第3話

 イモジェンを寮に送り届け、エスカは帰宅した。リトヴァとシウスのことは気になるが、ふたりの父親にとってはいい経験になるだろうと、割り切ることにした。

 何より、エスカは気力体力ともに限界だった。ひとりで眠りたかった。回復したら、ふたりを迎えに行こう。

 荷造りをし、タブレットと短剣をリュックに入れる。マーカスの帰宅は遅いだろう。

『数日留守にします。赤子たちは農場です』とメモを残し、エアカーのハンドルを握った。

 目指すは首都シボレス寄りのモーテル。車中よりはよく眠れるだろう。途中で食料を買い込み、夕方には目的地に着いた。

 こういう所は初めてだった。ずらりと並んだドアの前に、宿泊客の車が停まっている。

機械の操作のみで鍵をもらえるのが、便利である。エスカは、取り敢えず二泊でチェックインした。

 部屋に入り、しっかり鍵をかける。食料を冷蔵庫に入れ、シャワーを浴びた。そのままベッドに行き、倒れ込んだ。

「あ、ホロのシフォンケーキ食べ損ねちゃったな」

 眠りにつく直前、脳裡に浮かんだのはそれだった。

 目が覚めたのは、翌日の昼過ぎだった。半端に休んだせいか、返って疲れた気がする。空腹は感じない。水だけ飲んで、再びベッドへ。

 夜目覚めたら、さすがに空腹だったので、買って来たパンを食べた。やっとひと心地がついた。シャワーを浴び、また眠った。こんなに疲れていたのか。

 よしっ。たっぷり眠って元気になって、また子どもたちと楽しく暮らそう。エスカは予定通り二泊した。もう少し休みたい気はあったが、子どもたちが心配だ。


 三日目の朝、エスカはハンドルを握った。一路農場へ。

 空から、セダが鶏に餌をやっているのが見えた。エンジン音に気づいたセダが空を見上げ、手を振る。

 別れた時と同じ、何のわだかまりもないセダの態度。抱き合って挨拶すると、セダはくすくす笑った。

「行って助けてやれ」

 誰を助けるのだ? パパか赤子か。母屋からはかなり距離があるはずだが、盛大な泣き声が聞こえる。

「こちらが先ね」

 エスカは、足元のアスピシアとカエサルを見た。期待の眼差しでエスカを見つめる二匹。

 エスカはしゃがみ込んで、まずはカエサルのマッサージを始める。こちらの方が重症だからだ。承知をしているアスピシアは横になると、エスカの足に身体を預けた。

「終わったらリビングに来てくれ。お茶にしよう」

 セダが提案した。

 泣き声は、エスカの部屋からだ。エスカはそっとドアを開けた。シウスのおむつを替えていたウリ・ジオンが、はっと顔を上げる。

「助かった~! 後は頼む!」

 言いおいて、ウリ・ジオンはバスルームに駆け込んだ。トイレを我慢していたらしい。 

 リトヴァとシウスは、エスカを見るなり泣き止んだ。エスカはふたりに頰ずりをして、キスを浴びせた。

 なんてかわいい子どもたち。かけがえのない存在。置いて出かけるなんて、鬼畜の所業だよね。

 きゃっきゃと大喜びのふたりを見て、戻って来たウリ・ジオンが苦笑した。セダが顔を出す。

「やっぱりな。この子たち、全然笑わなかったんだ。飲むものは飲んで、出すものは出してたから、アスピシアよりはマシだったが」

「そう。こんなふうにしてあげても」

 と、ウリ・ジオンがリトヴァを高い高いをした。きゃっきゃと喜ぶリトヴァ。

「え」

 と、戸惑ったセダがシウスに同じことをする。同じく大喜びのシウス。

「……エスカがいることが、大前提ってわけね」

 笑いながら赤子を抱いて、一同はリビングに移動した。

「昨日は、アルトスの番だったんだ。ダイエットにいいとか言ってたな。

 俺とサイムスは、敢えて手伝わなかった。今朝は、赤い目で登校したよ」

 セダが笑った。

「タンツの件だけど」

 お茶をひと口飲んで、ウリ・ジオンが話し始めた。赤子たちは、エスカが帰って安心したのか、すぐに眠りについた。

