第二場
ヘンリー、苦しかったね。
「苦しかったよね。」
何ということだ。
台本に書かれた言葉の中で最も大切だと、他ならぬ椿が言っていたのに、本番で変えた。「よ」の有り無しで意味すら変わるというのに!
カーテンコールで礼をする時、必ず観客の顔が見える。
今日は、呆然としている人や泣いている人が多いな。何に心を動かされたのだろう、ぜひ直接訊きたいものだ。
小海さんは血糊でベタベタのままだが、屈託のない笑顔が少女のようで、満たされている。
椿は、どこか様子がおかしいような……?
儚い、と言えばいいだろうか。別の意味で、まるで少女のようだ。結婚式で新郎が死んだら新婦の魂は抜けてしまうだろうが、ゲネプロまでの、強く美しい女性として生きようとするエマとは違う。純白のウエディングドレスに着られている。しかし、もう一着用意されたお嬢様の普段用ドレスも、あの姿には似合わない。
濃紺のセーラー服が合いそうだ。まだ若かった頃、あの現場で着ていた衣裳。
あれが素の姿ということだろうか。
強く美しい女性として生きようとする姿も、淡くて儚くていつか消えてしまいそうな姿も、どちらも椿なのだろう。
俺より先に一人二役を演じた椿こそ、誰よりもジキルとハイドがわかるのだろう。
椿がなぜこの仕事を選んだのか、俺はきちんと聞いたことがない。だけど、鑑賞者を第一に考え、その人々に何を伝えたいかを最優先することに、執着とも言えるくらいこだわる。ホンを読めば必ず何が肝か考え、自分なりに消化した上で、制作チームの一員として作品づくりに参加する。
映像を拠点とする椿と舞台が拠点の俺では、異なる部分はあるだろう。しかし、我々が仕事をする目的は伝えることなのだと、椿の姿から教わった。
映画で共演した当時も、椿の姿勢はクソ真面目だった。葵春歌という"雨街"の原作者は、2023年度高文祭の文芸部門で優秀賞に輝いた実力者だ。当時高校2年だった彼女には、まだ幼さが残っていた。受賞作は重々しく考えさせる物語だった。しかも、それはなんと、このジキルとハイドやフランケンシュタインをモチーフとして、巧みに利用していた。とてもあの女の子から生み出されたとは思えない。
俺なんか、比べものにならない。
俺なんかはまだまだ実力不足で、だからこそ、もっともっと高みへと昇りたいんだ。
それにしても、あの重厚感たっぷりな受賞作で一躍有名になった葵さんの小説の実写化で、俺と椿は出会った。そして今は、モチーフのジキルとハイドの物語で、再び共演している。不思議なこともあるものだ。
初めて顔を合わせた日、少しづつ葵さんの見えない部分が浮き彫りになっていったのは、椿の引き出し方が巧みだったからだと思う。家とか友達とか恋人とか、何気なく使う言葉から深掘りしていく様は打ち合わせというより議論のようだった。
椿は、葵さんのように、いくらわかってもわからないほど奥深い。
今、観客が劇場から出ていく頃だろう。
どんな顔をして、どんな歩き方で、何を考えながら、帰路に着くだろうか。
「苦しかったよね」
あの一言で、まるでホール内だけ時間の進みが止まったようになった。観客たちの魂が抜けてどこかに飛んでいってしまい、立ち上がることすら忘れてしまう。ようやく我に帰ると、早く戻ってきた者から順に立ち上がり、いつしか割れんばかりの拍手になる。
「お疲れ様。今日の私、どうだった?」
「上々だろ。それよりエマ役きついよな、大丈夫か?」
「そっちこそ」
椿の言葉を遮るように着信音が鳴った。
相手は星野だ。
なぜ? 何かあったのか?
「失礼。」
「うっす。ああ、うん。うん。
そんなに急ぐのか?
了解。」
椿と二人で飯に行くことは、今日じゃなきゃダメというわけではない。もちろん約束を反故にするのは本意ではないのだが。
「ごめん。今夜キャンセル。」
「ええ……」
「ごめんって。また今度行こう。な?」
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