第2話

 一週間後、アダから連絡が来た。さすが会長、打つ手が速い。悪い予想が当たり、お隣さんは会長が買い取ったそうだ。

「それでな。全面リフォームして、エスカに無料で貸し出すと言っておいでだが」

「なんで、そこまでしてくれるのさ?」

「命の恩人だからじゃないかな」

「それ、普通だと思う?」

「いや。そもそも普通の人は、そんなに金を持っていないしな」

「まさか、まさかだけど、リトヴァのことバレてないよね?」

「う。今の商会に、セダと俺以上の連絡員がいるとは思えんが。エスカが妊娠したこと位はご存知かもな。

 それなら心配いらないよ。双子のことは言わずに、アルトスの子の写真だけ見せればいいんじゃないか」

「そっか。でもその話はお断りしてね。お気持ちだけ頂くということで。それで僕の土地は、売却して欲しい」

「わかった。セダと相談して話を進めるよ」

 通話を切ってから、エスカはため息をついた。あの場所、気にいっていたのに。破壊されたということは、縁がなかったのか。


 二、三日後、再度アダから連絡である。売却話が進んでいるのかと、期待してエスカは電話に出た。

「会長に話したんだが。一度断られて引っ込むお方ではない。別の提案をしてきたよ。

 つまり、エスカに売りたいそうだ。賃貸並みの家賃を払って、十年後にはエスカのものになる。どうだ?」

 諦めの悪いヤツ。一瞬そう思ったが、エスカの心に迷いが生じ、返事をためらった。

「エスカが、タンツ家と関わりたくない気持ちは置いといてだ。いい話だと思うがな。

 あの場所、気に入ってるんだろ? その隣の家だ。今の土地と地続きになるわけだ。

 将来を考えると、ここは受ける方がいいんじゃないかな。セダもそう言っている。

 もちろん、エスカの気持ちに負担がかかるようなら、断ればいいよ。

 それともエスカ。農場に戻る気はあるのか?」

「……あのさ。この提案を断ったら、会長は諦めると思う?」

「いや。また次の手を出して来るんじゃないかな。

 会長はな、仕事に関して、これは駄目だと思えば、様子を見てすっと引く方なんだが。エスカにはなぜか執着している」

「なぜかわかる? 僕さっぱりでさ。当て推量でいいから、思い当たる節があるなら言ってよ」

「ん~。例えばだな。ウリ・ジオンとシェトゥーニャが別れたのは、耳に入っているかも。

 農場側からは漏れないが、舞踊団側から漏れたということは、あり得るな。

 エスカは、息子の嫁候補というのはどうだ? エスカに良くしておけば、それはとどのつまりウリ・ジオンの役に立つだろう? 

 あの御仁は、息子を取り戻したくて、チャンスを狙っているとか。それとも、エスカの能力で大儲けさせてもらえるかもとか」

「さすがアダ。ストーリーテラーだね。今までもいろいろ脚本書いてくれたもんね」

 ふたりは笑った。

「でもね、僕が嫁だなんて、それはあり得ないよ。『氏より育ち』っていうでしょ。

 会長夫人がシェトゥーニャに反対していたのは、そういう理由もあるかもしれないって、最近思うようになったんだ。

 大富豪の御曹司と、砂漠の民の長の娘とはいえ、つつましく暮らしていた女性。育ちが違い過ぎるでしょ。

 僕もそうだよ。僕は奴隷同然の育ち。今どき奴隷なんていないから、僕の相手はいないことになる」

「エスカ! エスカが奴隷根性の持ち主なら、シェトゥーニャの提案を、嬉し涙を流して受け入れただろう。

 だがお前は怒った。誇りがあるからだ。それを忘れるなよ」

「でも本当のことだ。だから会長がそういうお考えなら、絶対に無理。なんとかうまく躱してよ」

「う。セダと相談してみる」

「ありがとう! よろしくね」

 通話を終えて、エスカはソファにへたりこんだ。ふたりの子どもたちとアスピシア。自分の意志だけで滝壺に飛び込むことは、もはやできないのだ。

 いつまでもマーカスのお世話になるわけにはいかない。アスピシアのことがあるからだ。

 農場とは、とうに気持ちが離れている。何処へ行ったらいいのだろう。エスカは途方に暮れた。


 その夜、農場から連絡が来た。わちゃわちゃやっているところからして、スピーカーにして騒いでいるのだろう。

「エスカ! イシネスの件、片付いたぞ!」

「説明するから、週末に来い!」

「署長も一緒にな。もちろん赤子たちもだ」

 片付いたのか。一気に肩の力が抜けた気がする。もう安全なのか。大学に行けるかも。ぎりぎり間に合いそうだ。エスカは、久しぶりに楽天的になれた。


 週末、エスカとマーカスは、ふたりの赤子を連れて、農場を訪れた。ふたりはずっと、チャイルドシートで眠っていてくれて、助かった。

 農場の住人たち、セダとウリ・ジオン、サイムス、アルトスが今や遅しと待ち構えていてくれた。

「後で、アダがホロのランチを持って来てくれるからな」

 ひとまず、マーカスと赤子たちは屋内に入る。エスカが足元を見ると、アスピシアがお座りしていた。

 人間たちの挨拶が終わるのを待っていたかのようだ。早速エスカに飛びつく。

「わああ! 久しぶりアスピシア!」

 エスカは押し倒され、大歓迎を受けた。視界に入ったのはカエサルか? 中型の長毛種。白黒のバランスがとれていて、美しい。

 

