『二つ名のエスカ』後日譚2  リトヴァとアンブロシウスと

@muchas_hojas

第1話

 出産から三日後。エスカは赤子たちの泣き声で目覚めた。勢いよく、グウェンが寝室に飛び込んで来る。続いてヘンリエッタ。

 起き上がろうとしたエスカは、グウェンによって枕に押し付けられた。

「絶対安静って言ったでしょ!」

 きつい口調はヘンリエッタである。ふたりの女性は、手早く赤子たちのオムツを替え、抱き上げてミルクを飲ませる。

「聞き分けのないママさんでしゅね〜」

「ふたりはいい子いい子でしゅね~」

 などと言っている。エスカは可笑しくてたまらない。

 あの朝、エスカは出産してすぐアダに連絡を入れた。

『産まれた』

 後はアダが上手く采配してくれるだろう。エスカはよろめきながら起き上がり、赤子たちに産湯を使わせた。

 オムツを当て、産着を着せて寝かせる。手摺りを頼りに階段を降り、ミルクを作っている時に、玄関のチャイムが鳴った。

 壁を伝って出て見ると、なんとマーカスである。青褪めている。

「産まれたのか? 泣き声が」

 頷いたエスカがふらつくのを見て、抱きかかえる。

「今、ミルクを」

「わたしがやる!」

 マーカスは、エスカを抱いて階段を駆け上がった。ベッドに寝かせ、大合唱のふたりを見る。笑みがこぼれた。

「その声で泣ければ健康だ」

 マーカスは階段を走り下り、キッチンに向かう。助かった。もう大丈夫だ。

 それにしても、なぜマーカスはこんな早朝に来たのだろう?

「来てくれてありがとう。それにしても手慣れてるね」

 ふたりで手分けしてミルクを飲ませながら、エスカは聞いた。マーカスの頰が緩んだ。

「サイムスとアルトスの育児な。母とハンナがテンパってたから、よく手伝ったんだ。何でも役に立つものだな」

「僕もね。女神殿のシェルターで、お手伝いしてた。あの時の経験がなければ、とてもじゃないけど、自分で育てようなんて思わなかった。

 ところで、何かあったの?」

「うん。この近くで、パトロール警官が、スピード違反のふたりを逮捕したら、イシネス人だった。

 この前の残党ではないかと言う連絡が入ってね。急ぎヘリで駆けつけたんだ。

 容疑者たちは狂乱状態でね。手がつけられない。車の後部座席に装填済みの猟銃があったよ。

 それで、警備の厳重なラドレイ署に送った。他の容疑者たちも収監されていることだし。

 担当の所轄からここまで近いから、まずエスカに報告しようと思ったんだよ。

 それで、この家をサイムスから聞き出した。アダとセダ、サイムス以外には知らせていなかったようだな

 ミルクを飲ませたら、ヘンリエッタに連絡する。予定が早まったんだね? 

 それにしても、何があったんだ?」

「家に侵入しようとしてたから、追い払った。二度と僕に関わらないように、うんと怖い思いをさせてね」

「と言うと?」

「一番怖ろしいモノを見せた。人によって怖いモノって違うでしょ? 大蛇だったり、巨大毒蜘蛛だったり」

「奥さんだったり?」

 ふたりは大笑いした。後のことはマーカスに任せて、エスカは横になった。

 まずい。初産にしては安産だったと思う。だが、その後動き回ったのがいけなかったようだ。出血量が多い気がする。

 アスピシアはエスカのベッドに上がり、足元にうずくまった。エスカの不調を感じ取り、不安なのだろう。

 うとうとしていると、玄関先で物音がした。アダかな。慌ただしい足音がして、アニタが現れた。

「エスカ! 大丈夫?」

 アニタだって、まだ三ヶ月になるかならないかの赤ちゃんがいるじゃないか! それなのに来てくれたの?

