第7話
引っ越しは、大賑わいだった。荷物などたいしてないのに、三人組のほか、アダとセダまで来た。おまけにモリスである。
エスカ懐妊の知らせを聞いて、居ても立っても居られなかったようだ。
「エスカさまは、座っていてください。重い物を持ってはいけません。抱っこは、座っている時になさってください。妊婦に安定期などないのです」
と言う調子で、エスカは雑巾も持たせてもらえなかった。
エヴリン出産の時は、自分が出産するような騒ぎだったと聞く。
エスカは、モリスの過保護ぶりに閉口しながらも、笑いを噛み殺していた。
「エヴリンは、そろそろ臨月なんですよ」
「ふたり目?」
「そうなんです! イシネス人同士ではできにくくても、外国人相手だとできやすいみたいですね」
エスカは、じっとモリスを見た。笑いがこみ上げる。
「まだ産まれるよ。賑やかになるね」
「おおっ! ありがたい。実はそれに関連して、吉報があるのですよ。『異国人との通婚禁止』の法が改正される見通しです。しかも、過去に遡って!
エスカさま。そうなったら、大手を振ってイシネスに帰られますよ! エヴリンも子どもを連れて、イシネスに行き来できるようになります。
公爵閣下が、頑張ってくださいました。交易も盛んになるでしょう。大儲けできるぞ~!」
張り切るモリス。やっとか。カシュービアンさま、ありがとうございます。
後片付けは、モリスの社員たちがやってくれるというので、エスカは、アスピシアとカエサルを乗せて出発した。
リトヴァとアンブロシウスは、三人組が引き受けてくれた。
二匹は、最初から、ここが自分たちの家だと理解したようだ。少し家の中を探検した後、落ち着いて昼寝を始めた。
先に到着していた子どもたちは、大はしゃぎで、家中を走り回っている。
これまでに何度も引っ越しをしたが、何れも逃げるためだった。
この度の引っ越しは、より良い暮らしを求めてのものだ。しかも借り物ではない自分の家。
考えた末、エスカは一括払いで、この家を買ったのだ。
一応、片付けに目途がたった時点で、みんなで乾杯した。今夜、タンツ氏にお礼の電話をしよう。心からの感謝を伝えたい。
翌日の午後、驚いたことにマーカスが来た。
「昨日は来れなくて申し訳なかった」
などと言う。
「忙しいんだから、当たり前だよ。気にしないで」
「悪い。実は異動になった。シボレスに戻る」
あ、やっぱり。
「引き継ぎに手間取ってな。今夜、署員たちが送別会を開いてくれる。明日の午後出発だよ。
ラドレイ署は、実に居心地がよかったから、動きたくないんだが、そうもいかなくてな。
今度は軍警察ではなくて、軍本部なんだよ。一応栄転だ。少将ということで」
「おめでとう! よかったね」
エスカも嬉しい。それにシボレスにはラサリ先生がいる。願ったり叶ったりだろう。
異動願いを出したのかも知れない。
「滅多に会えなくなるが。身体に気をつけて」
「はい。マーカスもね。わざわざ来てくれてありがとう」
ラサリ先生の件を話す気はなさそうだ。難攻不落で苦戦しているのか。諦めたエスカとしては、さくさくと進めてほしい。
意外なことに、マーカスはエスカの唇にキスをした。直後に離れて苦笑する。
「おっと。また双子ができると厄介だな」
ふたりは大笑いした。こういう紛らわしいことをするから、誤解するんだよ。
「ではな」
「お元気で」
そして別れた。終わったのだ。
数日後、魔女号のイレから交信が来た。
『聞こえるか?』
『感度良好だよ』
『おおっ! これ便利だな。盗聴の心配はないし』
『何かあったの?』
『イシネスに着く三日前、モリス社長が、ヘリで魔女号に乗り込んで来た。
子どもの頃から魔女号に憧れていて、乗船するのが夢だったそうだ。海賊船だと思っていたフシがある。
それで、いろいろ聞いたよ。エスカ、モリスが〈王政復古を夢見る会〉の会長やってるの知ってるか?』
