第七章 共鳴する瞳の罠

 朱音は鈴鳴神社の階段の上段に座って、大きな溜め息を溢していた。その頬をほんのりと赤く染め、呆然と日が暮れる様子を眺めている。

「騰蛇……」

 鈴鳴神社に戻ってから、朱音はずっと両膝に頬杖をついた状態でここにいる。放心状態かと思えば、自身の唇を指でなぞって、またも呆けたような溜め息をついていた。

「いや、待て……! あれは昇威の身体だ」

 それに気づいて朱音は顔を真っ赤にして首を左右に振っている。

「それは今は置いておこう」

 朱音は自分に言い聞かせるように頷いて、置いてある薙刀を握りしめると、ようやく立ち上がった。

 空の茜色は迫り来る紫色に侵食され、もう時期闇色に染まりはじめる。

 吹きつける風は強く、桜の花びらと共に朱音の髪をとかしていく。

 肌寒さを感じた朱音は自身の身体を抱き締めた。

「この美しい桜が見れるのも、もう終わりか……」

 朱音は鎮守の森の桜の木々を一瞥して、少し寂しそうに微笑んだ。

『朱音、待たせたか?』

 姿は昇威だというのに、その声は妖艶さを持っている。

 朱音は階段を上ってきた人物に首を振った。

『嘘をつけ、身体が冷えている』

 昇威の身体に入り込んでいる騰蛇は、心配そうな眼差しで朱音の頬に触れた。

「だっ……大丈夫だ」

 朱音は変に意識してしまっているせいか、声がうわずっている。

 騰蛇はそんな朱音に微笑んで、視線の先にある鳥居をくぐり抜けた。

「騰蛇、お前は紅冥を危険な人物だと言った。何故そう思う?」

 朱音も騰蛇の背中を追いかけ、鳥居をくぐり抜けたところで互いに見つめ合って、本題を切り出した。

『あの男はお前に嘘をついている』

 騰蛇の赤黒い瞳が暗闇の中で鋭く光った。

「嘘? ……一体どんな嘘を?」

 騰蛇の言葉に朱音は眉をひそめる。

『あの紅冥という青年は、妖怪だ。人間の血など一切混ざってはいない』

「どういうことだ?」

 騰蛇の言葉に、朱音は驚愕したように目を見開いた。

『そして、あの男は――』

 拳をきつく握りしめた騰蛇は、躊躇う表情を見せて言い淀んだ。しかし、決意したように口を開く。

『あの男こそが、朱音の左目を奪った妖怪だ』

 その刹那、強い風が吹き抜けた。

 一斉に舞落ちてくる桜の花びらが、騰蛇と朱音の頭上から降り注ぎ、白々とした月が二人の姿を皓皓こうこうと照らし出している。

 騰蛇の衝撃の一言に朱音は震え上がった。

『俺はこの目で見た。紅冥という男……いや、妖怪が朱音の左目を奪った瞬間を』

 騰蛇はその時の光景を思い出したのか、沸々と沸き上がる悔しさと怒りに声を荒げている。

「だが、私は鳥のような化け物に左目を喰われたと騰蛇から聞かされていた。それは真実ではないのか?」

 朱音の知っている紅冥は人間の姿だ。鳥の化け物だとは思うことができない。

『妖怪とは化けるものだ。今の紅冥は本来の姿ではない』

 朱音は左目を失くした時の記憶が丸ごと抜け落ちている。十歳の頃、式神使いの修行だと、父に連れていかれた山の中で、化け物に襲われた。瞬時に騰蛇を召喚したが、すでに時は遅く、化け物は鋭い嘴で朱音の左目を抉り、そのまま瞳を奪い去ってしまったという。