「アダとセダは、完全にタンツと切れた。と言っても、諜報活動はこっそり続けてるんだけどね。

 僕だけが繋がっているんだ。オッタヴィアを通してね。窓口をひとつは確保しておきたいからだ」

「会長は、それをご存知?」

「多分な。会長が、わざと偽情報をオッタヴィアに流すことは、想定内だ。だがオッタヴィアは、真実を僕に告げていると思っている。

 僕からも、偽情報をオッタヴィアに流す。オッタヴィアはそれを真実だと思って、会長に話す。

 そこに、なんとか潜り込める余地があるといいんだけど」

「今のところ、アルトスがひとりで動いてくれてることになってるんだが」

 セダは可笑しそうだ。

「アルトスは、タンツと直接の関係はないからな。アイラが世話になったが、その頃、アルトスは既に離れていたし。

 合宿所では、会長の世話になってはいても、直接会ってはいなかったようだ」

「でもアルトスは素人でしょ? シルデスで人脈もないのにどうやって?」

「だからこそ、アルトスの監視は弱い。大学も違うしね。僕とサイムスには、ばっちり監視が付いてるよ。

 会長はサイムスとセダのことは知ってるようだ。

 アルトスには、『僕たちには一切報告するな』と言ってある。知らなければ、訊かれても嘘をつかずに済むだろう? まぁ、アルトスのお手並み拝見だな」

「アダは営業と称して外出自由だから、アルトスと連絡は取れる。俺はここから動けないから、専ら司令塔だ」

「それでエスカ。アルトスから伝言だ。いつでも交信できるようにしておいてほしいってさ」

 エスカは頷いた。

「それで、オッタヴィアの話なんだけど。会長はあれで慎重派なんだよ。で、DNA鑑定をしたいそうだ」

 エスカは蒼くなった。

「まずいよ! 本当のことバレたら、僕また『得体の知れない霊媒師』になるじゃないか」

「気にしてたのか」

「……傷ついたからね」

「髪の毛一本渡すな。『この子たちは、タンツ家と一切関わりない!』と言えるだけの名案あるか?」

 セダの言葉に、ウリ・ジオンは口をつぐんだ。しばらく考えこんでいたエスカが、笑い出した。

「みなさん、お人好しだね。僕の言うこと、まるっと信じてるんだ」

 ふたりはきょとんとしている。

「僕、何度か家出してるでしょ? その時に、寂しくてワンナイトしたとか思わないの? まさか本当にキスだけで僕が妊娠したとでも?」

「おいっ!」

 異口同音のふたり。エスカは、楽しそうに話し続けた。

「相手は黒髪のラヴェンナ人。大きくウェーブしてたから、元々は巻き毛なのかもね。背が高くてイケメンだったよ。僕面食いだから」

 音を立てて、ウリ・ジオンが立ち上がった。エスカの胸ぐらを掴むと、いきなりキスをする。エスカはなんとか押し返そうとしたが、ウリ・ジオンはびくともせず、キスを継続。

 馬鹿力は、アルトスだけではないようだ。エスカが助けを求めて視線を動かすと、セダは、可笑しそうに笑っているではないか。薄情者め。

 援軍は期待できそうにないと悟ったエスカは、ウリ・ジオンが唇を首筋に移動しようとした瞬間、敵の足を踏みつけた。

 凄まじい悲鳴とともに、ウリ・ジオンは床にひっくり返る。騒ぎで目覚めた赤子たちは、驚いたようだが泣きはしなかった。

 ウリ・ジオンの足の甲から、血が滴り落ちる。エスカは構わず廊下に飛び出し、バスルームに走った。躊躇わず嘔吐する。リビングまで音声が届いたらしい。

 後で聞いた話だが、足を抱えて苦痛に顔を歪ませていたウリ・ジオンが、ぼそりと呟いたそうだ。

「傷ついた……」

「捨ててもいいボロタオルって、一番下の引き出しだよね?」

 言いながら、エスカが戻って来た。乾いたタオルと濡らしたタオルを手にしている。しゃがみ込んで、ウリ・ジオンの足に乾いたタオルを押し当てる。

「全部吐き出したから、妊娠の心配はないよ」

「え、そっち?」

 呆然とするウリ・ジオン。セダが笑い出した。