「凄く顔色が悪い。お水飲んで」

 水を飲ませてくれた。そうだ。水分が必要だった。

「マーカスさんが、ヘンリエッタさんに連絡したって。夕方までにこっちに着くって」

 ほっとした。アニタはそっと、眠っている赤子を覗いて吹き出した。

「見事に半分ずつ似たもんだね! この白い肌に黒髪くるくる巻き毛の子は、ウリ・ジオンさんの子でしょ?」

「そう。普通の女の子だよ」

「それはよかった。エスカ、そこを一番心配してたもんね。で、こっちの褐色の肌で銀髪の子はアルトスさんの?」

「男の子。やっぱり普通」

「よかったよかった。おめでとうエスカ」

 そこにアダが顔を出した。こちらも不安そうである。それでも赤子を見て、満面の笑みを浮かべた。

「健康そうだな。ふたりとも美形じゃないか。頑張ったなエスカ」

 そうして、赤子たちを抱いてくれた。

「ごめんねエスカ。あたし一晩しか泊まれないの。後は母さんと交代するから」

 エスカは、恐縮することしきりである。アニタの美味しいごはんを食べて、少し元気が出た。

 ランチの後、マーカスは、ラドレイ空港にヘンリエッタを迎えに行った。

 赤子の世話をアダとアニタに任せて、エスカはひたすら眠った。

 到着したヘンリエッタは、泣く赤子たちを見て嬉しそうに笑い、エスカの診察をしてくれた。

 シボレス中央病院で借りて来た器材を使い、早速輸血を始めた。マーカスからエスカの状態を聞いて、判断したと思われる。

 絶対安静、面会謝絶を宣告されて、エスカは頷いた。眠りながら、エスカはマーカスたちの話を聞いていた。

「まだ残党がいるかもしれないんだ。この家はバレてるから、できるだけ早く移動した方がいいな。いつ頃動かせる?」

「車で静かに運ぶなら、最速明後日かしらね。点滴は明日いっぱいで終わる予定よ」

「農場に連れて行きますよ」

「農場はまだ危険だ。今朝エスカと話したんだが。農場はいの一番にバレているからな。

 エスカが言うには『農場は最後の砦だ。危険に晒すわけにはいかない』と。

 だからわたしの家に連れて行くよ。軍警察の官舎だから、セキュリティは万全。周辺をパトロールする警官もいる。

 アスピシアについては、エスカは『農場にはワンコがいるから大丈夫』と言っている。あのワンコのことか?」

「カエサルですね。エスカがそう言うなら大丈夫でしょう。アスピシアは、農場で面倒見てもらおう」

「それで、ウチに来たら誰も会いに来ないこと。これは絶対条件だ。だからその前に、みんなをここに呼んで、赤子たちに会わせよう」

「それがいいわね。特にふたりのパパズには」

 一同なぜか大笑いである。そこでアニタが手を挙げた。

「でも、エスカにはお手伝いが必要でしょう? 少なくとも一ヶ月は。衰弱しているから、無理はさせられないでしょ」

 そうだった。一同困惑する。

「でね。あたし考えたんだけど。母さんに通ってもらうのはどうかなって。臨時の家政婦として。

 母さんはね、お店では厨房やってて、殆どホールには出てないの。だから所謂、面が割れてないわけ。まだ母さんには話してないんだけど」

 アニタはいたずらっぽく笑った。

「それがいいな。お義母さんに頼もうよ。官舎まではそう遠くないから、俺が送り迎えするよ」

「そうしてもらえると助かるわね」

「ありがたい」

 マーカスは頭を下げた。三日目の午前中に全員集合。午後移動と決まった。


 そして今日に至る。ヘンリエッタとグウェンが赤子の世話やら家事やらでばたばたしていると、空からエアカーのエンジン音がした。賑やかな日になりそうだ。

 ざっと説明は聞いているらしく、男たちは静かに階段を上がって来る。遠慮がちなノックの音。