 当時、その話を騰蛇から聞かされている。

『召喚された俺は、朱音の目を奪った鳥の化け物を追尾した。そこで、あの化け物が人間の姿に変わる瞬間を見ていた。その姿は、まさにあの男……紅冥だった』

「では私は……、私の目を奪った化け物と式神契約してしまったということか?」

 朱音は混乱した。真実を聞かされた今もなお、信じることができない。

『そうだ。紅冥が危険だと知らせるために、俺は昇威の身体の中に入った』

 騰蛇の真剣な眼差しに朱音は愕然として、全身が震え出す。

「でも何故だ! 何故私と式神契約を結んだ! 何故私の前に再び現れたんだ!」

 朱音は唇を震わせながら叫ぶ。

『まだ奴は、お前のことを狙っているからだ』

 騰蛇はそう言って、震える朱音の身体を抱き締めた。

『大丈夫だ、心配するな。私が朱音を守る』

 耳元で囁く騰蛇は、朱音の髪を優しく撫でた。だが、朱音は騰蛇の身体を押し退けて踵を返す。

『……朱音? どうした?』

 騰蛇は眉根を寄せる。

「紅冥と直接会って話をする」

 朱音は大薙刀を持つ手に力を込めて、凛とした表情を見せた。

『俺の話が信じられないのか?』

 鋭い目付きで騰蛇は朱音に問いかける。

 騰蛇に背中を向けている朱音は、再び騰蛇の方に振り返ると小さく首を振った。

「紅冥の真意を確かめるためだ」

 先程まで震えていた朱音だが、決意を固めた様子で、真っ直ぐに騰蛇の顔を見据えている。

 本当は真実を確かめるのが怖い。だが朱音はそうせずにはいられなかった。紅冥と式神契約を交わした日、紅冥が言ったあの言葉が嘘偽りではないことを信じたい。

 朱音は懐から式札を取り出した。式札を使って紅冥を呼び出せば、すぐにでも真意を確かめることができるはずだ。

『あの男に会っても無駄だ。真実を答えるはずがない』

 騰蛇は声を荒らげて、どこか落ち着きのない様子だった。

「……騰蛇?」

 朱音は騰蛇の様子に困惑する。

『紅冥との式神契約を今すぐ破棄しろ!』

 騰蛇は朱音に詰め寄ると式札を払い退け、さらに声を張り上げた。

 朱音はいぶかしむ。朱音の知っている式神騰蛇は、常に冷静沈着で主に従順だった。決して感情を表には出さず、こんなにも感情を剥き出しにすることなんて一度もなかった。

「お前は、本当に騰蛇なのか?」

 何か違和感がある。

『朱音……、再び俺と契約を交わそう』

 騰蛇は荒々しくなった息を鎮めると、その顔に微笑みを湛えながら朱音に手を差し伸べた。

 しかし、朱音がその手を取ることなく黙っていると、騰蛇は差し伸べた手で朱音の腕を強引に掴んだ。

『昇威の身体を借りてだが、やっと朱音に触れることができて嬉しい。消滅したあの日から俺は闇の中を彷徨さまよっていたんだ。それでもこうやって、朱音を見つけ出すことができた』

「騰蛇、お前には実体がないと言ったな。昇威の姿のままでは再び式神契約することは不可能だ。それに昇威の身体は今どうなっている?」

 朱音は力強く捕まれた腕の痛みに顔を歪めて、冷や汗を浮かべながら問いかける。

『……そうだな。だが、心配はいらない』

 朱音の問いに、騰蛇は笑みを浮かべた。

 その瞬間、昇威の身体に異変が起きはじめる。

 昇威の顔や手に、赤黒い鱗が浮かび上がってくる。

「……何が起きている?」

『この器とは相性が良い。やがて昇威の身体そのものが俺自身になる。大丈夫だ、朱音。また俺は朱音の傍で、あの頃のように過ごせる』

 朱音は言葉を失った。目の前にいる昇威が昇威でなくなるのだ。

 足ががくがくと震え出した朱音は、その場に膝をついた。

「そんなことは許されない! 昇威の身体は昇威のものだ! 騰蛇、命令だ! 今すぐに昇威の身体を返せ!」

 朱音は騰蛇の顔を見上げ、声を荒げる。

 睨み付ける朱音の視線に、騰蛇は悲しさを滲ませた。

『この身体が俺には必要だ。返すわけにはいかない。それに一体化するまで、もうすぐなんだ』

 朱音は大薙刀の柄を地面に突き立てて立ち上がり、騰蛇の胸ぐらを掴んだ。

「私の知っている騰蛇は、こんなことをするような奴ではない」

 騰蛇は朱音の言葉に目を見開いた。

 赤黒い瞳の色の濃さが増していく。

『私の知っている騰蛇だと?』

 突然に騰蛇の顔が歪んだ。

『お前は私に関心をもったことなど一度もなかっただろ? お前に俺の何が分かる。俺の思いや苦しみ、痛みなど知らなかっただろう? 知ろうともしなかった!』

 騰蛇は朱音の首を力いっぱいに締めた。朱音は抵抗できず、苦しさに苦悶の表情を浮かべている。

 やがて足に力が入らずその場に崩れ落ちそうになるが、騰蛇はその手の力を緩めようとはしなかった。

 朱音は首を絞められた状態のまま、地面に押さえつけられた。

 苦しみもがく朱音は騰蛇の手を退けようと試みるが、自身の手に力が入らず、その手は無情にも地面に向かって落ちていく。

 