「やっぱり、キスで妊娠したんだな」

 エスカは笑いながら、辺りに飛び散った血を、濡れたタオルで拭き取った。

 ウリ・ジオンは、素足にサンダル履きだったため、サンダルも丁寧に拭く。

「はい、おしまい。もう痛くないでしょ」

 足を見るウリ・ジオンとセダ。

「おいウリ・ジオン。どこを怪我したんだ?」

「そこいら辺だと思うけど。痕が残ってないね」

「エスカ。何やったんだ?」

「爪で刺した」

「爪?」

「鷹の爪だよ。そういう技があるんだ」

「それな。場所によっては危険じゃないか?」

「うん。だからアルトスには教えてない。アルトスがやると、足が床に串刺しになるしね。カプサイシンで痛み倍増、熱も出る」

「うう」

 ウリ・ジオンが、ぷるぷると首を振った。

「だからさ。予備知識のない人が聞いた時、『キスで妊娠した説』と『ワンナイトで妊娠した説』のどちらを信じるかってこと」

 セダが唸った。

「エスカ。お前、アルトス顔負けの役者だな。ウリ・ジオン。オッタヴィアさんにワンナイト説で通せないかな」

「でもエスカは、お固い所出身だからなぁ。信憑性があるかどうか」

「僕、天邪鬼だからさ。反動でやっちゃったかも」

 セダが愉快そうに笑う。

「それでいくか。子どもたちは、ウリ・ジオンの子ではないと、信じ込ませるしかない」


 午後、エスカは赤子たちを連れて、マーカス家に帰った。その旨マーカスに連絡すると『おかえり。遅くなる。食事は不要』との返信が来た。

 エスカは初めての離乳食を作り、子どもたちを風呂に入れ、寝かしつけた。

 真夜中に、マーカスの帰宅した気配で目が覚める。そっとマーカスの部屋に行くと、シャワーを浴びているようだ。

 机に『マッサージするので、呼んでね』とメモを残した。

 ノックの音で、エスカは起き上がった。マーカスはマッサージを受ける姿勢で、ベッドにいた。

 上半身裸でうつ伏せ。エスカは馬乗りになり、マーカスの首から背中にかけて丁寧にマッサージをする。少々怪しげな姿勢だが、これが効く。

「これやってもらうと、本当に熟睡できるんだ。明日からの活力が湧いて……」

 言いながら、いつもの如く眠りについた。エスカは最後までマッサージを続けた。こんなことで喜んでもらえるとは。

 喜びを噛みしめて、エスカはベッドを降り、マーカスに毛布をかけて自室に戻った。

 子どもたちが眠っているのを確認して、エスカはベッドに倒れこむ。近いうちに、この生活は終わるだろう。前向きに考えるしかない。

 託児所の所長始め、保育士たちの尋問はどうなっただろう。捜査に関することだから、マーカスは言えないだろう。

 どのみち、過ぎたことだ。エスカは忘れることにした。

 翌朝、マーカスを送り出した後、アルトスから交信があった。

『遅くなって済まない。もう少し待ってくれ』

 意外に律儀なヤツ。早いに越したことはないが、そう簡単に事が運ぶとは、思っていない。

 だがどうしても、このまま子どもたちを、会長の監視下に置くわけにはいかないのだ。

 新学期は始まったが、通学は無理だろう。エスカは退学届けを出した。

 子どもたちは、エスカの部屋で眠っている。エスカはリビングに入り、思い切り泣いた。

 大学に行けるなんて、夢のようだと浮かれていた。途中までは通ったが、やはり夢だったのだ。これ以上望むのは、欲というものだ。 

 それでも、イシネスでの暮らしに比べれば、ここは天国ではないか。得たものに感謝しなくては。


 マーカス家での日常が戻って五日後、アルトスから交信が来た。

『モリスだが。イシネスの領地の屋敷をエスカに使ってもらいたいそうだ。母君は首都の屋敷におられるから、気遣い無用。

 ベテランの執事もメイドもいて、至れり尽くせり。子守りも家庭教師も付けるそうだ。蝶よ花よの暮らしができるぞ』

『本気で言ってんの?』

『はは。俺としては、ラドレイの別荘を狙ってるんだが。灯台もと暗しでいいと思ってな。

