第八章 慟哭の鴉《紅冥過去編》

『家族が健康に過ごせますように』

『病気が早く治りますように』

『愛しい人が幸せでありますように』

 山奥にある小さな祠に訪れた人々は奉られた神様に手を合わせ、心から幸せを願った。

 毎日のように食べ物や花が供えられ、皆は神様を慕い、信仰し、敬っていた。

 そしてその願いに答えるように、神様は人々に寄り添い、慈しみ、光溢れる日々を過ごしていた……。

 しかし、神様だからと言って、全ての人々の願いを叶えることはできない。

 いつからだろうか。神様が人間を憎むようになったのは――。

 人間は神様の力に頼るが、願いが成就しないと一瞬にして手のひらを返し、裏切る。

 信仰心をなくし、うやまわなくなる。

 人間に振り回される日々。

 

『こんなところに祠がある!』

『うわぁ、この祠ぼろぼろじゃん。不気味』

『お参りしてみる?』

『冗談だろ? 祟られそうじゃん』

 時が経つにつれて、人々に忘れ去られ、廃れて今にも崩れ落ちそうな苔にまみれた祠に手を合わせる者など、誰もいなくなってしまった。

 

 いつしか神様は人間への憎しみの感情に支配され、あんなにも光溢れる美しく色鮮やかだった世界が、今は色を失くした世界へと変わっていた。

 どんどんと視界が狭まりおぼろになる。

 信仰されなくなった神様は力を失くし、零落し、闇に呑まれて醜い姿へと成り果てていく。

 どんどんと侵食される醜い感情に抗う術はなく、終わりは刻々と近づいていた。


『これは祠か?』

 残された僅かな時間の中で、神様はとある少女に出会った。

 いつものように廃れた祠を見捨てて去って行くのだろうと思っていたが、少女は祠の前でしゃがみ込む。

『何の神様が奉られているんだろうか? 文字が書かれているが、苔で読めないな』

 少女は躊躇う素振りも見せず、素手で苔を優しく丁寧に払った。

『こうめい……光に明るいと書いて光明神と読むのだろうか? そうか、この祠に奉られているのは光を司る神様なのか!』

 少女は満面の笑みを咲かせた。

『いつも私たちを見守ってくださってありがとうございます』

 手を合わせて目を瞑り、願いを込めた言葉が光となってキラキラと祠に降り注ぐ。

『どうか、皆の未来が光溢れるものになりますように。世界中が幸せでありますように』

 神様はその真っ直ぐで純粋な願いに心を打たれた。

 

 闇に染まっていく世界でこの少女こそが光なのだと――。

 

 神は憎しみに支配されていた心がその瞬間だけ浄化され、光満たされ、救われたような気がした。

『今はお供えできるようなお花はないが、丁度お昼に持ってきたおにぎりがあるんだ。良かったら食べてください』

 少女はおにぎりをお供えして、祠をじっと見つめた。その瞳には一切の淀みはなく、すべての光を集めて閉じ込めたようにキラキラと輝いている。

『今にも崩れてしまいそうだけど、どうにかならないだろうか……』

 倒壊しそうな祠を見た少女は、辺りをきょろきょろと見渡すと、何かひらめいたのか、すぐさま立ち上がった。

 辺りに落ちていた木の枝を集めて、自身の髪を結んでいた細長い布のリボンをロープの代わりにして、試行錯誤しながら祠を固定するように巻きつける。

『――これでよし! 光明神様、もう少しだけ我慢していてください。あとで父にこの祠を修復してもらえないか聞いてみます!』

 少女は任せてくださいと力強く胸を叩いた。

『また後日、たくさんのお花と食べ物を持って来ます!』

 晴れやかな笑顔で立ち去っていく少女背中を

 、神様は朧げな視界の中で見送った。


 最後に神様は願う。どうか、どうか、あの少女の未来が光で溢れますように――。

 

 そして迫り来る闇に覚悟を決め、少女に貰ったこの光だけは失くさないようにと、宝物のように胸の中にしっかりと閉じ込めた。

 