『何それ』
『〈夢見る〉だから、温厚な人たちの集まりだそうだ。それでエスカ。モリスは、エスカがヴァルス公爵の子を身籠っていることを、知ってるよな?』
『うん。ラドレイのホテルで会うのを、手配してくれたからね。
最初の予定では、カシュービアンさまの唇を強奪したら、すぐに引き上げるつもりだったんだよ』
『強奪』の辺りで、イレは笑ったようだ。
『そしたら、ディルにお茶を勧められてさ。三人で楽しくお喋りしてしまった。
僕とカシュービアンさまの間に、何やらあったと想像されるくらいの時間は、過ごしたと思う。一生の思い出ができたよ』
『そうか。モリスは穏やかな人物だから、強制することはないと思うが。
彼の本心は、公爵とエスカを結婚させること。それが無理なら、その子を公爵の養子にして、玉座につかせることだと、俺は読んだが』
魔女号の元船長の勘は、鈍っていないようだ。交信の欠点は、嘘をつけないことだ。心と心で話すのだから。
『モリスは、その会の人たちに話したかな?』
『イシネスに上陸したら、早速会議があるそうだ。今回来たのは、それが目的だろうな。
ちょこっと脅しつけて、口止めしといたよ』
社長を脅したのか。さすが魔女号の元船長。エスカは笑ってしまった。
『現在空位になっている玉座をどうするか。複雑な話し合いが、貴族院でも行われているそうだ。
それでエスカ。お腹の子を公爵に差し出す気はあるか?』
『考えたこともないよ』
『公爵が望んでも?』
『ない。これが一般人同士なら、本人が成人した時点で、養子に行くかどうか、決めさせるだろうね。
でも、相手が王侯貴族では違う。ああいう世界では、幼い頃から育て方が違うと思うよ。
だから、赤子のうちに預けなくてはいけない。では誰が育てる? 他人の乳母か? 産みの親がいるのに?』
『わかった。どのみち、出産するまで、先方に動きはないだろう。時間はある。じっくり対策を考えよう』
『うん。それとね、僕みたいな子が産まれる可能性が、大なんだ。僕のことは聞いてる?』
『アダから一応な』
『それなら話は早い。リトヴァとシウスに異常はなかった。
でも次は? それを考えると、僕が育てるのが、一番なんだよ』
『ちょっと待て。確かラヴェンナでもイシネスでも、〈障害者は王位につけない〉とかいう一文があったはずだ。
障害とは違うとは思うが。反対派にとっては、恰好の突っ込み所だな
それで行くか。パルツィさんとこに、女医さんがいなかったか?』
『いるよ。ヘンリエッタね』
『その方に、診断書を書いてもらうんだ。医師免許剥奪にならないよう上手にな。
その他にも、いろいろな案があるかも知れないぞ。もう逃げ回らなくて済むようにしような。ひとりで抱え込むなよ』
エスカは、礼を言って交信を終えた。イレの心配りが嬉しい。やっと辿り着いた生涯の家。もう逃げ隠れはしたくない。
明晰な頭脳、剛胆な胆力、大胆な行動力。アダが心酔するのも道理である。
ラヴェンナの神殿が逃がした魚は、実に大きかったのだ。
その日の夕方、突然アルトスから連絡が来た。
「これから行く。夕食持参だ」
「急用?」
「ま、な」
アルトスらしからぬ曖昧な返事である。今から来るとなると、大学は早退か。
時間からして、泊まりになるだろう。今朝、客用寝室の掃除は済ませてある。
夕食後、いつも通り子どもたちにシャワーをさせ、寝かしつける。二匹に子守りを頼んで、エスカはリビングに行った。
ソファ前のテーブルにタブレットを用意して、アルトスが待っていた。嫌な予感がする。
「クリステルが、エスカに会いたがっているんだ。この前実際に会っただろ? 何か感じたらしい。適当に返事してやってくれ」
「困るよ! アルトスで止めてよ」
「ほっとくと、迎えが来るぞ。伯父と姪っ子より血が濃いような気がするとか、言い出した」
絶句した。何の根拠もなく、ましてや身に覚えもないはずなのに。何とか撃退しなくては。
