第26話 市の産業振興課

 週が明けて月曜日。

 メールボックスにいくつか溜まっていたメールに返事をしようと、奏多がパソコンに向かっていると、隣の席の中橋がいきなり「あー!」と大きな声をあげた。

 驚いて視線を向けると、中橋みのりはパソコンの画面を見つめて、なんだか悲痛そうな顔をしている。


「どうかしましたか?」


 奏多が訊ねると、中橋はこちらに泣きそうな目を向けた。


「石田先生の件で、交渉をしていた企業から、辞退の連絡が来ました……」

「えっ? あのゴム木材の技術? 何社かが興味を持っていて、一社とは、本格的な共同開発に向けて、契約の提案をしていましたよね?」


 奏多が入職して間もないころに、OJTでヒアリングをした石田教授の技術だ。特許出願をした後、中橋のほうで何社かの企業に打診して、共同研究先の探索を進めていた。

 定例ミーティングのときに、中橋から「一社が、特許技術の導入に向けて、前向き検討してくれている」という報告を聞いていた。この「ゴム木材」の発明にいくらか関わった奏多も、それなりに思い入れがあって、うまく進めばよいなと応援していたのだが……。

 

「はい……。まずは本格的なライセンス契約の前に、サンプルを提供して技術導入の可能性を検討してもらう、という話で進んでいたんですが……」


 有償での契約は見送りたい、との回答が届いたらしい。

 中橋は説明しながら、しゅんと肩を落とした。その落ち込んでいる様子を見ると、なんとか慰めたいと思いつつ、よい言葉が思いつかない。


「社内での承認が得られなかったんでしょうね。よくあることな気がします」


 せいぜい出てきたのは、そんなコメントだ。

 奏多自身も企業の研究所で勤めていたから、どんな状況なのか、大体は想像がつく。担当者レベルで技術に興味があって研究テーマとして進めたいと思ったとしても、そこに計画外の予算をつけてもらえるかどうかは、難しいところだ。

 もちろん、本当に重要なテーマなら、来期での予算獲得に向けて、動いてくれる可能性はあるが……「興味がある」程度の技術である場合、担当者が忙しかったり、上司との関係性が微妙だったりすれば、簡単にあきらめてしまうだろう。


「他にも協議中の企業がいましたよね?」

「はい。でも、そちらもうまくいくかどうか……」


 せっかく途中まで話が進んでいたのに、それがおじゃんになって、中橋はすっかり自信をなくしてしまったらしい。


「やはり、連携先の探索は、簡単ではないのですね。私もこれから企業との面談を控えているので……」


 西崎陽の「エチレン」の技術も、出願前に問い合わせをした二社――サーキュラーバイオと日環ケミカルとの面談を数日後に控えていた。

 

 ともに、金子教授と西崎陽にも同席してもらうことになっている。

 サーキュラーバイオは地元のスタートアップであることもあって、代表の中村が、大学まで直接来てくれるらしい。一方の日環ケミカルは、本社が東京なので、オンライン会議を予定していた。


「永瀬さんは、出願後の本格的な営業は初めてですよね」

「はい。正直、契約を取れる気がしないですが……お互いに、頑張りましょう」

「ええ、そうですね!」


 奏多と中橋が和やかな空気で互いに励まし合っていると、ふいに「みなさん、すみません」と真方の声が聞こえた。


 ふたりが会話をとめて振り返ると、真方がふたりの客人を伴って、コーディネーターの席に近づいてくるところだった。

 客人は三十代くらいの男女がひとりずつで、ふたりともスーツを身に付けた真面目そうな印象の人たちだった。


「不在の人もいますが……ここにいるのが、弊部で知財の管理・活用を担当しているコーディネーターです。P大学の新技術の情報は、ここに集約されていますので、気になる技術がありましたら、彼らに詳しく説明させますね」


 真方が客人たちに向かって、奏多たちをそんな風に紹介している。

 ひとしきり説明すると、今度は奏多たちの方を向いて、客人を紹介した。


「この方々は、市の産業振興課で、スタートアップや産学連携支援などを担当している方たちです。今後、継続的に連携していければと思っていますので、よろしくお願いしますね」

「産業振興課の馬渡まわたりと申します」

「同じく、古沢です」


 男性の方は馬渡、女性は古沢と名乗った。ふたりとも、地方自治体の職員らしく、穏やかで真面目そうな雰囲気の人たちだった。


「永瀬です。よろしくお願いいたします」

「中橋です」

 

 席にいた奏多や中橋も、それぞれ名刺交換をして挨拶をする。


「スタートアップ支援もされているのですね」


 奏多が気になって訊ねると、馬渡が「ええ」とうなずいた。


「ご存じかもしれませんが、私たちの市では、企業やスタートアップの誘致に力を入れています。特に、新しい産業や雇用を生み出す動力として、市長がスタートアップの支援を重視しているのですよ」

「ええ、ニュースなどで拝見したことがあります」


 P大学も位置するこの地域は、地方でありながらスタートアップ企業の活動が盛んなことで、ちょっとばかり有名だった。市としても積極的に支援をしているというのも、うなずける話である。


「そういえば、サーキュラーバイオというスタートアップはご存じですか?」


 ふと思い出して奏多が訊ねると、馬渡はおや、と眉を上げて笑顔になった。


「ええ、もちろんです。私たちが提供している起業支援プログラムの採択企業なので、社長の中村さんとは、定期的に打ち合わせをしていますよ。あそこは、私たちも特に期待しているスタートアップのひとつです」


 馬渡の話しぶりを聞くに、どうやらサーキュラーバイオは、なかなかに筋のよいスタートアップらしい。そのことに、奏多は思わず身を乗り出した。


「そうなんですね。実は、私が担当している案件で、今度サーキュラーバイオの中村さんと、面談を予定しているのです」

「そうですか! それはどの先生の技術ですか?」


 奏多は答えに一瞬迷った。西崎陽の名前を言ったところで、無名の学生だ。迷って、結局は金子教授の名前を出すことにした。


「農学部の金子先生と、とある学生が進めているカーボンニュートラル関係の技術です」

「ああ、金子先生とは、私たちも何度かお話ししたことがありますよ。微生物を活用した環境技術を扱っておられますよね」


 馬渡はにこにこと親しみやすい笑顔でそう言った。


「あ……と、そうですね」


 まるで当然のように「金子先生の技術」だと理解されてしまったが、真方に「そろそろ」と促されて、奏多は詳しい説明をしそびれた。


「もしよかったら、また今度改めて、金子先生の新しい技術についても、ぜひ教えてくださいね」

「ええ、もちろんです」


 どうやら彼らは、これから室長の河内を交えて、打ち合わせの予定らしい。

 真方に案内されて、サンレンの会議室に向かう客人たちの後ろ姿を見送りながら、「西崎陽の技術だ」と堂々と言えなかった自分に、奏多は少しばかり後ろめたさを感じていた。


「難しいな……どうしてもみんな、当然のように『大学の先生の研究』だと思って聞いてくるもんな……」


 もし今度、彼らに紹介する機会があったら、きちんと「西崎陽という学生の研究だ」と伝えようと、奏多は心の中で決めたのであった。

 

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