 母君は高齢で弱られたため、もうそこを使うことはないそうだ。家具付きだからいつでも越せるぞ。

 だがモリスのイチ押しはイシネスだ。それで揉めてる。一応エスカの希望を聞くことになった。別荘だと、何もかもひとりでやらなくちゃならんけどな』

『別荘でよろしく。けど、なんでモリスはそんなに親切なの?』

『エスカ教の信者なのさ。お前、あのクーデターの際、命懸けでイシネスを救ったじゃないか。

 とにかく別荘で押してみるよ。セキュリティは万全だからな。農場に近すぎるが、交流がなければ気づかれないだろう』

 ありがたいことだ。交信を切って、冷静に考えてみる。アルトスの提案には、大きな穴があることに気づいた。

 イシネスのモリス領地の邸宅。そこにエスカたちが住んでいると知ったヴァルス公爵が、知らんぷりを決め込むとは考えられない。 

 公爵家から迎えが来るだろう。現在王位継承権第一位のエスカとその子どもたち。さぞ大切にされることだろう。

 ひょっとして、モリスはそれを狙っているのか? モリスは王家擁護派だ。ヴァルス公爵が王位につくのを固辞しているから、エスカを強引に押す気か?

 イシネスを毛嫌いしているエスカが、はなから断るのは目に見えているから、敢えてアルトスは説明しなかったのかもしれない。

 想定外の思考回路を持つアルトスである。ここで考えても時間の無駄だ。エスカは割り切って、続報を待つことにした。


 三日後、アルトスから電話が来た。スピーカーにしてあるようで、周囲の声が聞こえて来る。

「やったぞ! 監視が全員引き上げた」

「え?」

「だからエスカ。堂々と農場に帰って来れるぞ!」

 はしゃいだ声は、サイムスである。

「また一緒に暮らせるな」

 穏やかに喜びを表すウリ・ジオン。背後でセダが笑っている気配。

 エスカは、開いた口が塞がらなかった。アルトスの得意そうな言葉が続く。

「エスカがイシネス行きを渋っていることを、モリスに報告した。そしたらモリスのヤツ、ヴァルス公爵にチクったんだ。

 怒った公爵が、外交省に連絡。総領事が、タンツ会長を呼びつけて説教したんだと。

『イシネス王族に連なるお方を監視するとは、どういう了見だ』とな。会長はマゴがどうとかゴニョゴニョ言っていたそうだが、総領事は聞く耳持たず。

『そちらの出方によっては、今後の貿易について考えさせていただく』と。

 この一言で会長は白旗を揚げた。イシネスのレアメタルが入らなくなると、シルデスは国全体が困窮する。

 私情を挟んでいる場合ではなくなったのさ」

 アルトスの自慢話を聞きながら、エスカは言葉を選んだ。

「ありがとう。大活躍してくれたんだね。監視を追い払うなんて、さすがだ。でも僕がお願いしたのは、引っ越し先を探すことだったよね」

「……あ」

「このとんちき!」

 エスカは電話を切った。こいつをあてにしたのが間違いだった。そもそも、他人をあてにしてはいけなかったのだ。自分が悪い。

 アルトスにしても、頼る者がいない中で頑張ってくれたのだ。それを罵倒するなんて、僕はサイテーだ。謝らなくちゃ。

 夜、周りに誰もいない頃を見計らって交信してみよう。

 と思っていたら、先方から先に交信してきた。

『やぁ、上手くいったな』

『え。あの』

『あれはフェイクだよ。別荘に決まりだ。少し手入れしてくれるそうだ。防音室を作る。将来、俺もそこに住むかもしれないだろ』

『はぁ?』

『冗談だよ。お前、子どもたちを訓練するって言ってたじゃないか。防音室の方が落ち着くと思って』

『あ。ありがとう。いろいろ配慮してくれて』

『はは』

 少し照れたようだ。

『工事は二日で済むそうだ。引っ越しは三日後。荷造りしておけよ。二匹は俺が連れて行く。詳細はまた後でな』

 三日後。マーカスとお別れだ。荷造りはとうにしてある。だが本当にこれで安全になったのか? 