「喧嘩別れになってもいい?」
「もちろん。その方が、しっかり終わりにできるかもな」
アルトスは笑いながら、タブレットの電源を入れた。すぐに、手ぐすね引いて待っていた風情のクリステルが現れた。迷惑な話である。
「久しぶりだな。元気か?」
「はい。陛下も」
礼儀上、笑顔を見せておく。
「先日は世話になった」
にこにこ。
「それで、単刀直入に聞きたいのだが。わたしとエスカの間柄とはなんだ?」
来た。
「僕がお聞きしたいくらいですが」
「うむ。一応伯父と姪っ子だな。エスカが、グンナルの子だとすれば」
「それ以外の可能性が?」
「例えば、わたしの子とか」
もそもそ言う様子が、この人らしくなくて、笑える。
「お心当たりがおありで?」
「それがないから、困っている」
エスカは我慢できずに笑い出した。アルトスも爆笑した。いかん。喧嘩の雰囲気から遠ざかっている。
「とにかく、王宮に来ないか。一緒に暮らすのはどうだ? 親子として」
「僕が、ボディガードとして役に立つから?」
「それもあるが。わたしがエスカを守ることもできるぞ。もちろん、子どもたちは、孫として世話もする」
「困ったなぁ。実は、イシネスからも誘われてるんです」
「え。そうなのか?」
と、隣のアルトス。
「うん。昼間連絡があったんだ。迷ってるとこ」
クリステルの表情に、焦りが見える。
「あちらは、どういう条件かな?」
「僕が、ヴァルス公爵と結婚する。或いは、僕と公爵との子を養子に差し出す」
「おいっ!」
落ち着けアルトス。エスカは、カメラに写らない角度で、アルトスの足をつついた。
「明らかに、イシネスの方が豊かですからね。ですから諦めてください」
「そういう問題ではないな」
クリステルは、余裕を取り戻したようだ。
「王妃などという堅苦しいものでなく、国王の庶子として気楽に過ごす。どうだ?」
そういう人生を、エスカは考えたこともなかった。
「それ詐欺でしょ」
「バレはしないよ。それにしても、自分でも理解できないのだが。エスカは、わたしの子だと確信している」
めちゃくちゃである。
「何故、そう言い切れるんです?」
「ひとつ聞くが。イシネスの王妃は、シャーマンだろう? それなら、自分にとって都合の悪い記憶を、消せるのではないかな?」
おやおや。妙な知識があるではないか。
「シャーマンの素質があった、と言うだけですよ。何の訓練も受けていないのですから、そういう高等技は無理ですね」
「え、それって高等技なの?」
アルトスが口を挟む。
「そうだよ。だからまだ教えてないでしょ」
「そういうことか。というわけで、陛下諦めてください」
「では、わたしはイシネスの王妃と不倫をしていないのだな」
「そうなりますね。でも、僕にそういう提案をしてくださったことには、感謝いたします」
エスカは安堵した。喧嘩しないで済むなら、それに越したことはない。知らない方がいいこともあるだろう。
「陛下。あなたは豊かなお方であらせられます。お子さまたちが、次々とお産まれになるでしょう。お孫さまたちもね。
これ以上、何をお望みなのです? どうかお心平らかにお過ごしくださいますよう」
エスカは深く一礼し、リビングを出た。ボロを出さなかっただろうな。緊張もしたが、久しぶりによく眠れそうだ。
寝室に行くと、ベッドはリトヴァとアンブロシウスに完全占拠されていた。枕に平行に寝ているのだ。せめて縦に寝てほしい。
何とかふたりを押し返し、ベッドに潜り込む。子どもたちとシャワーは済ませている。後は寝るだけだ。
翌朝、アルトスは大学に行くと言って、朝食後出発した。
「どうやら諦めてくれたようだ」
車まで見送りに出たエスカの頰に、アルトスはキスをしてくれた。
その週末、今度はウリ・ジオンが来た。ランチ持参である。
「この前、アルトスが来ただろ? 父親として、公平に訪問しろというセダのお達しだよ」