 神様は抗う術もなく闇の鎖に縛られ煉獄へと引きずり込まれる。

 奉られていた神様は無惨な姿となって闇に呑まれ、祠は明日を待たずに崩れ落ちた。



「あんた何者だ? この辺じゃ見ない顔だな。ここら一帯は俺様の縄張りなんだけど」

 声に気がついて目を開けると、そこには烏天狗が大きな漆黒の翼を羽ばたかせて空中で胡座を掻いていた。

 山伏装束を纏い、鳥羽色からすばいろの艶のある長い髪を気だるげに手で払った烏天狗は、とても美しい顔立ちをしているが、眉根を寄せた表情はとても不機嫌そうだ。

 何者かと訊ねられ、答えに戸惑って辺りを見渡すと、無惨にも倒壊した祠が視界に入る。

 見覚えのあるリボンを見つけて拾い上げると、記憶が一気に甦り、それと同時に心に閉じ込めていた光が、温かさを帯びて愛おしい気持ちが込み上げてくる。

「僕は……どうやら堕ちてしまったみたいですね」

「もしかしてあんた、神の成れの果てか? 記憶があるの珍しいな」

 先程まで不機嫌そうにしていた烏天狗の表情が打って変わり、珍しいものでも見るように好奇心に目を輝かせている。

「堕ちる直前に、ある少女に助けられて……結局は、こんな姿になってしまいましたが、そのお陰なのか、神の頃の記憶は消えなかったみたいです」

 リボンを握りしめた手は、神の頃とは違って醜く、全身が真っ黒で不気味な妖怪の姿へと変わっている。

「ふーん。そういえば、ここの祠って『光明神』って神様が奉られてたんだっけ? 昔は力が強くて近づけなかったんだけど、急に近づけるようになったと思って来てみたら……そういうことか」

 烏天狗は納得するように頷いた。

「じゃあ、あんたは今日から俺たち妖怪の仲間入りってことだな! 俺様の縄張りだけど、元々はあんたの居場所だったみたいだし、今回は特別に許可してやるよ」

 烏天狗は偉そうな態度で上から見下ろし、威張るように鼻を鳴らした。

「ありがとうございます。正直、この身体に慣れてなくて……こうやって、ここでお会いできたのも何かの縁ですし、烏天狗さんさえよければ、妖怪のこととか、いろいろと教えてくれると嬉しいです」

 少し下手に出るように困ったような表情を見せると、烏天狗はやれやれと息をついた。

「ったく、仕方ねぇな! 丁度退屈してたところだし、あんた面白そうだしなぁ。付き合ってやってもいいぞ」

 腕を組んで偉そうに見下ろしている態度に反し、烏天狗の瞳は好奇心を隠しきれず、きらきらと輝いている。

「俺様の名前は『烏丸からすまる』だ。よろしくな」

「僕は『光明神』です。よろしくお願いします」

 真っ黒で不気味な妖怪が『光明神』と名乗り、違和感を感じた烏天狗の『烏丸』は眉間に皺を寄せて小さく唸る。

「なんか、あんたの見た目からして『光明』って、しっくりこないんだよなぁ。神の名前なんて、もう捨てちまえよ」

「そう言われましても……」

 言葉に詰まって困惑していると、その表情を見ていた烏丸が、何か思いついたように自身の膝を叩いた。

「だったら、呼び方はそのままで、漢字変えたらどうだ? そうだなぁ……」

 烏丸は地面に着地すると、落ちていた小枝を拾い、それを使って徐に地面に文字を書き始めた。

「これ良くないか? あんたにぴったりだと思うけど?」

 烏丸は無邪気に笑う。

 そこには『紅冥』と地面に文字が書かれていた。

「妖怪になったあんたの身体は真っ黒だけど、その瞳の色だけは真紅で印象的なんだよなぁ」

「え、そうなんですか? えっと、真紅……ってどんな色だったかな?」

 真っ黒な妖怪となってしまった神様は、烏丸としばらく視線が交わるが、『真紅』の色を思い出せず、再び困惑して苦笑いを浮かべる。

「はぁ!? お前、色の名前分からないのか?」

 烏丸は信じられないというように目を見開かせた。

「色の名前はある程度分かりますが、色自体があまり覚えてなくて……、色が見えていた頃が遥かに昔で、今見えている僕の世界は色褪せているので。……人間に信仰されなくなってからはずっとこんな感じです。妖怪の身体になってもそれは変わらないみたいですね」