 あぁ……。これは騰蛇だ。やはり騰蛇は傷ついていて私のことを恨んでいたんだな。

 これは騰蛇を蔑ろにした私への罰なのだろう。この罪を受け入れなければ――。


 そんなことを朱音は薄れゆく意識の中で思った。

 すると、朱音の手に何かが触れる。

 それは先ほど騰蛇が払いのけた式札だ。

 脳裏に紅冥の姿が浮かび上がる。それと同時に式神契約をした時に感じた、じんわりとした温かさが左目の奥に灯った。

「こ……めい」

 朱音の唇が小さく開いたり閉じたりしている。

 声は出なかったが心の中で術式を唱え、紅冥の名を絞り出すような声で呼んだ。

 式札は金色に輝いて闇の空へ飛ぶと、鳥居の手前で大きな光を放った。

 騰蛇は眩しさに目を搾めて、思わず朱音の首を締める腕の力を緩めた。

「朱音様……!?」

 金色の光は紅冥の姿へと変化した。黒いコートを翻し、地に着地した紅冥は目の前の光景に絶句している。

 昇威が朱音の首を絞めていた。

 紅冥は慌てて駆け寄ろうとするも、目の前に鳥居があることに気づき、身じろぎする。

『見てみろ、朱音』

 騰蛇は首を絞めていた手を退けて、今度は朱音の両腕を押さえつけた。

 朱音は騰蛇の視線の向こう側に、紅冥の姿を見つける。

 意識は朦朧としていたが、その目に心配そうにこちらを見てる紅冥の姿が映っている。

『あの男が妖怪だという証拠だ。鳥居に張られている結界からは入るとこができない』

 騰蛇は鳥居の前でなす術もなく、動けないでいる紅冥を見て嘲笑った。

 妖怪――。そう呼ばれて紅冥は慄いた。

 鳥居は邪を払う神聖なものだ。異貌鬼や妖怪の類いは容易に侵入することができない。

「どういう状況なんですか? 何故、昇威さんが朱音さんを? ――それに」

 何故自分の正体が露呈したのかも分からない。紅冥は状況が把握できずにいた。

 だが、目の前の朱音が危機的状況なのは明白だ。

 紅冥は意を決して鳥居に右手を伸ばすが、結界に触れた瞬間、紅冥の腕はバチバチと音を立てて雷にでも撃たれたかのように焼け焦げてしまう。

 紅冥は痛みに悶絶するも、もう一度手を伸ばした。しかし、結果は同じで、黄金色の閃光が紅冥の侵入を防いでいる。

『なぁ朱音、俺の言った通りだろ?』

 騰蛇は目の前の光景を見て、愉快だと言わんばかりにケタケタと笑い、朱音の両腕を押さえつけている手に力を込める。

 爪が食い込み、骨がミシミシと音を立て、人間ではないその強い力に朱音は絶叫を上げた。

「やめてください! 昇威さん! 何故こんなことをするんですか?」

 紅冥は必死の形相で訴える。

「紅冥……。こいつは昇威ではない。私の式神だった……騰蛇なんだ」

 痛みに顔を歪ませていた朱音が、絞り出すような掠れ声で言った。

「騰蛇……?」

 朱音の言葉に紅冥は驚愕する。

『式神だった? いや、俺は今でも朱音の式神だ! あの男には絶対に渡さない』

 騰蛇は怒り狂うように吼え、再び朱音の首を締める。

「朱音様!」

 その刹那、紅冥が引き抜いた拳銃の砲口が火花を散らした。威嚇射撃だが、その銃弾は騰蛇の髪を掠める。

 騰蛇は鋭い眼差しで紅冥を睨み付けた。

 その銃弾で怒りの矛先は朱音から紅冥へと移される。

 騰蛇は朱音の首から手を離し、懐から式札を取り出して呪文を唱えた。

 投げ捨てられた式札は、闇の中で水を纏う人魚に姿に変化する。

 召喚された水の女神天后は、主の姿を見て悲しさを滲ませた。

「騰蛇……。あなた地獄に堕ちたのね」

 天后の言葉に、騰蛇はニタリと嗤った。

「……地獄に?」

 意識がようやく戻ってきた朱音は、困惑してその視線を騰蛇に投げる。

「式神は主の命令に背いたり、禁忌を犯したりすると地獄に堕ちる。……そして『異形』になる。おそらくこの様子からして騰蛇さんは、さらに闇に呑まれ、上級異貌鬼に取り込まれて一体化した」