「サイムスの提案に聞こえるね」
ウリ・ジオンは笑って頷いた。
「悪いけど、長居はできない。農場を手伝う日だからね。かと言って、平日は来られないし」
本当に時間がないのか、ウリ・ジオンはみんなでランチを食べながら話をした。
「アルトスからラヴェンナのこと、聞いたよ。解決したようだね。よかった。
ラヴェンナ王は、エスカの子ふたりとも、アルトスの子だと思っているようだね。
タンツの父は父で、ふたりとも僕の子だと思ってるし」
「そう思うのが普通だよね」
ふたりは微笑んで頷きあった。
「それで、エスカが、イシネスの情報を持っていると聞いた」
「イレから交信があったんだよ。途中経過だけど。帰国したら、アダに報告するはずだ」
「便利だな。盗聴はされないし」
ウリ・ジオンは羨ましそうだ。『僕は盗聴できるけどね』という余計なことは、言わずにおいた。
エスカがイレの話を報告すると、ウリ・ジオンは、心配そうな表情を見せた。
「モリスは、善良だし温和な人だ。でもその『夢見る会』のメンバーの中に、過激な人がいるかも知れないな」
「うん。でも無理に拉致はしないでしょ。本人が拒否すれば、それまでの話だし。
何とか解決法を見つけてくれるといいな。で、何かあったのウリ・ジオン」
ウリ・ジオンは、曖昧な笑顔である。
「実は、タンツ商会のライバル会社から、婿ばなしがあった」
「え! それで?」
「即、断ったよ。考えたこともないから」
エスカは考え込んだ。
「僕が追い出されて親父を恨んでいるなら、取り込めると思ったのかな」
「乗っ取りでしょ。息子に復讐させてやると見せかけて」
ウリ・ジオンは驚いたようだ。
「で、商会に戻る気はあるの?」
「それがさ。僕、本当に今の境遇に満足してるんだ。農業大好きだし。
でもね。この前、父の治療でシボレスに行っただろ? その時に仕事を手伝った。そしたら楽しくてさ。
どっちの仕事も大好きなんだってわかったよ」
「それも、ある意味厄介だね」
笑うしかない。
「だから、もし父から戻れコールがあったらどうしようかと」
エスカは言い淀んだが、結局口にした。
「ウリ・ジオンの将来に、口出ししてはいけないと思うけど、参考までに聞いてね。
どうしても、農夫姿のウリ・ジオンを、思い描けないんだよ。ビジネススーツを着て、てきぱきと指示を出している姿しか想像できない」
「……ミズ・コッタンに、男の子がふたりいるんだけど。ふたりとも優秀だそうだ。長男は今年から大学生になった」
「ミズ・コッタンは、そんな昔からタンツ氏と?」
「うん。だから父は引け目があって、ヴィットリアに甘くなっているのかな。その子に、跡を継がせるつもりだと思うよ。
だから、僕に声がかかるとしても、彼が跡を継げるようになるまでのつなぎだろうな」
「ちょっと待って。タンツ氏は、もしかしてウリ・ジオンのこと分かってるとか?」
「かも知れないと、最近思うようになった。
考えてみたら、父には、幾らでも検体を手に入れて、DNA検査をするチャンスはあったはずだよ。一緒に暮らしていたんだしね。
ヴィットリアの遊びぶりを見て、疑念が湧いても不思議はないだろうな。
ヴィットリアにすれば、王宮にいた時の延長程度の感覚かも知れないけどね」
それでは、ウリ・ジオンはどうなるのだ。都合よく利用されるだけじゃないか。
やっぱり、ウリ・ジオンはひとりぼっちじゃないか。
「それに、確かに商会内部は、現在ごたごたしているんだよ。アダ経由で、いろんなことが耳に入って来るから、知ってるんだけど。
諸悪の根源は、ヴィットリアだってさ。この前ラドレイ警察に呼ばれたのも、何故かバレてるし。
イレの件だって、誘ったのはヴィットリアに決まってるし。
だのに、ヴィットリアには何のお咎めもなく、イレだけが責任を取る形で退職した。