 最初に顔を出したのは、第一子の父ウリ・ジオン。そのウリ・ジオンの背を押して入って来たのは、第二子の父アルトスである。ヘンリエッタが立ち上がって出迎えた。

 ヘンリエッタは、まずウリ・ジオンの子を丁寧にエスカに手渡す。

「健康な女の子だよ」

 エスカは得意そうにウリ・ジオンを見た。ウリ・ジオンの目が歓喜に輝く。

「では、リトヴァだ。父方の祖母の名前だよ。可愛がってもらったんだ」

 エスカは、リトヴァを父親の手に渡した。ウリ・ジオンの黒い目が潤む。

「で、この子は男の子。健康だよ」

 アルトスは神妙な顔で、赤子の顔を覗きこんだ。

「アンブロシウス。砂漠の民の英雄の名だ」

 アルトスは、そっと息子を受け取った。ふたりの父親は、大切そうに我が子を抱き締める。

「ふたりとも、素晴らしい名を付けてもらったな」

 いつの間にか、セダとサイムスがいる。

「おめでとうエスカ。かわいいね!」

 サイムスの声は、感動のあまり震えていた。

 その後マーカスとアダが来て、一同昼食。後片付け役のセダとサイムスを除いて、車に分乗し、ラドレイの市街地に向かった。

 アスピシアにはエスカがよく言い聞かせて、農場に連れて行ってもらうことになった。

 エスカは、アスピシアに申し訳ない気持ちで、泣きたくなった。結局、自分の都合を押しつけているのだ。

「ごめんねアスピシア。必ずまた一緒に暮らせるから。ワンコと仲良くして、ごはんもちゃんと食べるんだよ」

 シボレスにタンツ氏の治療に行く時よりは、納得してくれたようだ。


 マーカスの官舎に落ち着いた翌日。早速セダから連絡が来た。

 あの後、セダとサイムスが掃除をし、家を出ようとしたところに、イシネス人が訪ねて来たという。中年の夫婦である。

「失礼。こちらの家のお方ですか?」

「いや。住人の方は引っ越されまして。わたしらは清掃会社の者です」

 こういう口上は、セダの十八番おはこである。

「引っ越し先はおわかりでしょうか? 実は家出した姪っ子が住んでいたようなんでね。探しているんですよ」

「それはご心配ですな。でもわたしら、掃除を頼まれただけなんでね。管理している不動産会社に聞けば、わかるかも知れませんね」

 と言って、不動産会社の連絡先を教えたそうだ。それは、軍警察の不審者対応のシークレット番号だった。早速軍警察が動き、ふたりは署に連行されたという。

 道理で、朝からマーカスがそそくさと出て行ったわけだ。エスカに余計な心配をさせまいと、気を遣ってくれているのだ。


 エスカとふたりの赤子、そしてマーカス。四人の暮らしが始まった。昼間はグウェンが来てくれる。家事一切と赤子の世話までしてくれて、ありがたいことこの上ない。

 夜は、エスカひとりで育児をやる。マーカスが手伝いを申し出てくれたが、エスカは固辞した。寝不足で、仕事に支障が出ては困るからだ。

 マーカスは多忙で、帰りは遅い日が多い。帰宅しない日もある。

 ある夜半、帰宅した気配にエスカが様子を見に行くと、マーカスがソファにぐったりと座り込んでいるではないか。

「ちょっといい?」

 エスカの声に、マーカスは疲れた顔に微笑を浮かべた。

「失礼」

 言って、エスカはマーカスの背後に回る。両手の親指で、マーカスの額のツボを押さえた。

「うん」

 気持ちよさそうな声を出して、マーカスは目を閉じた。

「心地いいな。わたしは頭痛持ちでね。ああ楽ちん」

「これやると、よく眠れるんだよ。毎日帰ったら、僕を呼んでね」

「それではエスカが寝不足になるだろう」

「昼間グウェンがいてくれるから、結構休めるんだ」

 それから、エスカはハーブティーを淹れた。マーカスは、すっかり寛いでいた。


 一ヶ月後、すっかり回復したエスカは、精力的に家事に取り組んだ。

「何かあったら遠慮なく呼んでおくれ」