「へぇ。色褪せた世界ねぇ」

 烏丸は興味深そうに唸る。

「じゃあ俺様のこの美しい目の色も髪の色も、色褪せて見えてるってことか?」

 真っ黒な妖怪になってしまった神様は、烏丸の言葉に頷いた。

「嘘だろ? そりゃ勿体ないな~。こんな美しい色滅多に拝めないぞ」

 烏丸は自身の髪をチラつかせて、不服そうな顔をしている。

「真紅ってのは赤の種類で……そうだなぁ、今あんたが持ってるその細長い布! それも真紅だな!」

「……赤の種類。真紅」

 真っ黒な妖怪になってしまった神様は、握りしめたリボンを愛おしく見つめ、烏丸の言葉を何度か繰り返す。

「新しい名前ありがとうございます。気に入りました」

「そっか! なら良かった。そんじゃ、あんたの名前は今日から『紅冥』な!」

 烏丸は嬉しそうに、子供のような無邪気な笑顔を見せた。

「それにしても、その布、かなり高価な染料使ってそうだよな。俺様が知ってる限り、真紅って貴重な色なんだよなぁ。なんでこんなところに落ちてたのか知らねぇけどさ」

「えっ、これって、もしかして高価な物なんですか?」

 紅冥は手に取ったリボンをまじまじと見つめる。真紅のリボンには繊細な刺繍も施されていた。

「うーん、多分な。でも帝都だと西洋文化も入って来てるし、今ではそんな貴重なものでもないのかもな。でもこの辺りじゃ見ない代物だから、帝都に住んでる奴の持ち物じゃねぇかな」

 烏丸が確かめようと手を伸ばし真紅のリボンに触れる。

 するとリボンからバチバチと金色の稲妻が走り、烏丸の指先が焼け焦げた。

「なんだこれっ!」

 烏丸は驚いて目を見開く。

「大丈夫ですか!?」

「ああ。これくらいすぐ治るし大丈夫だ。……多分だけど、その布切れ、なんらかの術がかけられてるか、神職者の持ち物なんじゃねぇかな? なんであんたは触れて平気なんだ?」

 焼け焦げた指を眺めて烏丸は不思議そうな顔で尋ねる。

「僕にも分からないです……」

 紅冥はしらばらく険しい顔で考え込んでいたが、好奇心に火が着いてしまったのが、烏丸は目を輝かせて紅冥の肩を叩いた。

「まあ、とりあえずこれに関しては俺様がいろいろ協力して調べてやるよ。あとは色のこととか、妖怪のこともいっぱい教えてやる! 子分もいっぱいるから紹介してやるな。よし、決まったなら早く行こうぜ!」

 紅冥は強引に手を引かれて烏丸の懐に引き寄せらせると、大きな翼を羽ばたかせた烏丸に抱き抱えられて、勢いよく空へと舞い上がる。

 こうして烏丸は紅冥を連れ去って、天狗の巣窟へと向かった。

 


「おーい、紅冥! 聞いてるか?」

「……烏丸さんですか。いつからそこにいたんです?」

 紅冥は背後から呼び掛ける烏丸を一瞥した後、心ここにあらずといった表情で軽くため息を吐いた。

「さっきからずっといたし、ずっと話しかけてたんだけど! あといい加減『さん』付けやめろって何度も言ってるだろ? もう三ヶ月も一緒にいるんだしさ」

 烏丸は苛立ちを露にして語気を強めた。

「すみません、烏丸。……なんかぼーっとしちゃって、それで僕に何か用ですか?」

 烏丸は紅冥の様子に呆れたように大仰にため息をついた後、やれやれと口を開いた。

「また、神様だった頃のこと思い出してたのか? いい加減過去に囚われてるのやめたほうがいいぞ」

「いえ、そうじゃなくて、あの女の子のことを思い出していて……」

 紅冥は自身の左腕に巻き付けた真紅のリボンを優しく撫でた。

「は? 女? 俺様が一生懸命話しかけてるのに女のこと考えてたのかよ!!」

 烏丸は「紅冥なんかもう知らん!」と言い放って、頬を膨らませると口を尖らせてそっぽを向いた。

「誤解です。拗ねないでくださいよ。烏丸って、出会った頃は自信家で頼れる兄貴って感じでしたが、蓋を開けたら、子供っぽいし、お人好しでお節介な構ってちゃんですよね」

 紅冥は烏丸の態度にくすくすと笑い出す。

「は? よく言うぜ! 俺様が親身になって人間界のこととか、妖怪の妖力とか使い方とか色々教えてやったのにっ! その姿になれてるのも俺様のお陰だろうが! その服だって、紅冥が『一度帝都に行ってみたい』って言うから俺様が調達してやったのに! 紅冥だって出会った頃は、迷子の子犬みたいな面して、めちゃくちゃ素直で、俺に媚び売りまくりだったのに、蓋を開けたら実は図々しくて腹黒で妖怪を掌の上で転がすような奴だよな。本当に紅冥って、いい性格してるよな。こんな奴が元神様だったなんて信じらんねぇよ」