かてて加えて、僕のことまで蒸し返してね。噂では、僕の恋人を気に入らなかったから、ふたりまとめて追い出したことになっている。
黙って見ている父も父だと。でも僕は、父を責める気はないよ。忙しい中で、本当に可愛がってくれてね。
大学の授業料も、今だに毎年払い込んでくれてるんだ」
「……タンツ会長とはいろいろあったけど、僕に生活を与えてくれた大恩人だ。
ウリ・ジオンは、僕を、地獄から天国に引き上げてくれた命の恩人だと思ってるよ。
だから、僕がお手伝いできることはなくても、見守ることはできる。何でも言ってね」
ウリ・ジオンはエスカを抱きしめ、髪にキスをしてくれた。
それから約一ヶ月後、珍しいことに、セダから電話があった。
「元気か? イレが魔女号から帰国したよ。
報告会と歓迎会を兼ねて、農場に全員集合だ。今週の土曜な。夜やるから、みんなを連れて、泊まるつもりで来いよ」
顔の見えない電話で助かった。
「ごめんなさい。身重の身で、民族大移動は無理だよ。でも誘ってくれてありがとう」
「そっか。身重だったな。調子はどうだ?」
「順調だよ。でも、家で静かにしていたいんだ」
「わかった。残念だな」
セダは、あっさり引き下がってくれた。エスカは胸を撫でおろす。仲間たちは、みんな優秀な頭脳の持ち主だ。
だが、如何せん男性の身。デリケートな感情には鈍い面がある。
エスカは、シェトゥーニャと衝突して農場を出て以来、夜の農場が苦手になった。
その説明をすれば『まだ根に持っているのか』『執念深いな』と呆れられるだろう。
暗闇と静寂の中に佇む農場。思い出すと、足が震えそうだ。
ウリ・ジオンに嫌われたという恐怖。誤解だとわかった後でも、それは変わらない。
完全にトラウマになっている。もし『闇雲』の術を掛けられたら、エスカに見えるのは夜の農場だろう。
頭を振って、エスカはタブレットに向かった。小説を読むためだ。子どもたちを育て、二匹の世話をする。
それだけで十分幸せではあるが、エスカは自分のためだけのこともしたかった。
オンライン大学は、まだ当分不可能だ。考えた結果、本を読むことにした。
これまでエスカが読んだ本といえば、宗教系の本(神殿育ちである)と実用本が中心だった。
未経験のジャンルの本を、読んでみたかった。
小説というものが、想定外に面白い。エスカは、のめり込んだ。生活がより充実したのを感じた。
それからギターラ。アルトスに手ほどきをしてもらった。タブ譜を検索し、童謡のような易しい曲から練習を始めた。
これが子どもたちに大受け。エスカがギターラを弾き始めると、リズムに乗って身体を動かす。実に楽しそうだ。
女神殿にいる頃、学院の生徒たちが、教養としてのダンスを教わっていた。
巫女や見習い巫女たちは、よく舞を舞っていた。
エスカは羨ましく思ったが、別世界のことと割り切っていたので、羨望が嫉妬に変わることはなかった。知らないでも生きていけたし。
確かに、音楽も、多分美術も、必需品ではない。だが、あれば生活が豊かになることを、エスカは知った。
これまでの暮らしに、そうしたものが欠如していたことにも、気づいた。読書もそうだ。
贅沢な暮らしではなく、心豊かな暮らしを子どもたちと送りたいと、エスカは願った。
大して身が重いわけではないが、ある程度安定したことから、エスカは、ディルに妊娠した旨報告した。
知らせておかなければならないことがあったのだ。それはほぼ確信に近かった。
「それでね。お腹の子だけど」
「ちょっとお待ちください。閣下がおいでなので、スピーカーホンにします」
「やぁエスカ。おめでとう」
いや、おめでたいかどうか。
「お腹の子、僕みたいかも知れません」
電話の先のふたりが、不審そうになったのがわかる。
「上のふたりに異常はありませんでした。確率からいって、次はその可能性は高いと思われます」
「そのことか。幼いうちに手術を受ければ、問題はないのだろう?