遠慮がちにこちらを見ている。エスカは起き上がった。

「やあ、カエサルだね? はじめまして。僕はエスカだよ。アスピシアから聞いてるかな?」

 尻尾を振りながら、エスカを見上げる。賢そうな目。仕事をお払い箱になるほど、高齢ではない。

「少し触っていい?」

 カエサルが僅かに身を引く。アスピシアがカエサルに頰ずりをしてなだめた。カエサルは、安心したように地面に座りこむ。

「足が痛いんじゃないかな」

 静かに話しかけながら、エスカはカエサルの足をそっと撫でた。カエサルは気持ちよさそうに目を閉じる。そこにセダがやって来た。

「獣医に診てもらったんだが。元々関節が弱いらしい。推定八才。事情は以前話した通りだ」

「……この子、真面目で素直?」

「そうなんだよ。だから飼い主さんのために、一生懸命働いた。無理をしたんじゃないかな」

「……酷い飼い主だ」

「全くだ。だから、ここでのんびりしてもらってる。アスピシアと気が合うみたいだ」

「アスピシアにとってもよかったね。初めてできた動物のお友だちだ。それでこの関節だけど。年齢相応くらいには回復できるよ」

「おお!」

「毎日朝晩マッサージしてあげて。アスピシアもね。僕も毎週見に来たいと思ってるけど。日ごろが大切だから」

「ここに帰る気はないのか?」

「気持ちとして無理。僕ね。ここを出る時、きっぱり気持ちを切り離したから」

 セダは無言だった。

「はい。ではおまじないをしてあげよう。マッサージの効き目がアップするよ。両手の平を上に向けて」

 セダは、素直に大きな手をエスカに差し出した。エスカは、自分の手をセダの手に重ねる。

 小さく開かれたエスカの口から、呪文らしき言葉が紡ぎ出された。合わされた手と手の間から、光の洩れるのが見える。数十秒間だった。

 エスカが手を放した時、セダの手に、なんとも言い難いぬくもりのようなものが残ったはずである。セダは感動して、無言のままその場に立ち尽くす。

「サイムスにも手伝ってもらおう。これはね、動物専用じゃないから。疲れてる時なんか、さすってあげるといいよ。こんな感じで」

 エスカは、セダの手を軽くさすった。労働のせいで、硬くなっている手。節々は太く、マメだらけの尊い手。

「ああ」

 心地よさそうに、セダは目を閉じた。目を開けた時、手は柔らかくなり、マメは消えている。セダは、目を瞠った。

「直接肌に触れる方が、効果があるから」

 エスカは、カエサルのマッサージを終えて、アスピシアに取りかかっている。カエサルは眠ってしまった。

 その時、エアカーが見えた。アダのエアカーだ。

「ランチが届いたぞ!」

 サイムスが窓から顔を出して、エスカとセダを呼んだ。セダが手招きをして、サイムスを呼ぶ。再びおまじないタイムである。

 一同、ご機嫌でホロのランチを食べた。マーカスは、自分も呼ばれたことが嬉しいらしく、終始にこにこしている。

 食べ終えてお茶になった時、アダが口を開いた。

「まず俺から報告。で、いいよな?」

 アダは窓口のウリ・ジオンに確認する。

「モリスに直接聞いたんでな。モリスがディルと相談して、ラドレイ支店の店員を募集した。

 イシネスの品物を売るのだから、イシネス人がいる方がいいという触れ込みだ。

 ただ、現在は出入国禁止になっているから、それが復活するのが大前提だがな。

 面接はイシネスで行ない、特に美術の知識は必要ないことにした。応募者多数だったそうだ。その中に、サクラとしてヒルダさんがいた。

 ヒルダさんは、現在タクシードライバーとして働いていてな。モリスの紹介で、大手のタクシー会社に勤務している。

 エスカが、

モリスに口利きしてくれたのを知っているから、協力を惜しまないという姿勢だった。

 真面目に働いて、重宝されているとさ。本人は、自立できて喜んでいるよ」

 よかったヒルダさん。エスカは安堵の笑みを浮かべた。

「面接にはモリスが当たったが、皆さん、前もって用意した模範解答しかしないわけだ。順番待ちしている時、ヒルダさんが周りの人たちと世間話をしたそうだ。応募者は、女性が多かった。

 同性同士ということもあって、井戸端会議ふうに話が弾んだ。こういう話術は、女神殿で学んだそうだ。思わぬところで役に立ったわけだな。 

 その中から、ヒルダさんが不審者をチェック。モリスに報告した。モリスからディルへ。ディルは、該当者に監視を付けた。

 その二、三日後、該当者の家に、ガスの点検が入った。近所でガス漏れがあったそうでな。

 業者と覚しき人物は、ついでに盗聴器を仕掛けていった。

 その結果、ある日ある家で集会が開かれることがわかった。イシネスでは、カルトは重罪だ。王立警察が踏み込み、一網打尽。

 当日参加しなかった者も、逮捕者の口から聞き出した。

 イシネスでは、完全に根を断ち切ったと言えるだろう。ほぼ解決だ。エスカ、安心していいよ」

「ありがとう。いろいろやってくれたんだね」

「出入国禁止か。就業も観光も中断。イシネスからの留学生は元々いない。もしイシネス人がいるとしたら、どういう事情だ?」

 さすが軍警察の准将。疑うのが仕事である。エスカは少し考えこんだ。

「治療かな? 外科手術は、シルデスが進んでいるんだ。だから難しい手術はシルデスで受ける。金持ちだけだけどね。

 そういう事情なら、出入国禁止の状態でも、特別に許可は出るはずだよ。医師の診断書は要るけど」

「どういう病気だ?」

「心臓とか脳とか。転移しちゃった癌とか。大怪我もあるかな? 