 グウェンは、ご機嫌で引き上げて行った。マーカスの帰宅が比較的早い時には、エスカは食事を作った。まだまだ赤子たちには手がかかるが、エスカは若さを武器に頑張った。

 マーカスの笑顔が励みになった。食後、赤子をあやしながらのティータイムは、エスカとマーカスの至福のひと時である。他愛ない話をしながら、エスカは幸せを噛みしめた。

「ずっといてくれないかな。無理だろうが」

 マーカスは、無理を承知で言っているのがエスカにもわかる。

「そう言ってくれて嬉しいよ。無理だけど」

 エスカは苦笑する。

「安全が確認されたら、農場に戻るしかないかも」

 農場にはシェトゥーニャがいるだろう。だが他に帰るべき家はない。爆破されてしまったから。

 何よりアスピシアが心配だ。エスカには責任があるのだ。それに、カエサルにも会いたい。高齢だというが、少し楽にしてあげられないだろうか。

 そんなある日、珍しく定時に帰宅したマーカスから、 思わぬ朗報がもたらされた。

「昼休みに、サイムスと会ったよ」

 一緒に夕食を摂りながら、マーカスは話し始めた。

「セダとサイムスが相談して、罠を仕掛けたそうだ。何も襲われるのを座して待つことはないからな。

 農場に、住み込みで働いてくれる従業員を募集した。住まいは、ただ今建築中ということにした。

 面接には、市街のビルの一室を借りたそうだ。農場は遠いという理由でな。だから建築中でなくてもバレない。

『夫婦者優遇』としたら、早速イシネス人夫婦が応募してきたそうだ」

「やっぱり、まだいたんだ」

「現在、イシネスでは観光目的の出入国は禁止されている。この件が落ち着くまでだが。

 そうなる前に入国していたか、或いは不法入国かもしれない。イシネスは島国だからな。空か海を越えなくてはならないから、こちらでも、空港と港を監視してはいる。

 だが一旦他国に入り、その後陸路で来るとなると、全ての道路を封鎖するのは不可能だ。

 で、セダが面接に当たった。人のよさそうな中年の夫婦だったそうだ。

『就労ビザをお見せください』

 と言うと、夫婦はにこやかにビザを見せた。アダもセダも、偽造ビザ作成に関わったことがあるらしく」

 ここで、マーカスはこほんと咳払いをした。マーカスは准将という階級の警官。知ってはいるが、見て見ぬ振りをしてくれているようだ。

 「ひと目で、お粗末な偽造ということがわかった。相手は素人だからな。

 だが、素人ほど恐いものはないんだよ。セオリーはなし、限界も知らないからね。そこで、セダは納得してみせた。

『農業経験はおありですか?』

 などと当たりさわりのない質問をし、連絡先を聞きだした。ふたりは、セダが信じてくれたと安心して気が緩んだらしい。

 そこで、セダはカマをかけてみた。このあたり、さすが元諜報員」

 みんなバレてる。エスカは冷や汗が出た。

「『ところで、イシネスでは、今ごたごたしているようですが?』

『ああ、あれね。クーデターの後で、あろうことか、お偉い巫女さまが逮捕されましてね。亡くなられてしまいました。とんでもない事故だったようですけど』 

 お喋りの夫婦だった。

『神殿には手を出しちゃいけないのに、今の政権ときたら』

『諸悪の根源は、以前女神殿にいた下僕なんですよ。ですからあたしたち、そいつを探し出して、法廷に引きずり出したいと思ってるんです。

 亡くなられたとはいえ、巫女さまの無実を晴らさなくては』

『なるほどね。見上げた心掛けですな』

 二、三日中に結果をご報告しますみたいなことを言って、ふたりにはお引き取り願った。

その会話は、録音されててな。早速セダから署に連絡が来た。で、ふたりを即連行。

 シラを切っても、偽造ビザだけでもアウトだからね。ただ今取り調べ中だよ。