気にすることはない。
それに、わたしからも報告がある。いや、報告ではなくお礼だな。エスカは、わたしが結婚できない身体なのに、気づいていただろう?」
「あ、はい」
「それが治った。この前、子づくりのキスをして以来、普通になったと言うか。
すぐに言わなかったのは、それが一過性の状態なのかどうか、様子を見ていたからなのだ。で、ずっと同じ調子なのだよ」
「本当です! ありがとうございます」
とディルの歓喜の声。
「これで、胸を張って生きて行ける。人生に自信がついたよ。
エスカには感謝の言葉もない。他に困ったことがあるなら、何でも言ってほしい。
タンツに丸投げしておいて、悪かったな」
「そんな。それこそお気になさらず。僕の産んだ子は、みんな僕のものですから」
「こらこら、何を言う。父親の存在を忘れてもらっては困るではないか」
エスカは、この大真面目な男をからかいたくなった。
「へえ。一分か二分の協力で父親と?」
狼狽したであろう男の後ろで、ディルの笑い声が聞こえた。
農場で、イレを囲んで宴会、いやさ呑み会が行われた次の週、エスカの脳裡に届いたものがあった。
それで、大学にいるであろうウリ・ジオンに電話した。迷惑にならぬよう、昼休みまで待ってのことだ。
「エスカです。今大丈夫?」
「いいよ。大学近くの公園で、イモジェンとランチ中」
ちょっと羨ましいかも。
「ヴィットリアだけど。早めに婦人科を受診するように、言ってくれないかな」
「え。どういうこと?」
「乳がんぽい。ごく初期だから、自覚症状はないし、転移もしていないよ。しこりがあるとか言って、精密検査を受けてほしいんだ」
ウリ・ジオンは、動揺したようだ。
「わかった。ありがとう」
「はいエスカ。元気?」
イモジェンが割って入る。
「聞こえちゃった。ウリ・ジオンを慰めておくね」
「よろしく」
エスカは、
笑って電話を切った。相変わらずイモジェンは明るい。
翌日の夜、早速ウリ・ジオンから電話が来た。
「今日受診して、検査を受けたそうだ。結果は二週間後だって。ありがとうな」
これで、まずは安心だ。エスカにとって、ヴィットリアは近づきたくない人のひとりではある。
だがウリ・ジオンを産んでくれた人、大恩あるタンツ氏の妻である。気づいた以上、放置はできない。後は報告を待つのみ。
ウリ・ジオンはマメである。二週間後に報告が来た。
「初期の乳がんだってさ。発見が早かったから、転移はしていない。エスカの言った通りだよ。
手術は混んでいるから、三週間待ち。急ぐ患者ではないしね。術後の入院は、約一週間。
その後は、自宅療養だよ。本当に感謝してるよエスカ」
すると、タンツ氏は札びらを見せて、妻の手術を優先させるようなことは、しなかったのだ。さすがである。
エスカは、たとえ小さなことでも、他人の幸せに貢献できて、この上ない喜びを感じた。
一ヶ月後の週末、ウリ・ジオンが来た。
「今日は、報告と相談があるんだ。帰りは急がなくていいってさ」
と言う。みんなで、ゆっくりホロのランチを食べ、子どもたちがお昼寝に入ったところで、おとなふたりのお茶会である。
「まず報告ね。ヴィットリアは、予定通り入院、手術して、無事に退院した。
ヴィットリアにとって、予定通りでなかったのは、その後だ。
退院後は、別荘で療養することになっていたんだよ。みんなでラヴェンナに行った時、ホテルに泊まっただろ?