 声を荒げてどんどんと早口になる烏丸に、紅冥は苦笑いを浮かべた。

 烏丸が言った通り、紅冥の身体は以前の真っ黒で醜い姿とは違い、妖力を使った変化の術を教えてもらって、今ではかなり人間に近い風貌になっている。

 印象的な真紅の瞳は変えることができなかったが、長い前髪で隠してしまえば完璧に人間に見える。

 更に帝都で流行っている洋装を教えてもらって、烏丸に一式調達してもらった手前、言い返すことはできない。

 しかし、烏丸がこんなふうに怒っている時の対処法を、三ヶ月も一緒に過ごしていれば、紅冥は十分心得ている。

「烏丸は本当に最高の友人です。感謝してもしきれません。いつも僕を助けてくれてありがとうございます」

「そっ……そうかぁ? まぁ、そうだろうな! わかりゃいいや」

 烏丸は面映ゆそうに、頬を掻いた。

 深々と頭を下げて、少し下手に出るように感謝を述べれば、烏丸はあっと言う間にご機嫌になる。

「烏丸と出会った頃は何もかも分からないことだらけで、仕方がなかったんです。烏丸は世話を焼くのが好きだって言ってくれたし、甘えてるんですよ」

 すがるような紅冥の声音と子犬のような眼差しに、烏丸はすっかり機嫌を取り戻した。

「おう。そうか! これからも俺様に感謝しろよな」

「もちろんです。どころで、なにか僕に用があると言ってませんでした? 何かあったんですか?」

 烏丸の機嫌が元に戻り、安堵した紅冥は、ようやく本題を尋ねることができた。

「そうだ! 話なんだけど、この辺りにやたら強い式神の使い手がいるんだとよ! 三ヵ月前から妖怪たちが危険だって騒いでたの耳にしてたけど、今じゃこの森の妖怪たち半分以上がその式神使いにやられちまったみたいで、そろそろここ周辺も危険だってこと紅冥にも知らせてやろうと思ってさ」

「えっと、それ初耳なんですが……。三ヶ月もあって、なんで今まで黙ってたんですか?」

 紅冥は想像していたよりも、ずっと深刻な話に驚きつつも、烏丸を叱咤して理由を訊ねた。

「三ヶ月前、その式神使いの話を妖怪仲間から聞いて行方を探していたところで、初めて紅冥に出会ったんだ。俺様のねぐらに紅冥を連れて行ったら紅冥の力が暴走しまくって、俺様の子分達全滅させるし、そこから紅冥にいろいろ教えたりして、いろいろあって普通に忘れてたんだよ! そんな怒るなよ、仕方ねぇじゃん?」

 烏丸の言葉に、さすがの紅冥も言い返す術が見つからず項垂れる。

 三ヶ月前、烏丸のねぐらであるこの洞窟に連れてこられた紅冥だったが、烏丸の子分達が烏丸の命令を聞かず、紅冥に敵意を示して一斉に攻撃を仕掛けてきたのだが、その瞬間、紅冥の力が暴走してしまって、一瞬にして烏丸の子分達を消滅させてしまった。

 そのまま紅冥は暴走を続けて、烏丸にもどうにも出来ない状況だったが、持っていた真紅のリボンが稲妻を放つと紅冥の暴走が止まったという経緯だ。

 この広々とした洞窟に烏丸と紅冥だけがいるのは、そう言った理由だが、たくさんいた子分達を殺した事実は消えない。

 そんな出来事があったというのに烏丸は何も言わず協力してくれている。おそらく好奇心からここに置いてくれているのだろうと紅冥は推測しつつも、今は自分の目的のためにも烏丸に頼るしかなかった。

「強力な式神使いって言っても、いざとなれば紅冥の真の力を解放すれば敵じゃないだろ?」

「そうかもしれませんが、あの時はたまたま暴走が止まりましたが、今の僕では力を制御できる自信がありません……」

「そっか。じゃあそれは最終手段ってことだな。制御できるようにこれから特訓するか」

「それに、あれが僕の本来の力なのかもよく分かっていなくて。僕は神だった頃、信仰されず力がどんどん弱まっていました。それなのに妖怪になった途端、あんな力が使えるなんて……」