 会長が、またぞろ何事か企んでいるのではないか? しばらくは気の抜けない生活が続くだろう。心底うんざりした。


 引っ越しの前日、マーカスは定時に帰宅した。食後のお茶を飲みながら、エスカは話した。

「明日引っ越すことになったよ。アルトスが頑張ってくれたんだ」

 マーカスはエスカを見つめ、頷いた。

「そうか。ではマッサージも今夜でおしまいか。残念!」

 明るく笑ってくれた。

「託児所の件だが。エスカは当事者だから、報告しておくよ。ここだけの話にしてもらいたい」

 エスカは頷いた。

「所長は、単なるパワハラ。ウラはない。そういう気質なのだろう。子どもが入所して、早い時期に退所した例があるか調べてみた。若い女子大生が何人かいたよ。

 預け先がなければ、学業は続けられない。全員退学していた。所長は、その女子大生たちの将来を変えてしまったことになる。

 無論、所長にそんな自覚はない。感情のままに行動しただけだ。

 当然、大学側は、

即座に所長を解雇。あの時、周囲にいた保育士たちも共犯ということで、同罪だ。全員、書類送検となった。

 それで、全員のパソコンと携帯を調べたら、一番若い保育士の携帯に、赤子たちの画像があったんだよ」

 エスカは、息を飲んだ。

「画像は転送されていた。なんと、タンツ商会ラドレイ支社の副支社長に送られていたのさ。

 調べたら、その保育士は、副支社長の姪っ子だったんだ。そこで副支社長を引っ張った。

 副支社長の携帯から、さらに転送されていたことが判明。タンツ会長夫人にね。

 ラドレイ支社には、魔女号のクルーもいるだろう? 快く協力してくれたよ。

 彼らは単に、令夫人が嫌いというだけかも知れないが。ウリ・ジオンを追い出した張本人だからな。実の息子なのに」

 マーカスは、苦虫を噛み潰したような表情である。

「そのクルーによれば、副支社長は、以前は営業部長だった。次は副支社長の椅子を狙っていたのさ。

 元副支社長が退職した際に、次は自分だと思っていた。だのに、本社から若いイレが来てしまった。

 そのイレは、しばらくして支社長に就任。営業部長は、念願の副支社長になった。 

 イレが突然辞職した時は、いよいよ自分が支社長だ。なのに、本社の人事部からは音沙汰なし。

 恩を売って、昇進に繋げようとしたのではないかと、そのクルーは言っている。社内中にバレバレだな。

 で、こちらは勾留中。営利誘拐の主犯という容疑だ。重罪だよ。令夫人が、そこまでの指示をしたかどうかは、不明。

 会長は、副支社長を即解雇したそうだ。知らなかったのかも知れない。トカゲの尻尾切りかも知れない。

 副支社長が、会長でなく令夫人に報告したのは、ふたりの間に以前、何事かあったからではないのかと、クルーが言っている。

 まぁ、当たらずと言えども遠からずといったところか。

 しばらく泳がせて様子を見ることになった。だからエスカ。残念だが、どこに行っても、まだ油断は禁物だよ」

「ありがとう。あの、マーカス。なんでこんなに親切にしてくれるの?」

 何の見返りも求めずに。

「エスカは、かわいい弟の想い人じゃないか。大切にするのは当たり前だよ」

 パルツィ家の人たちは、なんでこんなに心が温かいのだろう。

「あのね。引っ越すのは、ほんとに僕のわがままなんだ。農場でのあの出来事がトラウマになってて。昼間行くのはいいけど、夜は駄目だ。

 それにアスピシアとカエサル。あのコたちは足が悪くて、毎日マッサージと適度な運動が必要だ。やらないと関節が固まって歩けなくなるんだよ。

 サイムスとセダが一生懸命やってくれてて、助かってるよ。農場は広いし、ふたりは仲良しだし。あのまま農場にいてもいいんだけどね。

 でも僕は、アスピシアに責任があるんだ。イシネスから連れて来られて、僕に託された。

 あのコたちは引き離せないから、一緒に連れて行く。それに子どもたち」

 エスカは、眠っているリトヴァとアンブロシウスを見た。

「いずれ訓練をしなくてはならない。そのためには、静謐な環境が望ましい。農場に防音室はあるけど、あそこでは、僕は落ち着けないんだ」

 マーカスは、無言で聞いていた。

「よくわかった。何かあったら、いつでも連絡してくれ。できることは何でもやるよ」

「ありがとう。窓口はアルトスで」


 翌朝、マーカスは眠っている子どもたちにそっとキスをした。

「また会おう」