まぁ、大してホコリも出ないだろうから、遠からず着払いで強制送還だな」

 少しずつ解決に近づいている。農場に帰る日も近い。エスカは頭を抱えた。

「ところでエスカ。もうすぐ新学期だろう? 大学はどうするんだ?」

「それね。僕、子どもたちが健康体だったら、新学期から通学部に通うつもりだったんだ。学内の託児所に子どもを預けてね。

 まさか、まだイシネスの件が尾を引いているなんて、思わなかったからさ。

 この状態だと危険過ぎて、とても僕から離せないよ。引き続き休学だね」

「オンライン学部に行くことにして、週一日だけ通学というわけにはいかないかなぁ。

 その一日だけなんとかする方法がないか、考えてみよう。諦めるのはまだ早いよ」

 マーカスの心配りがありがたい。だがエスカには、他にも不安材料があった。子どもたちの霊力である。

 ふたりとも、 身に付けているのは感じている。問題は、それが何時発現するかだ。

 託児所にいる時だったら? 保育士が腰を抜かすだろう。時々チェックしなくてはならない。

 発現したのを確認して、何年か力を封印することになるだろう。確認するまで子どもたちは、外出禁止にするしかない。

 となると、家にいても、農場なら複数の人に会える。エスカとマーカスふたりきりより、子どもたちにはいいのではないか。

 農場は広いし、アスピシアもカエサルもいる。わがままを言っている場合ではないか。エスカはため息をついた。

『安全が確認されるまで、もうひと息』という名目で、エスカは農場行きを先延ばしにした。


 そんなある日、大荷物が届いた。ちょうど日曜日で、マーカスがいた。

 開けてみると、クマのぬいぐるみがふたつ。ピンクとベージュである。かわいい箱に入っていて、カードが添えられている。

『おめでとう♡ 一同より』

 クマは、赤子の等身大である。エスカは歓声を上げて、眠っているふたりの隣にクマを置いた。手紙も入っている。

『出産おめでとう。遅くなってごめんな』

 几帳面な字はサイムスだろう。アルトスとウリ・ジオンが揉めないように、中立を保ったと思われる。

 もうひとつはギターラと音叉だった。これはエスカへのお祝い。アルトスの発案だろう。

 エスカとアルトスのギターラは、爆破された家と運命を共にしてしまった。この調子だと、アルトスも新しいギターラを買ったに違いない。

「僕ね。アルトスにギターラを教わってたんだ」

「聴かせてくれよ」

 マーカスは嬉しそうだった。

「ちょっと待ってね」

 エスカはサイムスに電話をした。休日だから、みんないるだろう。ティータイムの時間だ。一度鳴っただけで、サイムスは出た。

「届いたか! 何を贈るかでモメてな」

「エスカ! 上達したら、デュオやろうな」

 スピーカーにしたらしい。アルトスが割り込む。

「エスカ。報告がある」

 ウリ・ジオンだ。

「直接会って話したかったが、いつになるかわからないので、ここで言うよ。シェトゥーニャが出ていった」

 エスカは息を飲んだ。マーカスが、素早くスピーカーにする。

「僕とシェトゥーニャ、ふたりの問題だよ。エスカが気にすることじゃないけど、一応知らせておこうと思って」

「ぼ、僕はふたりに幸せになってもらいたくて」

 だから身を引いたのに。

「おいエスカ!」

「出てったよ。泣いてる」

 マーカスが代わった。ウリ・ジオンが狼狽えている様子が伝わってくる。エスカは部屋で、聞き耳を立てていた。

「セダです。なんとか宥めてください」

「任せろ。やさし〜く抱きしめてやるから心配いらない」

「そこまでやらなくていいっ!」

 アルトスの興奮した声。

「アルトス。聞きたいことがあるんだが。お前、以前エスカは戦闘系だと言ったよな? 