 本人は動けなくても、必ず付き添いはいるでしょ? その人は動ける。

 手術を終えて、何日かして退院。しばらくホテルで休養して、体力が回復したら帰国。というのが典型的なパターンかな」

「クーデター後にシルデスに入国して、手術を受けても帰国しない人物か。或いは医師もグルかもな。ちょっと失礼」

 マーカスは携帯を持って室外に出た。

「あの。これマーカスも知ってる話だから、今話しておくね。協力してほしいんだ」

 一同の期待の眼差しに、エスカは苦笑した。エスカは眠っている赤子たちに視線を向けた。

「この子たちのこと。何日か前、マーカスのいる所で覚醒したんだけど」

 アルトスがぴくりと動いた。その時の状況を、エスカは説明した。

「リトヴァまで?」

 ウリ・ジオンは呆然としている。

「取り敢えず封印した。時々チェックするけど、もし僕のいない時にヘンなことがあったら、すぐに教えて欲しい。バレたらまずい」

「学者センセイとか?」

「諜報機関とか?」

「神殿関係もか?」

「そう。様子を見て、五才前後かな? に解除。その後訓練に入るよ。じっくり教えて、成人する頃には仕上げるつもりだ。だから、それまでずっと僕と一緒だよ」

「わかった。よろしく頼む」

 アルトスが座ったまま一礼した。ウリ・ジオンが続く。サイムスが、きょとんとした顔のまま質問する。

「俺、そういうの全然知らないから、馬鹿なこと聞くけど。そういうのって、赤子のうちからできるもんなの?」

「人による。僕も早かったようだ。だから巫女さまたちは、決して僕を手放そうとしなかったのさ」

「それなら、もっと大切にしてくれてもよかったんじゃないか」

 サイムスの言葉に、一同が頷く。そこにマーカスが戻って来た。なぜか目覚めた二匹が付いて来た。

「アルトスは遅かった。何か刺激があると、覚醒することが多いそうなんだけど。第二次性徴期とか、性体験とか」

 エスカはいたずらっぽい目でアルトスを見た。ここで赤面するようなアルトスではない。ふん、というようにエスカを見やる。

「僕が気づいたのは、アルトスが、合宿所でギターラの弾き語りをしてくれた時だ。あの時、僕は共鳴した。それで疑念がわいた」

「あの時か! 気づかなかったな」

 アルトスは驚いたようだ。

「歓迎フェスティバルの野外コンサートの時には、距離があったせいもあって、疑いもしなかったんだ。ただ感動しただけだった」

「そう言えば、エスカ泣いてたもんな」

 余計なこと言うなよウリ・ジオン。アルトスが反っくり返る。

「それで訓練を始めてみたら、爆発的に霊力が出て来た。それまで抑えられていた分、待ちかねたようにね。こういう例は珍しいと思うよ」

 ふんふんと、アルトスはご機嫌で聞いている。一同、感嘆の眼差しでアルトスを見ていた。

「それで、アルトスには申し訳ないと思っている。初歩しか教えてあげられなかった。もう訓練する機会はないからね」

「なんでだよ! 時間はなんとかなるんじゃないか」

 アルトスは口を尖らせた。エスカは首を振る。

「三年か五年、休学して修行に専念する覚悟はある?」

 絶句するアルトス。

「現実的ではないでしょ。次の機会は、この子たちが免許皆伝になった時だね。教えてもらうといい。おじさんになっても覚えられるよ。多分……きっと」

 一同吹き出した。

「残念だったなアルトス」

「そういう事情や環境条件もあるから、やり遂げられる人は少ないんだよ。

 霊力があっても、環境が原因で修行できない。あるいは環境が整っていても、霊力がないとか。

 でもアルトス。なんとか機会を見つけて、教えたい気はあるんだ」

 アルトスは、はっと顔をあげた。

「うん。ひとつでもいい。教えてくれ」

 やっと場の空気が和らいだ。

「例のお隣さんの件だが」

 アダがセダの目配せを受けて、爆破された土地の経緯を説明した。

「会長は、単に命の恩人のエスカを援助したいだけかもしれないけどな」

「そんな単純なタマか」

 遠慮のないセダの言葉に、ウリ・ジオンが笑った。この親不孝息子が。笑顔のまま、ウリ・ジオンはエスカを見た。

「エスカは、僕の嫁になるのはイヤなの?」

「僕は、誰の妻にも愛人にもならないって、何度も言ってるでしょ」

「だからなんで?」

 エスカは少しためらったが、重い口を開いた。

「僕が複雑だからだよ。この子たちはもっと複雑だし。後々、面倒なことになるのはごめんだ。

 例えばね。僕はイシネスとラヴェンナの血を引いている。リトヴァにはタンツの血も入っている。シウスには、砂漠の民の血。

 どちらにも、

三つの系統の血が流れている。

 僕は、そういうのに囚われずに生きてほしいと思ってるんだけど。放っておかない人もいるでしょ」

 座は沈黙に包まれた。