 それを答えたのは紅冥だった。紅冥は悲痛な面持ちでさらに言葉を続ける。

「僕も……元々は神でした。僕の場合は人々に信仰されなくなり、人間を怨み、そして煉獄に落とされ、妖怪の姿になってしまいました。……今まで嘘をついて、朱音様を騙していてすみませんでした」

 紅冥は自身の胸に手をあてて、静かに目を伏せる。

『聞いたか朱音、俺の言った通りだ。この男は妖怪で朱音を騙し、欺いた』

 騰蛇は高らかに笑った。

「元神様で地獄に落ちて妖怪に……? では、騰蛇の言う通り、私の目を奪ったのも……紅冥なのか?」

「……それは」

 紅冥は言い淀むように首を横に振った。

「でも僕のせいで、朱音様の瞳が奪われたのは真実です。僕はその償いがしたくて――」

『黙れ!! お前のような穢れた妖怪は朱音には相応しくない! 天后、そいつを葬れ!』

 地獄に堕ち異貌鬼化してしまった騰蛇だが、昇威の身体を使えば、鳥居の中にいてもなんの問題はなく、水の女神さえも操れてしまう。

 名を呼ばれた天后は、騰蛇の命令に従い、両腕に水の渦を作って紅冥に目掛けて放った。

「天后さん、やめてくだい! このままだと昇威さんの身体が完全に乗っ取られてしまいますよ」

 紅冥は天后の攻撃を避け、今は危機的状況だと訴える。

「分かっていますわ。でも今、命令に背いたら私まで地獄に堕とされてしまいます」

 切羽詰まった状況だというのに、天后の口調はいたって冷静だった。

 躊躇う素振りさえ見せず、ひたすら紅冥に攻撃を続けている。

 そんな天后の姿を見た騰蛇は、ケタケタと嗤った。


 ――紅冥さん。昇威様なら大丈夫ですわ。きっと闇を打ち破ってくれます。それまで時間を稼ぎましょう。


 天后の攻撃を避け続けていた紅冥の頭の中で、突然に天后の声が響いた。

 そういうことか、と紅冥は小さく頷く。

『何をやっている天后! 早くそいつを始末しろ』

 怒りを露にして吠えるように叫ぶ騰蛇だが、その顔に浮かびあがっている赤黒い鱗がパラパラと割れ落ちている。

『なんだ……?』

 異変に気づいた騰蛇は、自身の顔を手で覆った。

「正気を取り戻せ昇威!」

 朱音も異変に気づいたのか、声を振り絞って昇威の名を叫ぶ。

「……朱音」

 すると返事が返ってくる。それは禍々しい騰蛇の声ではなく、紛れもない昇威の声だった。

「昇威様! 帰ってきてくださると信じておりましたわ」

 昇威の声を聞いた瞬間、天后の表情がぱっと明るくなった。

「くっ……天后。あともう少しだ。……もう少しだけ耐えれるか? 闇の隙間を見つけた……だから」

 昇威は声を振り絞って訴えかけている。

『小癪な……。この身体はもう俺のものだ!』

 癇癪を起こした騰蛇は、昇威の声を呑み込んだ。

 しかし、昇威の身体に留まっているのは限界のようで、昇威の口からは赤黒い液体が少しずつ漏れだしている。

『朱音は渡さない。俺と一つになるんだ!』

 騰蛇は、禍々しく怒りに震えた声で叫んだ。

 昇威の口から、一気に赤黒い液体が吐き出される。

 昇威が気を失って倒れると、その身体を瞬時に天后が支えた。

 吐き出された赤黒い液体は、巨大な蛇の形になって朱音の元へ這いずっていく。

 赤黒い蛇は、結界の影響でバチバチと黄金色の光に焼かれながらも朱音の足を咬んだ。

 通常ならば神社の結界の中では異形の類いは動きが鈍り、結界の力で焼かれてすぐに塵になってしまうが、上級異貌鬼と一体化してしまった騰蛇は闇の力が濃く、まだその原形を留めている。