エスカが、マデリンに出くわしたあの町だ。
海辺で気候が温暖で、観光地にもなっている。あのホテルの他にも、商会所有のビルがあってね。
その最上階をリフォームした。僕たちの合宿所みたいにね。
父は、何もしなかったんじゃない。機会を窺っていたんだな。
広いから、リフォームに時間がかかったこともあるけど。
そろそろ、ヴィットリアに引導を渡そうと思っていたら、この度の手術騒動だ。ヴィットリアには悪いが、いいタイミングになった。
病院には、常務が迎えに行ったよ。常務は、いわば父の懐刀でね。実際、今回煩雑な手続きをやってくれたのは常務だ。
車で、ヴィットリアをヘリポートに連れて行った。そこで父が待っていたと。
『そのまま、向こうで暮らしなさい。生活の心配はいらない。予後については、現地の病院に連絡済みだよ』
と言ったら、ヴィットリアは青褪めたそうだ。だが父の揺るがない表情を見て、受け入れるしかないと覚悟したらしい。
王宮での暮らしを、そのまま一般人の暮らしに持ち込んだのが間違いだったと、気づいたのかどうかは、知らないけど。
父にすれば、大国の王女を知らない国に連れて来て、一般人にしたのだからな。責任を感じているのだろう。だから離婚はなしだ。
オッタヴィアはまだ学生だから、シボレスに残る。卒業後どうするかは、本人に任せると」
「あのもしかして、オッタヴィアもタンツ氏の種ではないかも?」
「多分ね。産んだ本人にも、誰が父親かわからないかもね。オッタヴィアは、何も知らないだろうね。知る必要もないし。
父が、エスカに感謝していたよ。さて、ここまでが報告」
エスカは大きく息を吐いた。同時に、複数の異性と付き合う人がいるとは。
エスカも、父親の違う子を産んではいる。が、事情は全然違うと思いたい。
「実は、父から提案があった。ラドレイ支社長に就任してくれないかと」
エスカは頷いた。いずれそういう話が来ると、思ってはいたのだ。
「ヴィットリアを追い出して、イレを戻すという案もあったそうなんだ。適任だしね。
一応イレに打診したら、固辞されたと。こういうのは理屈じゃないからさ。
僕はまだ院生。この話を受けるなら、退学しないとね。二足のわらじは履けない。
ミズ・コッタンの長男が大学を卒業して、タンツ商会に就職。新卒待遇から始める。
経験を重ねて重役に昇進。最短距離でね。二才下の次男も後に続く。
僕が、若いのにラドレイ支社長というのは、以前からいろいろ手伝っていて、仕事も内部事情も、分かっているからだと思うよ。
僕の仕事は、そのふたりが一人前になるまでのつなぎ、というわけだ。
かれこれ、十年はかかるかもね。その後は農場に帰るよ。帰るところがあって、よかった」
ここで初めて、ウリ・ジオンは笑顔を見せた。エスカは俯いたまま、首を横に振っている。そこに、ウリ・ジオンの幸せはあるのか。
「そうなると、農場はセダに任せきりになるだろ? だからみんなに相談してみた。
もちろんイレにもね。仲間になったんだからさ。
そこで、イレに打診があったことを、知ったんだよ。全部話してくれた。人望が厚かったのも、道理だと思ったよ。
で、結論として、エスカに相談してみろと」
「ちょっと待ってよ。何で、一番人生経験のない僕に?」
「
「近しくない人のはね」
「そう言えば、そう言ってたな」
ウリ・ジオンは、ため息をついた。
「そんな簡単に未来が分かれば、苦労はないよな」
「ウリ・ジオン。もう決めてるんでしょ?」
「うん。父には世話になりっぱなしだから、恩返しをしたい」
あんなにつらい目に遭わされたのに。眉間に皺を寄せて考え込むエスカを見て、ウリ・ジオンは隣に座った。
エスカの肩に腕を回す。
「それが終わったら、無罪放免だ! 農場で楽しくやるぞ~!」