 だがわたしの見たところ、本来は癒やし系なんじゃないかと思うんだ」

 あっ、という雰囲気が伝わる。

「そうか! そうだったんだ。それならいろいろなこと、納得できるよ。実はふたりで暮らしていた時さ。静かで平和で、気持ちが和んで満たされてた」

「やっぱりな。仕事で疲れて帰っても、エスカがいてくれるだけで、気持ちが楽になるんだよ」

「わかるよ。俺またエスカと暮らしたい」

「残念だったな。そういうことは、わたしに任せろ。さぁて、慰めてくるか」

 そこでマーカスは電話を切った。エスカは、声を殺して笑った。涙が飛ぶ勢いである。マーカスも大ボラ吹きか。

 だが笑っている場合ではない。シェトゥーニャが出ていったからって、早速エスカが乗り込むわけにはいかない。まるで先妻を追い出した後妻ではないか。

 それに、イシネスの件については、あとひと息の状態にはなっている。近日中には片付くかもしれない。

 どうしよう。農場でないなら、どこへ行ったらいいのだろう。

 ノックと同時にドアが開いた。心配顔のマーカスである。マーカスは、ソファに腰をおろし、エスカと並んだ。

「ウリ・ジオンの言うとおり、ふたりの問題だよ。エスカのせいじゃない」

 エスカは、首を振った。

「ふたりは、うまくいっていたんだ。僕の妊娠がわかるまではね。だから僕のせいだよ。

 ウリ・ジオンは、僕をイシネスから連れ出して、新しい人生を与えてくれた大恩人なんだ。

 それにシェトゥーニャは、イシネスのクーデターの後で瀕死の状態だった僕を、アニタと一緒にお世話してくれた。やっぱり大恩人だ。

 だのに僕は、恩返しどころか、恩を仇で返してしまった。ふたりには、幸せになってもらわないといけないのに」

「ずっと一緒にいることが、幸せとは限らないだろう? 別れてそれぞれの道を歩む方が、長い目で見れば幸せなこともあるんじゃないかな。『縁がなかった』それだけのことだよ」