「確かにな。とりあえず、式神使いには今後気をつけていこうぜ」

「そうですね。ところで、その式神使いの容姿とか特徴って分かりますか?」

「俺様が直接見たわけじゃないから本当なのか分からないが、目撃した妖怪仲間の話によると、見た目は『十歳くらいの人間の女の子で、身長よりも高い大薙刀を持ってる』らしい。それに、なんか炎を放つめちゃくちゃ強い式神を操ってるんだってさ」

「……人間の女の子」

 心当たりのある少女の容姿が紅冥の脳裏を過る。

「まさか……でも、確かめないと」

「……? どうした紅冥? なんか焦ったような顔してさ」

「烏丸! 僕その女の子に心当たりがあって……今から探しに行ってきます!!」

 是が非でも会いたいという思いが溢れだし、紅冥は勢いよく洞窟を飛び出す。

「おい! 紅冥!? ったく、仕方ねぇなぁ」

 紅冥の様子に烏丸は頭を掻いた後、すぐさま後を追った。

「おい、待て! 紅冥! 俺様があんたを連れて空から探してやるよ! その方が早いだろ?」

 


「すみません、烏丸」

「俺様はお人好しでお節介なんだろ? 紅冥がさっき言ってたじゃん? 気にすんなよ」

 烏丸は紅冥を軽々と抱えながら翼を羽ばたかせ上空から周辺を探索している。さほど大きくない山だが、緑に覆われた木々で見通しが悪く、目を凝らして注意深く見る必要があった。

「もう少し低空で探すか」

 しばらくの間、上空で探していたが、それらしい人物は見つからず、烏丸は木々の間をギリギリですり抜けるようにして周囲をくまなく探索していく。

「おい、紅冥! あれじゃないか?」

 烏丸が示す先には小さな小屋が建っていた。小屋の前には少女が一人、大薙刀を構えて威勢の良い掛け声を放っている。一心不乱に大薙刀を振り回し続けている少女は、薙刀の稽古に夢中でこちらの存在には気づいていない様子だ。

