第三場

 当然と言えば当然なのだが、星野の様子は変だった。

 奴は、葉月さんを失って以来、二人で暮らすための部屋で、ずっと一人で暮らしている。そこに、偶然とはいえ、葉月さんとどこか似ている女性が現れたら……確かに、俺が星野でも飲み過ぎる。

 何でもない仕事の話もしながら、と言っても俺は関係者ではない彼にペラペラ話すわけにはいかないが、苦労話や思い出話も多かった。よく見ると、星野の頭には、わずかとはいえ白いものが混じっている。

「お前、ペース早いぞ。」


 昔は朝まで飲み明かしたこともあったが、俺が出演した”雨街”を観て、自分の才能の限界を悟ったと語っていた。悔しい話だが、俺ではなく椿に心打たれて。

 夫婦二人で幸せに暮らしているとばかり思っていた。細々と役者を続けている葉月さんとデザインの仕事で忙しい星野はすれ違いが続き、もうどうしようもない、と。俺には何もできず、結局二人は別れてしまった。あの時俺は──

「仕事なんてほっといてもっと一緒にいればよかったなんて、そんなことはないだろ。」「大丈夫、大丈夫だから。」「ちゃんと話せばいい。想いをきちんと伝えて、葉月さんの気持ちを受け止めて、向き合えばいい。」

 青臭かったものだな。

 今度はどうか、うまくいきますように。

 葉月さん、また顔を見せてほしいです。

 その時は、どうか、幸せな表情で。

「お前は、優しいな。」

「ハハッ。腐れ縁だろ、腐れ縁。」

 あ、でも、そういえば椿も優しかったって言っていた。



 昔の椿は、ほんの少しでも押したら倒れてしまいそうな人だった。

 そんな彼女の細い身体の中には柱があって、倒れそうで倒れない。原作の葵さんが出したヒロインに椿深冬を起用するという条件のもと、主演に抜擢してもらえたのが自分。周りはそこそこ名の知れた若手ばかりだった。

 なぜ自分なのか。椿深冬は何者なのか。葵さんが指名するほど、それが受け入れられるほど、椿深冬が実力者なら、あいつはもっと売れていたはずで、自分があの場に入ることなどできないはずで……何か裏があるのでは、と疑ってしまう。だけど、だけど、その頃から──

「人間って、一度死の淵を見れば強くなりますよ。」

 椿さんは死の淵を見たと言うのか?

「感情があることって、ほんと、幸せですよね。」

 まさか、感情がないのか? とてもそうは見えないけど。

「萩森さんって、なんか隠してそう。」

「え?」

「ただの勘だけど、苦労してきた人に見える。」

「見える?」

「見せようとしてなくても苦労が見えてる。あと、強そうに見せてるのは弱いから。ものすごく真摯に取り組んで、常に自問自答してる。いつも自分に批判的で、繊細に物事を考えてる。悪く言えば、クソ真面目。」

「なんか、怖えな。」

「私、そういうのわかっちゃうから。クソ真面目だから、何にでも真摯に向き合うし、一度やると決めたらやめないし、細かいことまで気を配る。」

 噛めば噛むほど味が出る、終わりがないガムみたい。これぞ人間だと思った。どうやってあの人間性を身につけたのだろうか。俺には到底追いつけないのでは──



「美和ちゃんがその時助かった代わりに、花織が死んだ。花織は腕が取れて、首が変な方向を向いてたらしいよ。私は死体を見てない。みんな、私には見せてくれなかった。

 花織は、あの子は自殺を図ったわけじゃないの。

 美和ちゃんを助けようとしてた。美和ちゃんは死のうとしているとばかり花織は思った。

 でもね、後で美和ちゃんにも警察が聴取したらさ。美和ちゃんはホームのギリギリに立って、『ああ、ここから今飛び降りたら楽になれるのかな』ってぼんやりしてただけだった。あの子の意識は、花織に引っ張られているときも想像の世界に行ってて、何が起こったのかちゃんと覚えていなかった。あの事件は、もし私が『出掛けておいでよ』なんて言わなかったら、もしたまたま出くわすなんてことにならなかったら、起こらなかった。

 誰も死ななくて済んだのよ。

 美和ちゃんは事件のあと、入院した。

 遠く遠く離れて、空気が美味しい場所で、何もかも忘れた方が、あの子のためだからって。

 それから一か月もしないうちに、いなくなって、それっきり。

 私、一人になっちゃった……。

 私には、誰もいない。


 親戚みんなが集まって、話し合った日があってね。

 まず美和ちゃんのことをどうするか。叔父さんは大学で教授を目指していたから、ていうか、今も目指してるけど、家庭で事件があったなんて、そんなこと、あってはならない。教授選には勝てないもん。だから、美和ちゃんが消えたことは私たちだけの秘密。