 耳元で囁く。愛情のこもった声音だった。エスカが送り出す際も、明るくキスをしてくれた。

「必ずだぞ」

「はい。必ず」

 そうして、ふたりは別れた。

 エスカは荷物を車に押し込み、子どもたちを運んだ。監視が居なくなった今がチャンスである。

 会長が次の手を捻り出す前に、移動しなくてはならない。

 目指すは、モリスの別荘。以前暮らしていた家からさらに奥へと向かう。

 終点のバス停が見える。そのまま山地を登ると、例の滝に出るのだが、エスカは道なりに東に曲がった。

 アルトスの説明通り、その先にトンネルが見えた。トンネルの手前でさらに東に折れる。一軒の別荘がぽつんと見えた。門の前で、アルトスが手を振っている。

 指示通り前庭に着地。車庫がある。

「この辺は、結構雪が降るからな。青空駐車場は無理なんだよ」

 説明しながら、アルトスは子どもたちを運んでくれた。子どもたちは目を覚ましたが、アルトスの顔を見て甘え始めた。

 エスカは、笑いながら荷物を運び込んだ。裏庭で走り回っていたアスピシアとカエサルが、飛びついて来た。

 裏庭は結構広い。エスカは安心した。

 荷ほどきするほど荷物はない。取り敢えず、エスカは子どもたちの世話をすると、お茶を用意した。

「アスピシアとカエサルは、セダが送ってくれたよ。サイムスとウリ・ジオンは、真面目に大学に行った。俺は体調不良で欠席」

 アルトスはご機嫌だ。

「来る途中でトンネルが見えただろう? あのトンネルを抜けると、アルゴス市に出る。

 ここはアルゴス市なんだよ。小一時間で、市街に出れるんだ。ラドレイに行くより近い。

 小さい市だが、幼稚園から高校まである。商店街もあるし、農場より暮らしやすいかもな。

 農場とは生活圏が違うから、俺たちと会うことはないよ。

 それに、道路から裏庭は見えない造りだ。安心して暮らせるだろう」

「ありがとう。ほんとに感謝してる」

 そう言えば、あの夜も、逃げるのを手伝ってくれたのはアルトスだった。

「エスカ。お前、本当はイシネスに戻りたいのと違うか? ヴァルス公爵に会いたいとか」

 アルトスの言葉には、不安感が滲んでいる。それを気にしていたのか。

「まさか。僕、二度もイシネスで死にかけたんだよ。二度目の時は、アルトスが助けてくれたんだよね」

「俺も、エスカがシルデスに来た日に、助けてもらったんだよな」

「ひっぱたかれたけどね」

「あ、それ言うなよ! あれ、俺のトラウマだから」

 全然そうは見えないが。

「アルトス。今夜徹夜する元気ある?」

「おう。俺の体力は無限だぞ」

「よかった。ひとつ技を教えたい」

「おおっ! 頼むよ! 俺さ、やりたくてやりたくてたまらなかったんだ。血沸き肉踊るぜ!」

 中学生か。

「ふたりの世話の合間を縫ってになるけどね。基礎をしっかりやれば、後は自主練で成長できるのが三つほどあるんだけど。一ヶ月おきくらいに、あと二回通えるかな?」

「通える! 情け容赦なくやってくれ!」


 明け方、アルトスはご機嫌で帰って行った。エスカはこれまで通り、家事に育児に忙しい。

 マーカスの家に居た時と、大して変わらない。マーカスは留守が多かったからだ。

 それでも、できる限りのことはしてくれた。何よりも、心強かった

 ひとりで初めての育児。心細いがエスカは幸せだった。我が子を自身の手で育てられる。これ以上の喜びがあろうか。

 それをできなかった母の分まで、子どもたちを大切に育てる。充実した日々を送っていた。

 越して来て十日ほど経った頃、アルトスから交信があった。痛快そうに笑っている。

『マーカスの家に、児相がふたり行ったそうだ』

『じそう?』

『児童相談所だよ。近隣の住人から〈奥さんがネグレクトしている〉という通報があったんだと。

 非番で在宅していたマーカスが、応対したそうなんだが。あそこの近隣は、警察関係者の官舎が多い。

 いきなり署長夫人(?)を訴える事は、まずないだろう。


〈わたしに妻はおりませんが〉

 一応丁寧に応対したそうだ。

〈しばらく前まで、赤ちゃんの泣き声がしていたと言うんです。最近聞こえなくなったので、近隣の方がご心配なさって〉

〈近隣の方ってどなたです?〉

〈情報源は明かせません〉

〈確かに、しばらく前までは、子連れの姪っ子がいましたがね。出て行きましたよ〉

〈何処へ?〉

〈情報は明かせません〉

 ふたりの男たちは、顔を見合わせたと。

〈それが本当かどうか、確かめさせていただきたいのですが〉