「……会長は、どういう案ならエスカが受け入れてくれるか、思案しているんじゃないかな」

 とセダ。

「とにかく、あの土地を一刻も早く売ってよ。タンツ関係者以外に。あそこは広いから、分割してもいいしね。

 そのお金で、小さな家を買えないかな。家は、狭くても古くても構わない。ワンズたちのために、庭は広めが理想的だけどね。

 あ、そうなったら、カエサルも連れてっていい?」

 サイムスとセダは顔を見合わせて、頷いた。

「それがいいな。この子たちを引き離すことはできないよ」

「よかった~! ではよろしく」

 エスカが立ち上がろうとした時、アルトスが声をかけた。

「なんで、そんなにここがイヤなんだ? 戻って来れば、一番簡単じゃないか」

 エスカは再び腰を下ろした。

「あのね。シボレスの合宿所を出る時、僕は辛くて泣いたんだ。ずっとみんなと一緒に、あそこで暮らしたいと思って。辛いこともあったけど」

 アルトスが首を竦めた。

「思い返してみると、楽しかったことばっかりみたいな気がするんだよ。

 農場では、辛いことなんか何もなかったのに、思い出すのは、最後の晩のことだけなんだ。

 僕とアスピシアは、みんなを敵に回したでしょ。だから無理」

「ごめんな」

 小さくなるウリ・ジオン。

「ウリ・ジオンのせいじゃないって。僕が頑固で我儘だからだよ。 

 だからマーカス。引き続きお世話になります」

 エスカはマーカスに頭を下げた。マーカスは苦笑する。

「一生一緒に暮らそう」

「ダメ!」

 異口同音に、アルトスとウリ・ジオンが叫んだ。マーカスは、聞こえなかったかのように、平然と立ち上がった。

「官舎の庭は狭いからな。それに、街中で銀狐は目立つ。エスカ、いい方法を考えよう。呼んでくれてありがとう。楽しかったよ」


 別れを惜しむアスピシアを宥め、赤子たちを連れて、エスカとマーカスは帰途についた。

「善い人たちだな」

 運転しながら、マーカスはご機嫌だ。

「でしょ。僕、みんなのことが大好きなんだ」

「その博愛主義が騒動のモトなんじゃないか?」

「博愛主義って……僕にも嫌いな人はいるよ」

「当ててみようか。タンツ氏だな。だが命を救ったじゃないか」

「それとは別だよ。僕はね、王侯貴族と大金持ちが嫌いな

の。ただし、カシュービアンさまを除く」

 マーカスは苦笑した。

「ヴァルス公爵だな。ところで、ウリ・ジオンが手強いのには気づいているか?」

 え、とエスカはマーカスを見た。

「あのキレイな女顔。にこにこしてソフトな物腰。相手がちょっと強く出れば、一歩引きそうな、気弱な雰囲気。

 だが芯は強い。アルトスに遠慮する気は微塵もないな」

 エスカは当惑した。

「僕ね。農場を出る時に、ウリ・ジオンへの未練を断ち切ったんだ。だから、それはもうなし。

 取り敢えず、大学の託児所に空きがあるか、調べるね。

 どのみち、農場から市街地までは、エアカーで二時間。乳児には無理だよ。いい家が見つかるまで居候よろしく〜」

 マーカスは嬉しそうだ。


 調べると、託児所には幸いにも、まだ空きがあった。慣らし保育が必要ということで、早速週明けに面接に行くことになった。

「明日は日曜。双子用のベビーカーを買いに行こう」

 そうだった。襲撃を怖れて隠れ住んでいたから、ベビーカーは必要なかったのだ。


 一週間の慣らし保育も順調に進み、エスカは新学期に臨んだ。エアカーで、構内の託児所に子どもたちを届ける。

 学生の車通学は認められていないため、一旦車を近隣の駐車場に戻すことにしていた。無論契約済み。

 その最初の段階。車を託児所の横に一時停車して、まずはリトヴァを先に託児所に運ぶ。

 次にシウス、と振り向いた時に、盛大な泣き声が響き渡った。シウスである。

 これまでに聞いたことのない、恐怖に満ちた泣き声である。

 リトヴァを保育士に預け、エスカは外に走り出た。

 見ると、ひとりの女がシウスを抱いて、走り去ろうとしていた。

 俊足で追いついたエスカは、一瞬金縛りをかける。相手が固まった瞬間、シウスを奪い取り、金縛りを解除した。

 素人目には金縛りは見抜けず、単なる奪還劇に見えただろう。

 女は、勢い余ってうつ伏せに倒れた。ぐしゃりと、嫌な音がした。

 若い女の叫ぶ声が聞こえた。学生だろう。

「お巡りさ〜ん。こっちこっち」

 なんとマローン伍長が走って来た。容疑者を監視していたのかもしれない。

「その人が、赤ちゃんをさらおうとしたのよ!」

「僕も見てました!」

 騒ぎに気づいた学生たちが、ぞろぞろと集まって来る。引き起こされた女の顔は、血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。鼻骨が折れただろう。

