足元に転がって来た。エスカに抱かれてうとうとしていたフィネスが、身動きした。

 ボールが、不意に宙に舞う。リトヴァが両手を上げて振る。リトヴァの手は、ボールに触れていない。だが、ボールは方向転換してシウスに飛んで行く。

 シウスが手を振る。ボールは、首が座ったばかりのフィネスへ。フィネスが、再び小さな手を振る。ボールは宙へ。

「おいおい!」

 アルトスが立ち上がった。エスカは、フィネスを見つめる。苦笑していた。

「フィーちゃん。今回は君が主犯だね」

 言うと、フィネスのおでこに軽くこっつんこした。フィネスは、手も無く眠りに落ちる。

「お願い」

 アルトスにフィネスを預け、エスカはリトヴァに近寄った。少しかがんで目線を合わせ、、微笑む。ご機嫌のリトヴァ。

「リィちゃん。このいたずらっ子」

 おでこをこっつんこ。眠ったリトヴァをベンチの足元に寝かせる。

「さて、シウスくん。このお調子者〜」

 シウスは愛嬌を振りまくも、エスカにかかって敢えなく敗退。アルトスに手伝ってもらって、三人を寝室に運んだ。

 アスピシアとカエサルは、まだ遊びたそうなので、取り敢えず人間だけ屋内に入った。

「今のは、フィネスが挑発したんだよ。三ヶ月になったばかりなのに、早かったな。

 前回は、シウスが主犯だった。リトヴァは協調性があるから、すぐに共鳴しちゃうんだ」

「えらい、すんまへん」

 アルトスが詫び、ふたりは大いに笑った。

「アレって、高等技だろ?」

 エスカは頷き、ふと考えこんだ。アルトスの身体を、上から下まで舐めるように見る。アルトスは、居心地悪そうに身じろぎした。

「そろそろいいかな……ねぇアルトス。初歩の催眠術やる気ある?」

「ある!」

 アルトスは、ジャンプしそうな勢いである。

「二週間ほど、ここから通学してもらいたいんだけど、できる?」

「できるできる! 今日からでもいいぞ!」

 エスカは苦笑した。

「あのね。何で今、言い出したかと言うと、アルトスにその準備が整ったと思うからなんだ。

 以前教えたことが、完全に身体に染みついてからでないと、次には進めない。修行に年月が必要なのは、そのせいだよ。

 イレも一緒にできるといいけど、まだちょっと無理かな。大学に通い始めてからの方が、覚えやすいと思うんだ。

 防音室を作るから、何日か待ってね。ここでも歌える方がいいでしょ」

「エスカぁ! 俺、ずっとここで暮らす!」

よこしまなこと考えるなら、教えるのやめる」

「わぁぁ、勘弁!」

 アルトスと話すのは、やっぱり楽しい。エスカは、ここしばらく鬱屈していた感情が、雲散霧消した気がした。


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