〈と、おっしゃいますと?〉

〈家の中を確認させていただきます〉

 マーカスは呆れ果てて、丁寧語を忘れたそうだ。

〈そうしたいなら、捜索令状を持った警官を連れて来なさい。尤も、確たる証拠もなしに、検事は書類にサインなどしないがね〉

 マーカスの態度が硬くなったのを察知して、男たちの顔が強張ったそうだ。

〈第一、姪っ子に何の用だ?〉

〈いや、姪御さんではなくて、赤ちゃんの方に用がありまして〉

〈赤子が質問に答えられるとでも?〉  

〈いえいえ。DNA鑑定の依頼がありましてね〉

〈児相がそこまでやるか。赤子の毛髪を引っこ抜いて来いとでも言われたか〉

〈とんでもない! そこまでは〉

〈赤子がお利口さんして、お口をあ〜んしてくれるかなぁ? そのとんでもない依頼主は誰だ?〉

 ふたりは後退りし始めた。

〈その赤ちゃんの祖父母に当たる方でして。ご自分の孫かどうか確認したいと。孫なら引き取りたいとのことでして〉

〈なぜその依頼主は、赤子が自分の孫かもしれないと思ったのかな?〉

〈髪の毛に特徴があるそうで。黒髪の巻き毛だそうでしてね。その方の息子さんにそっくりだそうで〉

 マーカスは吹き出した。

〈おいおい。黒髪巻き毛の男なんて、ごまんといるんじゃないか。髪色だって染められるし、巻き毛にしても矯正できるだろう。

 目の色だって、カラコンで変えられるんじゃないか。ま、赤子は無理か。基本情報はそれだけか。

 君たち、どこの興信所の人間だ? 児相を騙るとは、詐欺罪と誘拐未遂に当たるぞ〉

 失敗を悟ったふたりが踵を返し、車に駆け寄ろうとした時、上空からパトカーが近づいて来るのが見えた。地上には、パトロール中の車。

 署長の自宅前で、押し問答をしている様子を見たパトロール警官が、気を利かせてくれたらしい。

 退路を絶たれたふたりが固まっている間に、エアパトカーは着地した。

 降り立ったのは、ニルズ曹長とマローン伍長である。なぜかご機嫌だった。

〈依頼主に言っておきなさい。姪っ子は、ラヴェンナ国王のお気に入りなんだ。下手な手を打つと、陛下はシルデス向けの原油の元栓を閉めるかもな〉

 連行されて行く男たちの背に、マーカスは無情な台詞を叩きつけたそうだ。

  会長は用心深い。失敗した場合を考えて、企画二部は遣わず、外部に依頼したんだな。それにしても、お粗末だった。

 これで一件落着だよ。安心して暮らせる。また訓練よろしく。愛してる』 

 最後の一言でエスカはコケたが、嬉しくもあった。


 その数週間後、アルトスは訓練のためエスカ宅に来た。前回はバリヤー、今回はジャンプを教える。

 最初にエスカがアルトスを抱えて跳んで見せた。アルトスは大感激。楽しそうに訓練を受けた。

「俺さ。いろいろ教えてもらうのは、もちろん楽しいけど。エスカとふたりでひとつのことやるって、最高だな」

 エスカは納得して、頷いた。僕もだよアルトス。

「この頃、やけに素直だね」

「うん。俺、エスカには正直でいようと決めたんだ」

「結構だね~。なら、ソプラノの金髪美人とはどうなったの?」

 アルトスは驚いたようだ。

「知ってたのか」

「以前、ランチタイムに、ふたりで歩いてるとこ見たんだ」

「それで今困ってる。何度か一緒にランチしただけなんだよ。でもそのうち、ディナーに誘われるようになった。

 俺はさ、サイムスたちの車で帰宅しないと帰れなくなるだろ? だから断ったんだ。

 そしたら、親父さんが俺に会いたがっていると。理由を聞いたら、ムコ話だった」

「ムコ?」

 アルトスは頷いた。

「彼女、大金持ちの娘だったんだよ。俺知らなくてさ。そう言えば、いい服着てると思ったくらいでさ。

 三姉妹の長女で、婿を探していた。長女が気に入ったと言うから、俺を調べたそうだ。

 それで、ラヴェンナの元王子だと言うことが判明。親父さんにしてみれば、金はあるから、次は名誉をということのようだ。

 いつまで祟るラヴェンナ王家! 今さら実は違いますって言うのもマズいしな」

 エスカは吹き出した。

「だから俺は、彼女に話したんだ。〈実は俺には子どもがいる。卒業したら、その子の母親と結婚するつもりだ〉とな。

 その話を親父さんにしたそうだ。親父さんは大喜び。

〈健康な成年男子だな。良き良き。その女性には、たんまりと慰謝料を払って別れてもらおう。子どもの養育費は、成人に達するまでの金額を一括払い。交渉は、弁護士にやらせよう〉

