第三章 パートナーの探索

第24話 ある日の休日

 暦はすでに十二月、温暖な気候のこの地域にも、冬の風が吹くようになっていた。

 気温が氷点下になることは滅多にないが、海沿いだからか、風が強くて切れるような寒さが、この辺の冬の特徴だった。


「いい天気だなー」


 土曜日の朝、奏多は遅めの時間に目を覚まして、窓のカーテンを開いた。

 外には砂浜と松林、そしてその向こうには、波が銀色に輝く日本海が見渡せた。


 今日は特に予定もない休日。

 転職して三か月、ようやっと仕事のペースもつかめ、週末のルーティンもできあがりつつある、今日この頃だった。

 昨日は、初担当だったエチレン技術の特許出願も無事に終わって、奏多は解放感に包まれていた。最近は、担当案件も少しずつ増えてきて、忙しい日々を送っている。


「今日はのんびり、リフレッシュしたいな」


 朝は、たまっていた洗濯と、軽く家の掃除をして。

 自転車で、近所のスーパーに食料の買い出しに行って。

 昼食は、昨日の夕飯の肉野菜炒めの残りをのせた、肉うどん。

 食後はコーヒーを片手に、小一時間ほど読書。最近は、経営者の書いたビジネス書を読むのにハマっている。以前は論文ばかり読んでいたものだが、最近は、こうしたビジネス関係の本にも、興味が湧いてよく手に取るようになっていた。


 しばらくして、切りのよいところまで読んで、奏多はぱたんと本を閉じる。


「よっし、ジムで軽く運動して、サウナで整ってくるかな」


 奏多はいつものバッグにタオルや洗面用具を放り込んで、家を出た。

 

 北風が冷たいが、日差しは温かくて気持ちのいい陽気だった。

 颯爽と自転車をこいで、近くのジムへ向かう。


 プールでひと泳ぎしてから、サウナでゆっくりと整うのが、休日の奏多のルーティンだった。

 実は、学生のころは水泳をやっていたので、今でも定期的に泳いでいる。

 筋トレも悪くないが、水の中の重力から解放された自由さが、心地よい。


 プールの入り口を開くと、塩素の濃い水の匂いが全身を包む。

 奏多は黙々と、25メートルのレーンをクロールで往復した。途中、疲れて息が切れてくると、プールサイドでしばらく休憩する。


「ん? なかなかに泳ぎのうまい女の子がいるな……」


 上級者向けのレーンで、気持ちよさそうに泳いでいる女性がいた。

 黒の競泳水着に、赤いサイドラインが目立つ。ほどよく力が抜けて、いかにも週末に泳ぎを楽しんでいるという風だ。しなやかな身体の動きには無駄がなく、かなり泳ぎ慣れているのだと感じた。

 

 なんとなく気になって、まじまじと観察していると、やがて彼女がプールからあがってきて、奏多がいるプールサイドのベンチの方へと近づいてきた。どちらかというと小柄で、すらっとした体つきだ。彼女がゴーグルとキャップを外すと、ひとつにくくった明るい茶髪が、ばらりと肩にこぼれ落ちた。

 ゴーグルの下からあらわれた、大きくてつり上がり気味の猫目に、見覚えがあった。


「……西崎さん?」


 奏多が思わず声をあげると、彼女はあからさまに怪訝な顔をした。


「……えっと、お知合いですっけ?」


 どうやら、奏多だということに気づいていないらしい。


「ああ、普段は眼鏡だからですかね」


 仕事中は、パソコン作業が多くて目が疲れるのもあって、眼鏡のことが多いのだが、泳ぐときや休みの日は、コンタクトレンズをつけるので、パッと見てわからなかったのだろう。

 おまけに、いつもはジャケットを羽織ってかっちりしているのに、今の奏多は、首からタオルをかけた水着姿だ。相当なギャップかもしれない。


 西崎陽は思い切り眉間にしわを寄せて、奏多の顔をじっと見ていたが、やがてぱっと笑顔になって、ぽんと手を打ち合わせた。


「あっ、永瀬さんですか! すみません、私、人の顔を覚えるのが苦手で」

「いえいえ。まさか、こんなところで会うとは思いませんよね」

「びっくりしました! おうちが近くなんですか?」

「はい。近所ですよ」


 聞けば、彼女の家もこの近くらしい。確かに、大学に近いのもあって、学生や教職員が多く住んでいるエリアだ。


「ジムにはよく来るんですか?」

「たまに体を動かすと、頭がすっきりするので。泳いでいると、研究のいいアイデアが浮かぶんですよ」

「さすが、研究者ですね」


 実際、研究者の中にはランニングや登山など、スポーツが好きな人も多い。

 大学院の研究室対抗ソフトボール大会では、教授陣の方が気合が入るのは、大学あるあるだろう。


 彼女はもう泳ぎ終わったということで、しばらく言葉を交わしたあと、荷物置き場から小さなビニールバッグを取って、奏多に向かって小さく手を振り、立ち去ろうとした。

 その彼女の手元から、何かがぽろりと落ちた。しかし、気づかずにそのまま出て行ってしまう。


 奏多はあわてて立ち上がって、落とし物を拾い上げた。

 どうやら、プール用の耳栓のようだ。


「あの、西崎さん」

「はい?」


 慌てて呼びかけると、彼女が振り向いた。


「落とし物ですよ」


 奏多が耳栓を差し出すと、西崎陽はわたわたと焦りながらそれを受け取った。


「あっ、すみません、ありがとうございます!」

「前にも、イヤホンを落としていたよね」


 奏多がくすりと笑って指摘すると、西崎陽は顔を赤らめた。


「私、いつも物を失くすんです。うっかりしていて」

「よく時間にも遅れるしね」


 奏多がからかうと、彼女はますます顔を赤らめた。


「そうなんです。ほんと、ポンコツで」


 しゅんとしたようにうなだれる。

 そんな彼女を見ていると、年相応の女の子なんだなと思えて、奏多はほっこりしてしまった。これが、若くして次々と成果を出している研究者だと、知らない人は想像もできないだろう。


「あっ、そうだ。前に、イヤホンを探してもらったお礼、してなかったですね! 一緒にお茶をするって約束したのに」


 ふと思い出したように、彼女がぽんと手を合わせた。


「いや、約束はしてない気が……」


 それは、彼女が勝手にナンパだと勘違いして、「お茶くらいしてもいい」と言っただけなのだが。


「この後、暇ですか? ご飯いきましょうよ。お世話になっているので、おごります!」

「いやいや、君におごってもらうのはちょっと……年齢的にも、むしろ俺がおごる方な気がするが」


 普段、仕事では自分のことを「自分」とか「私」と言っている奏多だが、彼女の雰囲気にのまれて、思わず素が出ていた。


「えー、なんでですか? 永瀬さんって、そんなにおじさんでしたっけ?」

「お、おじ……」


 これでもギリギリ二十代なので、おじさんと言われると辛いものがある。


「じゃあ、いいじゃないですか。シャワー浴びて着替えたら、ジムのロビーで待ち合せましょ!」

「わ、わかったよ……」


 押し切られて、奏多は西崎陽と食事に行くのを了承してしまったのだった。

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