カラ元気に聞こえる。
「あのさ。ひとつ条件を出していい?」
「もちろんだよ。何かな?」
「ひとり参謀を連れていくこと。ウリ・ジオンは人が好いから、悪意に気づけないかも知れないよ。世の中、善意の人ばかりじゃないからさ。
候補としては、クレ三のひとりね」
「クレ三?」
「クレバー三人組。イレ、アダ、セダだね。イレはこの際パスかなぁ。でもみんな仕事持ちでしょ。そこのところは相談して。
因みに僕、ウリ・ジオンたちのこと、パー三て呼んでた」
「なに、パー三って? ちょっとイヤな予感」
「パー助三人組だよ」
「あ、こいつぅ!」
ウリ・ジオンは、笑ってエスカを抱きしめた。
後のことは、みんなで相談すれば何とかなるだろう。さてどうなるか。エスカは静観することにした。
苦労のない人はいないけど、ウリ・ジオンは、気苦労が多過ぎる気がした。せめて恋人がいてくれたら。
「さて、今週の稼ぎはどうかな」
ウリ・ジオンが帰った後、 エスカはタブレットを開いた。通帳の残高を確認するためである。
途方もない金額が振り込まれていた。イシネス王室からの振り込みである。仰天したエスカは、ディルに電話した。
「代わります」
恐らく笑顔のディルである。やはり笑顔らしい公爵に代わった。
「その金は、エスカのものだよ。遅くなって悪かった」
理解できないエスカである。
「エスカがイシネスを出る頃は、使途不明金やら裏金やらの問題があってな。金を動かせなかったのだよ」
王女が殺人を命じた際の、金の動きもあったのだろうし。何となく、エスカにも理解できた。
「それで、当時は、タンツ氏に頼らざるを得なかったのだ。エスカには重荷だっただろう。いろいろあったことは、耳に入っている。
だからこの度、エスカ渡航の際に援助してもらった分は、全てタンツ氏にお返ししたよ。丁重に礼を申しあげてな。
その後、タンツ氏から、お
礼だのお詫びだのと頂いたものは、全てエスカの功績の賜物だよ。胸を張って受け取っていい。
随分と時間はかかったが、この度ようやく会計監査も終わって、予算を組むことができた。
現在、王族はエスカひとりだ。先の王妃の娘だからな。わたしは元王女の婚約者とはいえ、一貴族に過ぎない立場だよ。
だがエスカが王位につかない今、わたしは国のトップとして政務を行なっている。これも称制と言えるだろうな。
その金は王族費の一部だ。遠慮なく受け取ってほしい。毎年それくらいは送る予定だ」
「これきりにしてください。多すぎます。家が何軒も建てられる額です。一生寝て暮らしても、お釣りが来ますよ。他の事に使ってください」
「いいのか? 実は、やりたい事業があるのだが」
公爵の声が弾む。
「クーデターの際に、野戦病院化した、王城近くのモリスの屋敷。そこを借りて、病院を造る計画があるのだ。あそこは場所がいいからな。
広い敷地に病院を建てる。屋敷は職員の居住区域にする。しっかりした造りで、調度品も立派だ。
モリスは使ってほしいと言っている。
病院には最新の設備がいるし、医師や他の職員の確保も必要だ。幾ら金があっても足りないのだよ。エスカの金、全部使ってしまうぞ」
公爵は楽しげである。
「どうぞどうぞ。残り全部をお使いください」
いい話ではないか。エスカも楽しくなった。
「ひとつ、よろしいですか」
明るい声のディルである。
「例の『他国人との通婚禁止令』は、来週の貴族会議で撤廃される予定です。過去にも遡れますから、エスカさま、堂々とご帰国なされませ」
「交易も盛んになるだろうな。今から楽しみだよ」
公爵の声は、弾んでいた。
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