戦争が気に食わない
ときどきふと、戦争のことを考える。別に私自身に戦争と深い関わりがあるわけではない。身内に戦死した人間がいるわけでもない。母方の曾祖父が東南アジアのほうで伝令役として従軍し、膝に銃弾を受けたらしいが、私は当の曾祖父本人に会ったことは無いから、やはり戦争とのつながりは希薄である。近所に慰霊碑やら戦争の遺構やらがあるわけでもない。となると、どうしてなのか。どうして戦争について急に考え込むことがあるのだろうか? 先の見えない世界の未来に対する不安からか? イスラエルやウクライナのニュースが時々耳に入って来るからか? それとも、私が戦争に対して抱いている「気に食わない」という感情のせいだろうか?
私は「気に食わない」のだ。戦争が気に食わない。もっと具体的に言えば、戦争を覆い隠す「大義名分」が気に食わない。
ただ、私は「闘争」を嫌っているのではない。
闘争とは、生物的な本能である。地球上のあらゆる動物が、飯、縄張り、そして自らの伴侶を巡って同族と争い合っている。人間の戦争も、規模は大きけれども、その大きな潮流の中の一つにすぎない。そうして有史以来、人間はやはりあらゆる動物の例にもれず、様々な「闘争」を行って来た。
そして、闘争は「競合」を生む。自らの腕を研ぎ澄まし、技術や知識を発展させ、文化を成長させていく。人は争いのために前に進む。争いへの本能が無ければ人類は一歩も踏み出さずにさっさと滅亡していたことだろう。悲しいかな、人類とはそういう生き物なのである。
私の敬愛するアメリカの小説家、コーマック・マッカーシーは以下のような言葉を残している。
「流血の無い生などない。人類はある種の進歩を遂げて、みんなで仲良く暮らせるようになり得るという考えは本当に危険だと思う。そんな考えに取り憑かれた人たちはさっさと自分の魂と自由を捨ててしまう連中だ。そういうことを望む人間は奴隷になり、命を空虚なものにしてしまうだろう」(『ブラッドメリディアン』 p.497 2018年 早川epi文庫 黒原敏行訳)
「流血」とは「闘争」のことを示していると私は解釈しているが、結局社会に闘争はつきものであり、それを投げ出してしまうというのは「全て」を諦めるということである。故に、闘争を捨てるというのであれば、自分を囲む「全て」も共に捨てねば道理に合わない。それは無理だろう。自己を諦め、世界を諦め……と、全てを捨てた人間に残るのは何か? 「人生」という存在価値の分からない空虚で広大な砂漠と、自身がなぜそこに立っているのか永遠に理解出来ない「自分」という魂の抜けた人形である。そんなことになれば、人形の目には、ゆっくり死ぬか、今すぐ死ぬかという消極的な人生観しか現れないだろう。
ゆえに「闘争」を一概に否定することは出来ない。
お前は戦争が気に食わないのではなかったか? そうだ、私は「闘争」は尊重する。しかし、戦争となれば別である。戦争とは、「大義名分」を掲げて人間を殺傷する「闘争もどき」だからである。
断っておくが、私はウクライナのような「抵抗する人々」を批難する気は無い。彼らは、愛するものを守るため抵抗せざるを得なくなり、「闘争もどき」に巻き込まれた不幸な人々である、と私は考えている。それをまず初めに断っておく。
さて……話が少し脱線するが、「必要悪」という言葉も、私は気に食わない。必要悪というのは「しょうがないことではあるので厳密には『悪ではない』」というニュアンスで使われることがある。「彼のやっていることは必要悪だ」と周囲の人間たちが言うのなら良いだろう。ただ、「自分たちのやっているこれは必要悪だ」というのはいただけない。それは遠巻きに「我々のやっていることは悪ではない。だから許される」と言っているようなものである。必要「悪」と名乗っている以上、この言葉は、その行為が本質的には悪であると認めている言葉である。ただ、そこに「必要」という言葉が乗っかることによって、どうにもその「悪」がその存在感を弱められ、下手したら帳消しにされている印象を受ける。だから「必要悪」は、なんだかずるい言葉に聞こえる。「悪」という言葉を入れることによって表面上は「悪いこと」と自覚しているようなフリをしておきながら、実際には「必要」でそれを打ち消してしまうわけなのだから。「悪」と言っても、実際には自分のことを悪だとは思っていない、もしくは受け入れていない言葉なのである。だから私は、戦争の話題などでこの言葉が出てくると、どうにも眉をしかめてしまう。「戦争は必要悪だ」と言うとき、その意味が「戦争は『悪』だ。私はそう考えている。だが『その上で』私は戦争という選択肢を採る」というのならこれは(内容は置いておいて)意見者としては立派な態度である。私はその態度に敬意を示そう。しかし、「戦争は必要悪だ」と言う声が聞こえて来た時、「戦争は確かに『悪』かもしれない。しかし、戦争は一概に悪とは言えない側面もある。なので『厳密には悪ではない』し、しょうがない」という一種逃げのような意味になってしまっている場合が大半である。自分のソレが「悪」だ、と受け入れるようなフリをしながら厳密にはそこから逃げてしまっているのである。これではいけない。だからこそ、私は必要悪という言葉が気に食わないのだ。
戦争が気に食わないのも同じような理由による。戦争には必ず「大義名分」がくっついてくる。正義のためだとか大義のためだとか、そういうのを掲げて国家は戦争を仕掛ける。それは「敵国が大量破壊兵器を保有している」だったり、「自国民が攻撃を受けている」だったり、「優れた民族が劣った民族を導くため」だったり、「大東亜共栄圏」だったり。しかし、それは戦争の本当の目的でないことが多い。大抵は財政難だったり、食糧不足だったり、国民の不満を他に向けるためだったり、外交に行き詰まっていたり、そしてただ単純に、生き残るためだったり。しかし、戦争に直面した民衆と言うのはそれを見落としがちだ。「大義名分」こそ戦争の真なる目的であり、それ以外の部分は覆い尽くされる。私はそこが気に食わない。戦争を単なるヒーローごっこのようにとらえ、殺し合いを正当化出来てしまう。戦争は「やりたいこと」から「やらなくてはいけないこと」へ様変わりする。生存のための闘争から、グロテスクなヒーローごっこへと「堕落」する。殺人は正当化されて、兵士たち・国民たちは自分のやったことに目を向ける必要がなくなる。例え、戦争が招いたのが自国民や他国民の大量死でも、それが結果的には「善い行い」を生み出すのだからいいじゃないか、と覆いがかけられてしまう。私はこの変化を唾棄する。嫌悪する。はっきり言って最悪だ。自分のやったことに目を向ける勇気が無いのなら戦争なんかするな。戦争は正義や善のための行いではありえないし、「必要悪」にもなりはしない。戦争は純粋に「闘争」であり、それ以外ありえない。それに目を向けず戦争しようとする。痛みを避けて甘い蜜だけを吸おうとする。それが煮詰まった先にあるのは核戦争である。もはや一瞬で決着がつくため「闘争」は無く、「大義名分」だけが存在する世界。その世界では最早、人は「正義」の奴隷であり、空虚な命の砂漠を彷徨っている人形に過ぎない。人類はそうして滅ぶだろう。「大義名分」という世界をより良くするはずの夢のために。
だからこそ、私は戦争が気に食わない。
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