「でも、三、四年も付き合ってたんだよ?」

「それなりの縁はあったということだな。いずれにせよ、子どもたちとパパズを大切にしなさい。わかっているとは思うが」

 眠っていたアンブロシウスがぐずりだした。リトヴァも続く。

「あ、噂したから起きちゃったじゃないか~」

「すまんすまん」

 エスカとマーカスは笑いながら、赤子の世話に取りかかった。エスカがふたりのおむつを替えている間に、マーカスがミルクを用意する。

 哺乳瓶を二つ持って、マーカスが戻って来た時、それは起こった。

 突然、哺乳瓶がひとつ宙を舞い、アンブロシウスの手に収まった。蓋がぽんと飛ぶ。

 アンブロシウスは哺乳瓶を抱えて、ミルクを飲み始めた。続いてリトヴァ。

 マーカスは唖然としている。エスカの表情は厳しい。ややあって、ため息をつく。

「早すぎるんじゃないか、おふたりさん」

 おふたりさんは、寝たまま、両手でしっかり哺乳瓶を持って、満足そうにミルクを飲んでいる。

「ま、楽でいいけどさ」

 エスカは床に落ちた蓋を拾うと、ソファに腰をおろした。マーカスが並ぶ。

「これって、霊力?」

「うん。もう四ヶ月だからね。首は座ってるし、触れた物なら持てる。飲み終えたら封印するよ」

「封印とは?」

「人前でやられたらまずいでしょ。学者先生に狙われるよ。時々チェックするとして、五才前後かな? になったら、様子を見て解除。その後訓練に入る」

「どんな訓練?」

「霊力を抑える。身を守るすべを覚えるエトセトラ」

「想定済みだな」

 マーカスは、今さらながら呆気にとられているようだ。

「それにしても、アンブロシウスは飲みっぷりがいいな。最初はリトヴァより小さかったのに、今は大きい位じゃないか?」

「大男になるつもりでしょ。リトヴァちゃんは大女にならなくていいからね」

 エスカは、ご馳走さまのリトヴァを抱き上げて背中をさすった。げっぷをさせると、耳元にひと言ふた言囁いた。古代イシネス語である。

 ご機嫌で笑い声を上げていたリトヴァは、瞬時に眠りに落ちた。

「さてシウス君。きみが主犯だね」

 アンブロシウスも、リトヴァと同じ運命を辿った。

「先に覚醒したシウスが、リトヴァを煽ったんだよ」

 やれやれと、エスカは伸びをした。


 その晩、アルトスから電話が来た。ふたりは、食後のお茶を飲んでいた。

「なんだよ。真っ最中なのに」

 マーカスが笑う。聞こえたのか、アルトスも笑う。

「すまんな。泣いてるかと思って。ウリ・ジオンの件な。ほんとに心配いらないんだ。

 ウリ・ジオンは限界だったから、俺は寧ろこれでよかったと思ってるよ。

 シェトゥーニャは俺と違って、赤子の頃から砂漠の民にどっぷり浸かっていた。

 砂漠の民は母系制社会だったのは知ってるか?」

 マーカスがスピーカーにした。 

「言葉だけはね」

「つまり一夫一妻制ではない。女の元に男が通う。もちろん、女に拒否権はある。同時期に複数の男たちが通うこともあるんだ。

 だから出産した場合、母親ははっきりしているが、父親は不明。ある程度成長すれば、誰に似ているかで判明するわけだけど。

 シェトゥーニャが、巡業先で好き勝手していたのは知ってるか?」

 エスカは仰天した。

「まさか、そんな、シェトゥーニャが」

「砂漠の民にどっぷり浸かっていると言っただろう? そういうことに罪悪感はない。普通のことだからだよ。

 道徳観とか倫理観みたいなのが違うんだ。責めることはできないさ」

「あ、あの、ウリ・ジオンはそのこと知ってて……」

「もちろん。だから限界だったと言っている。愛しているから耐えてきたのさ。

 しばらくはつらいだろうけどな。ウリ・ジオンは、あれで打たれ強い。いずれ乗り越えるよ。

 シェトゥーニャにとっては、一番がいなくなっただけだ。二番三番はいるだろうから、立ち直りは早いだろう」

「……僕が怒ったのが、引き金になったんだね?」

「かもな。結果オーライだったから、これでよかったんだよ。俺もそっちがユルいの知ってるよな? 