 だってさ。俺、理解できん」

 頭を抱えるアルトスを見て、エスカは薄情にも笑ってしまった。

「ならアルトス。その人と結婚して、僕に慰謝料ちょうだい」

「はあ?」

「だから、養育費もたんまりとふたり分ね。悪い話じゃないでしょ」

「バカタレ〜!」

 ふたりは爆笑した。アルトスはご機嫌で帰って行った。


 四週間後、アルトスが最後の訓練に来た。課題は〈金縛り〉。少しは闘いの要素があるため、アルトスは張り切った。

 霊力が上がってきたのか、呑み込みがいい。ご褒美に〈錠前破り〉をおまけした。

「この前のムコ話は、きっぱり断ったよ。納得してくれたかどうか分からんが。まぁ一件落着だ。

 なぁエスカ。この後も、時々来ていいか? どうやら、監視は完全に居なくなったようだし」

 エスカは、首を横に振った。

「なんでだよ?」

「僕がアルトスを裏切るからだよ」

「裏切るって?」

「もうひとり、産むことになるからさ」

 アルトスは、大きく目を見開いて、エスカを見つめた。

「うむ。ウリ・ジオンの子は、エスカが産むしかない。俺の子もそうだ。

 となると、他に子孫を遺す術のない男か……ヴァルス公爵だな?」

「カンがいいね、アルトス」

「で、キスするつもりか?」

「チャンスを狙ってるんだ。近いうちにお会いできるかも」

「そうなるといいな。協力するぞ」

「なんでそんなに寛大なの?」

「エスカの産む子は、みんな俺の子だからさ」

 そうして、抱き締めてくれた。


 その日で訓練は最後のはずだったのに、四週間後アルトスが突然交信して来た。

『今日の午後行くよ~』

 返事をする間もなく切れた。

「あンの野郎〜」

 とぼやいてみたが、来るというなら迎えるしかない。せっかく来てくれるのだ。小刻みに教えられる技はないか。エスカは真剣に考えた。

 子どもたちがお昼寝に入った頃、アルトスはご機嫌でやって来た。

「ウリ・ジオンも来たがったんだけどさ。ウリ・ジオンにだけは、まだ監視がついているかもしれないってことで、諦めてもらった。

 ちょっと可哀相だったな」

 そう言うと、アルトスは眠っているふたりの天使をカメラに収めた。

「起っきしたらまた撮るぞ。もうひとりのパパに見せてあげよう」

 アスピシアとカエサルも撮った。

「セダとサイムスが会いたがっているんだ」

「あのね。ちょっと考えたんだけど。治癒の初歩なら教えられるかも」

「おおっ!」

 アルトスは、いきなりエスカに抱きついた。

「来てよかった~!」

 やれやれ。夕食後、天使たちを寝かしつけ、アスピシアとカエサルのマッサージをする。その後、二階の中部屋の防音室にふたりはこもった。

 エスカの手にフルーツナイフが握られているのを見て、アルトスは不審そうな目を向ける。

「怪我か病気がなければ、治療はいらないでしょ。だから怪我を作るんだ」

「お、お手柔らかに頼むよ」

「手のひらを見せて」

 アルトスの手のひらを見たエスカは頷いた。マメができている。

「やっぱりね。農作業を手伝ってるでしょ。ウリ・ジオンとサイムスもこんなだと思うよ。

 セダはもっと酷い。帰ったら、まずセダの治療をしてあげてね。手が硬くなってて、動かしづらくなってるはずなんだ。

 でもセダは愚痴らないでしょ。ああいう人には、周りの人が気をつけてあげないと」

 言いながら、エスカは自身の手に何もないのを、アルトスに確認させた。それからアルトスの手に自身の手のひらを重ねた。

「よく見ててね。手のひらの間」

 手と手の間に、淡い光が見えた。十数秒間である。エスカが手を放す。アルトスのマメは消えていた。

 エスカは、自身の手をアルトスに見せる。マメができている。唖然とするアルトス。

「霊力による治癒はね、患者の病や傷を一旦自分が受けることから始めるんだ。

 でもこれは僕自身の傷ではないから、すぐに消えるよ。さぁ行こうか。アルトス君」

 エスカは、フルーツナイフを構えた。

 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る