 その時サイレンが鳴り、続いて構内放送が早口に流れた。

「職員は、ただちに構内を閉鎖してください。構内の学生たちは、講堂に集合してください」

 対応が速い。恐らく警官たちが網を張っていたのだろう。エスカはシウスを抱いたまま、さっき叫んでくれた女子大生を見た。

 見覚えがある。はっきりした目鼻立ちのその女子大生は、エスカに軽くウィンクした。

 イモジェン! サイムスの妹だ。同じ大学に通っていたのか。一年間休学していたエスカは、知らなかった。

 サイムスが話してくれなかったのは、エスカに気を遣ってくれたのだろう。

「ちょっと話を聞かせてもらえるかな?」

 伍長が、初対面のふりをしてエスカに話しかける。

「あ、はい。その子、お願いします」

 エスカは、リトヴァを抱いている保育士に頼んだ。シウスは、しっかりとエスカにしがみついている。

「お手間は取らせませんよ。そこの空き教室でね。あ、次あなたたちにも訊きたいことがあるから、少し待っていてください」

 イモジェンたちにも指示を出す。エスカは、まだぐずるシウスを抱きしめ、伍長の後に続いた。

「お疲れだったね」

 空き教室に入ってドアを閉めると、伍長は砕けた口調になった。

「容疑者が絞り込めたから、監視を付けていたんだよ。外の車で待機していたダンナは、先に曹長が確保した」

 再び構内放送が聞こえる。

「警報解除。学生の皆さんは、教室に戻ってください。間もなく授業開始です」

 初日から欠席か〜。前途多難である。エスカは、金縛りを省いて説明をした。

「わかった。正当防衛だから、問題はない。これでイシネス案件は、すべて解決だよ。怖かっただろう?」

 シウスを撫でてくれた。

「女は、受け付けを通さないで潜り込んだようなんだ。目撃者たちの証言を聞いてから、ここの警備主任にも話を聞くよ。

 曹長は署に戻って、容疑者たちに尋問だな」

「あの女子大生は、マーカスの妹だよ」

 立ち上がりながら、エスカは教えてやった。ビビるかと思ったら、伍長は嬉しそうに目を輝かせた。

「そうか! 協力してもらえるな」

 マーカスと署員たちは、うまくいっているようだ。エスカは嬉しい。

 廊下に出ると、数人の学生たちが待機していた。エスカは目でイモジェンに挨拶し、託児所に向かった。

 入り口の前で、エスカは不穏な空気を感じた。バッグの中に手を入れ、小型レコーダーのスイッチを入れた。何食わぬ顔で入室する。

 案の定、険しい表情の所長が、腕を組んで立っていた。中年の頰骨の目立つ、管理職然とした女性だ。

「困りますね」

 第一声である。

「ご迷惑をおかけしました」

 エスカはシウスを抱いたまま、頭を下げた。

「誘拐騒ぎなんて、開闢かいびゃく以来ですのよ」

 そうだろうが、シウスのせいではない。

「何か起きる時はね、ご両親に問題のあることが大半なのよね」

 タメ口になっている。相手は若い学生でシングルマザー。見下しているのがわかる。

 お座りして、ひとり遊びをしていたリトヴァが、不安そうにこちらを見る。他の保育士たちはと見ると、一同耳が遠くなったようである。

「あなたの場合、父親欄が空欄よね? 父親がわからないなんて、まともじゃないと言われても仕方がないわね。

 不特定多数とお付き合いしてたんじゃない?」

 そういうことになるのか。まるで娼婦扱いである。

 アルトスとウリ・ジオン。どちらにしても、後々面倒なことになると思って、敢えて空欄にしたのだが。浅知恵だったかもしれない。

「それにそのシウス君。ママ以外は駄目だなんて、そろそろ人見知りの時期とは言ってもねえ。他の人に会わせるとか、毎日お散歩するとかしていたの?」

 想定外の方向からの攻撃である。録音していることを知っているエスカは、言葉を選んだ。

「お散歩はしていません。今日のようなことを警戒していましたから。それに、あたし以外では駄目だなんてことはありませんけど」

「あるわよ!」

 所長は、カン高い声を上げた。

「あなたがこの子たちを預けていった後のことは知らないでしょう? 

 リトヴァちゃんは平気だったけど、その子ときたら! 