 それどころか結界の力を破りそうなほど、闇の力を増大させていた。

「朱音様!」

 鳥居越しに紅冥が叫んだ。

「紅冥!」

 朱音は蛇に引き摺られながらも、懸命に紅冥に手を伸ばしている。

 しかし紅冥は、結界が張られている影響で、中に侵入するのが困難でなす術がない。

 紅冥は意を決したように唾を飲み込んで、拳を握りしめた。

 今は迷っている場合ではない。目の前では朱音が蛇に呑み込まれようとしている。

「もうこれしか方法がない……。結界を破るには、僕も結界を破るくらいの力を――」

 紅冥は自身の左腕に巻かれていた真紅のリボンをほどいた。

「あのリボンは……」

 見覚えのある刺繍が施された真紅のリボン。

「母さんの……」

 朱音は目を見張る。それは亡くなった朱音の母親の形見のリボンだ。

「どうして、それを紅冥が……」

 幼い頃に父に連れていかれた山奥での修行に、お守りとして母親の形見のリボンを持って行ったことは覚えている。

 しかし、鳥の妖怪に左目を奪われ、その事件の影響からなのか、修行していた三ヶ月間の記憶が抜け落ちてしまっていた。

 気がついたときには病院にいて、その時にはすでにリボンは紛失していた。朱音にとって、とても大切にしていたリボンで、それ以来ずっと必死になって探していた……。

「朱音様。もし僕が力を解放して暴走して制御できなくなってしまったらその時は――」

 儚い紅冥の笑顔が滲む。

 その笑顔を見た瞬間、朱音の失っていた記憶が波のように押し寄せ、一気に甦る。

『君の手で僕を葬ってください』

 頭の中で少年の言葉が響いている。

『力を制御することができず、いつ暴走してしまうかわからない』

 それは年齢十歳くらいの木綿の縞の着物姿の少年で、黒く長い前髪が印象的だった。

 生暖かい風が少年の髪をさらうと、少年の真紅の両目が露になる。

「私は紅冥のことを……」

 朱音は、紅冥が『神様』だった頃から知っている。

 抜け落ちてしまっていた三ヶ月間の全ての記憶が甦り、左目に温かさが宿った。

 しかし、目の前では紅冥の身体が不気味な音を立てて溶け出している。

 それと同時に紅冥の身体は、一気に闇に浸食され、どす黒い靄に包まれた。

 ぞっとするような光景に朱音は戦慄く。

 本来の紅冥の姿が露になろうとしている……。

 おまけに闇の瘴気を嗅ぎ付けて、紅冥の周りに地獄ノ門がいくつも開かれ、門の中から大量の異貌鬼が這い上がって、紅冥の身体に群がってくる。

「紅冥!」

 朱音が叫ぶと、黒い靄に覆われた紅冥が両手を広げ、掌を握る動作をする。すると群がっていた異貌鬼がいとも簡単に弾け飛んで黒い塵になった。

「力を解放しては駄目だ!」

 その朱音の力強い声に、紅冥の動きがピタリと止まる。

「大丈夫だ。私を信じろ! 紅冥! 私の手を掴め!」

 朱音は蛇に咬まれながらも、残っている精一杯の力で、紅冥のいる鳥居まで這いつくばって必死に手を伸ばしている。

「そのリボンを……。それはお前を守ってくれるはずだ」

 身体が引きちぎれそうになりながらも、朱音は苦悶の表情で声を絞り出した。

 朱音の指示に従い、黒い靄に包まれた紅冥は朱音の視線まで屈んで、紅いリボンを持っている左手を差し伸べる。

『朱音様』

 紅冥の手が結界をすり抜けると、途端に黄金色の光が迸って黒い靄を弾き飛ばし、白皙の肌が露になった。

 紅冥の手が朱音の手に触れる。先ほどまでとは明らかに違い、焼け焦げることもなく、痛みもない。

「式神と式神使いは二人に一つ」

 紅冥の右目と朱音の左目が共鳴するように、熱を帯びている。

 リボンを持つ紅冥の指を絡め、朱音は紅冥の身体を結界の中へと引き込んだ。

 すると、黄金色の光が黒い靄の全て弾き飛ばし、白装束を纏った美丈夫が姿を現す。

「光明神様」

 朱音はその神様の名前と術式を唱える。

「我はさらなる力を持って邪を払う――」

 お互いの視線が交わると、黄金色の光の濃さが増し、強い風が巻き起こる。

 神聖な光を浴びて、朱音の足を咬んでいた赤黒い蛇は、呻き声を上げて弾き飛ばされた。

「『式勠』」

 朱音と本来の神様の姿となった紅冥の声が重なり、桜の花びらたちが風の渦に浚われて二人の姿を包み込むように取り巻いている。

 朱音はその身に、神の姿となった紅冥を宿した。


 一体化した姿になると、自然と朱音の脳内に紅冥の過去の記憶が流れ込んでくる……。

 

 色褪せた視界。その中で古びた祠に手を合わせている幼い自分の姿。

 そこから一気に鮮やかな視界に変わり、息を呑むほどの美しい落日の景色と降り注ぐ桜の花びら。

 辺り一面に飛び散った漆黒の羽と鮮血と肉片――。

 

 それは紅冥がまだ神様だった頃から、妖怪になるまでの鮮烈な記憶だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る