 罪悪感なしで、浮気をする可能性がある。悪気はないから、反省はしないし、何度でも平気で繰り返すだろう。

 だからエスカ。俺がプロポーズしても断ってくれよ。エスカが俺を愛しているのは知っているが」

 笑いながらの言葉だが、内心でアルトスは泣いている。そんな気がした。

「わかった。罪悪感なしで振ってあげるよ」

 マーカスが苦笑している。

「それでイシネスの件だが。モリスとディルが、何事か画策しているそうだ。全面解決は近いぞ」

 そこで通話は終わった。

「さて、真っ最中だったお茶が冷めてしまったから、淹れ換えるな」

 マーカスはほっとした笑いを見せ、お茶を淹れた。マーカスは、お茶を淹れるのが上手なのだ。


 数日後の昼、アダから連絡が来た。昼休みのようだ。

「例の土地な。やっと片付けが終わって更地になったよ。物価が上がっていてな。保険金の半分を使ってしまった」

「ありがとう。全部お任せして申し訳ない」

「いやいや。それでエスカ。近々あそこに家を建てる気あるか?」

「ない。当分そのままにしておくよ。まだはっきりとはわからないけど、いずれいい使い途があるような気がするんだ。お金もないしね」

「そうか。それで少し困ったことになったんだが。会ったことはないかもしれないが、お隣さんご夫婦のことだ。

 五人のお子さんたちが巣立って、高齢のご夫婦ふたりの暮らしになった。

 広すぎる家の管理はもう無理。娘さんの近くに越すことに決めたそうだ。家を売ってな。

 そこで不動産屋を呼んで、査定してもらった。家が古い上に、ろくにメンテナンスをしていなかったせいで、価格は低かった。

 ご夫婦は、一日も早く引っ越したい。売りに出すと、何ヶ月かかるかわからない。或いは年単位になるかもと不動産屋に言われたそうだ。

 その不動産屋に買い取って貰えば、明日にでも越せますよと言われてその気になった。だが不動産屋が買い取るとなると、査定価格の七がけ、つまり七十パーセントだな。

 当然ご夫婦は渋った。なるべく早い時期に高く売りたい。不動産屋は、安く買い取りたい。そこでさすがプロ。一計を案じた。

 エスカの家の事故のせいで、査定価格が低くなった。物騒な場所になったというわけだ。ついては、価格が低くなった分の差額を、エスカに払って欲しいと」

 エスカは、開いた口が塞がらない。

「それって、正当なの?」

「もちろん、いちゃもんだよ。お隣さんは、何の被害も受けなかったんだからな。だが、精神的苦痛を受けたと主張している。

 エスカは未だ行方不明。で、代理人である俺のところに連絡が来た。それが先週だ。

 モリスの店に、爺さんが不動産屋と弁護士を引き連れてやって来たよ」

「あの、その差額って幾らぐらい?」

「数百万」

「それなら払える! だから払ってそれで終わりにして!」

 これ以上のごたごたはごめんだ。

「待て。そうすると、犯罪者を喜ばせるだけだ。やっていることは、詐欺に近い。

 見たところ、あの不動産屋は初犯じゃないな。手馴れている気がした。

 恐縮したふりをして話を聞いたところ、あのご夫婦は、査定を一社に依頼しただけだった。

 それで、こちらからも不動産屋を呼んで、査定してもらうことにしたんだ。

 複数に査定してもらうのが一般的だから、断ることはできないさ。

 来週早々に、こちらから出向くことになった。日にちをおいたのは、こちらも弁護士を手配した方がいいと思ってな。それで、タンツにいた時に知り合った弁護士に相談してみた」

 イヤな予感がした。

「快く引き受けてくれたよ。ところが翌日、その弁護士から連絡が来た。

 会長に会ったので、久しぶりに俺に会ったと話したそうだ。 あのお喋りめ。

 守秘義務があるから、内容は話さなかったという。

 そうしたら、その日のうちに会長から俺に呼び出しがあった」

 エスカはくらくらしてきた。

「俺はもうタンツの社員じゃないからな。応じる義務はないんだ。だが横から妙な話が入るより、正門から行く方がいいと思ってな。昨日シボレスに行って来た。

 勝手に進めて悪かったな。エスカの耳に入れずに済ませようと思ったんだが」

 エスカはがっくりと肩を落とした。エスカを思ってしてくれたのは理解できる。またあの駱駝か~。

「爆破事件のことから話したよ。会長は、ニュースで知り得た以上のことは、ご存知なかった。

 ニュースでは『原因不明の爆発事故。居住者は行方不明』と速報で流しただけだったんだ。

 続報はなし。マーカスがプレスを止めたんだな。無駄に不安を煽らないためと、軍警察では言っている。

 会長にとって、ラドレイはよその市だからな。深くは考えなかったそうだ。

 居住者については、『たまたま留守だったのか、或いは激しい炎で骨まで燃えてしまったのか、不明』としてある。

 居住者がエスカだったと聞いて、会長は怒った怒った。激怒の激怒の大激怒。

 まぁ、無事なのは感づいているだろうが。実におっかなかった」

 アダが怖がってどうする。

「そんなわけで、『この件は預からせてくれ』と言われた。ありがたくお任せしてきたよ。俺が下手に動くより、いい結果になると思ってな。

 だからエスカ。何も気にしなくていい。のんびり待とう」

「あの、あのさ。考え過ぎかもだけど。会長がそのお隣さんを買うってアリ?」

「……可能性はあるかもな。買い取って建て替えて別荘にするとか」

「もしそうなったら、僕、あの土地を誰か他の人に売る!」

「会長もえらく嫌われたもんだな」

 アダは苦笑したようだ。

「それがいいかもしれないな。もしそういうことになったら、連絡するよ。セダと相談して、最善の道を探るさ」

「またお世話になるね」

「セダも俺も、やりたくてやってるんだから、気にするな」

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