 食べることだけはまともだったけどね。後はにこりともせず、遊びもせず、ただ寝て天井を見ているだけだったのよ。ママがお迎えに来るまではね。

 このままだと、立派なマザコンが出来上がるわねぇ」

 エスカはショックを受けた。所長は、それ見たことかと言わんばかりに、両手を腰に当てた。

 シウスがそんなに繊細だったとは、知らなかった。辛い思いをさせてしまった。

「でも、慣らし保育の時は、何も言われませんでしたけど」

「気を遣っていたのよ」

 ではなぜ、この大変な経験をした時に言うのだ。今泣いてはいけない。泣くのは、家に帰って、子どもたちのお世話をしてからだ。

 それにしても、所長は途中から、終始にこにこ顔。自分が優位に゙立っているからだろう。

 よくこんな顔で、意地悪を言えるものだ。エスカはある意味感心した。

「とにかく、今日はこのまま帰ります。お手数おかけして、申し訳ありませんでした」

 振り向くと、イモジェンがドアの外にいた。いつからそこにいたのか。顔が強張っている。

「あ、リトヴァちゃんはあたしが」

 ずんずん中に入って行くと、リトヴァを抱きあげた。名前を知っているところからして、サイムスから事情を聞いているのかもしれない。そのまま踵を返す。

「車はどこ?」

 託児所のすぐ横に、一時停車したままだ。無言で、ふたりはベビーズをチャイルドシートに括り付けた。

「あれってパワハラ? それともイビリ? ハラ立つ〜!」

 イモジェンは怒り心頭である。エスカはバッグからレコーダーを取り出した。

「これ、マーカスに渡して」

 イモジェンは目を丸くした。

「それでエスカ、あんまり喋らなかったんだ。さすが〜!」

 えらく感心してくれた。

「女子寮にいるの?」

「そう。サイムスとアルトスがラドレイに行ったって聞いて、この大学にしたの。

 エスカもエヴリンもいるっていうしね。マーカスまで来たし。甥っ子たちもいる〜! やったね」

 明るい子だ。濃い目の金髪は惜しげもなくショートカット。やはり濃い目の青い目。表情に活気がある。

 動きもてきぱきしている。エスカは好感をもった。

「農場に行ったことはある?」

 イモジェンは、首を振った。

「母さんに言われたの。『アンタは図々しいんだから。お呼ばれするまで行っては駄目よ』ってね。反論できなかった」

 一緒に笑ってしまった。

「今週末、農場に行くんだけど、一緒に行かない? 寮まで送り迎えするから」

「行く行く! 楽しみ!」

 いいことがひとつあった。


 その夜、エスカは、託児所に退所届けを書いて送った。退学届けも送ろうかと思ったが、それは最後の手段。もう少し冷静になって、じっくり考えることにした。

 マーカスは、定時に夕食を買って帰宅した。

「あの所長には、他にもパワハラの余罪があると思ってな。調べさせている。

 託児所の仕事に支障が出ないよう、週末に取り調べをするよ。監視は付けているが、警戒されないよう、一見放置している。

 

その場にいた保育士たちも共犯で同様だ」

 食後のお茶を飲みながら、説明してくれた。

「よく我慢したな」

 抱きしめてくれた。


 週末、エスカは、イモジェンを迎えに女子寮に行った。赤子たちは後部座席でうとうとしている。

 マーカスは、当然出勤である。どんな取り調べになることやら。

 イモジェンは助手席に乗り込むと、開口一番に言った。

「ねぇねぇ。セダって、どんな人?」

「いい人だよ」

「サイムスも、それしか言わないんだって。それで母さんが心配してるの。抽象的過ぎるよね」

 無理もない。エスカは、信号待ちの時に携帯を取り出した。

「内緒だよ。隠し撮りだから」

 イモジェンは歓声を上げ、携帯の画面に見入った。セダとサイムスは、笑顔で何かを見ている。横向きで、奥のセダが手前のサイムスの肩に腕を回している。

 ふたりとも幸せそうで、まさにベストショットである。

「これ、あたしの携帯に送っていい? 今日の報告と一緒に母さんに送りたい」

「いいけど、それ以上拡散しないでね。僕、セダやサイムスに怒られたくないから」

 イモジェンは嬉しそうに笑った。

「これ見れば、母さん安心するね! それにしても、このセダっていう人素敵じゃない? なんていうか、渋い魅力」

 そこでエスカは、主神殿でのエピソードを披露した。ふたりで爆笑する。

 途中、ホロのレストランに立ち寄った。イモジェンを紹介するためだ。アダもいた。お互いに挨拶すると、アニタとグウェンは車に走った。窓越しに赤子たちを見て、歓声をあげる。

「大っきくなったね〜」

 ふたりは新生児期のふたりを知っている。赤子たちは、クマのぬいぐるみを抱えて眠っていた。

「今シフォンケーキの粗熱を取っているんだ」

 とホロ。

「シフォンケーキあるの! わあい! ホロのシフォンケーキは絶品なんだよ」

 エスカは、イモジェンに説明した。イモジェンも甘い物は大好物だと言っていたから、顔が綻んだ。

「俺が運ぶから。一足先に行っててくれ」

「お願い。僕たち、途中で休憩するから、アダの方が先に着くかも」

 小一時間飛んだ所で、エスカは着地した。

「この子たちを少し休ませるね」

 広い公園で、幼児や児童が走り回っている。エスカは、木陰の風通しのいい所にシートを拡げ、タオルを敷く。イモジェンがシウスを抱いて来た。次はリトヴァ。

 赤子たちはおむつを替えてもらい、ミルクをもらってご機嫌である。エスカとイモジェンは、芝生に腰をおろした。

「ねえ、シウス君だけど。あたしが抱いても平気だったでしょう? 