「やっと見つけた……僕が探していた少女です」

「見つけたのは良いけど、どうするんだ?」

 烏丸は気づかれないように小屋の近くに着地すると、紅冥の身体をそっと降ろし小声で尋ねた。

「あの少女と話がしたいです!」

 必死の形相で声を張り上げる紅冥は、いつになく落ち着きのない様子だ。そんな紅冥の姿に驚きつつも、烏丸は少女に見つからないようにと、紅冥の口を掌で塞いだ。

「しーっ。紅冥、声でかすぎ! 話がしたいって言ってもなぁ。あんたの今の見た目は人間に近いけど、それでも絶対警戒されるぞ。」

 烏丸は人差し指を自身の口元に当てた後、小声で紅冥の耳元に囁く。

「なにか簡単に近づける良い方法ないでしょうか?」

 ようやく落ち着いた様子の紅冥は、肩を竦めて思い悩んでいる。

「うーん。あの女の子と同じくらいの歳に変化するのはどうだ? 子供同士だと多少警戒心も薄れるんじゃねぇか?」

「なるほど! やってみます」

 紅冥は烏丸の言葉に頷いて、少女と同じ年頃の男の子の姿に変化する。

「おっ! いいじゃん。それで行こうぜ。俺は上空から見てるから、危険だと判断したらすぐ助けに行くな」

「ありがとうございます。……でもおそらく助けは必要ありません」

 紅冥の表情が一変し、その瞳が寂しそうに揺揺れている。

「烏丸、今まで助けてくれて本当にありがとうございました。僕はもう大丈夫ですから!」

 儚い笑顔を見せる紅冥に、烏丸は不信感を抱き眉根を寄せた。紅冥は覚悟を決めたように拳を握りしめ、少女の元へと駆けていった。

 その後ろ姿を烏丸は呆然と見送る。

「なんだよ。今生の別れみたいに……。あの少女、一体何者なんだ……」

 烏丸の烏羽色の瞳が妖しく光った。



「こんにちは」

 声を掛けられ、少女は振り翳していた薙刀をそっとおろした。

 薙刀の稽古に夢中になっていていたのか、声を掛けられてようやく目の前にいる人物の存在に気がついたようだ。

「何者だ!」

 少女の目の前に立っているのは、木綿の縞の着物姿の年齢は十歳頃の少年だった。

 黒い前髪が長くその表情は窺い知れないが、敵意があるようには見えない。

 だが、こんな山奥の何もない場所に少年が一人いるのは不自然だ。

 少女は不信に思って警戒心を強め、大薙刀の切っ先を少年に突きつけた。

「すみません。いきなり声をかけてしまって……。君に危害を加えるつもりはありません。ただ僕の話を聞いてもらいたくて」

 少年は両手をあげ、優しい声音で少女を宥める。

「……話?」

 少女は眉間に皺を寄せて、警戒心を緩めずに少年の言葉に耳を傾ける。

「どうしてもお礼が言いたくて、君をずっと探していました……。あの日、温かい言葉とご飯をありがとうございました。君のおかげで僕は救われました」

 目の前で見知らぬ少年が礼を述べて深々と頭を垂れている光景に、少女はきょとんと目を丸くしている。

「人違ではないか? ……私は、何をかした覚えはない」

 力が緩み再び薙刀をそっとおろした少女は、以前どこかで会ったことがあるのだろうかと、少年の姿をじっと眺める。

 すると少年の左腕に、見覚えのある赤いリボンが巻かれていることに気がついた。

「そのリボンは私の母の形見だ。でもどうして、それはこの前、祠に……」

 目の前の少年は小さく頷いて、口元に笑みを湛える。

「もしかして……光明神様? ……ですか?」

 突如、少女の瞳から涙が零れ落ちた。

「えっ、どうしたんですか!? なにか僕、困らせるようなこと言いましたか? なにか悲しいことでも?」

 突然の少女の涙に、少年は慌てふためいたように動揺した様子を見せる。

「……あの後、祠に行ったら祠が崩れていて、光明神様を救えなかったのだと……『任せてください』と啖呵を切ったのに、結局私にはどうすることも出来なくて……。不甲斐なくて、ずっと悔やんでいました」

 涙で潤んでキラキラと輝く瞳が、少年を見つめる。

 その美しい瞳に吸い寄せられるように少年は少女の側にゆっくりと歩みを進め、手の届く距離まで近づく。

 少年は少女の頬に触れて、その涙を優しく拭った。

「大丈夫です、光明神様。これは嬉し涙です。こうやって会いに来てくれて嬉しいです」

 そう言って笑顔を見せた少女の頭を、少年は優しく撫でた。

 溢れ出しそうなほどの愛おしい気持ちが込み上げてくると同時に、胸の奥が激しく痛む。

「僕はもう……神様ではありません。神の成れの果てなんです。こうやって君に手を触れるのも許されないような、醜い姿に堕ちてしまいました」

 生暖かい風が少年の髪をさらう。少年の顔が露になり、その真紅の瞳を見た少女は唾を嚥下した。

「そんな……」

「僕はもう醜い妖怪の姿になってしまいました。なので今日はお願いに来たんです。君の手で僕を葬ってください。君は式神使いで、この山の妖怪を退治しているのだと噂で聞きました」

「確かに、私はこの山を所有している父の友人に妖怪退治を頼まれ、この三ヶ月間、修行も兼ねてここにやってきたが……神様だったあなたを葬ることなんて、私には……できません」

 少女の瞳は戸惑うように揺れている。

「今はただの妖怪ですよ。それに妖怪になった僕は力を持ちすぎてる。その力を制御することができず、いつ暴走してしまうかわからない。このままでは、きっとたくさんの人を傷つけてしまいます。そうならないように僕の存在を消し去ってください。どうか、お願いします」

 少年の懇願するような眼差しに、少女は覚悟を決め、拳をぎゅっと握りしめた。

「……わかりました」

 少女にとって酷な願いだと分かっていたが、葬られるなら少女の手で――。それが紅冥の最後の願いだった。

 少女は着物の懐から式札を取り出し、呪文を唱えた。放たれた式札は炎を纏う人の貌に変化する。

「最後に、君の名前だけ教えてくれませんか?」

 少年は儚い笑顔で尋ねた。

「鈴鳴朱音」

 少女は凛とした眼差しで少年を見据えた。

「朱音様。ありがとうございます。さようなら――」

 少年は覚悟をしたように目を閉じた。少女の命令により、炎を纏う式神が少年目掛けて炎を放つ。

 