 美和ちゃんが将来生きていく場所を残しておくためにも、もしいつか、美和ちゃんがここに帰ってきたら、あなたの居場所はここにあるよって言えるように、あの子の場所を守ろうって。

 じゃあ、どうやってやるか。

 そんなの、簡単だよ。

 誰かがなりすませばいい。

 それで、私がね。

 年齢や美和ちゃんのことをどのくらい知っていたかということを考えると、適任なのは私だけだった。でも私は、和凛として、お母さんを守らなくちゃならない。お見舞いとか、忙しいお父さんの代わりに検査に付き添ったりとかね。

 だから、私は、一人二役をしなきゃいけなかったの。

 でも、現実的に無理があるでしょ? そこで、お役所に登録する上では、峯岸和凛が失踪中ということにした。

 今お母さんはかなり危なくて、いつでもおかしくなくて、こんな時に、美和ちゃんとして居るなんて、いくらなんでも無理よ。

 受験許してくれないのは分かるよ。美和ちゃんのためだよ。叔父さんの言う条件をクリア出来なかったから、もう私は、こうするしかないんだって。私の居場所はここじゃないって思っても、我が儘なんか、言えないんだって。でも、美和ちゃんだって、これくらいなら、許してくれると思うの……

 もう、何もかもどうでもいい。

 私は、美和ちゃんの場所を守る。

 花織と、美和ちゃんと、私の、思い出を守る。

 何があろうと私は、こうするって決めたんだもん。

 あの頃、本当、楽しかった……」

「つまりさ、君は家族を、愛しているんだろ。」

「うん。

 私は、私を殺したんだ。

 これが、私たちの正解。」


 このシーンは一発で撮影した。

 監督がカットをかけなくて、俺と椿は何も言わずとも一気にやりきった。

 とはいえ、俺はずっと「君」の後ろに座っていただけで、返しができていない。完成した映画ではもちろん編集が加えられているが、それでも椿の表情、声色、纏うオーラは「君」だった。

 あの時は、肝となる言葉は、俺が言った。


「君が死んで、犠牲になって、そこまでして守らなればならないのか?

 自分自身として生きたい君も、愛する人を守りたい君も、今ものすごくつらそうな君だって、全部が真実だろ?  

 君は、君を一番大事にすればいいんだよ!


 なあ、今、決めよう?

 僕は今後、君のことをなんて呼ぼうか?

 美和さんか、和凛さんか、どちらでもない、別の呼び方か?」



 当時は全力でやりきったつもりだった、反省点だらけの作品。

 今の俺だって、まだ満足には至らない。



「ジョン! 撃て、殺せ、頼む!」

「むりだ……!」

「エマを、エマを守れ!

 もう、もう、殺したく、ない!」

 痛みに絶叫して、息絶えて、そして。

「苦しかったよね。」



 何も言わず研究室に籠るヘンリーに対し、エマは不満だったはずだ。

 何のために何をしているのか、なぜ何も言わないのか。この物語の中で、エマはちっとも変わらない。

 俺にとって、エマと過ごす時は理事への憎悪を忘れられる至福の時間だ。

 俺にとってのエマは、単なる婚約者ではない。単なる恋愛でもない。

 それが俺だけでなく、エマも同じだとしたら。ヘンリーとの時間は、彼女の心が解放される唯一の時だったとしたら。


 ルーシーと二人でのデュエットでは、二人は全く違う内容を言っている。

 ルーシーはどこか欠けている少女で、性的な目で見られることを仕事としていて、でも、俺はそんな気持ちは持っていない。ルーシーにとってもヘンリーは特別な存在。ルーシーはヘンリーに己に欠けているものを見出して、彼女と俺は、二人の世界に幸せに照らされた桃源郷を見出していた。

 エマは変わらない。

 ヘンリーの様子がおかしくなっても、北の空に年中浮かんでいる北極星のように、希望を持ち続けていてくれたんだとしたら。ヘンリーが侵されていっても、その全てを受け止めてくれていたなら。



「そうか!」



 だからだ。

 椿だからだ。

「君」がエマになったから、一つの体で二人生きることをわかってくれたんだ。


 なんだよ。


 あいつ、全部私情じゃねえか。


 役柄が憑依しているように見えるけど、全部あいつの気持ちじゃねえか。

「ありのまま、か。」

 なんだか笑えてしまう。

 椿だって、どんな役でも椿なのかよ。

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