 所長が言うような、ママでなくちゃ駄目っていうのとは、違うと思うんだ。

 あたしの同級生のお姉さんが、男の子を出産したんだって。

 そしたらその子ね、ママ以外は全く駄目。パパはもちろん、ママのママも駄目で、お姉さんはひとりで全部やらなくちゃいけなくて、疲労困憊してたって。  

 だからね。シウス君はママでなくちゃ駄目というより、あの託児所がイヤだったんじゃないかと思うんだ」

 盲点だった。

「すごいねイモジェン! 柔軟な考え方ができるんだ!」

 絶賛されて、イモジェンは照れた。エスカにしてみれば、こういうタイプのブレインが身近にいるのは、心強い。

「それが慣らし保育のうちにわかっていれば、入所する前にやめられたのに」

 何が『気を遣っていた』だ。シウスに申し訳ない。

 残り半分のドライブで、エスカはウリ・ジオンとのこと、アルトスとのことを率直に話した。双子の産まれた経緯を知ってもらいたかったのだ。

 お喋りのはずのイモジェンは、最後まで無言で聞いていた。さすが騎士の娘。マリエの育てた娘だと、エスカは内心舌を巻いた。

 カエサルを迎えた経緯を話すと、イモジェンは身を乗り出した。動物好きのようだ。

 農場では、腹っペらしの男たちが待ち構えていた。やはりアダは先に到着していた。

「イモジェン! 久しぶり! 元気だったか?」

 サイムスとアルトスは、妹を抱きしめた。イモジェンは、セダとは丁寧に握手。イモジェンがじっと見つめるので、セダは照れくさそうだった。

 ウリ・ジオンは、持ち前の愛敬で手を差し出す。イモジェンは満面の笑み。

 赤子たちを男たちに預け、エスカとイモジェンは、アスピシアとカエサルの元に行った。

 アスピシアはエスカに飛びつき、カエサルはイモジェンに尻尾を振った。イモジェンは歓声をあげる。

「かわいい! あたしね、獣医になりたいの」

 イモジェンは、カエサルの足をさすりながらアスピシアを見た。

「なんてキレイなの! 神獣みたいね」

 本当に神獣かもしれない。

「街中で飼うのは無理ね。狙うヤツがいると思う。せめて赤狐だとよかったけど」

「そうなんだよ。で、この子たちは切り離せないんだ」

 イモジェンは頷く。エスカは、イモジェンの手にもおまじないをした。もちろん初めての体験で、イモジェンは感動したようだ。

 アスピシアとカエサルは、マッサージをしてもらうと、例の如く気持ちよさそうに眠りについた。

 リビングに行くと、一同が待ち構えていた。アルトスとウリ・ジオンは父親の役目を果たさんと、それぞれの子どもたちにミルクを飲ませている。おむつも替えてくれたようだ。

 楽しそうなふたりを目にして、エスカの顔が綻ぶ。

 食事しながら、農場での生活やら、パルツィ家の様子やらで話は盛り上がった。

 食事を終えると、サイムスとセダが立ち上がる。手伝おうとエスカが空になった食器を持つと、セダが手で制した。

「お客さんは座ってて」

「ありがとう。せめて運ぶよ」

 他の者も、キッチンまで汚れ物を運ぶ。エスカは、そのままキッチンに残った。

「僕、お茶淹れるね」

 キッチンにはサイムス、セダ、エスカの三人になった。

「ねぇセダ。土地の売却の件はどうなってる?」

「ああ。買い手を募ってるんだが、難航しててな」

「なんで嘘つくの? 何にもしてないでしょ」

 サイムスが微妙に動く。こいつもグルか。

「僕だって、ネットで検索ぐらいするよ。何もヒットしないんだ。

 広すぎて売れにくいなら、分割してでも早くって、お願いしてたよね? 何か理由があるの?」

「その、ウリ・ジオンが、あそこは場所がいいから、手放さない方がいいと」

「それは前にも聞いたよ。でもあそこは僕の土地で、ウリ・ジオンは関係ないでしょ。それとも、隣を会長が買ったから、それと関係……あ!」

 やっとエスカは気づいた。

「会長が止めた?」

 セダは、洗い物をしながら頷いた。苦い表情である。

「なんで会長が? お隣とはいえ、関係ないでしょ! それに、もうセダは商会の社員じゃないから、会長の言うことを聞かなくても! え、まだ社員だったりする?」

「そこから先は、俺が説明するよ。向こうで話そう」

 キッチンの入り口に、アダがいた。

 お茶を運んでいくと、皆にこやかに談笑している。お盆を持つエスカの表情を見て、イモジェンが不審そうな視線を向けた。

「みんなに話しておきたいことがある」

 ソファに腰を下ろし、アダが話し始めた。

「ここに来る前、俺とセダはタンツ商会を退職したことになった」

 微妙な言い回しに、アルトスが目を細めた。

「それは、企画二部を辞めたというだけだったんだ。ラドレイでも同じ仕事を続ける。渉外係としてね。それが、会長の譲らない条件だった」

 エスカは腑に落ちた。企画二部のツートップを、あの会長が簡単に手放すはずがないではないか。気づくべきだったのだ。

「モリスは、すべて承知の上で俺を雇ってくれた。

 それは置いといてだ。最近までラドレイ支社の支社長だったのは、以前企画二部のリーダーだったお人でな。俺の先輩だ。随分とお世話になった。立派なお人だよ。

 そのイレ・ハウゼンが、数年前、企画二部から異動して、ラドレイ支社の副支社長になった。一見栄転だな。

 その時の支社長は、二年ほど前に定年退職して、副支社長のイレが繰り上がったというわけなんだが。その栄転のきっかけというのが」

 アダは『話していいか?』とでも言うように、ウリ・ジオンを見た。頷くウリ・ジオン。

「その、令夫人とのことが会長にバレて」

 エスカ、アルトス、イモジェンは驚愕した。

「普通なら解雇だが、会長はそのイレ・ハウゼンを手放したくなかった。

 仕事のできるお人でね。それで栄転という形で恩を売ったのさ。もちろん、二度と令夫人に会うことは許さんと釘を刺した」

「俺が企画二部に採用されたのは、その後だ。だからイレ・ハウゼン殿とは面識がない。だが噂だけは耳に入った」

 セダが付け加えた。アダは頷いて話を続けた。

「それで、例の人質事件な。帰り際に、令夫人が高価なお買い物をしたのは覚えているだろう? 