「紅冥! 危ない!」

 炎に焼かれる寸前のところで、ものすごい突風と共に烏丸が上空から地面スレスレまで滑翔し、紅冥の懐に飛び込むと、そのまま紅冥の身体を抱えて空高く舞い上がった。

「何やってんだ紅冥! 今の、俺様が助けなかったら焼け焦げてたぞ!」

 烏丸は自身の額に浮かべた冷や汗を拭い、上空から地上にいる少女と炎の翼も持つ式神に警戒した。どうやら炎の式神は追ってくる様子はない。

「帰るぞ、紅冥!」

 少し苛立っている様子の烏丸に、紅冥は気づくことなく、どんどんと遠ざかる少女の姿を呆然と眺めていた。

「……これ、返しそびれちゃいました」

 人間の少年の姿に扮した紅冥は、自身の左腕に巻かれた赤いリボンを優しく撫で、烏丸には聞こえないような小さな声で呟いた。

「次は邪魔されないように、会いに行かないと」



「……朱音様」

 紅冥は地面に座って膝を抱え、大きなため息をつくと、その名前を何度も繰り返し呟いている。

「おい、紅冥! おいってば! また無視かよ」

 少女に出会ってからというもの、紅冥は毎日物思いにふけるように、ぼそぼそと独り言を呟き続けている。


「なんで紅冥はあの子に執着してるんだ? なんかありそうだな……」

 烏丸は顎に手を当て、胡座をかいた状態でしばらく沈吟するも、考えれば考えるほど深みにはまって苛立ちを覚えるように頭を掻き毟った。

「なんか俺様らしくないな。もう、めんどくせぇ! こうなったら直接聞くか!」

 吹っ切れたように、烏丸は紅冥ににじり寄る。

「おい、紅冥!」

 急に視界に烏丸の顔面が入り込み、お互いの鼻と鼻がくっつきそうな距離に、さすがに物思いにふけっていた紅冥も驚いて肩を飛び上がらせた。

「あんたあの女の子に会ってから変じゃね? なんか、悩みがあるなら俺様に言ってみろよ!」

 真剣な烏丸の眼差しに、紅冥は目を瞬かせるが、すぐに吹き出すようにクスクスと笑い出した。

「いえ、悩みはありませんよ。……そうだなぁ。強いて言えば『どうして、彼女の瞳はあんなにも綺麗なのだろう?』と考えていました。色褪せた僕の視界でも分かるほどに、彼女の瞳は、まるで世界中の光を集めたようにキラキラと輝いていて本当に美しいんです。きっと色鮮やかにこの世界も映しているのでしょうね……」

 うっとりした表情の紅冥を見た烏丸は、納得したように『そっか、なるほど』と相槌を打った。

「紅冥は、色のある世界が見たいのか?」

「……そうなのかもしれませんね。憧れではあります」

 烏丸の問いに紅冥は、ほんの少し苦く笑って答えた。

「任せとけ! お前の願い、俺様が叶えてやるから!」

 烏丸は勢い良く胸を叩いて、自信ありげに声を張り上げて笑顔を溢した。



「紅冥! めちゃくちゃ探したぞ! こんなところにいたのか」

 数日後。山の天辺に近い場所にある大きな岩の上に紅冥がポツンと座っていると、上空から声が降ってくる。

 羽をばたつかせ、息を切らしてやってきたのは烏丸だった。

 岩の上に座る紅冥の隣に着地した烏丸の表情はいつになくご機嫌だ。

「烏丸? 一体どうしたんですか!? って、その格好は……」

 笑顔を浮かべてご機嫌な様子の烏丸だったが、その漆黒の翼には所々に穴があき、纏っている山伏装束はボロボロに破れいた。

 見えている箇所の皮膚も火傷で膨れ上がり、特徴的な烏羽色の美しい長い髪も、焼け焦げて不揃いな長さになっている。

 その痛々しい姿を見るに、烏丸の身に何かがあったことは明白だった。

「そんなことより、紅冥! 前に色のある世界が見たいって言ってただろ?」

 烏丸は自分の状態を気にする素振りも見せず、顔をニヤニヤさせながら紅冥に尋ねる。

「えっと、……そう言えば、そんなこと言ってましたね」

 紅冥自身はあまり覚えていなかったが、烏丸があまりにも嬉しそうにしているので話を合わせて頷く。

「ほら、これ!」

 烏丸は折り畳まれた黒い布を懐から取り出すと、紅冥に差し出した。布は膨らんでいて、どうやら何かが包まれているようだった。

「急がないと一体化できなくなっちまう!

