閑話 花曇 (旧1話)
雨の後の匂いだ。春の新鮮さが落ち、桜の花の軸が雨に濡れ、ぐずぐずになっていく頃の匂いだ。
皆が一斉に走り出した徒競走のピストルの合図と共にたたらを踏んだようだ。そのままこけて立ち上がったころには横には誰もいない。高校入学というスタートを切ってから私は走り出せていない。
スタートの直前に最後の家族である祖母を亡くした。いつまでも生きているわけではないとわかっていたのにその事実にどうも気を取られる。母のころはそうでもなかった気もするのに。
高校の裏門、体育館裏ともいえるそこには部活の声が届いている者の私以外誰もいない。すでに部活が始まる時間から幾分か経ち、帰宅部は早々に帰っている。こんな中途半端な時間に帰るのも初めてではない。
高校の入学式、一人でその門をくぐったその日から体調がすぐれない。ずどんと肩が重くなるように、深く実感したのだ、今日からは一人で生きるのだと。
同じ中学だった人がいないわけでもない、親族も会う頻度は少ないが叔母がいる。それでも私の広くない友好関係は中学卒業とともに切れてしまった。おまけに、入学式の途中で倒れ、一週間たった今も授業を受けるのが精一杯でろくに親交を深められていない。なんとなく、前後の人の名前はわかるが自己紹介の時でさえ、順番が回ってきたことも気づかないほどだったから他の人は一切わからない。
今でさえギリギリなのに席替えがあったら悪化するな、とどこか他人事だと失笑してしまう。
あ、まずい。足が碌に上がらない。手も出ない。端に寄せてあった桜の花の軸の小山に突っ込んでいきそうだ。ぐずぐずした匂いが近づいていく。
ふと上から声が聞こえた。その瞬間急に体が止まり、内臓が跳ねる感覚がした。
「大丈夫?」
心配そうな声がそよいだ。
そして、体の力が抜けていった。
「
知らない男がソファーの後ろにいた。
ぎょっとして先程確認した扉を見るも出口かもわからないし、何より男の手の内に学生証があることを見つけ、その場を離れることは得策でないと察した。
「……はい」
恐る恐る頷く。
「ごめんねえ、起きたらこんなとこにいるなんて混乱するよねえ」
こんなおっさんだし、そう続けて無造作に伸びたのであろうもじゃもじゃとした頭を掻いた。ついで慣れた手つきで名刺を取り出した。
「僕は
簡素な名刺には末本相談所、所長と名前の前に書かれている。裏を見ようとすると、学生証が名刺の下にあることに気が付いた。そこには写真写りが良いとは言い難い顔が載っている。つい一週間ほど前、だが髪が長かったとき最後の写真だ。
「その写真の顔色もいいとは言えないけど、今の希ちゃんもっとやばい顔してるの気が付いてるよね。入学してそう経ってないはずなのに、そんなはっきりとした隈を抱えてもらっちゃあ、おっさんからしたら黙っていられないのよ。職業がらおせっかいでね」
そうやわらかな声で彼は言った。
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