 翌日、打ち合わせにイレ・ハウゼンが来店して、俺たちは再会した。そこまではよかった。

 その日の午後、本社から支社に連絡が入ったそうだ。イレが電話を受けた。令夫人からだった。

 会社の番号だったから油断したと、後でイレが言っていた。無論、令夫人は狙ってやったのさ。

 話の内容は聞いていないが、イレは超特急で残務整理をした。引き継ぎ事項をパソコンに保存。三日後に会長宛に辞表を送った。アパートを引き払い、銀行の口座を解約、携帯の番号を変えた。

 令夫人に動きはないことから察するに、打ち合わせをしていたとは思えない。イレは逃げたのさ。

 それで経理課から俺に連絡があった。『それまでの給料と退職金を振り込めなくて困っている。連絡先を知らないか』と。

 『知るわけないだろう』と答えておいた。つまり、大金を捨ててでも逃げたかったんだな」

 見事な遁走劇。イレという名。エスカにある疑問が湧いたが、確信はないので、だんまりを決め込むことにした。

「イレのその後を知っているんだな、アダ」

 アルトスは、妙に勘がいい。アダとセダが頷く。

「ホロが会長私邸のコックだったのは知っているよな」

 アダが続けた。

「ずっと厨房にいるから、料理以外のことは何も知らないと、会長は思っていたようだ。知っての通り、あの御仁は脇が甘い。

 ホロはあの人柄だから、人望が厚い。執事やメイドや乳母が、厨房に立ち寄っては、愚痴やら何やら話していったそうだ。

 おまけに魔女号が出航する際は、魔女号のコックを務めてくれる。いろんな情報を提供してくれたよ。

 ラドレイに来てからは、中継ぎ役をしてくれている。テイクアウトを買いに行って、情報を交換し合うわけさ。メモも何もない。情報は頭の中だけだから、漏れる心配はなし。もちろん、グウェンもアニタも承知している」

「参ったな」

 アルトスの言葉で、一同は脱力した。

「そんなわけで、イレの居場所は知っているよ。俺たちに隠す気はないようだ。いろいろ調べてくれている。

 それによると、エスカが妊娠しているのは、周知の事実だったんだ。爆破事件の時に、犯人が言っていただろう。

 始めは拉致の指示だったのが、妊娠がわかった途端、殺害の指示に変わったと。

 黒幕は、イシネスの高位の貴族だというのは、知ってのとおりだ。

 モリスがディルと連絡を取り合って、善後策を練っているところさ。

 それならもう産まれているだろうと、タンツ側は、赤子連れに注目していたと、イレは言っている。

 考えてみれば、ふたりともウリ・ジオンの子に見えるだろう? 俺たちは事情を知っているから、そういう発想はなかったが」

 アダは、熟睡している赤子たちを見た。

「リトヴァの白い肌と暗紫色の目はエスカ似。黒髪のくるくる巻き毛はウリ・ジオン似。

 ウリ・ジオンにはラヴェンナ人の血が流れているから、アンブロシウスの褐色の肌には何ら違和感はない。暗紫色の目と銀髪はエスカ似」

「アンブロシウスは俺の子だ」

「リトヴァもアンブロシウスも僕のものだよ」

 お茶をひと口飲んで、エスカは宣言した。

「そうね。父親が誰であれ、産んだ人は間違いないもの」

 イモジェンが加勢してくれた。

「それで、今回の誘拐未遂事件が起きたのかもな。そうなると、黒幕は会長か令夫人だな。マーカスの調べを待とう。

 それでな。エスカが農場に戻るのを渋っていることを、会長は多分ご存知だ。あの土地を売りたがっていることもだ。

 だから不動産屋に手を回した。あの土地に手を出してはまかりならんとな。

 外堀から埋めて行って、行き場をなくす。エスカを隣の家に住まわせるつもりだ。たっぷり恩を売れるだろう。

 将来的には、血統の優れた孫が手に入るだろうという魂胆だな。令夫人も『血統に問題はありませんわね』と、ご機嫌……」

 音を立てて、アルトスが立ち上がった。

「何様だ! エスカはラヴェンナの王族の血を持つだけではない。イシネスの王位継承順位第一位だぞ! 

 ウリ・ジオンは逆玉の立場じゃないか!」

「わかってるよ」

 ウリ・ジオンは、静かに頷いた。

「俺なんか、大逆玉だ!」

 なぜ威張るアルトス。

「それで俺たちは、今度こそ本当に辞表を出して、給料振り込みの口座を解約した。それが昨日だ」

「給料もらってたのか!」

 呆れるアルトスに、アダとセダは無言で頷く。ややあって、エスカが口を開いた。

「迷惑をかけてしまってごめんなさい。でも正直、アダとセダに嘘をつかれるなんて、考えたこともなかったよ。

 それでも、最大限の誠意を示してくれたことに感謝します。ありがとうございました」

 エスカは、立ち上がって深く頭を下げた。

「さて、帰ろうか」

 と、イモジェンを促す。

「おい! 忘れものだぞ」

 アルトスとウリ・ジオンが、慌てて赤子を抱き抱えようとした。突然起こされて、赤子たちはぐずり始めた。

 エスカは無視して、そのまま背を向ける。

「母親だろう!」

「困るよ!」

 焦るアルトスとウリ・ジオン。エスカは肩越しにふたりの父親を見た。

「父親でしょ。一日二十四時間、ひとりで対処してみれば?」

「帰りはあたしが運転するね!」

 なぜかはしゃぐイモジェン。置いていかれることを察知したのか、リトヴァとアンブロシウスは盛大に泣き始めた。

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