新鮮なうちに早く!」

 烏丸は慌てた様子で、その場で足踏みをして紅冥を捲し立てる。

 不思議に思いつつも、烏丸から差し出された布を受け取ると、紅冥は言われるがまま布をそっと開いた。

「えっ、……これって?」

 紅冥は中身を見てぎょっとする。紛れもなくそれは『眼球』だった。

「早くしろ、紅冥」

 烏丸の言葉の意味を瞬時に理解した紅冥は、躊躇わず自分の右目を抉り出し、取り出した右目と交換するようにして烏丸から受け取った眼球を押し入れた。

 すると、一瞬のうちにして右目の周辺の皮膚が隆起して眼球を取り込み、紅冥の身体に馴染んでいく――。

「どうだ? ちゃんと見えるか?」

 しばらく両目を瞑り、微動だにしなかった紅冥だったが、期待に胸を踊らせている烏丸の高揚した声音に反応して、右の目蓋だけをゆっくりと開けた。

「あぁ……。なんて美しい――」

 息を呑むほどの鮮やかな落日の光景が視界に広がり、溢れ出す言葉が震えた。

 自然と紅冥の右目から、透明な雫が滴り落ち、涙でキラキラと輝く黒い瞳に、夕日に染まった空の鮮やかな茜色が射し込む。

 辺りを見渡せば満開の桜の木々に囲まれ、風にさらわれて散りゆく桃色の桜の花びらたちが一斉に紅冥の頭上から降り注いだ。

「こんなに美しい光景を見たのは初めてです」

 感動のあまり、感嘆のため息を溢している紅冥の様子に、烏丸は満足したような笑みを湛えている。

「そっか、こんなに紅冥が嬉しがるなら、もう一つの目玉も取ってこれば良かったなぁ」

 烏丸はボソッと呟いた後、再びボロボロになった翼を広げ、飛び立つ準備をしている。

「よし、今からまた取ってくるか。まだいるかなぁ、あの女の子。死んでないといいけど」

 烏丸から衝撃の言葉が飛び出し、紅冥は絶句した。

「どうした、紅冥? あっ、紅冥も一緒に行くか? あの炎の式神が何処までも追いかけてくるから、振りきるのめちゃくちゃ大変だけど。……まぁ、さっきも少し焼け焦げる程度で済んだし、大丈夫だろ」

 烏丸は紅冥の腕を引っ張り上げようとするが、それを拒絶するように紅冥はその手を振り払う。

「烏丸……。この瞳はあの式神使いの少女のものなんですか?」

 紅冥は振り絞るように声を震わせ、悲痛な面持ちで烏丸に訊ねた。

「ああ、そうだ。だって紅冥、あの女の子の瞳が欲しかったんだろ?」

 烏丸の言葉に、紅冥の全身にどす黒い感情が駆け巡った。

 青年の姿だった紅冥の身体は、どろどろに溶けて崩れ落ち、真の姿が露になる。

 制御できず爆発するように溢れ出した怒りと憎しみ、狂気、殺欲の感情が暴走して、人間とも獣とも似つかない叫び声を上げた。

「おい、どうした? 落ち着け紅冥! 話を聞いてくれ――」

 烏丸は何か伝えようと言葉を発しているが、暴走した紅冥の耳には届くことはなかった。

 再び紅冥が正気に戻った時には、烏丸の姿は消え、辺り一面に血と肉片が飛び散り、漆黒の羽が散乱していた。

 左腕に巻かれた真紅のリボンが仄かに黄金色の稲妻を走らせている。

 紅冥は、ふと視線を感じて空を仰ぐ。

 視線の先には、夜空に浮かぶ煌々と光る満月を背にした炎の式神の姿があった。

 朱音の式神騰蛇と視線が交わり、紅冥は戦く。

 その鋭い視線には、狂気じみた得体の知れない何かが感じられた。

 紅冥はその突き刺さるような視線から逃れ、その場を去った。

 

 自分の何気無い発言のせいで、少女は烏丸の標的にされてしまった。 

 そして大切な友人を手にかけてしまった後悔と悲しみ、怒りと憎しみが混じり合う。

 絶望の感情でぐちゃくちゃになりながらも、紅冥の心の中には、ずっと少女の存在があった。

 少女は無事なのか安否を確かめたい。

 こうなってしまったのは全て自分のせいだと理解をしていても、それでも少女を思わずにはいられない。


「きっと君は僕を憎み、決して許してはくれないだろうけど……、僕のすべてをかけても償いたい」

 溢れそうな愛おしい感情を押し潰して、紅冥は右目蓋を優しく撫でた。



 紅冥はそれ以来、行方が分からなくなってしまった少女をずっと探し続けた。

 人間の暮らしに身を置いているうちに、判明した事が一つ。

 この真紅の瞳には力があって、人間を操ることが出来る術がかけられるということ。

 紅冥は朱音が帝都にいるという情報を手入れ、どんな手を使ってでも探し出す決意をした。

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