パティ
わたしのためのアイスクリームケーキをごみばこに放り込んでから七年。今の母はただのピュア・ヴィーガニズムを通りこし、フルータリアンになっていた。フルータリアンというのは、菜食主義者の一種なんだけど、その中でももっともげんかくで、くだもの、ナッツ、何かのタネ、そういったものに由来する食品だけを口にし、それ以外のすべてを拒絶する人たちのこと。母はもちろん、わたしにも同じ生活をようきゅうする。
「これは完全な食品なのよ。だって、アダムとイヴは楽園において果実だけを食べて暮らしていたんだから。それが神の意志による自然ということなの」
母はカトリックのキリスト教徒で、わたしも小児洗礼を受けている。カトリックの教義には、果物だけを食べて暮らさなくてはいけないなんて教えはない。むしろ逆で、何でも食べていいことになっている。でも母はフルーツ以外は食べてはいけないという。わたしには理解できないが、母の頭の中ではフルータリアニズムとキリスト教はむじゅんせずに両立しているものらしい。
私は腹を減らしているわけじゃあない。部屋にはいつもしんせんなフルーツがたくさんある。ミックスナッツもある。冷蔵庫ではジュースが何しゅるいも冷えてる。でも台所の水道からは水が出ない。
「駄目よ。水道の水には毒が含まれているわ」
と母はいう。喉がかわいているからという理由で水が必要なわけじゃないけど、でも正直なところこの生活はつらい。わたしはときどき、この言葉をつぶやく。
「イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた」
マルコ福音書の、第七章の十九節。口語訳。たべていけないものなんてこの世にないんだ、ということを説いた、救世主イエスのとうとい教え。でもこれをききとがめると、母はいつも首を横にふる。
「いけないわ。あなたはまだ真理に目覚めていない。人は果実によってのみ清められ、そして
ブレスタリアンというのは呼吸と日の光を浴びることだけで生きていられるという人のこと。そんな人ほんとうにはいないと思うんだけど、一部のベジタリアンはこれが人類のきゅうきょくの理想だ、みたいなことを言っている。
わたしが口応えするからといって母はわたしに暴力をふるったりはしない。家から追い出されることもない。でも、その方がましなんじゃないかという気も少しはしている。母にわたしを追い出す意思があるのなら、わたしは自分の行きたいようにハンバーガーショップにだって行くことができるようになるだろうから。
「さあ、夕食にしましょ。メロンがいい? それともマンゴー? 両方とも今朝届いたばかりのものがあるわよ」
きょうは小学校の卒業式だった。わたしがいま元気に生きていられるのはメロンやマンゴーのおかげではなく、小学校に給食というものがあるからだ。母はわたしにフルーツとナッツがぎっしり詰まった弁当を持たせて、学校には「むすめに給食を与えないで」とようきゅうしていたんだけど、さすがに学校までわたしのしょくじを見張りに来たりはしていなかった。母が給食費を払わないからというりゆうで、学校がわたしに給食を食べさせないということもなかった。それがわたしのいのちづなだった。これから行く中学校にも給食はあるが、それでもあと三年間、わたしは母の存在にたえることができるだろうか。
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